コロナ時代の疫学レビュー 連載・読み物

コロナ時代の疫学レビュー
第8回 コロナ時代の最初の巨大な研究スキャンダル――血圧降下薬・ヒドロキシクロロキン・イベルメクチンの死亡リスクの後向きコホート研究

9月 21日, 2021 坪野吉孝

 
昨年、トランプ米国前大統領が新型コロナウイルス感染症に対する薬として、抗マラリア薬のヒドロキシクロロキンを宣伝し自分でも服用したことで、大きな話題になりました。けれど、そのヒドロキシクロロキンを使った治療についての研究論文のひとつはデータの捏造を疑われて撤回されています。最近日本でも注目されるイベルメクチンを扱った論文も削除されました。何が起こっているのか、論文の公表と撤回・削除をめぐって起こったことを坪野さんがていねいにトレースしています。[編集部]
 
 
 新型コロナウイルス感染症の第1波が欧米を襲った2020年5月、米国の研究グループによる2つの論文が、『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』(NEJM)と『ランセット』(Lancet)に公表された。同一の研究グループの論文が、臨床医学の分野でもっともインパクトの高い2つのジャーナルにあいついで公表されたこともあり、2つの論文は世界にセンセーションを巻き起こした。
 
 2つの論文の筆頭著者は、ハーバード大学医学部教授のマンディープ・メーラ(Mandeep R. Mehra)氏。心臓外科の世界的な大家で、「この分野のスターの1人として広くみなされている」という。
 
 ところが、わずか1か月後の2020年6月4日、研究グループ自身が2つの論文を同時に撤回した。今回は、「コロナ時代の最初の巨大な研究スキャンダル」とも評されるこの事件の顛末について紹介する。
https://www.sciencemag.org/news/2020/06/two-elite-medical-journals-retract-coronavirus-papers-over-data-integrity-questions
 
 まずは、NEJMに掲載された論文をみてみよう。
 

NEJM論文の抄録

 
 論文のタイトルは、「Covid-19における心血管疾患、薬物治療、および死亡」。2020年5月1日にオンライン公開され、2020年6月18日にプリント版が発行された。日本語抄録も含めて、全文を無料で閲覧できる。
 
 論文の抄録を補足しながらみていこう。
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2007621
https://www.nejm.jp/coronavirus/contents/original-article08.php

背景: 新型コロナウイルス感染症(Covid-19)は、高血圧や心疾患などの心血管疾患にかかっている人々が、より大きな影響を受ける可能性がある。こうした臨床的な背景のもとで、血圧降下薬であるアンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害薬とアンジオテンシン受容体拮抗薬(ARB)が有害作用をもたらす可能性について、懸念が提起されている。
 
方法: アジア・ヨーロッパ・北米の 169 病院のデータベースを用いた観察研究(後向きコホート研究)により、Covid-19 の入院患者における、心血管疾患、薬物療法と、院内死亡との関連性を評価した。対象者は2019年12月20日から2020年3月15日の期間に入院し、著者の1人が創設した企業が管理する国際データベースである「外科手術のアウトカムに関する国際協同登録」(Surgical Outcome Collaborative registry)に登録され、2020年3月28日の時点において、院内死亡または生存退院のどちらかの状態にあると記録されていた患者である。
 
結果: データ解析の時点で院内死亡か生存退院かの情報が存在した Covid-19 患者8,910 人のうち、515 人(5.8%)が院内死亡し、8,395 人が生存退院していた。院内死亡のリスク上昇と独立の関連性が認められた要因は、以下であった。

・年齢 65 歳超(死亡率10.0%、65歳以下は4.9%。オッズ比 1.93、95%信頼区間 [CI] 1.60-2.41)。
・冠動脈疾患あり(10.2%、冠動脈疾患なしは5.2%。オッズ比 2.70、95% CI 2.08―3.51)。
・心不全あり(15.3%、心不全なしは5.6%。オッズ比 2.48、95% CI 1.62-3.79)。
・不整脈あり(11.5%、不整脈なしは5.6%。オッズ比 1.95、95% CI 1.33―2.86)。
・慢性閉塞性肺疾患あり(14.2%、慢性閉塞性肺疾患なしは5.6%。オッズ比 2.96、95% CI 2.00-4.40)。
・現在喫煙者(9.4%、喫煙中断者または非喫煙者は5.6%。オッズ比 1.79、95% CI 1.29-2.47)。

 いっぽう、血圧降下薬であるACE阻害薬とARBの使用は、院内死亡のリスク上昇との関連性を認めなかった。

・ACE 阻害薬の使用あり(2.1%、使用なしは6.1%。オッズ比 0.33、95% CI 0.20-0.54)。
・ARB の使用あり(6.8%、使用なしは5.7%。オッズ比 1.23、95% CI 0.87-1.74)。

結論: この研究は、Covid-19 入院患者において、心血管系の基礎疾患を有することが院内死亡リスクの上昇と関連することを示唆する先行研究の観察を確認するものであった。こうした臨床的背景のもとで、ACE 阻害薬または ARB と院内死亡との有害な関連の可能性に対する懸念は、今回の結果では確認されなかった。

