
憲法学の散歩道
第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
お待たせしました、「憲法学の散歩道」再開です。これまでの連載は書き下ろし2編を加えて『神と自然と憲法と――憲法学の散歩道』と題し、装い新たに単行本となります。来る11月15日発売、どうぞお楽しみに。[編集部]
ヘーゲルが1802年から1803年にかけて公表した論稿に、「自然法の学問的取扱い方について Über die wissenschaftliche Behandlungsarten des Naturrechts」*1がある。彼は1801年に、友人のシェリングの助けもあってイェナ大学に教職を得たばかりであった。
ヘーゲルがこの論稿で採り上げた論点の1つは、カントが『実践理性批判』(1788)で提示した定言命法の要請の妥当性である。カントは、冒頭の第1部第1章第7節「純粋実践理性の根本法則」で、次のように定言命法の要請を定式化している*2。
君の意思の格率が、つねに同時に普遍的法則を定立する原理として通用することができるように行為しなさい。
カントはこれに先立つ第4節「定理 3」で、次のように述べる*3。
理性的[存在]者たるものが、自分の格率を実践的な普遍的法則と考えなければならないとすれば、それを、内容に関してではなく、もっぱら形式に関して、意思を決定する根拠を含む原理として以外に考えることはできない。
カントが、定言命法の要請に反する、つまり普遍的法則としては成り立ち得ない格率の例として挙げるのは、「自分の資産をあらゆる確実な手段で増やすこと」である*4。この格率からすると、自分の手許に他人からの寄託物があり、その所有者は死亡していて、しかもその寄託物について何の遺言も残していない場合、それを横領しても構わないことになる。誰も気付く者はいない。
しかし、かりにこうした格率が普遍的法則として妥当しており、誰もがそれを承知しているとすると、誰も寄託をしようとはしなくなり、もはや寄託なるものが存在し得なくなる。つまりこの格率は、自己破壊的であり、普遍的法則としては妥当し得ない。
ヘーゲルは異議を唱える。カントは寄託を含む財産制度が存在すべきことを所与の前提としている。しかし、それは内容を捨象し、もっぱら形式に依拠して普遍的法則を探究するというカント自身の立てた要請に反している。財産制度が存在すべきことが前提であればカントの言う通りであるが、財産制度が存在しない事態も、普遍的法則として妥当し得ないわけではない。
カントが言っているのは、「財産制度があるのであれば、それが存在しなければならない」、「財産制度が存在しないのであれば、それはあるべきではない」というただのトートロジーである*5。
そもそも内容から完全に切り離された純粋な形式に依拠して普遍的道徳法則を定立することなど不可能である。たとえば、「貧者を援助しなければならない」という格率は、この格率が普遍的法則として実現されれば、貧者が根絶されるために存立し得ず、仮に存立し得るとすればあらゆる者が貧者である場合であって、その場合にも無意味となるため存立し得ない。「祖国を守るべきだ」という格率は、祖国が人によってまちまちであるために互いに相殺し合ってやはり普遍的法則として実現され得ない*6。
結局のところ、しきりに倫理(Sitten)について語るカントが説いているのは、倫理の原則ではなく、没倫理(Unsittlichkeit)の原則である*7。
内容から完全に切り離された形式なるものを道徳法則について観念し得るか否かは、たしかに問題である。
カントが目指していたのは、「反社交的社交性」*8を本質的性向とする人間に、社会生活を可能とする基盤を与えることであった。財産制度なくして社会生活はあり得ない以上、カントがそれを所与の前提としたことには十分な理由がある。最終的な目的に応じた抽象化の程度が要請されるのであって、とにかく中身をすべてくり抜けばよいというわけではない。ヘーゲルの批判は、フェアとは言いがたい。
もっとも、カントの言う定言命法の要請が、人間社会に普遍的道徳法則を与えるには不十分であることは、ヘーゲルの指摘する通りである。
定言命法の要請は、「自分の資産をあらゆる確実な手段で増やすこと」とか、「お金に困っていると思ったらお金を借り、いつになっても返せないのが分かっていても、返すと約束しよう」*9等という、普遍的法則として妥当していたら──つまりそうした法則が妥当していることをすべての人が承知していたら──矛盾を起こして自己崩壊に至るような格率を採用可能な格率群の中からあらかじめ排除することを役割としている。そうした自己破壊的な格率が排除されたとしても、人々はそれぞれ多様で相互に衝突する格率を選択するものであり、人々の道徳判断は激しく衝突する。
