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広井多鶴子 編著
『下田歌子と近代日本 良妻賢母論と女子教育の創出』
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序章 下田歌子研究にあたって
広井 多鶴子
はじめに
下田歌子(一八五四─一九三六)は、歌人であるとともに、華族女学校や実践女子学園をはじめ、多くの女学校の設立・運営に当たり、明治天皇の皇女の教育を担った女子教育家であり、貧困階層の女子のための教育や救済事業に取組んだ社会事業家でもあった。下田は膨大な著書を著し、精力的に講演に出かけ、帝国婦人協会や愛国婦人会、大日本女学会など、いくつもの婦人団体を束ね、啓蒙活動を行なった。
このように様々な分野で活躍した下田は、当時、最も著名な女性の一人だっただろう。大阪朝日新聞社の『人物画伝』(一九〇七)は、「其の地位、其の学問、其の才識、其の風姿の点から、兎に角我国でエライ婦人と云へば、先(ま)づ指を下田歌子女史に屈する」と書く(三一頁)。石川啄木も、同年一一月二九日・三〇日の『小樽日報』に、「淡紅色のリボンを叔母さんに貰って鼠(ねずみ)泣(なき)する十二三の娘小供でさヘ下田歌子の名を知らぬはなし」と書いている(石川 一九七九、三二〇頁)。
また、ジャーナリストの神近市子は、一九三六(昭和一一)年に下田が八二歳で逝去した際、批判的な論調ながら、下田は「明治の中期から大正年代にかけての名流夫人の筆頭」であり、「長い期間にわたって日本婦人の指導者の一人であった」と『読売新聞』のコラムに書いている(一九三六年一〇月一四日)。さらに、吉屋(よしや)信子は一九五三年、『婦人公論』の連載「物語人物女性史」において、下田について、「日本の女性文化の歴史には、明治時代を背景に智能的な活躍をしたひととして評価される一人である」と述べ、今や下田の勲三等はさほど権威はなくなったものの、「近世日本」における「有力な一女性としての足跡は残る」と指摘している。幼少期の吉屋にとって下田の影響力は大きく、自分は「大きくなったら下田歌子になる」話していたという(吉屋 一九五三、一六六・一六八頁)。同様なエピソードを作家小山いと子も記している(小山 一九七八、一一五─一一六頁)。
しかし、その後、吉屋の予想に反して、下田の足跡は歴史の中に埋没していく。下田は近代女子教育のパイオニアや良妻賢母論の代表的なイデオローグとして位置づけられながら、女性史においても女子教育史においても、ほとんど取り上げられなくなるのである。千住克己は、「下田歌子と女子教育」と題する一九六五年の論文の中で、「女子教育の泰斗としてのみならず、婦人界の大御所的存在として君臨していた下田歌子の名は、意外に早く忘れ去られようとしている」と指摘している(千住 一九六五、一七〇頁)。実際、村松梢風、志茂田景樹、林真理子、井上ひさし、南條範夫らによって、下田をメインにした小説が断続的に書かれる一方で、下田に関する研究書はこれまで一冊も刊行されてこなかった。
その結果、今日、下田については実践女子学園の創立者であることと、日刊『平民新聞』が流布した「スキャンダル」を除けば、その思想も業績も、一般にはもちろん、研究者の間でもあまり知られていない。このことは下田個人の足跡や業績がかき消されただけでなく、日本の近代女性史や女子教育史のある部分を欠落させることになるものと思われる。『青鞜』や婦人参政権運動などによってのみ、日本の近代女性史が形成されてきたわけではないからである。
そうした中、本書は下田に関するはじめての本格的な研究書となる。今、下田を取り上げることは一見アナクロニズムに思えるかもしれない。しかし、むしろ逆である。女性史やジェンダー論、社会史研究といった新たな研究の蓄積によって、「良妻賢母主義」や「国家主義」などに関する評価の枠組み自体が問い直されるようになった結果、「良妻賢母主義」「儒教主義」「保守主義」「国家主義」といったことばによって切り捨てられてきた下田の思想や業績を、今日、ようやく歴史の中に位置づけて再評価することが可能になったのである。(以下、本文つづく)
終章 下田歌子を捉えなおす
広井 多鶴子
はじめに
戦後、下田歌子に関する研究はほとんど行なわれてこなかったが、一九九〇年代以降、少しずつ下田に関する研究論文が増えている。その背景の一つとして、指導的立場に立つ女性や政治にかかわる女性が増えてきたことがあるのではないだろうか。
これまで研究対象となってきた女性は、権力の被害者か、権力に立ち向かう存在、あるいは権力には関わらない(関係のない)存在だった。そうした枠組みにどれも当てはまらない下田は、「妖婦」や「女帝」として物語の対象にはなっても、なかなか研究の対象とはならなかった。だが、権力を持つ女性や政治にかかわる女性が奇異の目で見られたり、「女帝」などと揶揄されたりすることがかつてほどなくなるなかで、下田を分析対象とすることにそれほど違和感がなくなったのかもしれない。このことは、戦前を通じて指導的立場にあった下田を保守主義者、国家主義者と見なして、歴史研究の対象から除外してきたことの是非を問うもののように思われる。
本書の執筆者は様々な研究分野に属し、視点も関心も分析方法も異なり、それゆえ下田に関する評価も異なる。だが、下田を「近代日本」の歴史の中に正当に位置づけることによって、これまでとは異なる下田像や、これまでの研究では見えなかった下田の思想と業績を明らかにしたいという思いで一致している。ここで各章の研究成果をふり返ることはしないが、どの章も従来の儒教主義や保守主義、国家主義といった枠組みだけでは捉えられない下田の姿を描き出しており、下田の思想と活動の幅広さ、そして、時代に向き合う真摯さと柔軟さを明らかにしているものと思われる。
だが、では翻って、下田は保守主義者、国家主義者なのか。このことが改めて問われるだろう。そこで終章では、この点に関して筆者が考えてきたことを書きたいと思う。したがって、以下は本書の共通認識ではない。保守主義者、国家主義者と言われた下田を捉えなおすための筆者の試作である。(以下、本文つづく)