 
 この論文が採用している後向きコホート研究のシェーマを図表8-1に示す。また、シェーマに基づく論文の詳細を、図表8-2に示す。
 

図表8-1 後向きコホート研究のシェーマ


 

図表8-2 血圧降下薬とCovid-19患者の死亡リスクの後向きコホート研究の論文の概要


 

研究の生理学的背景

 
 今回の論文の生理学的な背景について、説明しておこう。新型コロナウイルスがヒトに感染して細胞内に侵入する際には、ヒト細胞の表面にあるアンジオテンシン変換酵素2(ACE2)が受容体となり、ウイルスのスパイク蛋白が結合することから始まる。
 
 いっぽう、高血圧に対する血圧降下薬としてひろく使われているアンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害薬とアンジオテンシン受容体拮抗薬(ARB)は、ACE2の発現を増加させる可能性が、動物実験ですでに示されていた。そのため、2種類の血圧降下薬を服用していると、新型コロナウイルスがACE2を通してヒト細胞に侵入しやすくなり、Covid-19の発症・重症化・死亡のリスクを高めるのではないかという理論的な懸念があった。
 

同日に公表された2つの論文

 
 この論文がNEJMにオンライン公開された2020年5月1日には、おなじテーマを扱った論文が、同誌にさらに2件オンライン公開された。
 
 1件目はイタリアで行われた症例対照研究であり(Covid-19症例6,272例、住民対照30,759例)、ACE阻害薬とARBによるCovid-19の発症や重症Covid-19の発症リスクの上昇を認めないという結果だった。2件目はニューヨーク大学の電子カルテデータを活用した後向きコホート研究で(12,594例、うち新型コロナウイルス陽性が5,894例)、ACE阻害薬とARBによる新型コロナウイルス感染や重症Covid-19の発症リスクとの関連を認めなかった。
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2006923
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2008975
 
 2つの論文は、2種類の血圧降下薬により、新型コロナウイルスの「感染」、Covid-19の「発症」、集中治療室対応などが必要な「重症Covid-19の発症」のリスク上昇が認められないことを示した。今回取り上げた論文は、さらにCovid-19患者の院内「死亡」のリスク上昇も認めなかった。
 
 これら3つの論文により、新型コロナウイルスの「感染」、Covid-19の「発症」「重症化」「死亡」のいずれのアウトカムに対しても、ACE阻害薬やARBによる有害作用はないという結果が示された。NEJMが3つの論文を同時にオンライン公表したことは、Covid-19に対する悪影響という理論上の懸念を気にして、高血圧患者にひろく使われている2種類の降圧剤の処方や服用を急いで中断する必要はないという、臨床医と患者を安堵させるメッセージを伝える役割を果たしたといえるだろう。
 

薬物の有害作用の研究デザイン

 
 ところで、3つの論文の研究デザインをみると、2件は後向きコホート研究、1件は症例対照研究でである。ワクチンといった予防法や薬剤などの治療法について、おもに「有効性」を評価することが目的であれば、介入研究としてのランダム化比較対照試験(RCT)を行うのがもっとも適切である。
 
 しかし、薬剤の「有効性」ではなく「有害性」の評価を主目的とする今回のような研究の場合、有害性の有無や程度を評価するために、ランダム化比較対照試験のように対象者に対して研究者が意図的に薬物を処方することは、倫理的に不適切である。
 
 薬剤とは異なるが、喫煙の有害性を評価するためにランダム化比較対照試験を企画し、「介入群」にはタバコを提供し、「対照群」にはプラセボを提供し、肺がんなどの疾患の発生率が「対照群」より「介入群」の方が高ければ、タバコによる肺がんリスクの上昇を認めるような研究が、倫理的に不適切であるのと、事情はおなじだ。
 
 そのため、新型コロナウイルスの「感染」やCovid-19の「発症」「重症化」「死亡」に対するACE阻害薬やARBの「有害性」の有無を評価するためには、これらの薬剤を日常診療の一環として服用していた患者を「曝露群」、服用していない患者を「比較群」とする後向きコホート研究などの観察研究を行うことが、倫理的に適切である。
 

ランセット論文の概要

 
 ハーバード大学医学部のマンディープ・メーラ教授を筆頭著者とする後向きコホート研究の論文は、2020年5月1日にNEJMにオンライン公開された。それから1か月も経たない2020年5月22日、同教授を筆頭著者とし、NEJM論文とおなじデータベースを使った論文がランセット誌にオンライン公開された。
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)31180-6/fulltext
 
 この研究の目的は、もともと抗マラリア薬として使用されてきたヒドロキシクロロキンおよびクロロキンと、もともと抗菌剤として使用されてきたマクロライド系抗菌薬(アジスロマイシンなど)の、Covid-19入院患者に対する有効性と安全性の評価である。
 
