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西川純子 著
『統治のエコノミー 一般意志を防衛するルソー』
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おわりに
フランス革命の直後より今日に至るまで、ジャン= ジャック・ルソーの政治思想をジャコバン主義、さらに二〇世紀には全体主義にまで結び付けた批判とそれへの反論の応酬が繰り返されてきた。この果てしなく思えるほどの議論の応酬に一石を投じたいという野心のもと、本書では「統治(gouvernement)」というルソーの政治思想に関する先行研究において盛んに論じられてきたとは言いがたい概念を中心に論考を展開した。本書において折に触れて参照してきたように、先行研究でも宗教、公教育、農業、商業などに対してルソーが提案する「統治」のさまざまな手段は個々の分析の対象とはなってきた。本書では、その諸手段に通底するルソーの「統治性」の提示を試みた。はたして、われわれの試みは成功したのか。ルソーの「統治」の全体像を明確にしたうえで、その政治思想は全体主義的であるという批判に対して有効な反論をすることができたのか。繰り返しになるが、本書の議論を振り返る。
ルソーの「政治体」の輪郭
ルソーの「統治」とは法の執行であると広く知られている。しかし、ルソーの「統治」は法の単なる執行には還元しがたいものでもある。そこで、ルソーの「統治」の、法の執行には還元しがたい側面を分析するために、ミシェル・フーコーの一連の「統治」および「統治性」研究を援用した。そもそも「統治」とはさまざまな含意を持つ概念であったが、フーコーのコレージュ・ド・フランスの一連の講義を契機として、権力が作用するメカニズムの一つとして注目されるようになる。本書でも、ルソーの「統治」を権力が作用するメカニズムとして分析することを試みた。フーコーによると、国家とは「統治」によって絶えず生み出され更新されつづけるものである。ゆえに、ルソーの「統治」を問うことは、「社会契約」が締結されたことで生まれた「政治体」の輪郭、すなわち、ルソーの政治思想の帰結を明らかにすることになる。
では、ルソーの「統治」を問うことで明らかとなった「政治体」の輪郭はどのようなものであったか。第Ⅱ部では、ルソーの「統治」は人の「統治」と「財」の「統治」の二つの主柱から構成されているという仮説を立て、さまざまな著作に見られる「統治」に関する言及を総合的に分析した。それによって、これらの手段の目的はただ一つ、「一般意志」の防衛であることが明らかとなった。さらに第Ⅲ部では、「一般意志」が防衛されなければならない理由がその脆弱性にあることを論証した。ルソーの「一般意志」とは、人々が「社会契約」を結ぶことを契機に「政治体」と共に誕生する「政治体」全体の意志であり、「政治体」における正義の基準であり、法の源である。『社会契約論』において「一般意志」は自らへの従属を「政治体」のメンバーに強制すると明言されていることから、「一般意志」は人々の「特殊意志」を抹消するか、あるいは従属させるものであり、ルソーは「一般意志」のもとでの個々人の全体への服従を求めているという解釈すらなされてきた。そこに、ルソーの「一般意志」を中心とした政治思想は個々人に絶対的な従属を強制して自由を奪うものであるという根強い批判の根拠があると考えられる。しかし、実際のところ、ルソーは「一般意志」を「特殊意志」に絶えず脅かされている脆弱なものとして想定している。そして、この脆弱な「一般意志」は個々人の「特殊意志」を抹消するどころか、その存続のために「特殊意志」が複数にわたって存在することを必要とする。ゆえに、ルソーの「統治」は、自らの原則である「一般意志」を防衛するために、その脆弱性の補完と「特殊意志」の複数性の維持をはからなければならない。
ルソーの「統治」は、人々の「内面」に働きかけて「一般意志」の尊重を促すと同時に財の配分の不均衡を是正して均質な「政治体」を保とうとすることで、「一般意志」の脆弱性への補完と「特殊意志」の「複数性」の維持をはかる。このような「統治」によって不断に生み出されつづけることになる「政治体」は、人々が全体的に支配された強権的で硬直的な「政治体」などではないはずである。それは、ゆるやかな連帯によって結びついた平等で均質な「政治体」となることだろう。しかし、「統治」によって「一般意志」の脆弱性を補完しながら「特殊意志」の「複数性」を維持することは難しく、不安定で脆弱な「政治体」とならざるをえないことも予想される。以上から、ルソーの政治思想を「統治」という概念を中心に読解する限りでは、そこに専制主義の萌芽を見いだすことは難しいということになる。この点で、われわれはルソーの政治思想を全体主義と結びつける批判に対して、有効な反論を提示しえたであろう。
