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デレク・パーフィット 著
森村 進・奥野久美恵 訳
『重要なことについて 第2巻』
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第1巻のたちよみはこちら→→《『重要なことについて 第1巻』「序論」「序文」》
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訳者解説
本訳書はDerek Parfit, On What Matters, Volumes 1 and 2(Oxford University Press, 2011)の全訳である(二〇一七年に刊行された第3巻については後述)。『重要なことについて』第1巻と第2巻は、ちょうど著者の最初の書物『理由と人格』(原書一九八四年。邦訳一九九八年)が二十世紀の倫理学における最も重要な著作と目されているように、刊行後十年を経た今日すでに二十一世紀の倫理学における道標的大著としての地位を確立している。そのことは、本書の多くの部分が英語圏の何冊もの倫理学のアンソロジーやハンドブックの中に再録されているという事実からも裏づけられる。
デレク・パーフィットの経歴や人となりについてはすでに『理由と人格』の訳者解説で書いたので、ここでは彼がその後も二〇〇九年までオックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジのフェローをつとめ、二〇一七年一月二日に七四歳で逝去するまで研究活動を続けたということをつけ加えるにとどめる。
また本書の内容についても、編者サミュエル・シェフラーによる著者の意図をよくとらえた「序論」と著者自身による詳しい「要約」があるので、屋上三層の屋を架することを避けてそれに譲り、以下ではごく簡単に各編の主題を述べ、さらにいくつかの注目に値する点を指摘したい。
本書の第Ⅰ部は理由という概念の検討から始まる。パーフィットは最初の著書に『理由と人格』という題名をつけたが、奇妙なことにそのどこでも理由という観念自体を論ずることをしなかった。彼は『理由と人格』と違って、ここでは理由に関する主観主義を徹底的に排して客観主義を提唱する。主観主義とは、われわれが持つ理由は自分の欲求や目的といった心理的状態に依存するという説であり、客観主義とは、理由は欲求や目的の対象についての事実に依存するという説である。理由に関するこの客観主義は、第Ⅵ部で特にバーナード・ウィリアムズの理由観に対抗して提唱される、(動機づけではなく理由についての)外在主義と同一視できよう。(なおパーフィットは「〇〇という事実が理由である」というよりも「〇〇という事実が理由を与える」という言い方を好むが、それは彼が理由というものをあくまでも規範的な概念として理解していて、経験的な意味での事実とは別物だと考えているからだ。84 節を見よ。)
またパーフィットは道徳だけでなく広く規範や価値の領域において、善悪や正不正や権利義務といった概念よりも理由という概念の方が基本にあって、もはやそれ以上還元したり分析したりすることができない原始的な概念であると考えている。パーフィットの哲学的盟友であるスキャンロンも強力に提唱しているこの見解は、現在では「理由原理主義Reason Fundamentalism」と呼ばれている。
第Ⅱ部と第Ⅲ部は二〇〇二年にカリフォルニア大学バークレイ校で行われた〈タナー講義〉がもとになっている。パーフィットはそこで、われわれのなすべき行為を指示する原理に関して、帰結主義とカント主義と契約主義という三つの主要な規範倫理学上の立場のいくつものヴァージョンを詳細に検討して、各々の最も説得力あるものを選ぶ。それは帰結主義については行為帰結主義でなく規則帰結主義であり、カント主義については定言命法のいくつかの定式のうち〈道徳的信念の定式〉であり、契約主義についてはゴティエやロールズではなくスキャンロン版の契約主義である。そしてパーフィットは第十七章で、この三つの理論がすべて〈カント的規則帰結主義〉と呼ぶことができる同一の結論に至ると主張する。本書の題名が今のものに決まる前の仮題は『同じ山に登る』というものだったが、それはこの事情の比喩だ。
