第3回:人類、やりすぎ
――絶対平和主義愛国アナキストおばさんのクリティカル・リーディング
ものすごいお久しぶりです!
声が、変わった。そういう気がします。
わたしの、だけでなく、地球の人の、
とくに人の多い都市と、その周辺の人々の声が。
顔も、変わった。
みなさんのお顔が見えなくなりました。おそらく、とくに日本で。
みんなマスクしてる。
それだけでなく
ひとりの人間が生きていく過程で起きること、というのもやはりあって。
それら個人的なことも、地表と海上をつたい
大気圏とその向こうまでひろがる野火のような吉凶と、
やむをえず、思いがけず、すべてつながっている
と、目が覚めるようにおもう機会が、毎日、あります。
更新できずにいた間にどんなことがあったか、という話を
本の話として、しようと思います。
丁寧にこまかく、ではなく、ざっくり。
アバウト(日本語)に。
いろんな事情から、移動しながら、空いた空間、隙間時間で書きつづることになるので、
手元にない本について記憶違いや誤解があったらごめんなさい。
ようやく読み始めた本、まだ読み終わってない本もあります。
元来わたしは読みかけの本を複数、いろんなところに開いておいて、
いったりきたりして読むのですが、
ここ数年の間、何度か波のように
いつものように読むことが、できなくなった時期がありました。
いろんなところに開いてあった本は、閉じて、重なって高くなりました。
本の声が低くなって、同時にわたしの声も、しばしば、行方不明になりました。
机やスツールや階段に積み上がったたくさんの本が最近ようやく、また声を出し始めたかんじです。
わたしの声も、すこしずつ、戻ってきた。
そんな波間に、ある本の著者のことばを思い出しました。
書かれたことばではなく、いわれたことばなのですが。
オーストラリアの歴史学者、デイヴィッド・ウォーカーが三年前に出した本
『座礁した国 アジアの中の白豪主義オーストラリア』
(David Walker, Stranded Nation: White Australia in an Asian Region. UWA Publishing, 2019)
ウォーカーは日豪関係について、日本人にとっても驚きの、興味深い実証的な研究をつづけてきた人。オーストラリアが政治地理学的に関わらざるを得なかった日本など東~東南アジア地域と、白豪主義オーストラリアの関係について語るこの本は
日本という国のポジションを、その影を、いまの学生たちの多くが思っているような姿とはまるで違うかたちで浮かび上がらせます。
目が悪くなってから、彼はもう研究書は書かないのかもしれないとおもっていた。
でも500頁超えのこの本。感謝感激、ありがとう。
まだ約束した書評、書いてない。遅くなったけど、やっぱり書きたいです。
日本史と名づけられた高校までの学習科目に、ぜひつぎの二章を書き加えてほしいと思っています。
ひとつは、白豪主義時代のオーストラリアと日本人移民の制限、第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種差別撤廃を訴えた日本と、これに猛反対したオーストラリアについて。
ふたつめは、アパルトヘイト時代の南アフリカをボイコットしなかった数少ない国としての経済成長期の日本、その国民に与えられた名誉白人という不名誉で不快な称号について。
この列島が世界の外じゃなくて、中にあるということ。「日本史」という歴史の区切りは便宜上のものでしかなくて、この列島の歴史を世界の歴史と切り離すことは不可能なのだということ。それを思い出してもらうために、「こちら側」からの話だけじゃない、そして「あちら側」つまり日本にとっての「世界」=欧米からの話だけでもない、「別の側」からの話で、ここについて知るために、この二章は重要。
(もちろん、ほかにもある。アイヌ史からみた日本、パプアニューギニアからみた日本、その他たくさん。)
デイヴィッド・ウォーカーが自伝を出したとき、たまたまメルボルンにいたわたしは彼とお茶を飲み、そのときにこういわれた。
目が悪くなってもう仕事はできないかとおもったけれど、自伝ならと思ってやってみた、
そうしたら社会学の本になったんだ。
カズエ、もう読むのはやめろ。書いたらいいんだ。書けるよ、おまえは。
知ってるよ、わたしは。
いま考えると、自分の親(研究者)にいってもらいたかったことを、よその方がいってくださることで、わたしはいままでわずかながら仕事を、やってこれたんだとおもいます。なんという僥倖。