 論文の概略を、簡単にまとめよう。

対象と方法:
・対象者は、2019年12月20日から2020年4月14日までの期間にCovid-19と診断されて入院した患者で、NEJM論文とおなじ国際データベース「外科手術のアウトカムに関する国際協同登録」(Surgical Outcome Collaborative registry)に、6大陸の671の病院から登録された96,032人。
・研究デザインは、後向きコホート研究。
・入院後48時間以内に服用を開始した薬剤により、患者を次の4グループに分類。

①クロロキン単独群(1,868人)。
②クロロキンとマクロライドの併用群(3,783人)。
③ヒドロキシクロロキン単独群(3,016人)。
④ヒドロキシクロロキンとマクロライドの併用群(6,221人)。
⑤上記の薬剤のいずれも服用しなかった比較群(81,144人)。

・研究の主要な評価指標は、院内死亡率(有効性)。副次的な評価指標は、新規の心室性不整脈(心室細動と心室頻脈)の発生率(安全性)。
・追跡調査。2020年4月21日までに、院内死亡したか生存退院した患者のみをデータ解析の対象とした。この時点で入院中の患者は解析から除外した。
・5グループ間の特性の差について、下記の項目のデータを収集し、多変量解析(Cox比例ハザードモデル)による補正を行った。年齢・肥満度・性別・人種/民族・基礎疾患と危険因子(冠動脈疾患・心不全・不整脈・糖尿病・高血圧・脂質異常・閉塞性肺疾患・喫煙・免疫不全)・薬物使用(ACE阻害薬・ARB・スタチン・抗ウイルス薬)・Covid-19の重症度の2指標・入院経過の指標(入院日数・集中治療室在室日数・一般病棟在室日数・人工呼吸器の使用)。
 
結果: おもな結果を、以下の図表8-3にまとめる。
 

図表8-3 ランセット論文のおもな結果


 
著者らの結論的解釈:
・抗マラリア薬であるヒドロキシクロロキンとクロロキンは、単独でも、マクロライド系抗菌薬との併用でも、Covid-19入院患者のアウトカムに利益をもたらすことを確認できなかった。4つの薬物療法群のそれぞれで、比較群よりも院内生存率が低下し、心室性不整脈の頻度が上昇した。

 

ランセット論文の衝撃

 
 ランセット論文がオンライン公開されると、世界に衝撃と困惑が走った。論文が公開されたのは、パンデミックの第1派にあたる2020年5月22日。このころ、十分な規模のランダム化比較対照試験でCovid-19の治療に対する有効性が確認された薬物は、まだ存在しなかった。そのいっぽうで、抗マラリア薬であるヒドロキシクロロキンとクロロキンは、世界中で使い始められていた。
 
 とりわけ米国ではトランプ前大統領がヒドロキシクロロキンを強く推薦しており、なかばその政治的圧力に屈するかたちで、米国食品医薬品局(FDA)は、3月28日に緊急使用承認を許可していた。また、WHOが企画したCovid-19患者の治療薬を評価する国際協同のランダム化比較対照試験であるSOLIDARITY試験では、ヒドロキシクロロキンを投与するグループを設定し、参加患者の登録を始めていたところだった。
 
 ところが今回の論文は、ヒドロキシクロロキンとクロロキンの使用群は、比較群と比べて院内死亡率が低下するのではなく、ぎゃくに1.335倍から1.447倍と上昇した。また、死に至ることも多い心室性不整脈が発生するリスクが、比較群より2.369倍から5.106倍に上昇した。治療薬として「有効性」があるどころが、むしろ死亡率と危険な不整脈のリスクを高める「有害性」があるというデータだった。研究者の衝撃の大きさは、容易に想像できる。
 
 ランセット論文の公表を受けて、WHOは、ヒドロキシクロロキンを投与する患者をSOLIDALITY試験に登録するのを、一時的に中断した。英国の規制当局は、ヒドロキシクロロキンをCovid-19の予防または治療に使用するすべての臨床試験の一時中断を要請した。フランスでも、ヒドロキシクロロキンの臨床試験が中断した。
https://zenodo.org/record/3871094#.YSQU-Y4zalG
 

論文に対する疑念

 
 こうした事態の一方で、論文の内容に対する疑念も生じ始めた。さいしょに指摘されたのは、この論文が使用したデータベースに含まれていたとする、オーストラリアの5病院の死亡者数が、研究期間までに確認されたオーストラリア全国の死亡者数よりも多いことだった。2020年5月28日に英国の新聞『ザ・ガーディアン』(The Guardian)が、この点を報道した。
 
 翌5月29日、論文の著者らは、つぎのような弁明を行い、同日ランセットに「誤りの訂正」をオンライン公開した。著者らによれば、当初、オーストラリアの病院として5施設を分類していた。ところが、そのうちの1施設は、病院の所在地をオーストラリアと自己申告していたが、実際にはアジア大陸に分類すべきであった、というのである。
 
 著者らのこの主張にしたがい、オーストラリアの病院数は5から4に訂正され、論文の原文と関連資料のこの部分が修正された改訂版が、ふたたびランセット誌のウェブサイトに公開された。
https://www.theguardian.com/science/2020/may/28/questions-raised-over-hydroxychloroquine-study-which-caused-who-to-halt-trials-for-covid-19
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0140673620312496?via%3Dihub
 

