憲法学の散歩道 連載・読み物

憲法学の散歩道
第31回 高校時代のシモーヌ・ヴェイユ

 
 
 シモーヌ・ヴェイユは、截然として容赦がない。彼女によると、

哲学の適切な方法は、解決不能な諸問題のあらゆる解決不能性を明晰に理解し、ただそれらを熟考することである。じっとたゆむことなく、年月を経ても、希望を抱くこともなく、辛抱強く待ちつつ。この規準に照らすと、本当の哲学者はわずかしかいない。わずかならいるとさえ言いがたい*1
 
哲学とは(認識等の問題を含めて)、行動と実践以外のなにものでもない。哲学について書くことがこれほどまでに難しいのもそのためだ。テニスやランニングの専門書を書くの同じように、いやそれよりも難しい*2

 修道僧を思わせる彼女の生涯そのものが*3、行動であり実践であった。
 

 
 シモーヌは1909年、ユダヤ系の裕福な医師の家庭に生まれた。彼女はパリのリセ、アンリ四世校の高等師範受験クラス(cagne)を経て高等師範学校(l’École normale supérieur)を卒業した。
 
 1931年、高等師範学校を出たシモーヌは、オーヴェルニュのル・ピュイ(Le Puy)のリセに哲学教師として着任する。ル・ピュイにはパリから母親が付き添ってきた。リセの受付掛は、シモーヌを新入生と間違えたそうである*4
 
 シモーヌは、小学校教師の初任給以上の暮らしはしないと決心し、給与の残りは、労働組合への寄付やその機関紙の講読に当てた。それでも母親は、彼女のために町で一番のアパートを借りることにし、同時に着任したフランス語の教師とルーム・シェアするよう手配した*5
 
 シモーヌは潔癖症で食べ物の好き嫌いが激しく(果物に染みが1つあるともう食べない)、きわめて高価で新鮮なものしか食べようとしなかった。母親は同居する同僚に日々の買い物をするよう頼み、買い物代の差額を支払っていた。シモーヌは自分がどれほど高価な食物をとっていたか知らなかったわけである。母親は毎月、町を訪れる際、シモーヌのための靴下やシャツを衣装棚に忍び込ませた*6
 
 哲学は教室での授業にはとどまらない。哲学は行動と実践である。彼女は、学校から休暇をとっては、工場や農場で働き、組合活動に献身した。しかし、彼女の行動と実践はときに悲喜劇の様相を示す。
 
 ル・ピュイで彼女は炭鉱を訪れ、許しを得て削岩機を使った。止められなければ、彼女は倒れ込むまで続けていたはずである*7。ブールジュ(Bourges)のリセで教えていたときは、生徒の親戚である農家の夫婦に頼み込んで仕事を手伝うことにしたが、シモーヌは暇さえあれば夫婦の暮らし振りを究明しようとした。夫婦は、農家の暮らしがとてつもなく不幸で報われないものだと彼女が思い込んでいるらしいことに気がつき、訪問をやめるよう人伝てに頼んだ。「あの人は勉強のしすぎで頭がおかしくなったのだ」と夫婦は考えたとのことである*8
 

 
 1936年2月、スペインで人民戦線政府が成立し、7月には軍の叛乱が勃発した。シモーヌは両親にスペイン行きを宣言した*9。彼女はジャーナリストを装い、組合仲間の助けを借りて国境を越え、伝をたどって多国籍の義勇軍部隊に同行する。さらに彼女は、自分がスペインに来たのは、旅行や視察のためではなく、戦うためだと言い、銃を手に入れる。ただ、彼女の極度の近視を知っていた同僚は、実戦や訓練に際して彼女の前方を横切ることを慎重に避けていた*10
 
 シモーヌは近視のせいで、ある日、料理用に煮えたぎっていた油の中に片足を突っ込んだ。大火傷を負った彼女はバルセロナに送られた。それを知った両親はバルセロナに赴き、方々を尋ね歩いて、ようやく診察もろくに受けずにベッドに横たわっていたシモーヌを発見した。両親は彼女を説得して一緒にフランスに帰国した。両親に発見されなければ、彼女は片足を失っていたはずである*11
 
