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『〈ケース研究〉著作物の類似性判断』

 
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上野達弘・前田哲男 著
『〈ケース研究〉著作物の類似性判断 ビジュアルアート編』

「はしがき」「第2編ケース編 第1章イラスト Ⅰ判例の概観(冒頭)」「同Ⅱ対談的検討(冒頭)」(pdfファイルへのリンク)〉
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はしがき
 
 著作物の類似性というのは、ずっと前から筆者(上野)お気に入りのテーマである。“研究のため” と称して収集してきた係争物コレクションも、限られた研究室スペースの中で優先的な地位が与えられている。
 ただ、“似てる?” “似てない?” といった議論は、端から見ると、研究というより、何か遊んでいるように映るかも知れない。たしかに、著作権法の世界には、なぜか昔から(筆者を含めて)趣味的に議論を楽しむマニア(?)が多いのも事実である。しかし、類似性判断というのは、“人が創作した作品について、どこまで権利が認められるべきか” という根本的な問いにほかならず、それは著作権制度の存在意義に直結する課題というべきなのである。
 そんな類似性に焦点を当てた本を作るというのは以前から温めていた構想であったが、企画を練る過程で前田哲男先生のご参画を得られたことが本企画に決定的な違いをもたらした。というのも、現実の裁判例においては、理論的な説明が容易でないミステリアスな側面が散見されるところ、研究者と実務家のコラボレーションによってそうした裁判実務の多面的な分析が可能になったからである。とりわけ本書の特徴でもある「対談的検討」のコーナーにおいて、2 人の共著者が自由な議論を繰り広げて(楽しんで?)いる様子をご覧いただけよう。もっとも、そうこうするうちに本書は予定の分量を超え、まずは「ビジュアルアート編」として区切りを付けることになった。
 
 本書が世に出るまでには、企画・編集・校閲に至るまで根幹的役割を果たされた勁草書房編集部の中東小百合さんの存在があった。ここに御礼申し上げつつ本書の誕生を共に喜びたい。また、お名前を挙げることはできないが、これまで筆者のために貴重な諸資料をご提供いただいた実務家の先生方には深甚なる謝意を表したい。さらに、本書は筆者が大学のディベートゼミで学生と考え学んだ成果でもあり、これまで活動を共にしてきた諸氏とも刊行の喜びを分かち合いたい。最後に、本書は科研費(課題番号16K03449/16KK0066)の助成を受けた研究成果の一部であることも付記しておく。
 本書が、研究・教育・実務の世界で愛読されることはもちろん、これを通じて多くの読者が類似性の議論をお楽しみいただければ幸いである。
 