ランセット論文への公開質問状

 
 しかし、世界の研究者の疑念が、これで収まることはなかった。『ザ・ガーディアン』紙が論文の問題を指摘したのとおなじ5月28日、世界中の研究者・臨床医・統計学者201人が共同署名をした、論文著者らとランセット編集長にあてた公開質問状がウェブ上で公表された。
https://zenodo.org/record/3871094#.YSQU-Y4zalG
 
 「(論文の)統計的解析とデータの正当性(integrity)に対する懸念」と題する質問状は、論文に対して10点の疑念を呈し、3点の要求をしている。いくつか紹介しよう。

・データとデータ解析のプログラムを、外部の研究者と共有しないと著者らは述べている。しかしこれは、データや解析プログラムを開示するという最近の標準的な実践を遵守していない。
・研究の倫理性に対する、第三者の検証(倫理委員会による承認など)が行われていない。
・アフリカ全体のCoivd-19患者の25%、死亡例の40%が、著者らが使用したデータベースに登録されていることになる。しかし、電子カルテをもとにした著者らのような洗練されたデータベースが、アフリカでそこまで普及しているとは考えにくい。
・論文では、患者データの66%が、北米(米国・カナダ)由来としている。しかし、論文で報告されているヒドロキシクロロキンの平均投与量(1日596㎎)は、米国FDAの推奨量より100㎎も多い。

 3点の要求は、下記のとおりである。

・論文著者の1人が創立し、データベースを構築したSurgesphere社は、データの出所についての詳細を示すべきである。
・データ解析の妥当性を、第三者が検証すべきである。
・データの収集が法的にも倫理的にも適切に行われ、患者のプライバシーが尊重されているのかを、明らかにすべきである。

 公開質問状はさらに、ランセット編集部に対して、論文の審査を委託された外部の専門家のコメントや、論文が受理され、掲載にいたった経緯を、公開すべきだと求めている。
 

ニューイングランド論文に対する公開質問状

 
 ランセット論文に対する公開質問状の公表から5日後の6月2日には、ニューイングランド論文に対する公開質問状が、174人の共同署名とともにウェブで公表された。
https://zenodo.org/record/3871094#.YSQU-Y4zalG
 
 「(論文の)データの正当性(integrity)と結果に対する懸念」と題する質問状は、論文に対して5点の疑念を呈し、ランセット論文に対する質問状とおなじ3点の要求をしたうえで、論文の審査の経緯を公開するよう求めている。
 
 疑念のいくつかを紹介しよう。

・論文では、英国の7病院から706例の症例が、PCR検査で確認されたCovid-19の入院患者として、データベースに登録されている。論文の研究期間に、英国のCovid-19患者はロンドン周辺に集中していた。しかしこの時期、1つの病院でPCR検査により確認されたCovid-19患者が100例を超える病院は、存在しなかった。
・論文では、3月15日までにPCR検査で確認されたトルコの患者を346例登録している。しかし、トルコ保健省の統計では、3月18日までにPCR検査により確認されたCovid-19患者は、トルコ全国で191例にすぎない。論文が報告する症例数と矛盾している。

 

2誌による「懸念の表明」

 
 公開質問状が公開されたのと同日の2020年6月2日、NEJM編集長とランセット編集部が、それぞれの論文に対する「懸念の表明」(Expression of Concern)をオンライン公開した。「懸念の表明」は、すでに公開や出版済みの論文について、盗用・データ捏造・倫理的問題などの疑いが生じた場合に、一般の読者に注意をうながす目的で、論文を出版した専門誌の編集長や編集部が公表するものである。
 
 NEJM編集長は、「データが信頼できるものである証拠を示すよう、論文著者に求めている」と述べている。論文のテーマであったCovid-19患者におけるACE阻害薬とARBの安全性については、2020年5月1日にこの論文と同時にオンライン公開した、他の2つの論文を参照するよううながしている。
 
 いっぽうランセット編集部は、論文著者4人のうち、患者データベースを作成した企業の創設者以外の3人が、データの出所と信頼性に対する第三者の検証を依頼していることを伝え、その結果が近日中に明らかになる見込みであると述べたうえで、読者に注意を促している。
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMe2020822
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)31290-3/fulltext
 

著者らによる2論文の撤回

 
 2誌の編集部の「懸念の表明」からわずか2日後の2020年6月4日、論文著者自身による2つの論文の撤回(Retraction)の表明が、それぞれのジャーナルのサイトにオンライン公開された。じつに忙しいかぎりである。
 
 ランセット論文の撤回は、4人の著者のうち、データベース企業の創設者を除く3人が署名している。3人は、企業創設者の同意を得て、データの信頼性やデータの再解析について独立の第三者による調査を開始した。ところが、第三者検証委員会がデータベース企業から伝えられたのは、秘密保持に関する顧客(世界中の病院)との契約に違反するため、生データを入手したり、データの再解析のためにサーバーにアクセスしたりすることはできないとの回答だった。そのため第三者委員会は、独立の検証は不可能と判断し撤退した。第三者委員会からこのように報告された3人の著者は、データの真実性を保証することがもはや不可能であるため、論文の撤回を求めると表明した。
 
 いっぽうNEJM論文の撤回に関する著者らの編集部あて書簡は、より簡単に経緯を述べている。データベース企業の創設者を含む5人の著者全員が署名。著者らの述べるところでは、著者全員が生データにアクセスすることが不可能で、第三者にデータを提供することも不可能だった。生データの信頼性を検証することができないので、論文の撤回を求めると表明した。
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)31324-6/fulltext
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMc2021225
 

大胆な潔さ?

