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あとがきたちよみ
『疫学』

 
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坪野吉孝 著
『疫学 新型コロナ論文で学ぶ基礎と応用』

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※けいそうビブリオフィル連載はこちら→《コロナ時代の疫学レビュー》

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まえがき
 
 本書は、世界でもっとも影響力の強い医学専門誌である『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』(The New England Journal of Medicine; NEJM)に掲載された、新型コロナウイルス感染症(Covid-19)の疫学論文を題材として、疫学の概念と方法を基礎から応用まで解説する試みである。
 本書は、「基礎編」と「応用編」の2 部で構成される。以下、それぞれの概略とねらいを説明する。
 
第Ⅰ部・基礎編について
 「基礎編」では、健康や医療における「因果関係を評価する方法論」としての疫学に焦点をあて、全体を一貫するロジックが見渡せるように解説した。
 「喫煙はCovid-19 の重症化因子か?」という問いは、言い方を変えれば、Covid-19 患者では、それまでの「喫煙」が「原因」となって、「Covid-19 の重症化」という「結果」が生ずるのか、つまり、「喫煙」と「Covid-19 の重症化」とのあいだに因果関係があるか、という問いである。また、「ワクチンはCovid-19 発症の予防に有効か?」という問いは、健康人では、「ワクチン」接種が「原因」となって、「Covid-19 発症の予防」という「結果」が生ずるのか、つまり、「ワクチン」接種と「Covid-19 発症の予防」とのあいだに因果関係があるか、という問いである。
 健康や医療における因果関係を評価することは、一見すると単純で簡単な話に思える。しかし実際には、理論的にも調査の実務的にも、ひじょうに複雑で困難な話である。因果関係が存在するという判断のさまたげになる要因が、理論的にも実務的にもたくさん存在するからである。因果関係の有無や程度を適切に評価することは、疫学におけるもっとも重要な課題である。歴史的にも、健康や医療における因果関係を評価するための概念や方法論を提供してきたことが、疫学の最大の貢献といえる。
 そこで「基礎編」では、疫学のさまざまな概念や方法が、因果関係の評価というひとつの目的を達成するうえで、どのような役割を果たしているかを論理的に理解できるよう、記述を試みた。具体的には、「発生率」「リスク比」などの数値指標と、「偶然」「バイアス」「交絡」などの概念と、「ランダム化比較対照試験」や「症例対照研究」などの研究方法を、おたがいバラバラのものとして説明するのではなく、因果関係の評価という目的を遂行するための、論理的に一貫したアプローチであることがわかるように説明した。図表を多数示すいっぽう、加減乗除を超える数式は示さず、概念や方法の基礎にあるイメージが伝わるように記述した。
 
第Ⅱ部・応用編について
 「応用編」では、NEJM に掲載されたCovid-19 に関する疫学論文を6 件取り上げ、論文の概要、意義、および限界を解説した。
 「基礎編」を読まなくても論文解説を読めるよう、疫学用語は基本的に使わずに説明し、必要な場合にはそのつど簡単に解説した。Covid-19 をめぐる世界の研究動向に関心のある読者は、「基礎編」を飛ばして、「応用編」から読んでいただきたい。
 「応用編」で取り上げた6 件の論文の内訳は、ワクチンに関する研究が4 件、治療薬に関する研究が2 件である。いずれも、「世界で初めての科学的知見」を報告した論文といえる。これらの論文の結果がワクチン接種や患者治療の現場に取り入れられることで、「世界を変えた論文」である。また、本書の「基礎編」や、通常の疫学の入門書には記載されていない、新しい方法論がいくつも採用されている。これらの新しい方法論についても、「基礎編」の予備知識がなくても理解できるよう、そのつど説明した。
 6 件の研究は、Covid-19 の予防と治療の「世界を変えた論文」であると同時に、疫学の最新の方法論を用いた「高度の疫学論文」でもある。そこでこれら6 件の論文解説を、「応用編」として位置づけた。
 
