憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア

12月 14日, 2021 長谷部恭男

 
「憲法学の散歩道」第20回までの連載は、書き下ろし2編を加えて『神と自然と憲法と――憲法学の散歩道』と題し、装い新たに単行本となりました。単行本のあとがきはこちらからお読みいただけます(→あとがき)。2021年11月15日発売、みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
 
 
 
 『神と自然と憲法と』第18章で紹介したように、ジョン・メイナード・ケインズは、世界を支配するのは思想であるとし、それに比べて既得権益の影響は誇張されているとする*1。これと対蹠的な観点に立つのが、歴史家のルイス・ネイミアである。ネイミアによると、思想や原理と言われるものはすべて、人間の真の動機を覆い隠すためのイデオロギーにすぎない。歴史を動かすものは、別にある。
 
 ネイミアは、イギリス議会史研究のありようを変革したと言われる。時につれて変化する事実を描くのではなく、それぞれの時代の個々の政治エリートを詳細に研究することこそが、歴史家の役割である。テューダー朝史研究で知られるサー・ジョフリー・エルトンは、次のように述べる*2

[かつては]議会に関する物語は、憲法上の自由に関する物語で、それは時代を経て着実に成長し、闘争は17世紀に決着がついた。庶民院の興隆、特権の確立、財政の統制、不平・不満の救済──それらすべての成果は、代表制の究極の勝利へと至る。議会制定法のうち関心の対象となるのは、こうした憲法政治の歴史に組み込み得るものに限られるし、詳細な検討の対象となる活動は、議員の独立性の強化を示すものだけであった。……1929年、ルイス・ネイミアが、なぜ人は議員になるのかと問いかけ、その問いに対して、少なくとも18世紀中頃の議員の大部分は、所属政党や[王権の抑制という]政策とは無関係の事情で議員になったのだと答えたことで、上述のような政治と政党に関する心地好い物語は、深刻な打撃を受けた。選挙を焦点とする議会史研究の時代、多様な人物史の分析に信を置く時代が、こうして幕を開けた。数を増す研究者たちによって、下院議員たちの個人生活・家族生活の秘密が明らかにされ、議会の役割は社会構造に支えられていると結論付けられた。……議会政治は、立憲主義とも、自由とも、さらには(少なくとも18世紀末までは)政党とも無関係で、すべては個人的な立身出世と栄達のためであったと考えられるようになった。

 ネイミアの研究手法は、「ネイミアするNamierise」ということばを生み出した。ある制度の歴史を、関係する人々の集合的伝記(prosopography)を描くことを通じて分析する手法である*3
 
 イギリスのゴードン・ブラウン元首相は、マーガレット・サッチャー政権下における公共サービスの理念の衰退は、「すべては思想や世論ではなく、エリートたちの策謀の帰結」だとするネイミア一派の有害な影響に起因すると述べている*4
 

 
 ネイミアは1888年、分割されたポーランドのロシア領内で、ルドヴィク・ベルンシュタイン(Ludwik Bernstein)として生まれた。父親のジョゼフ・ベルンシュタインはワルシャワ大学で法律を学んだユダヤ人で、ローマン・カトリックと称していた。父方の元々の姓であるニエミロヴスキ(Niemirowski)は、18世紀末のドイツ化の強制でベルンシュタインに変えられていた。父親は妻の実家の営む農園を管理して生計を立てた。
 
 少年期のネイミアは、家庭教師に教育を受けた。レンベルクとローザンヌで法律を学び、その後、「世界でもっとも文明的で人間的」*5だと考えるイギリスに移ってロンドン大学経済学院(LSE)で、そして最終的にはオクスフォードのベルリオール・コレッジで近代史を学んだ。ロンドンとオクスフォードでは、フェビアン協会の活動に参加している*6。オクスフォード在学中に、彼は姓をベルンシュタインからネイミアに変え、1913年に英国臣民となった。
 