 
 論文著者らの論文撤回表明は、生データの存在と信頼性、第三者へのデータ開示について、ひじょうに慎重というか回りくどい表現をしている。表向きは、第三者(論文著者を含む)に対してデータを公開することが、データベース企業と、その顧客である世界中の病院との守秘義務に関する契約違反になるという理由を挙げている。
 
 とはいえ、もともとのNEJM論文の原文では、「著者全員が(中略)、提供されたデータの正確性と完全性を保証する」と述べている。また、ランセット論文の原文でも、4人の著者のうち、筆頭著者と責任著者(著者リストの最後に名前を挙げる著者)が、「すべてのデータに対して完全なアクセスがある」と明記している。
 
 当初の論文のこうした記述と、論文撤回時の著者らの記述は、矛盾している。
 
 これらの状況を考慮すると、もっともシンプルな想定は、以下のようになるだろう。

・ランセット論文の「6大陸の671の病院から登録された96,032人」、NEJM論文の「アジア・ヨーロッパ・北米の 169 病院の8,910人」という、PCR検査で確定診断されたCovid-19入院患者の高度に電子化されたデータベースは、そもそも最初から存在しなかった。
・架空の患者データベースが、実際に存在するかのようにして、データを捏造して論文を作成した。

 もちろん、データベースが実際に存在しないことを、公表された資料から証明するはできない。とはいえ、2020年5月1日にNEJM論文が公開、5月22日にランセット論文が公開、6月4日には著者自身が2論文を撤回と、わずか1か月たらずの短期間に、これだけのことが生じている。
 
 もしもデータベースが実際に存在し、データの収集、解析、論文作成に著者らが膨大なエネルギーをほんとうに費やしていたのであれば、これほど簡単に自分の論文を撤回してしまうことは、およそ常識からかけ離れた大胆な潔さ(?)としか、筆者には感じられない。
 

「だれを非難すべきか?」

 
 NEJM論文には著者が5人、ランセット論文には4人いる。このうち筆頭著者、第二著者、著者リストの最後に来る責任著者の3人は共通している。
 
 「だれを非難すべきか? サージスフェア(データベース会社)のコロナスキャンダルの中心にいる3人の学者」(Who‘s to blame? These three scientists are at the heart of the Surgisphere COVID-19 scandal)と題するニュース記事が、2020年6月8日の『サイエンス』誌のウェブ上で公開された。3人を論文スキャンダルの中心人物と見立て、それぞれの経歴を報じている。
 
 『サイエンス』は世界でもっとも有名な科学専門誌だが、まるでスキャンダル週刊誌のようなタイトルと論調だ。
 
 3人の顔写真が大きく掲載されている。2つの論文の筆頭著者は、冒頭で紹介したハーバード大学医学部教授のマンディープ・メーラ(Mandeep R. Mehra)氏。心臓移植などの心臓外科の世界的な大家と言われている。
 
 第二著者は、データベース企業であるサージスフェア社の創業者のサパン・デサイ(Sapan S Desai)氏。この人物が今回のスキャンダルの中心的存在らしい。2020年7月27の『ニューヨーク・タイムズ』の記事と合わせて、来歴を紹介しよう。
 
 デサイ氏は昨年41歳になったばかり。シカゴの高校に在学中にイリノイ大学の単位も取得し、19歳でイリノイ大学の学部を卒業。その後同大学の、医師資格と博士号を同時に取得できるコースに進み、27歳で医師免許と博士号を取得。その後デューク大学で血管外科の研修医を務め、その間に、MBAの学位を取得するとともに、サージスフェア社を創業。医学関連の出版事業などを手がけた。
 
 これらの履歴を見ると、若く優秀で野心的な医師兼・起業家をイメージする。しかし、かつての同僚の証言からは、別の人物像が浮かび上がる。たとえばデューク大学の研修医時代の上司や同僚は、患者の容態に対する氏の話は信用できず、患者の検査を指示したかなどを、すべて再確認する必要があった。氏の研修の継続を許可するかが問題となったが、結局は許可され、研修課程を修了した。
 
 その後は複数の職場を転々とした。2016年から外科医として勤務したシカゴの病院では、医療過誤の疑いで3件の訴訟を起こされているという。パンデミックが始まった2020年2月にこの病院を退職した。
 
 『ニューヨーク・タイムズ』の取材に対する氏の回答によれば、サージスフェア社は長年かけて、AIを駆使した病院データベースの構築に取り組み、45か国の1,200の病院から2億4000万件の患者の診療データを保有しているという。いっぽう2019年に退職した同社の元職員によれば、同社の顧客として患者情報を提供していた病院は1つだけだった。
 