カントが『人倫の形而上学』において、定言命法の要請に加えて、人々の自由な判断と行動とが相互に両立するよう保障する客観的な法秩序の定立を求め、社会生活を送ろうとするすべての人々がこの客観的法秩序の支配に服するよう要求したのもそのためである*10。人が自由に行動する余地を各自に平等に割り当てる客観的法秩序の枠内で、はじめて人々は、平和な社会生活を送ることができる。
ヘーゲルが気付いた論点は、カントも当然気が付いていた。
しかし、カントのこうした回答は到底、ヘーゲルが受け入れられるものではなかったであろう。ヘーゲルにとっては、カントの道徳格率の観念が没倫理(Unsittlichkeit)であることが、根底的な問題であった。人々が主観的に自らが善しとするところに即してそれぞれ勝手に格率を定立し、それが相互に激しく衝突するという事態は、主観主義・個人主義の行き過ぎであり、ヘーゲルにとって、あってはならない事態である。
そうした事態の出現を阻止するには、カントの目指した方向とは逆に、あるべき道徳法則の内容を濃密化すると同時に客観化・統一化する方向を目指す必要がある。ここで登場するのが、ヘーゲル特有の「人倫 Sittlichkeit」の観念である。
ヘーゲルはチュービンゲン大学の神学部に学び、キリスト教神学者として出発した。初期の神学にかかわる論稿において特徴的なのが、キリスト教、それもプロテスタンティズムが、社会生活を支える公共宗教となる可能性への楽観的な見通しである。
プロテスタンティズムは各人がそれぞれ内心において信仰するにとどまるものではない。人は神に分け与えられた神性を発揮し、社会生活においてそれを外面化し、宗教的コミュニティを形成することができる。かくして人は、個人的にも社会的にも、神に近づくことが可能となる。
1793年に執筆された論稿で、彼は次のように述べる*11。
人民の宗教[公共宗教]は、どのように構築されねばならないだろうか。すなわち(1)消極的には、人々が宗教の文字面や慣行にこだわる機会を極小化し、(2)積極的には、人々が理性的な宗教へと導かれ、それを受け入れるようになるには。
道徳哲学が道徳的行動からなる聖性の理念を高く掲げ、道徳的尽力が十全に果たされるべきだとの理念を措定すると、そんな理念は人の達し得る域を超えているとの反論が向けられる。人は純粋な道徳的法則の尊重以外の動機、その肉性と結びついた動機付けを必要とするのだという反論である。こうした反論は、人がこの理念に向けて、必要とあらば永遠にでも、努力を続ける必要はないとの結論を証明しはない。大部分の人々からは、純粋な道徳的動機ではなく、単なる遵法性を引き出すことで満足するしかないとの結論を。
1793年から1794年にかけて執筆された別の論稿では、ヘーゲルは次のように述べている*12。
宗教の本来の役割は、立法者としての神の観念を通じて、われわれをして倫理的に行動するよう促すとともに、実践理性の要請の遂行からわれわれが得る満足──とりわけ実践理性が措定する究極目的である最高善に関する満足──をいや増すよう督励することである。宗教にはそれが可能であるがゆえに、その目的は俗界の立法者や行政当局の目的と両立するし、後者も具体的措置を通じて宗教に対する人々の自然な欲求を満たすことができる。
彼の言う「人倫」は、人々の社会生活にかかわる外的行動の側面のみを規律する近代的な「道徳morality」ではない*13。各人が内心において何を導きとし、どのような人生を理想とすべきか、いかなる徳を備えるべきかという倫理の問題と、社会生活にかかわる道徳の問題とは、ヘーゲルにとって直結している。彼が共同体主義の祖の1人とされることには、十分な根拠がある*14。
[人倫という]真の絶対的な倫理的生活は、それ自体のうちに無限性と純粋な個人性一般とその最高度の抽象性とを合わせ持つのであるから、それは直ちに個人の倫理的生活でもある。逆に、個人の倫理的生活の本質は真の絶対的な倫理的生活である。個人の倫理的生活は全体の中の一鼓動であり、それ自体が全体でもある。われわれは、この連関の中で、過去において忘れ去られていた言語上の指針が完全に正当であることに気付かされる。すなわち、絶対的なる倫理的な生活(Sittlichkeit)は、その本性において普遍的であり、エートス(Sitten)であることである。かくして、倫理的生活を示すギリシャ語(ethos)とドイツ語とがその本性を見事に示す。……こうした生のあり方は、道徳(Moralität)ということばで表現することはできない*15。