 第一級の成績をおさめたにもかかわらず、オール・ソールズ・コレッジのフェロウとなることができなかった彼は*7、アメリカに旅立ち、父の知り合いの事業家の下で働いた。彼の仕事の内容については、情報が錯綜している。アイザィア・バーリンが当の事業家の息子から得た情報では*8、彼は事業家の発行する雑誌の編集と原稿執筆に携わったが、彼のオーストリア批判とアメリカ参戦論が激化したために雇い主と対立し、1914年4月にイギリスに戻った。
 
 ネイミアは、滞米中に知り合ったイェール大学の歴史家たちから、史料にもとづく「客観的」で「科学的」な歴史研究の方法を学び、同大学のチャールズ・アンドリュー教授から、18世紀のアメリカ独立時の歴史について、アメリカでは多くの研究がなされているが、イギリスからの貢献はほとんどないと聞かされて、この時代のイギリス史研究を志したとされる*9
 
 第一次大戦が勃発するとただちに兵役を志願し歩兵連隊に配属されたが、1915年2月には軍務を解かれ、陸軍省の広報局(the War Propaganda Bureau)で勤務することとなった。中東欧情勢に関する彼の知見は広く知られていた。組織再編で、彼は外務省の政治情報局(the Political Intelligence Department)に所属することになる。
 
 戦後はオクスフォードでチューターをしばらく務め、その後、綿花をチェコに輸出する貿易業に携わった。その間、チェコやオーストリアの情勢を分析する記事をマンチェスター・ガーディアン紙に寄稿している*10。さらに、支援を募ってイギリス議会史に関する研究書を刊行するとともに*11、イスラエルの建国を目指すシオニズム運動にもかかわった。
 
 彼の歴史研究に対する評価は高く、1931年にはマンチェスター大学教授となったが、彼自身が強く望んだにもかかわらず、オクスフォードに教授として迎えられることはなかった。歴史関係の講座が空席になる度に彼は候補とされたが、選任はされなかった*12。オクスフォードの学者たちは、選考委員たちがネイミアを選ばないのは恥だと噂したが、自分たちが選考する立場になると、同じことをした。専門領域が狭すぎるとか、シオニズム擁護が示すように彼の政治に関する考えは不穏当だとか、同僚に対して傲慢だとか、学生に対して厳格にすぎるとか、自分の関心事について一方的に話し続ける恐るべく退屈な人間だとかが、理由として挙げられた。彼の天才を疑う者はいなかったが、それに十分な比重が置かれることはなかった*13
 
 彼は定年までマンチェスターで講義を続け、第二次大戦後は、議会史基金(the History of Parliament Trust)で、イギリス議会の人物史をまとめるプロジェクトを率いた。1947年、彼はロシアの上流階級出身のジュリア・ドゥ・ボーソーブルと2度目の結婚をしたが、その際、妻の求めに応じてイギリス国教会の信徒となった*14。逝去したのは、1960年である。
 

 
 アイザィア・バーリンは、ネイミアに関する回想録を残している*15。若きバーリンがオール・ソールズ・コレッジのフェロウであった1937年の夏、すでに著名であったネイミアが彼に会いにきた。なぜ、バーリンがマルクスに関する本を執筆しようとしているのか、それを訊ねるためである*16
 
 オール・ソールズ・コレッジのフェロウたるもの、本物の研究をするに足る知的能力を備えているはずだとネイミアは言う。それがなぜ、マルクスなのか。マルクスは憎悪で目のくらんだ二流の歴史家であり、経済学者だ。なぜフロイトについて本を書かないのか。マルクスと違って、フロイトの著作は天才の仕事だ。それにフロイトは存命で、インタヴューすることもできる。幸いマルクスは死んでいる。マルクスの信者たち、とりわけ知的に壊滅したロシアの追随者たちは、印刷用インクを必要以上に費やしている。この点では、ドイツの哲学者たちも同じで、同じ程度にバランス感覚も文才も趣味も欠如している。
 