評価を気にしない、比べない、自分のできることをすればいい、ちいさなことでいい。ちいさなことなら、わたしにもできることはある。
そこまでは40年ちかく前に、考えていたんです。そう考えなくては、いまの仕事に踏み切れなかった。
でも自分にできることがよいもの、すぐれて価値あるものとは、なかなか、信じられなかった。
とりあげてきた主題、話の内容、つまり対象には大切なことがあると信じていたから、やってこれた。
わたしなりの部分にも、よいところがある。そうおもっていい。おもうべきなんだね。
ようやくそう思い至ったところ。いろんな方の助けで。
橋がいろんなところに、かかっていたおかげで。
ウィルスとはそもそもなにか、という話は、もちろんしなくちゃいけないはず。
でも、そういう話を、マスメディアから見るともなく聞くともなく流れてくる「情報」のなかに、
ほとんど見かけない。ぜんぜん見ない。そういう印象がある。
専門家とその情報に触れる一部の人をのぞいて、ウィルスってなにか、よくわかっていない。
それが20歳前後の学生たちを毎年数百人ずつ定点観察しているわたしの実感。
ワクチンもう打ちましたか、どうでしたか、
というのが、2021年夏の日本人のもっぱらの話題だ。
対象がなんなのか、それさえはっきりしないままに、「対策」をめぐる混乱がつづく。
なにかよくわからないものをやっつけると信じて、
初めてのやりかたで、片手ほどの数の大手製薬会社が急ごしらえしたワクチンを打っている、
それが呪術や宗教を嘲笑し先進科学の合理性を信奉するわたしたちの現状。
山内一也『ウイルスの意味論――生命の定義を超えた存在』(みすず書房、2018)は、新型コロナウィルス感染拡大以前に出た本で、だからむしろ冷静に、いまの騒ぎを検証しながら読むことができて、とてもおもしろかった。
細部については異論も当然あるようだ。なにしろウィルスってなんなのか、まだよくわかっていないことがたくさんある、ようやくすこし見えてきたというのが実情らしい。
ウィルスは生きものじゃない、そうだ。
じゃあ生きてないのか、というと、それもちょっと違うみたい。
生物界と無生物界の境界は、ひろく信じられているほど明瞭なものではないらしい。
細菌(バクテリア)とウィルスは違う。ウィルスは細胞じゃないのだ。ひとりでは増えることができない。
その起源はとても古い。地球とともに古い。
そのサイズは途方もなくちいさく、その数は天文学的という域を超えて多い。
わたしたち人間の身体には「ウィルスの痕跡」が刻まれているらしい。
たとえば生殖に関する機能に。
異物である精子を卵細胞がなぜ免疫で撃退せずに受け入れ、新たな細胞を分化させていくのか。
いわれてみればたしかに、これはウィルスの侵入とそっくりだ。
とすれば、わたしたちの存在再生システムの根幹をつくったのは、太古のウィルスの仕業、ということになるのかもしれない。
「他」「異」とはなにか。腸内菌なんかも含め、
「自分ではないもの」を内包することで、ヒトは存在を維持している。
ウィルスの話は、人間にとっていい/わるい、という判定から始まる物語じゃない。
まずウィルスがそこにあり、ずっとあとに出現した哺乳類などをいまのように方向づけ、わたしたちの隣で眠ったり、再発現したりしつづけている、そういったほうが順番が正確だ。
同様のことは雑草といわれる草や、害虫、害獣、黴菌といわれる生きものについても、いえる。
近年の感染症の原因とされる「あらたな」ウィルスや細菌の「出自」について、いまのところ2パターンの話が繰り返されている。
ひとつは、あくなき開発と気候変化により、いままで現人類がほとんど触れることのなかった地域の動植物や土壌との接触が起こったため、というもの。いわば「自然」(ってなに、という疑問もふくらむ一方だが)への過干渉によるものだ。
もうひとつは、繰り返し噂される、だが確かめられた事例は多くない、人為的、人工的な出現だ。偶然か意図的か、それはケース・バイ・ケースなのだろうが、実験から流出したもの、生物兵器としてデザインされたものなどが考えられている。
森の奥や永久凍土に隠れていたものを呼び起こす人間の手。同じ手がつくり出し隠そうとする企み。これらに向かいあう「歴史」の語りは、今後どこまで機能するのだろう。
歴史が複数であること、単一でないことの認識が、今後ますます、重要になるはずだ。つまり
立場や力関係をかえりみずにことばを使うものが、世界中にいなくてはならないはずなのだが。
いずれの出自も、ひとつのことを指している。
現人類は、やりすぎた。