 さて、3人のうちのもう1人である責任著者は、アミット・パテル(Amit Patel)氏。2論文に記載されている所属は、テネシー州ナッシュビルのHCA研究所(HCA Research Institute)なる施設。それ以前は、ユタ大学とマイアミ大学を基盤とし、ユタ大学では心臓外科教授と臨床再生医学と組織工学のディレクターの称号を名乗り、共著を含めて100編以上の論文を出版している。しかし、米国で最大の医学研究助成機関である米国国立衛生研究所(NIH)の記録によれば、氏がNIHの研究助成を受けた記録は存在しないという。
 
 氏は、第二著者の「デサイ医師と婚姻関係にある」と、本人がツイッターで述べているという。
https://www.sciencemag.org/news/2020/06/whos-blame-these-three-scientists-are-heart-surgisphere-covid-19-scandal
https://www.nytimes.com/2020/07/27/science/coronavirus-retracted-studies-data.html
 

けっきょくだれがどう動いたのか?

 
 どうにも面妖な話だが、もっとも蓋然性の高いストーリーは、こうなるだろう。
 
 野心的で上昇志向の強い第二著者のデサイ氏が、みずから創設したサージスフェア社の、実際には存在しない巨大な患者データベースを使ったことにしてデータを捏造し、2編の論文を作成。氏と「婚姻関係」にある責任著者のパテル氏の助力も得て、筆頭著者のメーラ氏に接近。メーラ氏を筆頭著者にすることを条件に、2つの論文の著者になってもらう協力をとりつける。
 
 論文原稿の投稿を受けたNEJMとランセットの編集部は、ハーバード大学教授として世評の高いメーラ氏が筆頭著者だったため無碍に扱うことはなく、外部の専門家に評価(査読)を依頼した。査読者も、メーラ氏が筆頭著者であることと、巨大なデータベースの構築の困難さに対する理解をおそらく欠いていたため、データベースがほんとうに存在するのか疑うこともなく、論文原稿に対して好意的なコメントを編集部に戻す。2つの論文が扱うテーマは、Covid-19の診療にあたる臨床医にとってきわめて重要な内容であるため、2誌の編集部は論文を採択し、急いでオンライン公開をした。こんなところだろう。
 

2誌の特徴を理解して投稿

 
 著者らが2つの論文を投稿するにあたり、NEJMとランセットという専門誌のそれぞれの特徴をよく理解して、どちらに投稿するかを決めたはずだと、筆者は理解している。その選択の巧妙さ(?)についても、コメントしておこう。
 
 ランセット誌は、研究の質は多少見劣りがしても、一般社会にも衝撃を与えるような、いわばジャーナリスティックな論文を掲載する傾向が、比較的強い。抗マラリア薬であるヒドロキシクロロキンのCovid-19に対する有効性については、トランプ前大統領を筆頭に熱狂的な信奉者が存在する反面、懐疑的な専門家も多かった。
 
 そうした文脈で、ヒドロキシクロロキンはCovid-19入院患者に対して有効どころか有害であることを示した今回の論文は、ヒドロキシクロロキンの信奉者にとって大きな打撃となる。世界中が衝撃を受けて、一般のマスコミもさかんに報道するだろう。ランセット誌の編集部がこの論文を採択して公表した際、こうした予測と計算が働いていたことはほとんど疑いがない。
 
 いっぽうNEJMは、ジャーナリスティックな論文を意図的に優先する傾向は、ランセットほど強くないと筆者は感じている。今回の論文も、広く使われている血圧降下薬であるACE阻害薬やARBはCovid-19患者に悪影響を与えないという結果だ。これらの薬剤を患者に処方している医師が、急いで処方を中止する必要はないことを示唆する、穏便な内容の論文といえる。
 
 しかも、撤回された今回の論文1編だけではなく、他の研究者による2編の論文と合わせて公表している。これらの論文を、世界のマスメディアが衝撃的な内容として大きく報道することはないが、現場の臨床医にとってはきわめて重要で安心感を与える研究だ。
 
 両誌のこうした特性をよく理解したうえで、穏便な論文はNEJMに投稿し、衝撃的な論文はランセットに投稿したのは、撤回論文を投稿したグループの意図的な判断と選択の結果だろう。よく考えたものだと、言えなくもない。
 
 なお、ランセット論文の公開後に中断されていたWHOによるヒドロキシクロロキン等のランダム化比較対照試験はその後再開されたものの、中間解析でヒドロキシクロロキンの有効性は認められず、2020年7月4日に投与が中止されている。これらの結果は、NEJMで2020年12月2日にオンライン版が公開、2021年2月21日にプリント版が掲載されている。Covid-19入院患者の28日間死亡率は、ヒドロキシクロロキン投与群が11.0%(104/947例)、比較群が9.3 %(84/906例)で、投与群の死亡リスクの低下を認めないという結果だった(死亡率比 1.19、 95%信頼区間 0.89―1.59、 P=0.23)。
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/nejmoa2023184
 

