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田村善之・山根崇邦 編著
『知財のフロンティア 第1巻 学際的研究の現在と未来』
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はしがき
知的財産法は学際的な研究を必要としている.
長きにわたって研究を続けるなかでその思いはますます深くなるばかりである.
第一に,知的財産権を守るべきなのか,守るとしてそれはなぜなのか,という根本のところから議論がある.
ここでかりに,知的財産権は正義の問題として当然に守らなければならないのだと割り切ることができたのであれば(たとえば,本書の第1 編の諸論文で検討対象とされているマージェス『知財の正義』(勁草書房,2017 年)は,その代表例である),少しは肩の荷が下りたかもしれない.しかし,私には,こうした主張に相応の説得力があることを認めつつも,この論拠だけで,他者の行動の自由を規制する知的財産権を正当化することは困難なように思われた.
他方で,同じく正義の問題として知的財産権を設けてはいけないということになったのであれば,話は楽になったであろう(とはいえ,知的財産法の研究にいま私が感じている面白さを奪われるという別の問題に直面することになるが).しかし,幸か不幸か,正義論だと,むしろ,知的財産の創作が刺激され,人々がより幸福になるのであれば,知的財産権を保護してもよいのではないか,少なくともそのような制度の選択をなすことを正義は止めはしない,という結論が得られることがしばしばあり,それが私の以前からの構想と合致していた.
第二に,そうなると,はたして知的財産権によって創作が相応に刺激され,皆がより幸福になるのか,経済学の言葉を借りれば社会がより効率的になるのか,ということが肝要となるのだが,これがまたよく分からないのである.まったくそのようなことはない,むしろ知的財産権によって社会はより非効率になるということが確実であれば,それはそれで話は簡単になるのだが,ご多分に漏れず,どうも,それは場合により,どのような場合に効率的となるのかということは確実には分からないことのほうが多いようなのである.
第三に,そうすると,知的財産法の正当化は,うまくいかないとも決まっていないので,うまくいくほうに賭けてみようかということが正統な手続きで決定されたことに求めるほかない.その代表例は立法に体現される民主的な決定であるが,しかし,これでもまだ問題が尽きないのである.集合行為論によれば,政策形成過程には少数の者に集中した組織化されやすい利益は反映されやすいが,逆に多数の者に拡散し組織化されにくい個々的には小さな利益(しかし合算すると少数の者に集中した利益の集合よりも大きくなるかもしれない利益)は反映されにくいという(少数派バイアスの問題).それが真実であるならば,知的財産権は,法により特定少数の者に多数の者の行為を規制する権利を与える制度なのだから,この少数派バイアスが妥当する典型例となる.実際,私の目には国内外の知的財産権制度の強化の歴史が,この懸念が杞憂ではないことを物語っているように見える.
立法による民主的な決定に対して,自由の砦を築くのは憲法という楯を擁する司法の役割であるが,伝統的な二重の基準論(表現の自由が機能している分には民主制がうまく回っていくのだから,表現の自由の規制に対する違憲審査は厳格にすべき反面,経済的自由の規制に対する違憲審査は緩くてよいとする基準)は,民主的な決定が機能していることを前提としているように思われ,政策形成過程のバイアス問題を抱える知的財産権の場面では物足りなさを覚えてしまう.そもそも,憲法自体,立法の産物なのだから,バイアス問題と取り組む必要から免れているわけではないはずである.
第四に,他方で,社会心理学や行動経済学は,人々が必ずしも利己的に行動するわけではなく,利他的に行動する場合も少なくないことを教えてくれる.知的財産権の政策決定の場面でも,特定少数者の利益のために皆さんの利益を犠牲にしてくださいなどという言説が声高に叫ばれるのであれば,人々の平等に対する意識を喚起し反発も増すから,通るものも通らなくなるだろう.
しかし,現実の政策形成過程では,そのようなあからさまな言説が用いられることはまれであり,むしろ,知的「財産」なのだから守らなければならないのですよとか,それで創作が刺激されて皆が豊かになるのだからよいではないですかなどということが語られるのである.とりわけ,法の目的規定(「産業の発達」(特許法1 条),「文化の発展」(著作権法1 条)など)や条約の前文などの抽象的な規範ではそれが多いように見える.この理は,憲法にも妥当するように思われる.要するに,一口にバイアスの産物といっても,一律にどこもかしこも等しくバイアスがかかっているということでもない.ここから,特に,皆が豊かになるという類の目的を重視するというバイアスの影響下にある法特有の解釈の仕方や,憲法論の活用などへの道が開けるかもしれない.
第五に,ところで知的「財産」については,そもそもその内実が問題となる.
認知言語学は,人々が現実の世界を観察して解釈するときに,言語あるいはメタファに規定されていることを明らかにしている.そして,人々は他人の「財産」と聞くと,なにか自分からは切り離された,他人に帰属している存在として受け止める傾向があるように思われる.