 彼女が同行していた多国籍部隊は、その後間もなく壊滅的な打撃を被り、生存者はほとんどいなかった。大火傷を負ったおかげで、彼女は生きのびたことになる*12
 

 
 シモーヌ・ヴェイユの詳伝を著したシモーヌ・ペトルマンは*13、アンリ四世校で、エミール・シャルティエ*14の哲学の授業を、シモーヌとともに受講している。シャルティエは、アラン(Alain)という筆名で知られる。
 
 アランは、徴兵年齢を超えていたにもかかわらず砲兵として第一次大戦に参加し*15、学歴が保障していた士官への昇進も拒絶した。他の人々が危険に直面しているのに肘掛け椅子にすわることは不名誉だというのがその理由である*16。足の負傷だけで前線での戦闘を生きのびた彼は、理性の支配に関する幻想とともに、政治指導者に対する信頼をもすべて失い、戦闘的平和主義者となった*17
 
 シモーヌはアンリ四世校においてすでに、修道僧を思わせる中性的服装、極端な知的厳格さ、容赦ない論理、揺るぎない不屈の意思を備えていた*18。ペトルマンは、シモーヌがアランに、その思考の核心的な部分を負っていることは確かだと言う。アランの授業でシモーヌの哲学は誕生した*19。シモーヌの哲学は、アランの哲学から出発し、それを延長したところにある*20
 
 アランの哲学を要約することは至難であるが、その核心的な思考として、ペトルマンは以下の諸点を挙げる。当時のリセの教科書や授業内容を占めていた多くの観念を否定するものである*21

・心理学は通常の意味での科学ではあり得ない。厳密に言えば、意識に関する事実は存在しない。単一の全思考があるのみである。
・思考は感覚から生まれるものではない。むしろ感覚が、われわれの思考全体を通じて磨き上げられる。
・低いレベルの意識は高いレベルの意識なしには存在し得ない。
・無意識は心理的事象としては存在しない。無意識なのは身体のみである。
・心理的意識は道徳的意識と分離し得ない。単一の意識しか存在せず、それはわれわれが道徳問題を提起するとき生まれる。良心の咎めなしに意識はない。善の観念は至高の観念であり、それが他のすべての観念を生み出す。
・善の意思、むしろ単に意思が、精神生活のすべてを支える。
・悪の意思は存在しない。意思と悪意とは互いを排除する。善への意思か悪への意思かではなく、意思するか意思しないかである。
・道徳原理は、「私はそうすべきである」ではなく「私はそう意思する」である。私がすべきこと、それは自由であること、すなわち意思することである。
・自由でない意思は存在しない。自由でないなら、それは意思ではない。自由でないものは意思ではなく、欲求や熱情である。
・行動を伴わない意思は存在しない。意図や決心は意思ではない。意思は行動にしか存し得ない。
・選択の問題は存在しない。意思の役割は、選択することではない。行動はつねに開始されている。意思の役割は選択と折り合いをつけ、それを善きものとすることにある。
・継続を通じて、悪しき過去を善きものとすることができる。人は思い違いや熱情に駆られて行動を開始するが、過ちと熱情を素材として、人は自由を生み出すことができる。
・想像は、ある意味では存在しない。想像はそれ自体、想像上のものだ。われわれは事物の写真をとるように、心の中にイメージを生み出すわけではない。イメージと呼ばれているのは、実際に見てはいないのに、ある事物を眼前にしていると信じ込ませるわれわれの身体の動きの意識にすぎない。
・夢は、独立した事象としては存在しない。それは、多少本物らしく作り上げられた知覚にすぎない。夢は、発生はしたものの全く不完全な知覚である。
・外界の世界の存在という問題はない。精神は知覚するもののみを思考する。精神は存在するものしか思考し得ない(その表象の正確さに程度の違いはあるが)。
・しかし、精神が存在する事物を把握する際の形式と原理とは、精神のそれであり、事物のそれではない。精神がそれ自身であるに従い、自身とその原理により忠実であるに従い、事物をよりありのままに認識する。
・科学の形態と原理は、知覚の形式と原理そのものである。知覚と結合しない科学に価値はない。
・知覚と結合した判断は、論理より価値があり、より真実である。
・芸術家の構想は取るに足らず、芸術的価値は全くない。芸術家は、現実化した作品より美しい心の内のモデルを写し取ることで美を創造するのではない。芸術家はまず行動し、作り上げたものを熟視し、作業を継続し、次第に、作業を通じ作品自体において、予想もし得ない美の形態を発見する。
・かくして美に到達するのは、作業と判断を通じてである。神秘的な創造の能力によるのではない。
・芸術と思考における天分は、意思にこそある。ヒロイズムや聖性と同じである。思考の人、行動の人と芸術家の間にさしたる違いはない。
・複数の信念に直面してためらう迷いではなく、自由であろうとして、必ずしも信念を変えようとはしないが、信念から距離をおくような仕方での迷いというものがある。
・意思にもとづく信念は、懐疑と両立しなくはない。それどころか、懐疑はあらゆる真なる思考に見出すことができる。それは理性の特質である。
・観念はそれ自体で、思考する人と独立に、真でありはしない。厳密に言えば、真なる観念は存在せず、むしろ、真なる人の真なる思考が存在する(これは、真理が主観的・相対的であることを意味しない)。
・注意(attention)とは、普通言われるような、ある対象や思考に心を奪われるような、心が何かに占拠されることを意味しない。それどころか、本当の注意は、懐疑と自由に満ちている。
・注意は熟考であり、とりわけ、対象を変化させられないときに行われる。人は通常、働きかけ得る対象を認識しない。奴隷は主人を認識するが、主人は奴隷を認識しない。科学は主として熟練や外的行動からではなく、むしろ宗教的観照から生み出される。
・習慣(l’habitude)は、厳密に言えば、拘束するものではなく、解放するものである。慣習(la coutume)は拘束する。習慣は、訓練を通じて自分自身を維持することである。