第Ⅱ部と第Ⅲ部で特に目を引くのはパーフィットによるカント倫理学の詳細な検討である。彼は一般的な理解と違ってカント倫理学の義務論的性質を弱め、それを帰結主義に引き寄せて解釈、というよりも改釈している。カント倫理学の擁護者から見れば、パーフィットのカント解釈は定言命法の〈普遍的法則の定式〉の文言解釈にばかりこだわって(その一方、41節冒頭で明言されているように、彼はカントの「完全義務」と「不完全義務」の区別を無視する)、善意志の至上の価値とか道徳性の尊厳とか人格の目的としての性質といったカント倫理学の核心をとらえていないと思われるかもしれない(このことはウッドとハーマンのコメンタリーからもうかがわれるが、もっと明確には、たとえばHusain Sarkar, Kant and Parfit(Routledge, 2018) passim; K. R. Westphal, How Hume and Kant Reconstruct Natural Law (Oxford University Press, 2016) p. 86 nn. 17-18)。しかしそうでない者から見れば、パーフィットのカント解釈は行動の帰結という要素を正面から取り入れると同時に、行為の動機(内面性)の過大評価を避けることによってカント倫理学の欠陥を補正していると評価できる。
第Ⅳ部は、第Ⅱ部と第Ⅲ部に対するスーザン・ウルフとアレン・ウッドとバーバラ・ハーマンとT・M・スキャンロンという四人のコメンテイターによる批判的検討である。四人ともパーフィットのカント解釈を取り上げているが、さらにハーマンはいくつかの点について彼女自身のカント解釈をさらに展開し、ウッドは思考実験を多用するパーフィットの倫理学の方法自体を批判し、ウルフは帰結主義とカント主義を調停させようというパーフィットの企てに疑問を呈し、同様にスキャンロンも自分の契約主義はカント主義とも帰結主義とも一致しないと主張している。
パーフィットは第Ⅴ部で彼らコメンテイターの議論に回答しているが、中でもスキャンロンの契約主義について多くのページを費やし、パーフィット自身が『理由と人格』第Ⅳ部で開拓した人口倫理の諸問題にそれが適切な回答を与えられるように改訂しようとする。ただしパーフィットは哲学方法論に関するウッドの批判には回答していない。それは両者が倫理学に求めるものが違いすぎるせいだろう。
第Ⅵ部でパーフィットはメタ倫理学の諸理論を検討して、自然主義や非認知主義やエラー理論に反対して彼が〈非自然主義的認知主義〉あるいは〈理性主義〉と呼ぶ一種の直観主義の見解を支持する多様で周到な議論を提出する(後の第3巻ではこの立場は〈非実在論的認知主義〉と呼ばれることになるが、〈非実在論〉という名称はむしろミスリーディングかもしれない。パーフィットによれば、物理的な存在とは違う仕方ではあるが、理由も客観的に存在すると言えるのだから)。非自然主義をとる一方で規範的概念の存在論に関する見解にコミットしないパーフィットの見解はしばしば「静寂主義quietism」と呼ばれる(たとえばDavid Enoch, Taking Morality Seriously(Oxford University Press, 2011)127 n. 87; Mark van Roojen, Metaethics(Rotledge, 2015) 275-6; Doug Kremm and Karl Schafer,“Metaethical Quietism”, in T. McPherson and D. Plunkett (eds.),The Routledge Handbook of Metaethics (Routledge, 2018))。ただしそれは佐藤岳詩『メタ倫理学入門』(勁草書房、二〇一七年)で説明されている「静寂主義」(「道徳的な事実が存在しようとしまいと、私たちの日常には何の影響もなく、何の道徳的問題も解決されないから」、「道徳的な事実の実在をめぐって議論する必要はない」という立場とされる。同書188頁)とは異なるようだ。なぜならたとえば103節からも明らかなように、パーフィットは規範的な事実と真理が客観的に存在するか否かはとても重要だと考えているからだ。
自然主義に対するパーフィットの反論は長大だが(第二十五章から第二十七章)、その重要な部分は〈自然的事実と規範的事実は指示対象・外延が同じことがあるとしても、その概念・内包は異なる〉というように表現できよう。二十世紀のメタ倫理学の世界では非認知主義が主流だったのに対して最近では非自然主義的認知主義への大きな揺り戻しが見られるが、その一因が本書にあることは疑問がない。私はその議論の中でも第三十四章、特に121節の「収斂の主張」(これは64、80節の「収斂の議論」とは別物)を特に重要だと評価したい。というのは、認知主義や実在論に対する一般の人々の疑念は、価値がはたして実在と言えるかといった形而上学的な問題や、われわれの道徳的信念がいかに形成されたかといった認識論的な問題より、理性的な人々の間にも道徳に関する広範な意見の不一致が見られるという否定できない事実に起因することが多いと思われるからだ。パーフィットはこの事実にもかかわらず、理想的な条件の下ではほとんどの人が十分に類似した規範的信念を持つという主張を支持する議論をたくさんあげている。果たして数学や論理学の領域のように倫理の領域でもそのような収斂が生ずるかどうかはさらに検討されるべき問題だが、パーフィットがここで認知主義を擁護する強力な議論を提出していることは確かだ。