2021 年4 月
共著者を代表して
上野達弘
 
 
第2 編 ケース編
第1 章 イラスト
Ⅰ 判例の概観  上野達弘

 
1 総 説
 イラストというのは、イラストレーション(illustration)の語源が「分かりやすくする」ことにあるせいか、写実的なものというより、シンプルな表現を用いて対象の特徴を強調した一枚絵を意味することが多いようである[1]。具体的には様々なものを含むが、人間等が有する特徴を強調して視覚的に表現した単体のイラストは「キャラクター」と呼ばれ[2]、特に“かわいいもの” が好まれる日本では、漫画やアニメのキャラクターのみならず、いわゆる「ゆるキャラ」などが数多く存在している。そうしたイラストとしてのキャラクターは、シンプルな表現であっても創作性が認められ、著作物性は肯定されよう[3]。ただ、その著作権がどこまで及ぶか、すなわち類似性がどのような場合に認められるかという点は問題となる。なぜなら、イラストというものがシンプルな表現を用いて対象の特徴を強調したものである以上、同じ対象を描くと、どうしても似た表現になりやすいからである。
 例えば、もし“クマのイラスト”という点が他人の作品と共通しただけで著作権侵害になってしまうならば、誰もクマのイラストを描けなくなってしまいかねない。そうなると、本来であれば世の中に多種多様なクマのイラストが生み出される可能性があるにもかかわらず、これを妨げてしまう結果、文化の発展を阻害することになろう。そこで、著作権という権利は、あくまで具体的な「表現」を保護するのであり、“クマのイラスト”というような抽象的な「アイディア」は保護しないことになっているのである(アイディア/表現二分論)。したがって、単にクマのイラストという点が他人の作品と共通するだけでは著作権侵害が肯定されず、さらにどのような形や色でクマのイラストを描いているかという具体的な「表現」が共通しない限り、著作権侵害は肯定されないのである。
 また、具体的な「表現」といっても、例えば、“うさぎの耳が長くて立っている”ことや、“ネコの顔にひげが生えている”ことなどは、うさぎやネコを描こうとすれば誰でも行うありふれた表現と言える。そのような表現は、作者の個性があらわれているとは言えず、「創作性」が認められないため著作権保護を受けない。したがって、たとえ「表現」において他人の作品と共通する場合であっても、誰がやっても同じようなものになるありふれた表現が共通するだけでは著作権侵害は肯定されず、さらに作者の個性があらわれている「創作性」のある表現までが共通しない限り著作権侵害は肯定されないのである。
 ただ、アイディアと表現の区別も、創作性の有無も、境界線は微妙であり、その判断には常に困難が伴う。もし類似性をあまりにも緩やかに判断してしまうと、他者の自由が制約されすぎる結果、将来のクリエイタの創作活動に悪影響を及ぼしかねない。他方、類似性をあまりにも厳しく判断してしまうと、当該クリエイタの保護として不十分なものになりかねない。このように、類似性の問題とは、著作物をめぐる権利保護と自由確保のバランスの追究にほかならない。本章で見るように、イラストに関してはこの問題を考えるための実例が豊富にある。以下では、そうした裁判例を判決の結論(肯定例/否定例)によって分類して概観しつつ、それぞれの妥当性についても考えてみよう。
 
2 裁判例
(1)類似性を否定した裁判例
【ケース1─1】タウンページ・キャラクター事件[4]
 本件は、「古本物語」という漫画を創作した原告(控訴人)が、被告(被控訴人)がハローページの裏表紙の内側のページに被告イラスト(「タウンページ」と記載された3 体のキャラクターがマンホールから出ている絵および吹き出しの部分)を掲載して発行していることが、原告の有する著作権の侵害に当たると主張して、損害賠償等を請求した事案である。
 裁判所は、「原告漫画のキャラクターと被告イラストのキャラクターは、本を擬人化したという点は共通しているが、それ自体はアイデアであって、著作権法で保護されるものではない」と述べた上で、①「原告漫画のキャラクターの本の形状は、背表紙の付近が丸みを帯び、やや本が開いた状態のものもあるが、被告イラストのキャラクターの本は、全体的に角張っており、表表紙の上辺よりも裏表紙の上辺の方が長い独特の形状となっている」こと、②「被告イラストのキャラクターは、目が斜めに配置されているが、原告漫画のキャラクターは、目は真横に並べられている」こと、③「被告イラストのキャラクターには、大きく鼻が描かれているのに対し、原告漫画のキャラクターには鼻が存在しない」こと、④「被告イラストのキャラクターは、本の中央から腕が生えているのに対し、原告漫画のキャラクターは、本の表紙、すなわち顔の面から、腕が生えている。また、被告イラストのキャラクターの腕及び手は立体的で、手は黒く塗りつぶされた丸形である……が、原告漫画のキャラクターの腕及び手は立体的でなく、手も白い丸形である」こと、⑤「被告イラストのキャラクターの額にあたる部分にはタウンページという文字が描かれているが、原告漫画のキャラクターには何らの文字もない」ことといった相違点を指摘して、類似性を否定した[5]。
 たしかに、原告イラストとは、“本を擬人化したイラスト”という点では共通するが、それ自体が著作権保護を受けてしまうと、このイラストに接した者は、当該著作権が存続する限り、“本を擬人化したイラスト”を描けなくなってしまいかねない。したがって、“本を擬人化したイラストを描く”という抽象的なアイディアは著作権保護を受けない。他方、“本を擬人化したイラストを描く”というアイディアをどのように具体化しているかという表現において、原告のイラストは著作権保護を受ける。本件における両イラストを比較すると、手の生えている場所、本の閉じ方、本の背の形状、鼻の有無、両目の高さといった具体的な表現において相違があると言え、本件において類似性を否定した裁判所の結論は支持されよう。
 なお、本件の控訴審では、被告のタウンページCM についても問題となり、その過程で、原告は、両著作物における後方右端のキャラクターの眉毛の形が両者ともハの字を逆にした形をしている点を主張したが、裁判所は、「控訴人漫画の前記枠では、眉毛の角度が急で怒りの感情を表現していると認められるのに対し、被控訴人CM1 の前記枠では眉毛の角度がゆるやかで、使命感を帯びた厳めしさを表現しているものと認められ、そこに怒りの感情を読みとることはできないから、両者のキャラクターの表情は、大いに異なるというべき」と判示している。言われてみればそのようにも感じられるところであり、イラストの類似性を考える上で参考になろう。(以下、本文つづく)
 
