レオ・シュトラウスは、クルト・リーツラーの思想に関する記念講演で、マルティン・ハイデガーについて次のように語っている*1。
[ハイデガーと]同じ程度にドイツの、いやヨーロッパの思想に影響を与えた哲学教授を見出そうとすれば、ヘーゲルまで遡る必要がある。それでもヘーゲルの同時代には、ヘーゲルと並ぶ、少なくとも明白な愚かしさに陥ることなく、彼と比較し得る哲学者がいた。ハイデガーは彼の同時代人をはるかにしのいでいる。それは、彼の名が世間に知れ渡るはるか以前から分かっていた。登場するや否や、彼は中央に屹立し、支配を開始した。彼の支配はその範囲と強度をほぼとどまることなく拡張していった。彼はその明晰さと堅固さとで、時代を覆う不安と不満を、そのすべてを十分に表現したとは言えないまでも、少なくともその最初の確たる表現へと踏み出した。興奮と動揺は次第におさまり、ついには、外から見れば批判能力の麻痺として描かれかねない状態へと立ち至った。哲学することは、ハイデガーの語り出す始源的な神話(mythoi)を静かに拝聴することへと変容した。
tum, pietate gravem ac meritis si forte virum quem
conspexere silent arrectisque auribus astant. *2
シュトラウスは次いで、1929年3月26日にダボスで行われたハイデガーとエルンスト・カッシーラーの対論について語る。対論でのハイデガーの勝利は明白であった。
カッシーラーは既存の学問的立場を代表していた。彼は傑出した哲学教授であったが、哲学者ではなかった。博識ではあったが、情熱に欠けていた。明晰な文章を書いたが、明晰さと平明さに比例する問題への鋭敏さはなかった。ヘルマン・コーエンの弟子であった彼は、倫理を核心とするコーヘンの哲学体系をシンボル形式の哲学へと変換し、その中で倫理はいつのまにか消失した。他方、ハイデガーは倫理の可能性を明確に否定した。倫理の理念と倫理が示しているかに装う諸事象との間に途方もない乖離があると感じたからである。
シュトラウスが学んだマールブルク大学は、ヘルマン・コーエンを中心とする新カント派の拠点であり、カッシーラーはシュトラウスの博士論文の指導教授であった。カッシーラーが直面しようとしなかった「問題」に、ハイデガーは正面から立ち向かった。シュトラウスはそう感じた。
ハイデガーの師は、エトムント・フッサールである。フッサールは、マールブルク大学出身のシュトラウスに、新カント派は「ドイツにおけるもっとも優れた学派ではあるが、「土台」からではなく「天井」から出発するという誤りを犯している」と告げた*3。シュトラウスによると、フッサールが言いたかったことは次のようなことである。
マールブルクの新カント派の主要テーマは科学理論の分析である。しかし、科学はこの世界に関する根本的な知ではなく、その派生物だ。科学は世界に関する人知を完成したものではなく、科学以前の理解を特殊に加工したものだ。科学前の理解からの科学の生成は、有意義なものであり得るか、それこそが「問題」だ。肝心なテーマは科学前の世界の哲学的理解であり、したがってまずは、現象の知覚の分析が必要となる。
科学を含めたあらゆる理論的堆積物や前提を剥ぎ取った、生のままの純粋な世界の認識から出発する必要があるというわけである。
しかしハイデガーによると、彼の現象学の師であるフッサール自身も「天井」から出発している。世界を根本的に把握するには、現象の認識からではなく、実践的関心から出発する必要がある。
フッサールが科学前の世界を分析しようとしたその出発点は、純粋意識の対象である体験があらゆる懐疑を排除する絶対的所与として把握される地平である。しかし、純粋意識に内在する時間は必然的に限定されている──つまり人の可死性という事実抜きにそれを理解することは不可能である*4。死の可能性、無となる可能性を意識することではじめて、人間は現に今ここで多様な可能性へと開かれた、実践的意義に満ちた、日常の生をありのままに、真に自身のものとすることができる。
つづきは、単行本『神と自然と憲法と』でごらんください。
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
2021年11月15日発売
長谷部恭男 著 『神と自然と憲法と』
四六判上製・288頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45126-5 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
【目次】
第Ⅰ部 現実感覚から「どちらでもよいこと」へ
1 現実感覚
2 戦わない立憲主義
3 通信の秘密
4 ルソー『社会契約論』における伝統的諸要素について
5 宗教上の教義に関する紛争と占有の訴え
6 二重効果理論の末裔
7 自然法と呼ばれるものについて
8 「どちらでもよいこと」に関するトマジウスの闘争
第Ⅱ部 退去する神
9 神の存在の証明と措定
10 スピノザから逃れて――ライプニッツから何を学ぶか
11 スピノザと信仰――なぜ信教の自由を保障するのか
12 レオ・シュトラウスの歴史主義批判
13 アレクサンドル・コジェーヴ――承認を目指す闘争の終着点
14 シュトラウスの見たハイデガー
15 plenitudo potestatis について
16 消極的共有と私的所有の間
第Ⅲ部 多元的世界を生きる
17 『ペスト』について
18 若きジョン・メイナード・ケインズの闘争
19 ジェレミー・ベンサムの「高利」擁護論
20 共和国の諸法律により承認された基本原理
21 価値多元論の行方
22 『法の概念』が生まれるまで
あとがき
索引
連載はこちら》》》憲法学の散歩道