本書の補論にはカント倫理学や存在論や刑罰の正当化に関する独立性の強い文章がまとめられている。その中でも「なぜ世界が存在するのか?」という特に壮大な問題を扱った補論Dについては、ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(寺町朋子訳、早川書房、二〇一三年)という好著の併読を勧めたい。そこには生身のパーフィットも登場する。
ところで倫理学の現状について知識がある読者は、パーフィットがこの大著の中で徳の倫理virtue ethics にほとんど触れていないことに気づかれたことだろう。徳の倫理は今日規範倫理学の世界で帰結主義とカント主義に並ぶ第三の立場として存在感が強いのだが、彼は徳の倫理には55節の末尾(および第3巻の183節)で〈動機帰結主義〉の一種としてわずかに触れるにすぎない。その理由は、徳の倫理が「正しい行為」の指針を与えることにあまり関心を示さないという事実に求められよう。徳の倫理の提唱者であるジュリア・アナスが、「ここ[徳の倫理]では、あらゆる正しい行為がまさに正しい行為として共通に持っている倫理的に実質のある何かがあるということが否定され、それゆえまた、あらゆる正しい行為をまさに正しい行為として取り出すことができる何らかの有益な基準があるということも否定される」(アナス『徳は知なり』(相澤康孝訳、春秋社、二〇一九年)八六ページ。強調は原文)と言っている通りである。おそらくパーフィットから見れば、正しい行為の指針を与えようとしない徳の倫理は、そもそも規範的道徳理論としての資格をはじめから放棄していることになるのだろう。
パーフィットは『理由と人格』の序文で「[ピーター・]ストローソンは記述的哲学と改訂的哲学という、哲学の二つの種類について述べている。記述的哲学はわれわれが本能的に想定していることを支持する理由を与え、われわれ自身とわれわれが住んでいる世界とに関するわれわれの信念の普遍の中核を説明し、正当化する。私は記述的哲学を大いに尊敬している。しかし私は気質上改訂派だ。[中略]私はわれわれの想定への挑戦を試みる。哲学者はわれわれの信念を解釈するだけであってはならない。それが誤っているとき、哲学者はそれを変えるべきなのである」と書いた。彼は実際に『理由と人格』の中で、人格の同一性や人口倫理に関して、いくつもの常識に反するとはいえ、よく考えてみれば説得力ある多くの主張を行った。
ところが哲学のその二分法を用いれば、本書の哲学はずっと「記述的哲学」に近づいているように思われる。パーフィットは第1巻でカント主義と帰結主義と契約主義という三つの今日有力な道徳理論が結局はほとんど同一の内容に帰すると主張して、規範倫理学における有力な理論の融合をはかったからである。ただしシェフラーも指摘しているように、パーフィットは第2巻のメタ倫理学に関する部分では彼の言う〈理性主義〉を一貫して主張して、それ以外の諸説に反論している。ところがパーフィットは二〇一七年に出版された第3巻では、メタ倫理学の分野でもその後の意見交換の結果、表出主義者のアラン・ギバードと自然主義者のピーター・レイルトンと基本的に意見の一致を見たとして喜び、さらに規範倫理では〈三重理論〉の中に〈常識道徳〉も統合するなど、協調主義的傾向が一層強くなった。
本書については第1巻523―530ページの長大な巻末注で言及されている、第1巻の刊行前のヴァージョンに基づいて出版されたEssays on Derek Parfit’s On What Matters の他にも、パーフィットの逝去直後に二冊の論文集が刊行されている。それは
Simon Kirchin (ed.), Reading Parfit, Routledge, 2017
Peter Singer (ed.), Does Anything Really Matter? Essays on Parfit on Objectivity, Oxford University Press, 2017.