第Ⅱ部・応用編のワクチン論文
 ここからは予告編として、「応用編」の6 件の論文について、Covid-19 の予防と治療における内容上の意義と、高度の疫学研究としての特徴について、かんたんに紹介する。
 ワクチンに関する4 件の論文は、公表された時期が早いものから順番に並べている。先行の研究で未解明だった部分が、後続の研究で明らかにされるという、研究の発展のダイナミズムが理解できるだろう。また、4 件の論文は、それぞれ異なる研究方法―「基礎編」で解説する「研究デザイン」―を採用している。それぞれの論文が明らかにすべき固有の問いに答えを出すためには、その研究方法が最善であり、必然でもあることがわかるだろう。
 
 Ⅱ-1 では、ファイザー社のmRNA ワクチンに関する、約4 万人のランダム化比較対照試験を紹介する。新規の医薬品を評価する研究としての臨床試験という「理想的な状況における有効性」(efficacy)を、世界で初めて明らかにした。
 
 Ⅱ-2 は、ファイザー社mRNA ワクチンの全国的な集団接種を世界に先駆けて行ったイスラエルの後向きコホート研究である。集団接種という「実際的な状況における有効性」(effectiveness)を、世界で初めて明らかにした。
 上記のファイザー社の臨床試験では、「有症状のCovid-19」に対するワクチンの有効性しかわからなかった。そこでこの研究では、約120 万人の大規模なデータを用いて、「有症状のCovid-19」だけではなく、「Covid-19 による入院」「重症のCovid-19」「Covid-19 による死亡」に対するワクチンの有効性を明らかにした。
 この論文の方法論の特徴として、「ランダム化比較対照試験の模倣(emulation)としての観察研究」という、最新の方法論が全面的に研究に取り入れられている。
 
 Ⅱ-3 は、新型コロナウイルスの「感染」に対するファイザー社とモデルナ社のmRNA ワクチンの有効性を調べた前向きコホート研究を取り上げた。上記2 件の論文では、「有症状」や「入院」「重症」「死亡」など、Covid-19 の「発症」に対するワクチンの有効性しかわからなかった。
 そこでこの研究では、約4,000 人の対象者に、症状の有無にかかわらず定期的なPCR 検査を行うことで、Covid-19 の「発症」ではなく、無症状も含めた「感染」に対するワクチンの有効性を明らかにした。
 この研究の方法論の特徴として、「処置の傾向性の逆数による重みづけ」(inverse propensity of treatment weighting)という手法を用いた、ワクチン接種群と未接種群の特性の差の補正が行われている。
 
 Ⅱ-4 では、デルタ株に対するファイザー社とアストラゼネカ社のワクチンの有効性を調べた症例対照研究を扱った。上記3 件の論文では、従来株に対するワクチンの有効性しかわからなかった。感染ウイルスが従来株かデルタ株かを精確に知るには、ウイルスの遺伝子解析が必要だが、十分な解析を実施しているのは英国など一部の国のみだった。そこで英国の約18 万人を対象に研究を行い、デルタ株に対するワクチンの有効性を、世界で初めて明らかにした。
 この研究の方法論の特徴として、症例対照研究のなかでも「検査陰性デザイン」(test-negative design)という最近の手法が用いられている。
 
応用編の治療薬の論文
 つぎに2 件の治療薬に関する論文の概略を紹介する。Covid-19 の流行の初期には、患者をどのように治療すればよいかわからず、新型コロナウイルスに特異的な治療もまだ開発されていなかった。そのため世界の研究者は、他の疾患の治療薬として使われていた既存の薬剤について、Covid-19 に対する有効性と安全性を評価する研究を、つぎつぎと実施した。ただし、研究の中には、質の高いものもあれば、問いに対する答えが出ないことが事前にわかるような質の低いものも、さらにはデータの信頼性に疑問が呈されるものもあり、混沌とした状況だった。
 本書で取り上げた治療に関する2 件の研究は、いずれもNEJM に掲載されたCovid-19 治療の論文であるが、こうした世界的な試行錯誤と混乱について、もっともつよい「影」の部分と「光」の部分を反映したものである。
 