 バーリンに反論する機会を与えることもなく、ゆっくりとした眠りを誘うような、強い中欧なまりの抑揚のない口調での話が続いた後、バーリンが、マルクスの出自がネイミアの見解に影響を与えているのかと訊ねたところ、ネイミアは、自身の生涯について語り始めた。その後の2時間ほどの彼の話はきわめて興味深いものだったとバーリンは言う*17
 
 周囲の社会に同化しようとしたリベラルな両親に反抗し、ふるさとを離れた若きネイミアは、社会主義に惹かれた。彼がイギリスに来てまず学んだLSEは、ウェッブ夫妻やグレアム・ウォーラスなど、マルクス主義者ではないものの、社会主義者たちが支配していた。
 
 しかし、そのうち彼は、社会主義に示される諸原理や一般理論は、偽りのイデオロギーであることに気付く。真実は一般的な原理や理論にではなく、個人とその欲望──意識されたものであれ無意識のものであれ──とりわけ抑圧され、知的な偽装で合理化された無意識の欲望にある。
 
 マルクス主義は知的な偽装を見破りはするものの、それを別の、自分たちの幻想で置き換えてしまう。社会学ではなく、個々人の心理学こそが鍵だ。人間の行動と社会の現実はみな、個々人の行動の根源を、恐れることなく冷静に、科学的に探究することでのみ、説明することができる。根源的衝動、食物や居場所や権力や性的欲望の満足や社会的承認等々に対する人間の変わることのない渇望こそを探究すべきだ。人間の歴史は、とくに政治史は、それ以外の方法で明らかにすることはできない*18
 
 ネイミアは、イギリス人(の多く)は人生の本当の目的が分かっていると言う。快楽、正義、権力、自由、栄光、連帯の感覚である。とりわけ、イギリス人は抽象的原理と一般理論を忌み嫌う。人間の動機は、フロイト等の心理学者が探究を開始した隠れた原因に注意を向けることによってのみ明らかとなる。
 
 ネイミアは、思想(ideas)の影響を持ち出すことで人間の行動を説明しようとする試みは馬鹿げていると言う。思想とは人の心が、臆病さのあまり、あるいは因習にとらわれているために、自身でも直視することができない深く隠された衝動や動機を合理化したものにすぎない。思想史家は、もっとも役に立たない歴史家だ*19

君は、反ユダヤ主義者でウィーン市長のリューガーが、自然科学への助成を求められたとき、どう答えたか覚えているかね。「科学? そりゃユダヤ人が別のユダヤ人から剽窃するものだ」。私は、このセリフが思想史にそのまま当てはまると思う*20

 ネイミアはバーリンの表情に不満の意を感じとったようで、同じことをもう一度、ゆっくり重苦しい威嚇的ななまりで繰り返した*21
 

 
 ネイミアとバーリンの交流は、その後も続いた。
 
 バーリンが思想史家として歩み始めた後、ある抽象的なテーマに関する講演録*22をネイミアに送ったところ、「自分の書いたことをすべて理解できるとは、君は随分と頭が良いに違いない」との返信があった。ネイミアの辛辣なユーモアの典型だとバーリンがE.H.カーに話したところ、経緯は不明だが、それがサンデイ・タイムズの匿名コラムに載った。コラムを読んだネイミアは、バーリンの気に障ったかと勘違いして、「君の気持ちを傷つけたのであれば謝る。私は必ずしも注意深くない」とわざわざ手紙を寄こしたそうである*23
 
 歴史家たちの一般的な命題や印象論を小粒で堅固な「事実」に還元しようとするネイミアの衝動は、彼の生きた当時の思想潮流に棹さすものだと、バーリンは言う。当時のウィーンでは、エルンスト・マッハが「思考の経済」を唱え、物理現象を分離可能な感覚の単位へと還元しようとした。フロイトは、精神現象の経験的にテスト可能な「実体」を明らかにしようとした。ウィーン学団の哲学者たちは、曖昧さや超越論や神学や形而上学と戦う武器として検証原理を生み出した。バウハウスの芸術家たちの明確で合理的な輪郭線は、アドルフ・ロース*24やその弟子たちの思想に由来する。
 