である。前者のサイモン・カーチンの編著には、十一人の著者による九本の論文(共著論文が二本)とそれらに対するパーフィットの五十ページ弱のリプライが収められている。後者のピーター・シンガーの編著には、十四人の著者による十三本の論文(共著論文が一本)が収められている。少数の例外はあるが、両者の論文の大部分は本書第Ⅵ部(および部分的に第Ⅰ部)のメタ倫理学に関する部分を論じている。いずれも本書の内容の理解を深める論文集だが、特にシンガーの編著は編者自身をはじめ本書第Ⅵ部で批判の対象となったブラックバーンやギバードやレイルトンやシュローダーやダーウォルといった錚々たる哲学者が寄稿しているというだけでなく、パーフィットが論文集への応答としてその一倍半以上の、全四部二十章五十九節に及ぶ五百ページ近い大著を書き下ろし、『重要なことについて』の第3巻としてまとめた(こちらもパーフィットの逝去後刊行)という点で極めて重要である。従ってシンガーの編著と『重要なことについて 第3巻』の関係は、本書の第Ⅳ部と第Ⅴ部の関係に似ている。
パーフィットはこの第3巻においてさまざまな批判に対し自らのメタ倫理学の見解をさらに明確化して回答しているが、前記のようにそこでは諸理論間の宥和を目指す傾向が見られる。レイルトンとギバードはそれぞれ一節を寄稿してパーフィットと大体において意見の一致を見たことを述べ、「ハッピー・エンディング」に至った。そしてパーフィットは第3巻の最後の部分でシンガーの依頼(挑発?)に応えて、〈行為帰結主義〉と〈普遍主義〉を批判的に検討し、〈常識道徳〉に近い〈規則・動機帰結主義〉を提唱して、これらの見解も〈カント主義〉と〈契約主義〉と〈規則帰結主義〉を統合した統一理論に組み込むことができるとも主張した。私はもし機会に恵まれればこの第3巻も訳出したいと願っている。
