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大庭健 編
古田徹也 監訳
『現代倫理学基本論文集Ⅱ 規範倫理学篇①』
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監訳者解説
古田徹也
道徳は、われわれに何を求めているのか。
この問いに対して、「義務に従う行為である」と答えるのが、カントに代表される義務論と呼ばれる立場であり、他方、「好ましい帰結をもたらす規則や行為である」と答えるのが功利主義である。――可能な限り単純化して言えば、そのように定式化できるだろう。
この問いに対しては他にも、「互いに合意した原則に従うことである」とか、「有徳な人柄やその表出である」という答え方もある。この種の回答を提示する立場――つまり、契約論/契約主義および徳倫理学――については、本シリーズの第Ⅲ巻・規範倫理学篇②において、それぞれの記念碑的論攷を収録している。
本巻・規範倫理学篇①では、現代の義務論と功利主義の陣営でそれぞれ大きな影響力をもつ重要な論攷を収めている。ただし、たとえば一口に義務論と言っても、「義務に従う」ということをどう捉えるかに応じてその内実は多様だ。さらに、本巻第二章の著者バーバラ・ハーマンの議論のように、そもそも「義務」という概念が主要な役割を担っていないため、「義務論」というより「カント主義」と言い表す方が適当なものもある。また、功利主義に関しても、「好ましい帰結」とは具体的にどのようなものかなどについて、論者によってかなり立場の違いがある。
現代の義務論者(あるいはカント主義者)はそれぞれどのようにカントの議論を継承発展させながら、新たなかたちの規範倫理学を打ち立てようとしているのか。また、功利主義は現代においてどのような形態をとり、功利主義に向けられがちな批判にどう答えようと試みているのか。本巻ではその多様な取り組みの一端を取り上げているに過ぎないが、それでも、両陣営で展開されている議論の多彩さや豊かさを十分に見て取ることができるだろう。以下の解説では、それらの細部に分け入っていくための足掛かりとなるべく、本巻収録の各論攷の概要や関連情報を紹介していくことにする。
第I部 義務論、またはカント主義
《1》第一章 クリスティン・コースガード「カントの普遍的法則の方式」(一九八五年)
「考えることにおける矛盾」とは何か
クリスティン・コースガードは、ジョン・ロールズに師事し、長じてカント研究の分野で頭角を現した人物であるとともに、現代において義務論を積極的に展開する規範倫理学者の代表格でもある。
本巻で取り上げるコースガードの論文「カントの普遍的法則の方式」は、そうした彼女の才気と特色が遺憾なく発揮されている代表的な仕事のひとつだ。本論文において彼女は、精緻なカント解釈を展開すると同時に、その枠組みから意識的に逸脱してもいる。その議論の道筋を通して彼女は、カントが示した倫理学の方向性を、カント自身よりも徹底したかたちで展開しようと試みるのである。
本論文において彼女が焦点を合わせるのは、しばしば「普遍化原理」とか「普遍化テスト」といった用語で表されるカントの議論の一側面である。よく知られているように、カントは道徳を定言命法――ある種の無条件的な命令――として規定し、その命令の方式を何通りか示してみせている。その代表例が、次の「普遍的法則の方式」と「人間性の方式」である。
普遍的法則の方式 格率(=行為の規則)が普遍的法則となるべきことをあなたがその格率によって同時に意欲することができる、そのような格率にのみ従って行為せよ
人間性の方式 あなたの人格や他のすべての他者の人格のうちにある人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ
このうち、普遍的法則の方式についてカントは、この方式が命じていることは、あなたの格率があなたの意志によって自然法則になるかのように行為することと同じだ、とも述べている。いずれにせよカントによれば、この種の方式に合致しない格率は道徳的な行為の原理とはなりえない。
しかし、ある格率を普遍的法則ないし自然法則として意志できる/できない、とは具体的にどういうことだろうか。さしあたり肝心なのは、この場合の「意志」とは実践理性であって、それゆえ「意志できること」とは、個人的な趣味や欲求に応じて変化するようなものであってはならない、ということである。カントによれば、実践理性の指導の下で義務として何をなすべきかを問う理性的(合理的)存在者はみな同じ結論に――普遍的法則の方式に合致した格率の採用に――達しなければならない。「完全な合理性には定言命法との一致が含まれている」(七頁)ということである。
以上のことから、この場合の「意志できる/できない」とは、理性的(合理的)存在者が合理的に――つまり、矛盾なしに――意志できる/できない、ということだとカントは言う。コースガードも引いているカント自身の言葉を見ておこう。
行為のなかには、その格率を矛盾なしには決して普遍的自然法則として考えることさえできないという性質をもつものがある。……ほかの行為においてはこの内的不可能性は見出されないが、それにもかかわらず、その格率が自然法則の普遍性へと高められることを意欲することは依然としてできない。なぜなら、そのような意志は自分自身に矛盾するだろうからである。容易に分かるように、前者の格率がより厳密でより狭い(ゆるがせにできない)義務に反し、後者の格率がより広い(功績となる)義務に反する。(四頁)
ここでカントは、ある格率を普遍的法則(自然法則)として意志することにより引き起こされうる矛盾として、二種類のものを挙げている。ひとつは、格率を普遍化する際に、その普遍化のなかに矛盾が含まれる、という類いのものだ。言い換えれば、普遍化の内的不可能性を表す類いの矛盾である。カント研究の分野においてこの種の矛盾は一般に、〈考えることにおける矛盾(contradiction in conception)〉と呼ばれる。そして、この種の矛盾をもたらす格率は、より厳密でより狭い(ゆるがせにできない)義務――すなわち、完全義務――に反するものだという。
他方で、格率の普遍化に際して矛盾が生じない場合でも、理性的存在者がその普遍化された格率を意志することが依然としてできない場合がある。すなわち、その意志が自分自身と矛盾する場合である。この種の矛盾は〈意志における矛盾(contradiction in the will)〉と呼ばれる。そして、この種の矛盾をもたらす格率は、より広い(功績となる)義務――すなわち、不完全義務――に反するものだという。
したがって、ある格率が道徳的な行為の原理となりうるか否かを測る普遍化テストとは、カントの枠組みにおいては、格率の普遍化の際に⑴その普遍化に内在的に矛盾が含まれるか否か、あるいは⑵意志が自分自身と矛盾するか否か、という二種類のテストとして提示されていると言える。
しかし、この二種類の矛盾――〈考えることにおける矛盾〉と〈意志における矛盾〉――は、その内実自体がはっきりしないものである。このうち、コースガードが本論文において主に遂行するのは、前者の〈考えることにおける矛盾〉とは何かを明らかにすることである。ただし、その過程で彼女は、〈意志における矛盾〉とは何かについても一定の見通しを与えようと試みている。
(以下、本文つづく。傍点は割愛しました)