 ウィーンは、新たな反形而上学、反印象主義的実証主義の中心地だった。ネイミア自身がそれに気付いていたか否かはともかく、ウィーンこそが、彼の学問の源泉である。ウィーンのもっとも独創的な思想家たちは、ドイツの形而上学に反抗し、イギリス流の経験主義に好意的だった。哲学では、彼らはイギリス学派と周知の実り豊かな共生関係を実現した。ネイミアは、この思考方法を歴史学に適用したもっとも勇敢で革命的な先駆者だった*25
 
 分析対象を切り刻み、細かな断片にした上で、見事なイマジネーションの力でそれを統合する一方、思想と理性の重要性と影響を軽視したネイミアの歴史学は、「歴史から精神を取り去ったtaken the mind out of history」と批判されることがあるが、同じ批判は、対応する哲学、芸術、建築学、心理学にもあてはまるはずである*26。実際にはネイミアも、特定の理論に突き動かされ、特定の思想に捉えられていた。
 

 
 第二次大戦直前の国際関係を描いたネイミアの著書『外交の序章Diplomatic Prelude』に関するエコノミスト誌上の書評は、次のように述べる*27

政治は利害と権力のみにかかわるもので、思想は政治家が醜い現実をごまかすための自己欺瞞にすぎないという暗黙の前提に立つ歴史学の典型例である。……そうした不毛で危険な哲学の枠内では、『外交の序章』は傑作だ。

 ケインズが指摘したように、世界は思想によって動かされる。ネイミアのシニカルな思想が人々の心を支配し、政治家や役人も、まずは公益ではなく自分たちの立身出世や保身を考えて行動するもので、原理原則や政策などは、憲法にかかわるものも含めてすべて、真の動機を覆い隠すためのイデオロギーにすぎないと多くの人々が本気で信じ込んでしまえば、その社会は本当にそうした社会になってしまう。とりわけ権力の座にある人々がそう信じ込んでいれば、確実にそうなる。
 
 現代の日本は、かなりの程度まで、そうした社会になってはいないだろうか。
 
 第二次安倍政権下で公文書の改竄や隠蔽が問われ、ネポティズム(縁故主義)の横行が疑われたとき、それに対して、記憶にない、問題は解決済み、指摘はあたらない等という、木で鼻をくくった通り一遍の応答しかなくても、マスメディアの多くを含めてなぜ深刻な問題として意識されないかと言えば、政治家も役人も出世と保身、利得と栄達のために行動しているだけで、国会や記者会見での答弁や応答はうわべを繕うお飾りにすぎない、政策論争や憲法原則に関する論争も同じで問題にするのも大人気ない、国民も各自、自助努力で保身を図るしかないと多くの人々が思い込んでいるからではないか。
 
 法の支配が踏みにじられ、国家の財政規律が根本的に破壊されて、ハイパー・インフレーションのリスクに直面しているのであれば、国民1人1人が海外に資産を移し、自助努力でリスクに備えるしかない。
 