また三巻本のパーフィット追悼論文集がオックスフォード大学出版会から刊行される予定で、すでに第1巻と第2巻の、
J. McMahan, T. Campbell, J. Goodrich and K. Ramakrichman(eds.), Principles and Persons, 2021.
― (eds.) Ethics and Existence, 2022
が刊行されている。この二巻には『理由と人格』と論文「平等か優先か」(広瀬巌編・監訳『平等主義基本論文集』(勁草書房、二〇一八年)に収録)と『重要なことについて』の第1巻と第3巻に関する諸論考が収録されている。
本書の邦訳を勁草書房から依頼されたのは二〇一四年の晩秋にさかのぼる。それは私がサバティカル休暇中、ハーヴァード大学における短期間の在外研究のために渡米し、そこに客員教授としてやってきたパーフィットに久しぶりに再会する直前のことだった。カント哲学やメタ倫理学の専門家など、本書を訳すのにふさわしい人は当時でも少なくなかったはずだと思うのだが、その人たちが原書で千四百ページに及ぶあまりの分量に恐れをなして引き受けかねたところ、私はパーフィットの前著『理由と人格』をすでに訳したことがあるし彼を個人的に知っているという事情を買われて依頼されたようだ。『理由と人格』の翻訳の際は依頼から出版まで足かけ三年かかったので、その二倍の長さの本書は「五か年計画」で完成させるつもりだったが、他の仕事に時間を取られて計画を延引させてしまったことは出版社にも読者の皆さんにも申し訳ない。本書の翻訳はエルミタージュ級の広大な宮殿を略図だけを頼りに一人で隅々まで歩き回るような経験だった。自分がどこに向かっているのか見当がつかないこともあれば、不意に視野が広がることもあった。
最後に近い段階になって、文体の統一を必要としない第Ⅳ部の四人のコメンテイターの寄稿分のうちウッドとハーマンの部分を奥野久美恵さんに訳してもらって、ようやく足かけ九年で肩の荷を下ろせたことになる。『後拾遣和歌集』の序の文章を借りれば、「この仰せ、心にかかりて思ひながら、年を送ること、ここの返りのはるあきになりにけり」である。
原書は出版を急かされてか、出典個所やページ数の表記をはじめ編集・校正上の不備や誤りと思われる個所が散見される。訳書ではそのような個所を大部分断わらずに直したが、判断が及ばなかった場合や表記の不統一をそのまま残した場合もある。また原書の注には番号がないが、翻訳の際に付番した。『理由と人格』の翻訳の時はエアメールで疑問点をパーフィットに質問することができたが、本書の訳出にあたっては私が翻訳中であることは連絡していても、急逝されたため質問を送る機会がなくてとても残念だ。
訳出にあたっては大部分の場合、たとえば“will”(助動詞でない場合)を「意志(する)」、“imply” を「含意する」、“suggest“ を「示唆する」、“rational“ を「理性的」、“reasonable”を「合理的」(しかし“rationality” は「合理性」)などとあえて統一的に訳した。他の哲学書はいざ知らず、本書にはこの方針が適していると思ったからであって、決して私の怠惰や語彙の乏しさが原因ではない。というのは、パーフィットの文体はしばしばユーモラスだが、決して深い含蓄や微妙なニュアンスを含むような文学的名文ではなく、あくまでも著者の主張を正確に伝えようとすることを目的としていて、一つの単語を複数の意味で用いたり、同じ観念を示すために別々の言葉を使ったりすることがほとんどないからだ。またある哲学論文集の訳書にあった、「文法に従った忠実な翻訳文は、訳者の理解している程度を越えて原文の趣旨を読者に伝達することができる場合が多い」(嶋津格「まえがき――訳者解説にかえて」『倫理学と哲学との架橋 ファインバーグ論文選』東信堂、二〇一八年、ⅶ頁)という文章に私が共感するからでもある。普通の日本人は「私は示唆する」などという文章を書かないと思う人がいたら、その人は、パーフィットは日本人でないし、また普通のイギリス人でもなかったということを想起していただきたい。私は原文がすけて見える訳文を目指した。
ただしパーフィットの文章は、それぞれの文章は明晰だが、文章間の関係が順接なのか逆接なのか理由づけなのか例示なのか並列なのか対比なのか譲歩なのかが一見明白でないことが多いので、適宜「からだ」「だが」などの言葉を補った。
また序文の冒頭でパーフィット自身が言っているように、本書はかなり独立した部分からなっていて、著者も読者が通読することを予想していないから、読者は本書の分量の膨大さにたじろがずに、関心を持つ部分・理解しやすい部分から読んでいただいた方がよいだろう。
なお原書と同様、本訳書のカバーには熱心なアマチュア写真家だったパーフィットがサンクト・ペテルブルクで撮影した写真を使った。その被写体は、第1巻はエルミタージュ劇場と旧エルミタージュの間にある「冬の運河」であり、第2巻は「大学河岸」である。
最後に、翻訳に協力していただいた奥野久美恵さんと煩雑で時間のかかる編集作業を担当していただいた勁草書房の鈴木クニエさんに感謝する。
二〇二二年一月二日(パーフィット没後五周年の日)
森村 進