しかし,知的財産権は,物理的に見れば,何人も自由になしうるはずの行動を,人工的に政府が主導する立法で規制することにより成立している制度なのだから,その実態は政府による規制にほかならない.知的「財産」というメタファはそうした実態に対する人々の意識を覆い隠す側面がある.ともすれば知的財産の研究者ですら,無自覚にそうした認知バイアスの下で議論をすることが少なくない.
この認知バイアスは,政策形成過程の少数派バイアスと同方向のバイアスである分,バイアス矯正という観点に鑑みるとやっかいな存在となる.その対策として,議論の際には,むしろ政策形成過程とは逆の認知バイアスを引き起こす「政府による行為規制」というメタファのほうがふさわしいのではないかという筆者の構想が生まれてくるわけである.
編者の一人である田村が著した『知財の理論』(有斐閣,2019 年),とりわけその最終章である「知的財産法学の課題─旅の途中─」は,以上略述した編者の問題意識を反映し,知的財産法学を超えた学際的な研究の必要性を訴えるものであった.これを読んだ,勁草書房の中東小百合さんに,編者の問題意識の下で学際的な研究者による知的財産制度の研究書を出してみませんかと声をかけていただいたのが,本書誕生のきっかけとなった.
こと学際的研究に関しては,本には,学術雑誌に掲載される論文にはない威力があるように思われる.私自身の経験でも,法学以外の分野の方が以前から知的財産絡みの業績を公表されているにもかかわらず,その存在に気付いたのが本になってからだということがしばしばあった.私が著した本をきっかけに私の存在に気付いてアプローチされた異分野の方も何人かいたことに鑑みると,その逆もまた真であるのかもしれない.結局のところ,書店に並ぶこと,市販されている書籍としてインターネット上に掲示されることの効果は思いのほか大きく,そこには,学術雑誌をインターネットに掲載し公衆にアクセスしうるようにしたとしても超えられない壁があるということなのだろう.
そのように考えていた私にとって,中東さんからいただいた企画は,渡りに舟というところがあった.知的財産法学の分野でも学際的研究に関心を有している方,知的財産法学以外の分野でも知的財産に関連する研究をなしている方が一堂に会し,それぞれの成果の一端を示してもらえれば,多様な分野の読者の関心を引きつけ,上に記した私のような体験が各所で生起するのではないか,それによって,知的財産法に関する学際的な交流はさらに進展するのではないかと考えたのである.
企画の実現に際しては,かねてから私の学際的研究のよき窓口となってくれている山根崇邦さんのご協力を得た.山根さんとも相談して,本書は各分野の状況をサーベイするような文書というよりは,むしろ,各自の研究の成果の一端を示してもらうような論文のほうが,学際的な交流の起爆剤という本書の目的に適うのではとないかと考えた.
幸い,本書は,知財法学者はもとより,法哲学者,憲法学者,情報法学者,民法学者,政治学者,文化人類学者,経済学者,実務家等,多数の執筆者の賛同を受け,各人の先端的な研究を,しかし他分野の読者を想定しながら,紙幅の都合のなかで簡潔に記していただいた論文集として完成するに至った.途中,中東さんの産休・育休を挟んで,勁草書房の鈴木クニエさん,永田悠一さんの下で,原稿のとりまとめや最終的な編集そして校正の作業が遂行された.本書にご協力いただいたすべての方に感謝の意を表したい.そして,このようにして成立した本書が,斯界の学際的な研究に資するところがあれば,編者としてこれに優る喜びはない.
田村善之
第1 章 蜘蛛の糸──『知財の哲学』『知財の理論』からみた『知財の正義』
田村善之
Ⅰ 序
本稿は,道徳的な義務論ないし権利論に基づいて知的財産権の正当化を試みたロバート・P・マージェスによるJustifying Intellectual Property(2011)(1)[以下,『知財の正義』]を批判的に検討することを目的とする.
方法論としては,『知財の正義』に先んじて知的財産を法哲学的に検討したピーター・ドラホスによるA Philosophy of Intellectual Property(1996)[以下,『知財の哲学』](2)と,筆者の『知財の理論』(3)[以下,『知財の理論』]との偏差において『知財の正義』の特徴を炙り出したうえで,『知財の正義』の規範的基盤の論理が一条の「蜘蛛の糸」によって支えられていることを明らかにするとともに,その蜘蛛の糸の頑健性(あるいは脆弱性)を検証し,それとは対照的な『知財の哲学』や『知財の理論』が目指す方向性(4)を示そうと思う.
Ⅱ 知的財産権の保護は正義の要請か
1 『 知財の正義』の特徴・その 1──知的財産権の必要性に関する決定論の採用
『知財の正義』の最大の特徴は,知的財産権の制度を採用するか否かは選択の問題であるとする『知財の哲学』『知財の理論』と異なり,知的財産権は保護しなければならないという命題が,正義論によって,いわば決定論的に導かれるという立場をとっていることである.