 個々の政治家や役人が自己の栄達と保身のみを考える国家は、国家の存立自体を掘りくずす。日本に明るい将来などありそうもないことがよく分かる。
 

*1 John Maynard Keynes, The General Theory of Employment, Interest and Money (Cambridge University Press 2013 [1936]) 383−84; 邦訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』塩谷野祐一訳(東洋経済新報、1983年)386頁。
*2 GR Elton, ‘Members’ Memorial’, London Review of Books, vol 49, no 9 (20 May 1982). ウォルター・バジョットは、1874年に公表した評論で、18世紀半ばから19世紀初めにかけて、下院議員になることは、資産はないが才覚のある若者にとって、政府の供与する役得に与ることを通じて相当の財産を蓄えるための手段であったと述べている(Walter Bagehot, ‘The Advantage and Disadvantage of Becoming a Member of Parliament’ in The Collected Works of Walter Bagehot, vol 6 (Norman St John-Stevas ed, Economist 1974) 54)。
*3 DW Hayton, Conservative Revolutionary: The Lives of Lewis Namier (Manchester University Press 2019) 1.
*4 Ibidem.
*5 Ibidem 27.
*6 Ibidem 28−29.
*7 彼の出自──ポーランドから来たユダヤ人──がフェロウへの選出を妨げたと考えられる。ユダヤ人でオール・ソールズ・コレッジのフェロウとなったのは、1931年のアイザィア・バーリンが最初である(ibidem, 41-42)。
*8 Isaiah Berlin, ‘L.B. Namier’ in his Personal Impression (Expanded edn, Henry Hardy ed, Princeton University Press 2001)102−03.
*9 Hayton (n 3) 63. ヘイトンはさらに、チャールズ・ビアードがネイミアに影響を及ぼしたことは明らかであるとする(ibidem 65)。
*10 ヘイトンは、当時のウィーンにおける論理実証主義との邂逅が彼の「科学的」歴史観に影響を与えていないはずはないとし、かつ、フロイト流の精神分析を実際に受けているとする(Hayton (n 3) 143)。ネイミアは、1942年までロンドンでも定期的に精神分析を受けていた(ibidem 271)。
*11 彼の代表作『ジョージ3世即位時の政治構造』は1929年に、『アメリカ革命期のイングランド』は1930年に刊行された。
*12 Hayton (n 3) 293−95.
*13 Berlin (n 8) 105.
*14 ジュリアは、ネイミアの死後、彼の伝記(Julia Namier, Lewis Namier: A Biography (Oxford University Press 1971))を著している。アイザィア・バーリンは、この伝記について、ネイミア自身がそう描いて欲しいと思ったような本ではあるが、バーリン自身の知っているネイミアとは全く違うと述べている(Isaiah Berlin, ‘Letter to G.S. Rousseau on 14 February 1972’ in his Building: Letters 1960−1975 (Henry Hardy and Mark Pottle eds, Chatto & Windus 2013) 479)。
*15 Berlin (n 8).
*16 バーリンは1939年に『カール・マルクス』を出版した。現在は第5版(Karl Marx (5th edn, Henry Hardy ed, Princeton University Press 2013))が入手可能である。
*17 Berlin (n 8) 93.
*18 Ibidem 95.
*19 Ibidem.
*20 Ibidem. バーリンによると、ネイミアのこの引用は不正確である。発言者はリューガーではなく、彼と同じキリスト教社会党のオーストリア議会議員であったヘルマン・ビーローラベクで、彼の発言は、「文学は、ユダヤ人が別のユダヤ人から剽窃するものだ」というものである(ibidem note 1)。
*21 Ibidem 95−96.
*22 『歴史の必然性 Historical Inevitability』である(Berlin (n 14) 138−39)。
*23 Isaiah Berlin, ‘Letter to Lewis Namier on 25 May 1956’ in his Enlightening: Letters 1946−1960 (Henry Hardy and Jennifer Holmes eds, Chatto & Windus 2009) 530−31; Berlin (n 14) 139; Berlin (n 8) 107; Hayton (n 3) 360−61.
*24 Adolf Loos (1870-1933) は、オーストリアの建築家。装飾を削ぎ落とし、単純で機能に徹したモダニズム建築の設計で知られる。
*25 Berlin (n 8) 109.
*26 Ibidem 109−10.
*27 Quoted in Hayton (n 3) 292. ネイミアによると、権力闘争の手段として思想や弁舌を駆使した典型例はエドマンド・バーク(1729 or 30-1797)である。彼の著作や議会での演説は、彼の属するロッキンガム卿一派を利するためのプロパガンダにすぎない(ibidem 171; cf. Lewis Namier, The Structure of Politics at the Accession of George III (2nd edn, Macmillan 1957) 169 and 238)。

 
 
》》》バックナンバー
第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月15日発売
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域にかかわる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。