現人類の、じつは一部の人たちが、明らかにやりすぎたことを、いま地上の大多数の人が、やろうとしている。
自分たちだけのために世界をコントロールすることを。
モノをあふれさせ便利になりつづけること、
一度手にした豊かさと便利を手放さないために手段を問わず異類、同類を殺しつづけることを。
他の生物を、ときには自分と違う種だと信じこんだ同類を、自分たちの道具、資材とみなして「活用」することを。
薬物で「害獣」や「害虫」や「雑草」を殺し、体内に入った異物を殺し、毒物を蓄積し、つまりは自分たち自身を一見とても清潔な死に追い込むことを。
制御不可能な物体を制御できるふりをし、その害をまき散らしつづけることを。
やりすぎリストはどこまでも長くなる。
一顆のりんごにも、やりすぎの成果が満ちている。それがいまのあたりまえ。
わたしたちは自分が動物のひとつであること、この世界の一部であることを、忘れてしまったみたいだ。
自然、ということばを、容易につかえなくなった。その意味が、よくわからない。
マイクロプラスティックを体内にボーリングの玉ぐらい飲み込んでいるとしても、生命体であるわたしは、自然ではないか。いかに緑濃く美しく見えても、薬物で虫を殺しまくり鳥が姿を消し盛り土がいまにも濁流になりそうな林は、人工的造形ではないか。
自然、とはなにで、人工、とはなにか。境界はじつはあいまいだ。
また本来、あいまいであるべきではないか、わたしたちが生物であるかぎり。
この二つを対立項目にした文化の根源には、なにか特異な、つよい不安と敵対心がある。
文明、ということばが、子どもの頃から、わからなかった。
文化と文明は、なにが本質的に違うのか。
ほんとうに違うのか。
それらを分けるのは野蛮人と文明人という対立項目が示すのと同様の、一方の側からみた優劣の指標でしかないのではないか。
ビルを建てる人のほうが、あやとりで宇宙を示すことができる人よりえらいと、どうしていえるんだ。
野生ということばも、同様だ。いつから人間は野に生きることをやめたのか。やめたくないなあ。
だってそんなことしたら、いずれ自分で自分の首を絞めるでしょう。10万年越えの知のアーカイヴが、狩猟採集生活の基盤にあるのに。
野生、野性、いずれにせよそれらを「優れて高度な文明」に対立するものとして置き、野に生きる感性と知恵を捨てることが優れた文明人の宿命と信じるなら、それは存在の連鎖から心身ともに(心のほうも無視しちゃだめ)完全に外れ、孤独と不安と敵対と暴力、崩壊への道なき道をゆくことではないか。
読むこと書くことがむずかしくなっている間に、それでも読んで、大好きになった本のひとつが、ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』 (みすず書房、2019)。
原題は「穀物に抗って(Against the Grain)」。いい題だ、と玄米ごはんをはみはみ、味わいながら考える。
農業を否定する気か、なんていわないでね。玄米うまい。穀物なしにいまの現人類、生きられないよ、おそらく。でもいまのままでいいとも、おそらく多くの人が、おもっていない。ならばどこからおかしくなったか、どのあたりまでの修正なら可能なのか、まっしぐらに考えるしかないよね。
スコットの『ゾミア——脱国家の世界史』(みすず書房、2013)、『実践 日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』(岩波書店、2017)も大好き。後者の原題はE・M・フォースター『民主主義に二度喝采』にならって、「アナキズムに二度喝采(Two Cheers for Anarchism)」。
スコットの最初の日本語訳は『モーラル・エコノミー――東南アジアの農民叛乱と生存維持』(勁草書房、1999)だったのね。ときどき顔を出す農民歌の歌詞がおもしろい。C・L・R・ジェイムズなどカリブ海の歴史家や作家たちが頻繁に引用する、歌の歌詞を思い出す。抗う民の歌だ。
歌/詩のこうした力は、日本にまだ生きているだろうか。
オンライン授業対応で混乱した学生や先生の苦情対応のあいまに、穀物のことを考えつづける。
穀物を、人類はよほどなにかない限り、手放さないだろう。そして農業をやめるということは、すくなくともいまの人類の選択肢には、ない。しかし、やばい部分をやめる、全部でなくてもちょっとやめる、それなら今日からでもできるし、やらないとほんとにまずいんじゃないか。いいかげん数多くの国で禁止されている農薬をTVコマーシャルまで流して売りさばいているわが国を憂えてもいいのではないか。あ、これ憂国だ。街宣車はうたうべきではないのか、この国を汚染する薬物へのはんたーい、を。輸入果物に収穫後どばどばかけられたおそるべき効果のケミカルへの異議を。レモンって腐らないものだって信じてる若者がいる郷土を、憂うべきではないか。