イベルメクチン――削除された第三の論文

 
 さて、話はこれで終わらない。
 
 この3人を含む著者らは、Covid-19患者に対するイベルメクチン(抗寄生虫薬)の有効性を示した論文も公開していた。ただし、NEJMやランセットのような、外部の専門家による審査を経て公開される専門誌ではない。第三者による審査を経ずに、研究者が自由に投稿し公表できる「プレプリント・サーバー」(pre-print server)と呼ばれるウェブ上のプラットフォームに投稿し、そのままオンライン公開された。この論文も現在は削除されている。削除される前の論文を批判し、論文を保存し、経緯を解説しているスペインの研究者のブログ記事と、保存された論文の現物を参考に、概略をまとめよう。
https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3580524
https://www.isglobal.org/en/healthisglobal/-/custom-blog-portlet/ivermectin-and-covid-19-how-a-flawed-database-shaped-the-covid-19-response-of-several-latin-american-countries/2877257/0
 
 論文の最初のヴァージョンは、2020年4月6日に投稿・公開された。NEJMやランセットとおなじ患者データベースを用いている。アジア・ヨーロッパ・アフリカ・北米・南米の5大陸の169の病院で、2020年1月1日から3月1日の期間にCovid-19と診断され、人工呼吸器を装着された重症患者1,970人を対象とした。このうち52例がイベルメクチンの投与を受け、1,918例は投与を受けなかった。投与群の死亡率は7.7%で、非投与群の18.6%よりはるかに低く、投与群の死亡リスクは非投与群より82%低下するという結果だった(ハザード比 0.18、95%信頼区間 0.07―0.48、ログランク検定 P<0.001)。  
 この論文には、アフリカ大陸の患者でイベルメクチンの投与を受けた患者が3例含まれている。ところが、2020年3月1日の時点で、アフリカ大陸全体でCovid-19が確認されたのは2例にすぎなかった。
 
 この点をスペインの研究者が著者らに指摘したところ、最初のヴァージョンの論文は削除され、第2のヴァージョンが4月19日に投稿・公開された。アジア・ヨーロッパ・北米の3大陸(第1ヴァージョンは5大陸)の169の病院で(第1ヴァージョンと同数)、2020年1月1日から3月1日の期間にCovid-19と診断された入院患者のうち、イベルメクチンの投与を受けた704例と、投与を受けなかった704例(投与群と性別・年齢・重症度などの特性をマッチさせて揃えた)を対象にした。投与群の院内死亡率は1.4%で、非投与群の8.5%よりはるかに低く、投与群の院内死亡リスクは非投与群より80%低下するという結果だった(ハザード比 0.20、95%信頼区間 0.11―0.37、P<0.0001)。  
 この論文に対してスペインの研究者は、本文で報告されている数値と、図に表示されている数値のあいだに不一致がある点などを指摘している(院内死亡率が、本文では投与群が1.4%、非投与群が8.5%に対して、図1では投与群が約0.1%、非投与群が約1%)。
 
 ところが、これらの論文の結果を根拠として、ペルーの保健省はCovid-19の治療薬としてイベルメクチンを推奨し、ボリビアの保健当局は35万回分を無料で配布したという。
 

もうひとつのイベルメクチン論文の撤回

 
 最近、プレプリント・サーバーの編集部が撤回した、もう1つのイベルメクチンの論文について、『ネイチャー』2021年8月2日の記事と、論文の現物を参照しながら、簡単に触れておく。
 
 この投稿論文の第1版は、2020年11月13日にエジプトの研究者がプレプリント・サーバーの1つであるResearch Squareに投稿し公開された。有症状のCovid-19患者400人を100人ずつランダムに4グループに分け、未感染の医療従事者または感染者の接触者200人を100人ずつ2グループに分けた。
 
 4グループの患者の死亡率は、イベルメクチンの投与を受けた2グループが1%(2/200例)、イベルメクチンの代わりにヒドロキシクロロキンの投与を受けた2グループが12%(24/200例)だった(P<0.001)。つまり、イベルメクチンを投与した場合は、ヒドロキシクロロキンを投与した場合と比べて、死亡率が0.08倍と低く(1%/12%)、死亡リスクが92%低下(1-0.08=0.92=92%)するという、劇的な効果を示す結果だった。  
 この論文に疑念が生じた発端は、ロンドン大学の修士の学生が、授業の課題でこの論文を読んだところ、他の論文と同一の表現が複数あることを見つけたことだ。この学生から連絡を受けた、科学論文の不正を専門とする研究者グループがさらに調査したところ、患者データの重複、生データと論文報告データの不一致、研究の開始前に死亡している患者の存在などの不審点が見つかった。
 
 研究グループの報告を受けたプレプリント・サーバーは、2021年7月14日に「編集者の付記」を論文の冒頭に掲載し、論文を撤回して、正式な調査を行うと表明した。論文の著者であるエジプトの研究者は、プレプリント・サーバー編集部が撤回する前に連絡を受けなかったと、『ネイチャー』誌の取材に答えている。
https://www.researchsquare.com/article/rs-100956/v3
https://www.nature.com/articles/d41586-021-02081-w
 