[1]本来、illustration とは、例などを用いて分かりやすくすることを意味し、理解を容易にするための図解や挿絵等を指す。日本語の「イラスト」は、これと若干ニュアンスを異にするところがあり、新村出編『広辞苑〔第7 版〕』(岩波書店、2018 年)213 頁においても、「イラストレーションの略。特に、見て楽しいように誇張・変形した絵についていう」と定義されている。
[2]なお、「キャラクター」とは、イラストとしてのキャラクターという意味のほか、フィクション作品(例:小説、漫画、映画、アニメ、コンピュータゲーム)の登場人物が有する抽象的な“人物像”という意味でも用いられることがあり、その場合は著作物性が問題となる(詳しくは、上野達弘「キャラクターの法的保護」パテント69 巻4 号49 頁以下〔2016 年〕参照)。実際のところ、最判平成9 年7 月17 日民集51 巻6 号2714 頁〔ポパイ・ネクタイ事件:上告審〕も、「具体的な漫画を離れ、右登場人物のいわゆるキャラクターをもって著作物ということはできない。けだし、キャラクターといわれるものは、漫画の具体的表現から昇華した登場人物の人格ともいうべき抽象的概念であって、具体的表現そのものではなく、それ自体が思想又は感情を創作的に表現したものということができないからである」と述べているが、これは人物像としてのキャラクターについて論じたものと理解されよう。
[3]上野・前掲注2)51 頁参照。
[4]東京高判平成12 年5 月30 日(平成12 年(ネ)第464 号)〔タウンページ・キャラクター事件:控訴審〕。
[5]第一審判決(東京地判平成11 年12 月21 日(平成11 年(ワ)第20965 号))引用部分。
 