そして、本書の第Ⅲ部の冒頭でも述べたように、『ポーランド統治論』やミラボーへの手紙の一節によると、法すなわち「一般意志」のもとでの「統治」とは「立派な、弊害のないもの」ではあるが、これが実現されることは「政治において、幾何学の円積法の問題に私〈=ルソー〉が喩えている問題」と形容されるまでの難問とみなされている。その理由は「法に支配させていると思ったところで、支配するのはやはり人間」といった具合に「一般意志」はたやすく人間の恣意、すなわち「特殊意志」にとって代わられがちであることにある。そこで、いかにして「一般意志」を防衛するかがルソーの政治思想における最も重要な課題の一つとなるわけだが、本書で検討してきた一連の「統治」に関するルソーの論考はまさにその難問への解答にあたる。ゆえに、ルソーの政治思想を研究するうえで、「統治」を片隅に追いやることなどはできないのである。本書の「はじめに」でも述べたが、ベルナルディも『社会契約論』だけではなく『政治経済論』も含めたルソーの政治的著作の多くが未完に終わった『政治学提要』の草稿、あるいはその準備のために集められた資料をもとにして書かれたものであると推測して、「統治」に関する議論は「主権」に関する議論と並ぶもう一つの『政治学提要』の主柱の一つであったであろうと「統治」の重要性を喚起している。本書では、『政治学提要』における「統治」論の位置づけを明確にすることはできなかったが、その重要性は十分に論証できたと言えるだろう。
ルソーの「統治」の位置づけ
ルソーの「統治」論では、「一般意志」を防衛するための、すなわち「一般意志」に支配されることで誰も支配せず、また支配されない状態を可能にするためのさまざまな手段が論じられている。そこから、ルソーの政治思想は、自由と平等を高らかに謳うイデオロギーとしての側面だけではなく、現代のわれわれが自らの「一般意志」に則した政治を行うために応用可能な手段を提示する側面を持つとも考えられる。
このようなルソーの「統治」を問うことで、われわれは何を手にすることができたのか。第Ⅲ部ではフーコーの解釈を導きの糸として、ルソーの「統治」を思想史に位置づけて、それを現代に問うことの意義を明らかにした。フーコーは、ルソーを「社会契約」論者の旗頭として随所で名指しをしているだけではなく、その「統治」についてもルソー研究者に先立って言及している。フーコーによると、一八世紀には演繹的かつ原理的な「統治」と功利的な「統治」の二つが生まれた。このうちの前者を代表するものとしてルソーの「統治」が、後者を代表するものとしてケネーの「統治」が挙げられている。ケネーの「統治」は、社会的現象に内在する「自然」を原則とするものである。この「自然」を知り、それに則した「統治」を行うために必要なものは、もはや法学ではなくいわゆる政治経済学ということになる。さらに、この「自然」、すなわち真理が顕現する場としての「市場」を「統治」が擁護することが求められる。これに対して、ルソーの「統治」は「一般意志」を原則とする「統治」である。フーコーによると、それは、「人民」の意志として「政治体」に超越的にある「一般意志」から演繹的に導かれるものである。しかし、本書で繰り返し述べているように、ルソーの「一般意志」は「政治体」を超越的かつ絶対的に支配するものなどではない。それは「統治」の対象である「政治体」に内在して、「統治」によって防衛されるものである。ゆえに、ルソーの「統治」を「一般意志」から演繹的に導出される原理的なものとみなすことはできないと考えられる。ルソーの「統治」の成否は「一般意志」を防衛しえたか否か、「統治」の実践そのもので成否が判断されるものである。ルソーの「統治」に関するフーコーの言及の背景には、その「一般意志」への誤解があると考えられる。
さらに、フーコーは経済的領域へのアプローチの仕方でも「統治」を分類している。経済活動が活発になるにつれて、人々は己の欲望に忠実な「経済的人間」としての側面を持つようになった。「経済的人間」は「利害関心の主体」であり、あくまでも己の利害を追求するから、法的主体を同じ方法で「統治」することはできない。フーコーによると、「経済的人間」に対しては三つのアプローチが考えられる。まず、経済的領域を「統治」の対象から除外する方法である。次に、経済的領域に政治的領域を従属させようとする方法である。しかし、フーコーによると、いずれの方法も机上の空論であり、現実の「統治」は経済的領域に対して上記の二つのようなアプローチはとらなかった。そこで、現実の「統治」は「経済的人間」を包摂するために、「市民社会」を対象として設定することになる。フーコーは、ルソーの「統治」は「市民社会」の「統治」以前のものと見なしている。
しかし、ルソーの「統治」の対象は、人々とその「財」から成る「政治体」である。つまり、その対象である「政治体」を構成する「市民」は法的主体であると同時に「情念」を持った経済的主体としても想定されていたことがわかる。しかも、彼らは「政治体」全体の「一般意志」よりも自らに固有の「特殊意志」を優先させようとする利己的な「市民」なのである。それは、まさにルソーの「政治体」は、フーコーがいうところの「主権の空間に経済的人間が暮らしている」状態にあることを意味する。そして、ルソーの「統治」は、「公教育」、宗教、娯楽といった手段によって人々の「内面」に普遍的価値を浸透させると同時に、人々を「ネーション」に根づかせることで「一般意志」を己の「特殊意志」のごとく尊重するように促す。さらに、農業の振興や適切な税の徴収や公共財の分配を通じて、財の配分が偏らないようにはかることで、突出した「特殊意志」が生まれないようにする。このような「統治」を経済的領域を排除する「統治」とも、経済的領域の原則にすべてを従属させようとする「統治」ともみなすことはできない。ルソーの「統治」の対象である「政治体」は人々が「社会契約」を締結することで生まれたものではあるが、「習俗」によって形成された「ネーション」に根づくべきものとして想定されている。以上から、ルソーの「統治」の対象である「政治体」に「市民社会」との類似性すら見いだすことができるのではないだろうか。フーコーによるルソーの「統治」の解釈は、その意図とは関係なく、ルソーの「統治」の現代性を明らかにする糸口をわれわれに与えてくれた。