これは,『知財の正義』における著者のいわゆる「転向」に関わる(5).著者自身が従来は効率性に基づいて知的財産法が必要であると論じていたが,じつは知的財産権があったほうが人々の状況が改善するということを実証できないことを自覚していたことを告白したのである(6).それでは,知的財産権を正当化することは困難という結論に至るのかというと,そうではなく,『知財の正義』は,知的財産権を保護しなければならないことは,正義の要請するところである旨を説くにいたった(7).
そこで,以下では,ロック,カント,ロールズという三つの「第一次的な原理」(8)に依拠して展開する論証が,どの程度,功を奏しているのかということを検証する作業から,同書の検討に着手してみよう.
2 ロック
『知財の正義』は,ジョン・ロック『統治二論』(John Locke, Two Treatises of Government”)の次の一節に代表される所有権の正当化の理論が知的財産権にも妥当する旨を説く.たとえ,大地と,すべての下級の被造物とが万人の共有物であるとしても,人は誰でも,自分自身の身体に対する固有権(プロパティ)をもつ.これについては,本人以外の誰もいかなる権利ももたない.彼の身体の労働と手の働きとは,彼に固有のものであると言ってよい.したがって,自然が供給し,自然が残しておいたものから彼が取り出すものは何であれ,彼はそれに自分の労働を混合し,それに彼自身のものである何ものかを加えたのであって,そのことにより,それを彼自身の所有物とするのである.それは自然が設定した状態から彼によって取り出されたものであるから,それには,彼の労働によって,他人の共有権を排除する何かが付加されたことになる.(9)
『知財の正義』によると,ロックの理論は知的財産権の正当化と「相性」がよい(10),という.その主張の骨子は,以下の3 点にまとめることができよう(11).
第一に,ロックは,神によって,大地とそれが生み出す産物が万人に共有物として与えられたと理解しているが,この自然状態としての共有物は,知的財産権の世界ではパブリック・ドメインに対応している(12).
第二に,ロックによると,神が万人に共有物を与えた目的は人間の生存を維持し快適にするためにあったのだが,それを利用するためには専有する必要があり,万人の共有物であるからといって他の全員の同意がないと専有できないとするのでは,共有物が与えられた目的に反することになるという(13).この理は,情報の創出に権利を与えることで人類の繁栄を促進する知的財産権にも妥当する(14).(以下、本文つづく)
注
(1)邦訳として,ロバート・P・マージェス(山根崇邦=前田健=泉卓也訳)『知財の正義』(2017 年,勁草書房)[以下,マージェス『知財の正義』として引用する].
(2)邦訳として,Peter Drahos(山根崇邦訳)「A Philosophy of Intellectual Property(1)~(8)」知的財産法政策学研究34 号・35 号・36 号(ここまで2011 年)・37 号・38 号・39 号(ここまで2012 年)・42 号・43 号(ここまで2013 年)[以下,ドラホス『知財の哲学』として引用する].なお,マージェス『知財の正義』はドラホス『知財の哲学』を引用していない.
(3)田村善之『知財の理論』(2019 年,有斐閣)[以下,田村『知財の理論』として引用する].
(4)マージェス『知財の正義』を「リベラルな権利論の構想」,ドラホス『知財の哲学』を「懐疑的道具主義の構想」,田村『知財の理論』を「知的財産法政策学の構想」をそれぞれ提示すると位置づけるものとして,参照,山根崇邦「知的財産法は何のためにあるのか」前田健=金子敏哉=青木大也『図録知的財産法』(2021 年,弘文堂)7 頁.
(5)中山一郎「特許制度の正当化根拠をめぐる議論と実証研究の意義」特許研究60 号11 頁(2015 年).
(6)マージェス『知財の正義』3 頁.
(7)マージェス『知財の正義』4 頁.
(8)マージェス『知財の正義』17─18 頁.
(9)マージェス『知財の正義』42─43 頁によるJohn Locke, Two Treatises of Government, 287─288(Peter Laslett ed., 1988)(1698)の翻訳(参照,ジョン・ロック(加藤節訳)『完訳統治二論』(2010 年,岩波書店)326 頁)[以下,本書では用語の整合性を保つために,『知財の正義』に翻訳が掲載されているときは,原則として,『知財の正義』の翻訳を転載している.ただし,『知財の正義』の訳者は,既存の邦訳本を参照しているので(「訳者はしがき」マージェス『知財の正義』ⅶ頁),本書でも『知財の正義』が引用した訳書を「参照」として引用する].
(10)マージェス『知財の正義』39 頁.
(11)マージェス『知財の正義』86─87 頁も参照.
(12)マージェス『知財の正義』40, 44─45 頁.
(13)マージェス『知財の正義』42 頁.
(14)マージェス『知財の正義』48─49, 51 頁.