イベルメクチン、米国医師会のプレスリリース

 
 イベルメクチンに関する最近の状況に触れておこう。
 
 2021年9月1日、米国医師会・米国薬剤師会などの専門家3団体はプレスリリースを公表し、臨床試験の参加者以外のCovid-19患者に対するイベルメクチンの処方・販売・服用を、ただちに中止するよう警告している。プレスリリースによれば、イベルメクチンの処方と販売はパンデミック前の25倍に増加し、とくにこの数か月で増加が著しい。
 
 いっぽう、イベルメクチンに起因する薬物中毒センターへの連絡はパンデミック前の5倍に増加し、吐気・嘔吐・下痢・血圧低下・意識水準の低下・錯乱・幻覚・痙攣・昏睡・死亡などの事例が報告されているという。
https://www.ashp.org/News/2021/09/01/ama-apha-ashp-call-for-end-to-ivermectin-to-prevent-or-treat-covid-19
 

注目と名声を求めて?

 
 NEJMとランセットという、世界の臨床医学を代表する2誌から論文が撤回されるという、「コロナ時代の最初の巨大な研究スキャンダル」について解説した。この事件によって、2誌の威信が大きく損なわれたのは否定しがたい。その反面、外部の専門家に論文の審査を依頼し、その厳しさは他誌をはるかに凌ぐはずの2誌でさえ、審査のプロセスで論文の不自然な点に気づけず採択と公開に至ったことに、問題の難しさが表れているともいえる。
 
 というのも、論文を審査する外部の専門家は、論文の重要性や革新性を評価することが任務であり、論文の不正を発見することが仕事ではないからだ。かりに論文を投稿する側が確信犯で、実際には存在しないデータをゼロから捏造してもっともらしく記述した場合、審査の網の目を潜り抜けるのを完全に防止することは困難だろう。
 
 後半で紹介したイベルメクチンの2編の論文は、外部の専門家の審査を受けるプロセスを経ずに、著者が自由に論文を投稿し公開されるプレプリント・サーバーのシステムを利用している。この場合、論文の不正や不適正の存在を第三者が発見するのは、ほぼ不可能だ。不審の疑いが生じ撤回に至った2つの論文は、むしろ例外的なケースといえる。新型コロナウイルス感染症の治療法に世界中が関心を寄せている現在、注目と名声を求めて不適切なプレプリント論文を投稿し公表する研究者も少なくないと、想定しておいたほうが現実的だろう。
 
 デサイ氏ら3人のイベルメクチンのプレプリント論文を検証したスペインの研究者は、「パンデミックの時であっても、科学的な厳格さが必要とされる」(scientific rigor is needed, even in pandemic times.)と、ブログ記事を結んでいる。
 
 それはそうだろう。とはいえ、世界中の無数の人々の生命と健康がかかっている以上、むしろ「パンデミックの時こそ」、科学的な厳格さが必要とされるのではないだろうか。緊急性と科学性の両立という、この課題を実現したランダム化比較対照試験を、次回は紹介しよう。
 
 
「なぜこんなことに?」と思うケースは、世界中が駆り立てられている状況だからこそ起こるのかもしれません。「パンデミック時であっても」から、「パンデミック時こそ」という切り替えを求める指摘が胸に残ります。[編集部]
 


 
 
》》》バックナンバー
第1回 感染と情報の爆発
第2回 パンデミックの転換点を、300語で読む――ファイザー社ワクチンのランダム化比較対照試験①
第3回 「重症化」予防がワクチンの目的か︖――ファイザー社ワクチンのランダム化比較対照試験②
第4回 ランダム化比較対照試験の理論――ランダム化・バッドラック・エクイポイズ
第5回 リアルワールドエビデンスの「マジック」――ファイザー社ワクチンの後向きコホート研究
第6回 Covid-19ワクチンによる「発症」予防と「感染」予防――ファイザー社とモデルナ社のmRNAワクチンの前向きコホート研究
第7回 急速に蔓延する変異株と、どうたたかうか――デルタ株に対するファイザー社ワクチンの症例対照研究
第8回 コロナ時代の最初の巨大な研究スキャンダル――血圧降下薬・ヒドロキシクロロキン・イベルメクチンの死亡リスクの後向きコホート研究
 
 

坪野吉孝

About The Author

つぼの・よしたか  医師・博士(医学)。1962年東京生。1989年東北大学医学部卒業。国立がん研究センター、ハーバード大学公衆衛生大学院などを経て、2004年東北大学大学院教授(医学系研究科臨床疫学分野・法学研究科公共政策大学院)。2011年より精神科臨床医。2020年、厚生労働省参与(新型コロナウィルス感染症対策本部クラスター対策班)。現在、東北大学大学院客員教授(医学系研究科微生物学分野・歯学研究科国際歯科保健学分野・法学研究科公共政策大学院)および早稲田大学大学院客員教授(政治学研究科)。専門は疫学・健康政策。