 
Ⅱ 対談的検討  上野達弘・前田哲男
 
■比較する部分・範囲の広さ
上野:従来の裁判例の中でも、タウンページ・キャラクター事件(【ケース1─1】→48 頁以下)、けろけろけろっぴ事件(【ケース1─2】→50 頁以下)、坂井真紀イラスト事件(【ケース1─5】→60 頁以下)あたりは、類似性を否定した判決の結論に異論が少ないかと思いますが、他方、マンション読本事件(【ケース1─6】→61 頁以下)や博士イラスト事件(【ケース1─7】→65 頁以下)については、類似性を否定した判決に異論もあるところかと思います。先生のお考えはいかがでしょうか。
前田:まず、マンション読本事件なのですけれども、上野先生が「判例の概観」で書いておられますとおり、「顔面を含む頭部」に着目して比較するだけでよいのかという疑問を感じます。姿勢、赤いセーター、足首までのレギンス、足の描き方、腕の形状がよく似ています。さらに、鞄を持っているかどうかの違いはありますが、腕の形状も似ており、スカートの色は違うものの形状がよく似ている。原告の方のスカートの模様は格子と言っていいかどうかよくわからないのですが、長方形が並んでいて格子模様に近い。こういったところを捨象してはいけないと思います。それらを含んだ全体像として比較してみますと、類似しているのではないかなと考えます。
上野:原告は、原告著作物が「極端ななで肩」であるという点が特徴的だと主張していますが、このイラストを見ると、なで肩というか、もう肩がないに等しいですよね。その意味ではここも特徴的かと思いますので、その点における共通性を考慮する考えもあるようには思いますが、そうではなく、こうした肩の部分における特徴を捨象して、顔と頭部だけに着目して類似性を判断するとなりますと、たしかに顔と頭部における細かい相違点が際立ってきて、そうすると非類似という印象に傾きやすいようにも思えます。ただ、創作的表現の共通性が問題となる類似性判断において、首から下の部分を捨象してしまうというのは、首から下の部分は創作的表現ではない、つまり著作物性がないという話になりかねないようにも思います。だとすれば、首から下の部分だけを他人が無断でデッドコピーしても著作権侵害にならないことになるのか、といった疑問もわいてくるところです。
前田:原告著作物をどのように特定するかは、原則として原告の自由としますと、この事件では、全身像を描いたイラスト(原告イラスト75)が一個の原告著作物と主張されているのだと思います。そうであれば、これと被告作品(被告イラスト1)とを比較することになると思います。被告作品のほうは、本当はお母さんとお父さんと子どもが並んでいるイラストのようであり、そこからお母さんの部分のみを切り出しているようですが、お母さんの全身像の部分は、常識的に見て一つのまとまりを持っていますので、これと原告著作物とを比較することになると思います。そうすると、類似性の判断では、当然、首から下の部分も比較対象に入ってくるはずだと思います。
 極端ななで肩であるということだけが似ているのであれば、それだけでは創作性がないかも知れませんが、その点の共通は類似性を肯定する要素になると思います。それに加えて、腕の形・服装の色や形状・足の描き方だとか、そういったこともひっくるめて比較しますと、類似性を肯定してもいいのではないかと思います。
上野:そうですね。著作物の類似性判断における特定の問題は課題になるとしましても、本件において、原告が首から下の部分も含めて対象物を特定しているにもかかわらず、裁判所が首から下の部分を除外して類似性を判断することが許されるのは、その首から下の部分には創作的表現がないと言える場合に限られるように思います。そして、首から下の部分は創作的表現とは認められないと言ってしまうと、では首から下の部分には著作物性がなくコピーフリーなのかということになってしまうように思いますので、この首から下の部分が創作的表現と言える以上、この部分も類似性判断において一応考慮しなければならないのではないかと思います。 ただ、判決の立場をフォローするならば、人間のイラストというのは、首から下は可変的なものでして、特に洋服や手足の形というのは容易に変わり得るものですよね。そうすると、例えば、リラックマなんかでも、だらっと座ってるイラストを描いたときは侵害だけれども、直立不動で立っているイラストを描いたときは非侵害というのもおかしいので、首から下を考慮して判断するのは妥当でない、と。他方、顔と頭部は、表情を変えるくらいのことはあるとしても、それほど可変的ではないから、そこに着目して類似性を判断すべきだという考えなのかも知れませんね。
 とはいえ、このイラストでも、顔と頭部だけに創作的表現があるわけではなく、首から下の部分にも創作的表現が散在しているというべきではないかと思います。もちろん、肩の部分だけでも単体で創作的表現と言えるのかとか、ハの字になっている足の部分だけでも単体で創作的表現と言えるのかといったら、それは言えないのかも知れませんけれど、一般論としては、個々の部分における創作的要素の積み重ねが全体の創作的表現を構成しており、その全体が著作物たり得るのはもちろん、いくつかの部分の組み合わせだけでも著作物たり得るということがあり得るように思います。このケースにおいても、もしそうした部分も含めて両者を比較するならば、類似性は肯定されてもよい事案ではないかという見方もあるでしょうね。(以下、対談つづく)
 
 
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