人倫はすべての個人に共通する倫理的生き方を示しており、したがって、各人に固有のものではあり得ない。エーテルが自然の事物のすみずみまで浸透し、各事物の本質と不可分であるように、人倫は各人の本質であると同時にいかなる個人の特質でもない*16。個人の内心の倫理と社会生活における道徳とを切断したカントの道徳法則は、せいぜい Moralität にとどまる。それは、公的生活から切り離された市民社会に行き渡る道徳、平穏に社会生活を送る市民が内心においてそれぞれ異なる倫理を奉ずる個人主義的社会で行き渡る道徳である。
ヘーゲルは、ローマ帝国において徐々に公共心が衰え、人々が財産や契約にかかわる法的関連の枠組みの中で、偶然の私的利害にのみ執心するようになる歴史的経緯を描いている*17。それは古典古代のギリシャ・ローマにあった倫理的な社会生活が失われていく過程である。
カール・シュミットは、「最高度の意味で政治的 im größten Sinne politisch」な哲学者であったヘーゲルが描くブルジョワの姿を『政治的なるものの概念』の中で改めてとりあげている*18。
[ヘーゲルによれば]ブルジョワとは、非政治的でリスクのない私的領域を離れようとしない個人である。彼はその財産と私的所有の合法性に関して、全体に対抗する個人として行動する。彼は、政治的に無である代償を平和と収益の果実に、そして何よりその享受の完全な安全性に見出す。そのため彼は、勇敢さを必要とせず、暴力的死の危険を免除される。
しかし、人々が覚醒して自身の内に潜む本性に気づき、それを外的に十全に開花させたとき、切り離されたバラバラの個人の集まりにすぎなかった社会は、真の絶対的な倫理的生活へと変貌を遂げる。各人にとっての卓越性の達成が可能となる。法秩序による外的制約なしに、人々は倫理的に共に生きることができる。
周知のようにヘーゲルは、『法哲学要綱』の序文で、反語的かつ屈曲した表現で、人倫は真の敬虔と一致すると述べる*19。
正しい種類の敬虔であれば、内面から理念の十全な展開と開かれた充溢へと白日の下に歩み出で、内面的崇拝から、感情の主観的な形式を超えて高められた即自かつ対自的なる法と真理の尊崇へと至るであろう。
個別の原子的主観の衝突を超えてすべてが有機的に結びつく全体を直感的に透視するヘーゲルからすれば、カント流の哲学は、木を見て森を見ない、なお真正の哲学には達していない段階の反省哲学(Reflexionsphilosopie)である。カントが両立させようとした自由は、各人が何であれやりたいことをやる恣意(Willkür)の可能性にすぎない*20。
真の自由とは、他のなにものにも依存することなく、おのれ自身の規定の下で自身と同一である無限にして普遍的なるもの、つまり理性的なるものである*21。自由であるためには、われわれ自身の内に潜む本性に忠実に、かつそれを十全に開花させるよう行動する必要がある。それは、社会生活の要請と個人の自律的行動とが完璧に調和する人倫の下においてのみ可能である*22。そこでは、義務はわれわれを解放し、自由にする。
プロテスタンティズムに限らず、特定の信仰を通じて人々がともに、私的にも公的にも、限りなく計り知れない神に近づくことができるとの楽観論を共有する人々にとっては、ヘーゲルの人倫の観念はいまだに魅力的なのかも知れない。しかし、価値観・世界観が分裂し、相互に比較不能となった近代以降の社会において、それはもはや回復不可能となった前提である*23。すべてが有機的に結びつき、万人に共有される全体は、もはや存在し得ない。
現代の日本の公法学が継承したのは、カントの法理論であってヘーゲルのそれではない*24。それには、それなりの理由があったと考えるべきであろう。個人の倫理と社会生活の道徳が一体化することは、公共政策の審議と決定が効果的に行われるための、不可欠の前提ではない。裏返して言えば、実現不可能な濃密な価値観・世界観の共有を前提とするヘーゲル諸派の議論は、多元的な現代社会においては周縁的な批判としてしか存立し得ない*25。
Unsittlichkeit の世界を生きること、それがわれわれの宿命である。
*2 坂部恵・伊古田理訳『カント全集7 実践理性批判 / 人倫の形而上学の基礎づけ』(岩波書店、2000)165頁[5: 30]。訳に必ずしも忠実に従っていない。
*3 同上158頁[5: 27]。
*4 同上159頁[5: 27]。
*5 Hegel (n 1) 123−25.