 Ⅱ-5 は、「コロナ時代の最初の巨大な研究スキャンダル」と呼ばれる論文の解説である。パンデミックの初期、一部の血圧降下薬を服用している患者がCovid-19 にかかると、死亡などの重症化リスクが高まるという懸念があった。国際的な大規模患者データベースを活用したと称するこの後向きコホート研究では、Covid-19 入院患者がこれらの血圧降下薬を服用していても死亡リスクは高くならないという、医療者や患者を安堵させる結果だった。ところが、論文のもとになった患者データベースの存在や信頼性に疑問が投げかけられ、論文公表からわずか1 か月足らずで、著者ら自身が論文を撤回する事態にいたった。
 この研究グループは、NEJM に次いで影響力の強い医学専門誌である『ランセット』(The Lancet)にも、おなじデータベースを用いた研究と称して、抗マラリア薬のヒドロキシクロロキンを服用したCovid-19 入院患者では、死亡率と不整脈の発生率が高まるという論文を発表し、世界の研究者に衝撃を与えた。さらに、抗寄生虫薬であるイベルメクチンの服用により、Covid-19 入院患者の死亡率が大幅に下がるという論文もウェブ上で公開していた。これら2 件の論文も、著者自身がその後撤回し、一連のスキャンダルに発展した。
 
 Ⅱ-6 は、副腎皮質ホルモンの一種であるデキサメタゾンの投与により、呼吸補助が必要な重症のCovid-19 入院患者の死亡率が下がることを示したランダム化比較試験である。英国の176 の病院が協力して約6,000 人の入院患者を登録し、共通の研究計画に基づき統一的に臨床試験を実施した。パンデミックの初期の2020 年3 月に研究が開始され、100 日も経ない同年6 月には、世界のどの病院にもある安価な薬剤であるデキサメタゾンの有効性を示す予備的報告が公表され、すぐに世界の臨床現場で使われるようになった。
 パンデミックという緊急時には、科学性を重視する臨床試験を行うことは不可能かつ不適切であり、可能性のある治療はなんでも試みることが、むしろ倫理的であるという主張が見受けられる。しかしこの研究は、パンデミックの時こそ、科学性と緊急性を両立させた研究を行うことが必要であり、またそれが可能であることを、事実をもって示した。
 この研究の方法論の特徴として、「マスタープロトコルを用いたプラットフォーム試験」という方法が採用されている。
 
無数の人々の生命を救う疫学研究
 新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延とたたかうために、これまでの教科書を書き換えるような量と質の疫学研究が行われてきた。これらの研究を通して明らかにされた知見を、予防と治療の現場に応用することを通して、世界の無数の人々の生命が救われ、健康が守られてきたのである。
 データと論理と知性の力によって大きな貢献を果たしてきた疫学の基礎を理解し、今回のパンデミックで応用された疫学研究の成果と課題を知り、つぎの世界的な健康危機に備える。こうした関心を持つ方々が、本書を手にしてくださることを願ってやまない。
 
 
あとがき
 
 本書では、世界でもっとも影響力の強い医学専門誌である『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』(The New England Journal of Medicine; NEJM)に掲載された、新型コロナウイルス感染症(Covid-19)の疫学論文を題材として、疫学の概念と方法を基礎から応用まで解説することを試みた。
 いわば、「新型コロナ」「NEJM 論文」「疫学の教科書」の三題噺である。この三題を組み合わせて本を書くにいたった経緯について、触れておきたい。
 