ナショナリスティックなアナキズム、国境なき愛国。あたまがおかしい? そうはおもわない。スコットは長年、言語化しにくいままだったこの考えを後押ししてくれた。ありがとう。
この場合のネイション、つまりクニ、というのは、もちろん、政治的な単位としての国家ではない。民、文化的集団、輪郭のぼやけた「われわれ」的なもの、つねに拡大解釈を許容する、排他的でない、崩壊寸前でゆるくまとまっているオムレツ的概念。これだってそれほど好きってわけじゃないのよ。だけどいまだに、いやむしろますます、つよまる、それこそ沈むところなきグローバル帝国、王がいないだけ、ちょんぱする首が見えないだけ、一層たちの悪いエスタブリッシュメントに対して、それ、こっちから見ると違うんですけど、の「こっち」を立てるとしたら、これかな、とおもう。
別のいいかたをすれば、先住民族としてのわたし、といってもいいんだけどね。
生活の実感から立ち上がるこの「われわれ」のシンボリックな代表として、わたしは「おばさん」のことを考える。おばさんはいま、絶滅危惧種だ。東京の街中で、昔ながらのおばさんらしいおばさんを見かけることはおどろくほど減った。権威なく人権あやうく生活感満載の、くたびれているけれどうちのめされることなく、衣食住に関わる具体的な知識と手仕事の感覚を頼りに自他の生存を維持する生活実践者は、消えつつある。
性別がオスであっても、おばさんになることはできる、とわたしはおもう。多くの社会が男という指標の下に押しつける、支配と被支配の構造にとらわれた競争と戦闘のライフスタイルに、背を向けることはできる。上から目線で電脳上に描いた空論を尻目に、毎日の食べ物と自分の身体と身の回りの環境から、人類含め生き物の未来を考えることはできる。
スコットの議論をたどって、まずはアフリカから歩き出し始めた現人類の足跡をアニメーションにして地図上にマッピングしてみよう。いくつか、ごくわずかの古代の都市国家がちかちか点滅し、消える。農業がすこしづつ、地表にまばらに広がり、穀物を収穫し備蓄する人々が定住・集住を始め、それと一緒に蓄財、奴隷、軍隊、貨幣、借財、利子、戦争、マラリア蚊が広がる。
デヴィッド・グレーバー『負債論――貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016)もこの話につながる(グレーバーの『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020)もうちの階段の上でおーいとときどき声を出している)。
古代都市国家は10万年だか20万年だかの現人類の歴史の中ではまれな、というか、特異な例外だった、そして例外なく滅びた。かつて都市文明があったところに別の人々が流入しいまも都市を築いている例は多い、でもそれはかつての人々ではない。
つまり人類の歴史上ほぼずっと、大多数を占めていた狩猟採集民は「無理してたくさん栽培とかしなくても歩ける範囲で採って/獲って食べられる量にみあった人口」を維持してきたのだ。密じゃないのがむしろ、常態。ほんとうはサステイナブルってそういうことなんだとおもうよ、疑いなく。
そんな「ぽつぽつ」な拡散型ライフスタイルを何万年もつづけてきた人々を野蛮人ときめつけ、かれらから絞れるものを絞り上げて不自然に物流(この場合生産物だけでなく、水とか狩猟場とか物流ルートそのものなど含めね)をコントロールしたのが、地上のおできみたいに出てはつぶれた都市文明だった、といえるだろう。
それをあろうことかスタンダードにしちゃおう、世界中でやっちゃおう、しかもずーっとやろうね、なんて考えた、それが現代の、グローバル化をつづける文明社会、だとしたら。
これは愚者の行いだと、わたしレベルの簡単な計算脳(1、2、3、あとは片手、両手、たくさん)でもわかる。無理でしょ。バベルの塔よりよっぽどやばい崩壊にいたるでしょ。
そして近頃ときたら、都市の利便性をすべて維持したままサステイナブルになりましょうって、
それはご都合主義ってものじゃないかしら。すべて、は無理だよね。
一方でどうやら、そういう至便かつ維持可能なライフスタイルを自分たちだけのものにしよう、つまり一部の人間のみが安全と健康を確保し、残りの人間や動植物に薬物や遺伝子組み換え食品やあらゆる汚染物質や貨幣経済の矛盾を押しつけよう、という発想もあるみたい。嘘でしょ。でも読めば読むほど、