 シモーヌはアランの授業で数々のレポートを作成した。1926年2月に作成された「美と善」と題されたレポートには、アランが「とても素晴らしいtrès beau」と書き込んでいる。
 
 シモーヌはまず、道徳的行為とは、あれこれのルールに沿った行為ではなく、自由で予測不能な行為であり、芸術作品のように1つの創造であると言う。それは、自分自身に忠実な純粋な行為である。
 
 論述の中心となっているのは、アレクサンダー大王の逸話である。彼は、砂漠を行軍中、彼のために遠方から運ばれた水を砂上に撒いた。ともに行軍する兵士と同様に渇きを体験するため、特権を享受しないためである。「誰も、アレクサンダー自身でさえ、彼のこの驚くべき行為を予見してはいなかった。しかし一旦なされると、誰もがこうであるべきだと考えた」。善と義務とは、かくして自由な意思によって創造される。
 
 シモーヌは、アレクサンダーの行為は、一見したところ、誰のためにもならないと言う。それはアレクサンダーの純粋さ、その人間性を保持した。しかしだからこそ、それは皆のためになった。

彼が水を飲んでいれば、その悦びのため、彼は彼の兵士たちから切り離されていただろう……彼にとっての問題は、人であることだった……世界を救うために必要なのは、正しくあり、純粋であることだ……犠牲とは苦痛を引き受けること、自身の動物的欲求を拒否すること、苦悩する人々を自らともに苦しむことで贖う意思である。すべての聖人が水を撒いてきた。すべての聖人が、人々の苦悩から彼を切り離す悦びを拒否してきた。

 このテクストは、シモーヌのその後の生涯を予見させると、ペトルマンは言う*22。最終学期でのアランのシモーヌへの評価は、「素晴らしい生徒だ。輝かしい将来を期待する」というものであった*23
 

 
 1940年5月、ドイツ軍はフランスへの侵攻を開始した。同年6月、ドイツ軍のパリ侵攻を間近に控え、シモーヌは両親とともに、パリを発つ最後の列車で南を目指す。アメリカへの渡航ヴィザを取得するためマルセイユにしばらく滞在した後、船でアメリカに向かう。
 
 1942年6月、ニューヨークに到着したシモーヌは、ロンドンに拠点を置く自由フランス(la France libre)に加わろうとする。彼女には、2つのアイディアがあった。1つは前線の看護部隊である。パラシュートで前線に降下した白衣の看護婦たちが、自らの命を危険にさらしつつ、その場で瀕死の負傷兵を看護するという、ひめゆり部隊を想起させる驚くべきものである*24。いま1つは、彼女自身が占領下のフランスに潜入し、パルチザン活動に参加するというものである。
 