*6 Ibidem, 127−28.
*7 Ibidem, 125.
*8 カント「世界市民的見地における普遍史の理念」福田喜一郎訳『カント全集14 歴史哲学論集』(岩波書店、2000)8頁[8: 20]。
*9 カント「人倫の形而上学の基礎づけ」平田俊博訳『カント全集7』(岩波書店、2000)55頁[4: 422]。
*10 この間の事情については、さしあたり拙著『憲法の円環』(岩波書店、2013)第4章「カントの法理論に関する覚書」および『憲法の論理』(有斐閣、2017)第1章第4節「権利の機能──その3」参照。定言命法の要請のこうした限界は、しばしば見逃され、誤解されている。誤解の例として、Thomas Nagel, Equality and Partiality (Oxford University Press 1991) 48参照。
*11 ‘The Tubingen Essay’ in GWF Hegel, Three Essays, 1793−1795 (Peter Fuss and John Dobbins eds and trans, University of Notre Dame Press 1984) 45−46.
*12 ‘Berne Fragments’ in GWF Hegel, Three Essays, 1793−1795 (Peter Fuss and John Dobbins eds and trans, University of Notre Dame Press 1984) 93.
*13 宗教改革後の宗派間の激烈な対立のただ中から、人々の間に平和な社会生活を可能とする基盤として、アリストテレス的倫理から切り離され、人の社会的関係のみを規律する近代的道徳が生まれた経緯については、たとえばJames Tully, ‘Introduction’ to Samuel Pufendorf, On the Duty of Man and Citizen According to Natural Law (James Tully ed, Michael Silverstone trans, Cambridge University Press 1991) xvi−xxiv 参照。
*14 バーナード・ウィリアムズは、ジョン・ロールズに対する共同体主義者の批判は、カントに対するヘーゲルの批判に対応すると指摘する(Bernard Williams, In the Beginning Was the Deed (Geoffrey Hawthorn ed, Princeton University Press 2005) 31)。
*15 Hegel (n 1) 159.
*16 Ibidem.
*17 Hegel (n 1) 147−52.
*18 Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen (7th edn, Duncker & Humblot 2002) 62; cf. Hegel (n 1) 151. シュミットは、20世紀においては19世紀のような政治的・普遍的国家と非政治的な市民社会との分断はあり得ず、両者は民主的に統合されざるを得ないと言う(Schmitt, Der Begriff 26)。
*19 GWF Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts (6th edn, Suhrkamp 2000) 19−20.
*20 Ibidem 65−68 [§15].
*21 Ibidem 74−75 [§§23−24].
*22 Ibidem 295−98 [§§147−49].
*23 共同体主義者として知られるアラステア・マッキンタイアが、共通善の回復不能性について、大多数の共同体主義者が誤っているとしている点については、さしあたり、拙著『憲法の円環』(n 10)第2章第3節「近代国家、公共財、共通善」参照。
*24 この点については、さしあたり、拙著『憲法の論理』(n 10) 第14章第2節(2)「美濃部学説の位置」参照。ヘーゲル左派の影響力も、近年は退潮気味である。
*25 Williams (n 14) 34.
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第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
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2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著
3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。