どんどんそんな心配が、裏打ちされる事実が出てくる。
西~中央アフリカの方々とかれらの子孫がいう、わるい呪術とその仕返し、っていうやつが、なんだか困るぐらい納得がいく。
わるい呪いを一方的に押しつけたら、結局はそのつけが呪った連中に戻ってくる。迷信の話じゃない。科学の話だ。エネルギーと物質の循環の話。
人類はしっぺがえしをくう。自分だけいいとこにつけようとしている人たちも、うまくいくのは一瞬。
似たようなことは、うんとちっちゃな身近でも起きる。わるい呪いとしっぺがえしの話。
わるい呪いをかけてきた人、でたらめを吹聴した人に、
この嘘つき、でたらめ製造機、とほうきもキーボードも振りかざして飛びかからなかったこと、
それでよかったのか、意気地なしだなあと自分が嫌いになったことが何度もあった、いまもあるけど
多分ね、こんだけ人類づきあいが苦手なヨウカイが、うまくいかないのはむしろ当然、どころか、完全後づけ学習の社会性自主訓練で、できることがこんなに増えたこと
理解と親切がこんなにいただけていることのほうが奇跡であるわけだから
よかったのよ。きっと爆笑な話に編みなおす機会がめぐってくる。
悪い呪いはかけた側にもきっと呪いを返す。そう信じてあらゆる神さまにまんべんなく敬意を送る。
その他、スティーヴン・R・L・クラーク『ポリス的動物――生物学・倫理・政治』(春秋社、2015)
キム・マフード『乾湖のために』(Kim Mahood Craft for a Dry Lake, Transworld Publishers, 2000)
ジャッキー・ケイ『赤い土埃の道』(Jackie Kay The Red Dust Road, Picador, 2010)
原ひろ子『ヘヤー・インディアンとその世界』(平凡社、1989)
あたりがまた復活してきた声の筆頭。
先日北海道新聞に書いたコラム(「考えるピント:”テント仲間” と生きる 理想の『家族』形は多様」7月6日朝刊)には、『ヘヤ―・インディアンとその世界』から「テント仲間」の話を引き、
下北沢のブックカフェB&Bで田中真知さんとやった対談(オンライン爆笑漫才)(「旅を読む、旅を書く」2021年7月16日開催)ではケイの自伝の話を引いた。
二冊をくっつけていえば、家族って血族じゃなくてテント仲間がいい、というか、それしかない、
じつは「わたし」っていうのは、遺伝子+「わたしに関する神話」でできてるよね、ってこと。
茅辺かのう『アイヌの世界に生きる』(ちくま文庫、2021)は読みたてのほやほやなんだけど、
これも血族じゃない、だけど、だからこそつよい絆の家族の話だ。
身体と食べ物と家、毎日の生活から一歩も離れないことばで、世界をとらえている、アイヌのおばさんの話を、聞いて考える和人のおばさん。
食いつめた和人の子に生まれて、アイヌの養母にもらわれ、アイヌ語を話して育ったトキさんと、
トキさんに頼まれてトキさんが望むやりかたで彼女のアイヌ語を記録した著者、茅辺さん。
率直で、思いやり深く、ときに厳しい、ちゃんとした距離感のある二人の関係が、気持ちいい。
マーガレット・アトウッドはいっている。カナダ文学には元来、二種類の話しかない。
流氷、熊、厳寒、飢え、暗い冬、鬱、つまりは「自然」にやっつけられて殺される話と、
やっつけられているところを先住民族に助けられる話、の二種類。
カナダでも北海道でも、初期の入植者たちは、死ぬか、先住民族に助けられるか、どっちかしかないような状況を生き延びてきた。
イヌイットや北米インディアンにカナダ白人は、アイヌに北海道和人は助けられてきた。
アイヌに育ててもらった和人の捨て子というのが結構いたんだね。ほんとのテント仲間だね、それ。
ほんとうのアイヌだとかそうじゃないとか、純血(なんじゃそれ)だから混血だからとか
まだごちゃごちゃいってる人、この本一冊で結論、出てるよ、すっぱり。
ほかにも山と、優れた仕事が、うちの梯子段だけでもわんさと、積まれている。
もっと読んでよ、と学生にいつもいう。
すると驚いたことに、読む人がいるんだ。
いないとおもってるでしょ。
じつはいるんだよ。ほんとの話。
ってことはこういうわたしの漫談も、無駄じゃないってこと、
驚くほどゆっくりでも、つづけていいってことね。
《バックナンバー》
〈第1回〉ラヴ&ライフ@ティウィ
〈第2回〉レインボー金魚の選択
〈第3回〉やりすぎ――絶対平和主義愛国アナキストおばさんのクリティカル・リーディング