 第1 の「新型コロナ」について。史上初の緊急事態宣言が発出された2020年4 月から5 月末にかけて、厚生労働省の参与として、同省内に設置されたクラスター対策班に勤務した。クラスター対策の指揮を執る押谷仁教授(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野)は学生時代の先輩で、緊急事態宣言が発出される前日の4 月6 日に、とつぜん電話で依頼をうけた。
 仙台市の自宅を離れ、東京駅近くのホテルに泊まり、厚労省に通う毎日。宣言発出後の最初の週末、ホテルから銀座三越をへて歌舞伎座まで往復した。ふだんなら歩行者天国で賑わう銀座の街は、人影まばらだった。ただならぬことが起こっていると、肌で感じた時間だった。
 第2 の「NEJM 論文」についていえば、NEJM 日本国内版の監修を、20 年来続けている。週刊の同誌に掲載される英語論文の抄録(要約)を、翻訳会社が下訳し、その確認と修正をするのがおもな仕事だ。原文の誤りを見つけて、ボストンのNEJM 編集部に担当者が連絡し、原文が修正されることもある。
 2020 年のはじめから、同誌に掲載されるCovid-19 関連の論文が急増しはじめた。その大半は、毎週の印刷版に掲載される前に、同誌ウェブサイトでオンライン公開された。論文数が多すぎて、通常の長さの原著論文(original article)の形式では対応しきれなくなったため、読者から編集部への書簡(correspondence)という短い形式で、重要な知見が毎日のように公開されるようになった。筆者の仕事も、毎週の定期版に掲載される論文の抄録の確認にくわえて、随時オンラインで公表される論文や書簡を確認する作業が追加された。
 全体的な研究状況を理解するのに、『ネイチャー』『サイエンス』など他の専門誌に掲載される論文も見ておく必要がある。そのため、Covid-19 関連の論文を、明けても暮れても読み続ける生活になった。
 第3 の「疫学の教科書」については、疫学の概念や方法の説明と、具体的な論文の解説を組み合わせた本を作るという構想を、勁草書房編集部の鈴木クニエさんに考えていただいてから、10 年が過ぎていた。2013 年11 月2 日から4日の3 日間、鈴木さんらに仙台にいらしていただいた。このときに講義のようなかたちで私が話したものを録音し、文字起こしをした草稿が、本書の「基礎編」の原型になっている。
 20 年来のNEJM 日本国内版の監修、10 年来の疫学の教科書の構想、昨年からのパンデミック。この三つが組み合わさり、ようやく一書にまとまった次第である。
 本書を構成する各章の初出だが、「基礎編」は上記のように書き下ろしである。「応用編」の論文解説は、勁草書房の編集部ウェブサイト「けいそうビブリオフィル」に「コロナ時代の疫学レビュー」として連載した記事(2021 年6月29 日から10 月5 日まで9 回)に手を入れた。
 
 本書の刊行にあたり、お世話になった方々への謝辞を記すことをお許しいただきたい。
 押谷仁先生(東北大学大学院医学系研究科微生物学分野教授)。10 年に1 回、とつぜん電話をいただくのはいつも通りでしたが、クラスター対策班にお声がけいただき、現場の状況を経験させていただきました。欧米の論文を読んでいてもわからない、新型コロナウイルスの感染の動態について、具体的な感覚を得ることができました。「夜の街」を感染拡大の要所として明らかにするとともに、そこで働く方々の苦難や困窮に思いをはせ、感染対策とおなじ重みで、感染者への差別や偏見を防ぐ対策を模索される姿勢から、学ばせていただきました。
 北村聖先生(東京大学名誉教授・公益社団法人地域医療振興協会シニアアドバイザー)。20 年にわたり、先生が手がけられるNEJM 日本国内版の監修のお手伝いをさせていただきました。この仕事を通して、世界の医学研究の最先端に触れ続けることができたことは、なによりも得がたい勉強の機会となりました。暑気払いと新年会にお招きいただいて上京し、先生の行きつけの寿司屋でお話をうかがうのが楽しみでした。感染状況が落ち着き、再開されることを願っています。
 青柳三樹男さん、星野仙さん、原隆次さん、小山智子さん、山岸広美さん、河村夏帆さん(株式会社南江堂洋書部)。NEJM 日本国内版の監修の実務で、お世話になりました。毎日のようなメールのやりとりのなかで、ひとつの英単語の解釈と日本語訳をめぐり、議論を重ねてきました。論文を読み評価する力をつける、日々のトレーニングとなっています。
 西本侑加さん(東北大学大学院医学系研究科博士課程)。図表の作成、本文の確認、引用文献リストの作成など、お手伝いいただきました。
 鈴木クニエさん(株式会社勁草書房編集部)。基礎編の草稿を文字起こししていただき、応用編の原稿を「けいそうビブリオフィル」で連載することをご提案いただきました。構想10 年、中断数回、執筆5 か月という変則な経過をたどりましたが、長年にわたる励ましとご助言を続けていただいたおかげで、ようやく一冊の形にまとめることができました。
 みなさま、ありがとうございました。
 
2021 年10 月
全国の緊急事態宣言が解除された仙台にて
坪野吉孝
 
 
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