オルタナティブたりうる可能性と課題
最後に、ルソーの「統治」を現代において問うことの意義と今後の課題を整理する。
第Ⅲ部では、ルソーの「統治」の、今日の「市場」の「自由」を防衛する「統治」のオルタナティブたりうる可能性について言及した。『社会契約論』第三篇第一章では「統治」の役割として「法の執行」と「社会的かつ政治的自由の維持」が挙げられている(1)が、ルソーにとって文明化して社会で暮らすことを余儀なくされた人々が「政治体」で享受することができる「自由」とは「一般意志」のもとでの「自由」である。ゆえに、「一般意志」の防衛とは、まさに後者の役割を果たすことに他ならず、ルソーの「統治」は「市場」のもとではなく「一般意志」のもとでの「自由」の擁護をはかる「統治」であると考えられる。ここに、ルソーの「統治」が「市場」の「自由」を防衛する「統治」のオルタナティブとなりうる可能性を見ることができる。
ルソーの「統治」は、今日に支配的な「統治」のオルタナティブとして実現されることが可能か。これを問うことが今後の課題となるだろう。ルソーにとっての「市場」は真理が顕現する場ではなく、自然に「特殊意志」の均衡が崩れていき、より強い「特殊意志」が他を圧倒して「一般意志」のふりをして支配する場である。しかし、さまざまな「利益関心の主体」、すなわち「特殊意志」をもった利己的な主体を包摂しているという点で、「市場」と「一般意志」には親和性が見出される。両者を隔てているものは何なのか。もしかしたら、「一般意志」のもとでの「自由」と「市場」のもとでの「自由」に大差はないかもしれない。今後の課題の一つとして、「市場」と「一般意志」という一見すると相反する両者の比較が重要となるだろう。
また、本書はルソーの「統治」の可能性を示すと同時に、その実現を阻む二つの大きな要因を露呈させた。「一般意志」が「特殊意志」に常に脅かされている脆弱なものであるがゆえに、それを原則とする「統治」は不安定なものとならざるをえない。「特殊意志」によって脅かされがちな「一般意志」を「特殊意志」に従属を強いることなく防衛することは困難を伴わざるをえないから、このような「統治」によって不断に更新されつづけている「政治体」は、不安定で脆弱なものになりがちとなることが予想される。この不安定さを克服するために、人の「統治」においては「公教育」と娯楽によって人々を「ネーション」に根づかせることで「祖国」への愛を醸成することをはかる。この点で、ルソーの「統治」は同質な文化に根差したネーション国家の「統治」としての側面が強くならざるをえない。ルソーによると、自由や平等などといった普遍的な価値への人々の尊重を支えるものは「ネーション」すなわち「政治体」への根づきである。「ネーション」という同質性に基づいた枠組みを必要としていることは、ルソーの政治思想の限界なのだろうか。さまざまな文化的背景を持った人々から成る多民族国家、あるいは拡大しつづけて輪郭すら失いつつある「政治体」においては、いかにして人々を根づかせるかが今後の課題となるだろう。そして、「財」の「統治」においても、ルソーの経済システムは閉じた均質で自足した「政治体」を生み出すものである。このようなルソーの経済システムは、あらゆる「政治体」が外に開いていくことでしか、生存をはかることができない今日の状況では導入することは難しいのではないだろうか。
本書では、ルソーの「統治」の全体像とそれが生み出しうる「政治体」の輪郭を明らかにしたが、十分にその可能性を検討したとは言いがたい。今後の課題として、ルソーの「統治」が持つ、今日に支配的な「市場」の「自由」の維持をはかる「統治」のオルタナティブたりうる可能性の検討が挙げられる。しかし、ルソーの「統治」論は、われわれに別の「統治」の可能性という希望の光を与えると同時に、「一般意志」の脆弱性を補完することの限界という絶望の気配を感じさせるものでもある。誰にも支配されず誰も支配しないという状態を実現するためには、われわれが「一般意志」の脆弱性の補完と「特殊意志」の「複数性」の維持を実現していく方策が重要となる。いかにすれば「一般意志」のもとでの「自由」の享受を実現することができるか。そして、「市場」ではなく「一般意志」を原則とする「統治」の実現は、昨今の経済的領域に侵食されがちな「政治的なもの」の復権をもたらしうるかもしれない。
註(1) Cf., C. S./O. C., III, p. 396.
(傍点は割愛しました)