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井上達夫 著
『増補新装版 共生の作法 会話としての正義』
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[増補] 三五年後の「共生の作法」──私の法哲学的原点へ
一 反時代的精神の挑戦
一九八六年に創文社から刊行した拙著『共生の作法──会話としての正義』が、創文社の解散後、このたび勁草書房により増補新装版として再刊されることになった。本書創文社版は単著としては私が最初に上梓した作品で、我々の世代に馴染みの言葉で言えば「処女作」である。
いまこの言葉を使うのは、いわゆる「政治的適切性(political correctness)」を欠くとして、お叱りを受けるかもしれない。しかし、初めて「自分の本」を世に問う著者が抱く意気込みと、緊張・不安が入り混じった気持ちを、よりうまく伝える言葉が他に思い浮かばないのでご海容願いたい。
当時、三二歳になる直前の私は、まさに「青年客気」の気負いで本書を上梓したが、思想界・学界、さらには一般社会からどう評価されるかは見当がつかなかった。というよりむしろ、ポストモダン全盛の当時、「正義」を真面目に論じるなんて「ダサい」とか、「時代錯誤」と嘲笑されるのが落ちではないかという悲観の方が、正直言って強かった。
しかし、豈図らんや、刊行したその年にサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞し、その後も、三〇年にわたって増刷を重ねることができた。二〇一七年に創文社から出た最後の増刷は第一〇刷である。もちろんベストセラーの類ではないが、ロングセラー書籍の一隅、その最後列あたりには置いてもらえそうである。学術書が売れないと言われてきたなかで、こんな「硬い本」がこれだけ長く読み継がれる幸運を得たとは、私にとって喜びであると同時に、驚きである。
第一刷刊行時について「ポストモダン全盛の当時」と言ったが、実際、「真理(Truth)」・「理性(Reason)」・「人間性(Humanity)」など、大文字の頭文字で書かれた理念が次々と「脱構築」という名の哲学的偶像破壊運動により信用失墜させられていた。とりわけ「正義」は独断的絶対主義や、権力の自己合理化イデオロギーを象徴する理念として攻撃された(もっとも、一九九〇年代になると、脱構築運動の指導者たるジャック・デリダが、脱構築の暴走に危機感を抱いたのか、「正義の脱構築不能性」を語り始めるが、それが中途半端で皮相的なものであることについては、拙著『普遍の再生──リベラリズムの現代世界論』岩波現代文庫、二〇一九年、ⅹⅷ頁、二九七頁注3参照)。
現在に至るまでの自己の学問的・思想的姿勢を私は「反時代的精神」として総括している(参照、拙著『生ける世界の法と哲学──ある反時代的精神の履歴書』信山社、二〇二〇年)。この姿勢は処女作たる本書においてすでに鮮明にされていた。しかし、本書がその反時代性にもかかわらず、「細々と、しかし長く」読み継がれてきたのは、本書の主張に共鳴する人々、あるいは共鳴しないまでもその問題提起を真剣に受け止める人々が、少数ながら常に存在していたことを示すように思う。
この「常在する少数者」たちの関心を本書が集め得たのは、少なくとも次の二つの理由によると私は考えている。
第一に、本書は独断的絶対主義や権力に対する無批判的追従を斥けて、対立競合する利益や価値観を追求する人々が自由かつ対等に共生しうる社会の枠組を探究している。「常在する少数者」の方々は、このような「共生」の社会的枠組の探究に共鳴されていると考えて間違いはないだろう。
「異なる他者との共生」など当たり前ではないかと思う人もいるかもしれない。しかし、残念ながら、利益や価値観を共有する者同士で結託し、対立する「他者」を排除しようとする欲動は、右翼や保守派だけでなく、「戦後民主主義」の擁護者を標榜する勢力や「自称リベラル派」においても支配的であったし、いまなおそうである(自称リベラルの似非リベラル性、自称民主主義者たちの反民主性、「護憲派」による憲法破壊等の批判を通じて、この点を明らかにするものとして、前掲拙著『生ける世界の法と哲学』第一章・第二章、拙著『立憲主義という企て』東京大学出版会、二〇一九年、第四章など参照)。
本書の共生理念とその実践的含意を真摯に受け止める人々は、戦前のみならず戦後以降の現代日本においても──実は現代世界においても──常に少数者でしかない。しかし、かかる少数者が常在することは救いである。
第二に、より重要と思われる理由だが、本書はかかる「他者との共生」を可能にする社会的枠組の規範的指針を「正義(justice)」という価値理念に求め、正義を「共生の作法」として捉えている。これは「哲学的問題発言」である。既述のように、正義は自己の価値観を他者に押し付けて他者を支配しようとする独断的絶対主義や権力欲の象徴であり、「異質な他者との共生」とは根本的に対立する観念だとする偏見が根強いからである。
この偏見はポストモダン的心性により強化されたが、それ以前から、「正義は西洋の一神教的イデオロギーの一部であり、八百万(やおよろず)の神々が信奉される日本には合わない」といった類の言説などとも結合して、日本社会に根深く広く浸透していた。
それだけに、「正義は共生の作法である」という本書の基本命題は、多くの人々には「あからさまな自己矛盾」、あるいは「倒錯的見解」と響いたであろう。しかし、この命題が「反直観的」な響きをもつからこそ、そこには(以下、本文つづく。傍点は割愛しました)
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