 彼女はアンリ四世校以来の知人であったモーリス・シューマン*25に自身のアイディアを記し、自由フランスへの参加を願う手紙を送った。シューマンの助力で、シモーヌは1942年11月、船でリバプールへ向かう。別れ際に彼女は、両親にこう言った。「私に人生がいくつもあるなら、その1つをあなた方に捧げたでしょう。でも私には1つの人生しかない」*26
 
 ロンドンの自由フランスの下で働くこととなったシモーヌであるが、彼女の献策はいずれも採用されることはなかった。前線に看護婦を降下させるというアイディアを上申されたドゴールの反応は、「彼女は頭がおかしいMais elle est folle!」というものであった*27
 
 彼女のフランス潜入については、賛成する者が誰もいなかった。彼女のいかにもユダヤ人という風貌からして、すぐさま逮捕されてしまうであろうし、そうなれば彼女だけでなく、抵抗運動の仲間も危険にさらされる*28
 
 シモーヌには、解放後のフランスのあり方に関する分析と執筆活動に専念することができるよう、彼女だけの部屋が与えられ、そこで『根をもつこと』を含む膨大な論考が執筆された。しかし、彼女は次第に健康を害するにいたる。彼女にとって執筆活動では、十分ではなかった。
 
 自分の身を危険にさらして苦難に耐えることを切望していたにもかかわらず、願いが叶わず悲嘆にくれたことも一因であろうが、そもそも彼女は食欲に乏しく、結核による衰弱もあって、ますます少量しか食べなくなっていた。占領下のフランス国民と同量の食事しかとらないと決意していたふしもある(占領下のフランス国民の食事量について、彼女が正確な知識を持っていたわけではなかったが)*29
 
 1943年4月15日、自由フランスの同僚の1人は、彼女が仕事部屋にいないことに気付き、ポートランド・ストリートの借間を訪れて、床に倒れ伏して意識を失った彼女を発見する。彼女自身の抗議にもかかわらず、直ちに入院することとなった。医師は回復を期待したが、そうはならない。食事をろくにとろうとしなかったためである*30
 
 彼女はロンドンを離れたサナトリウムでの療養を希望した。窓から見えるのが石壁ばかりのロンドンの空気の中で、回復するはずがないと彼女は訴えた。同僚は早期に入所可能なサナトリウムを探し、8月に彼女は、ケント州アシュフォードのグロウヴナー・サナトリウムに搬送された。
 
 1943年8月24日の夕刻、シモーヌは昏睡におちいり、その夜、逝去した。検死官による検死が27日、行われた。担当の医師、看護婦からの聴取をも踏まえた検死報告書は、次のように述べる*31

死因は心筋の衰弱による心不全であり、栄養不良と肺結核が心筋の衰弱をもたらした……故人は精神の平衡を失い、食事を拒否して自死した。

 検死官の結論は自殺であった。人々の苦難をともにしようとする彼女の純粋な行動と実践は、両親をはじめとする周囲の人々の膨大な助力と努力があってはじめて可能なものであった。尊い生涯であったが、それも一種の特権である*32
 
 アレクサンダーは、彼のため、遠路はるばる水を運搬した従者の努力をどう感じたであろうか。
 

*1 Simone Weil, First and Last Notebooks (Richard Rees trans, Wipf & Stock 2015) 335.
*2 Ibidem 362.
*3 独身、断食、苦行、禁欲、孤独といった彼女の生涯の特質は、デイヴィッド・ヒュームが、何の役にも立たず、分別のある者なら誰もが拒絶する「修道僧の美徳monkish virtues」と呼んだものである(David Hume, An Enquiry concerning the Principle of Morals (Tom L Beauchamp ed, Clarendon Press 1998) 73 [Section 9, Paragraph 3])。ヒュームの道徳観は快楽と苦痛を基礎としており、義務を核心とするもの(duty-centred)ではない(Don Garrett, Hume (Routledge 2015) 279)。
*4 Simone Pétrement, La vie de Simone Weil (Fayard 1973) 136. 本書には邦訳『詳伝シモーヌ・ヴェイユⅠⅡ新装版』杉山毅・田辺保訳(勁草書房 2002)がある。
*5 Ibidem 138−39.
*6 Ibidem 140.
*7 Ibidem 188.
*8 Ibidem 372−73.
*9 Ibidem 386.
*10 Ibidem 389.
*11 Ibidem 391−94.
*12 Ibidem 396.
*13 Simone Pétrement (1907−1992)は、フランスの哲学者。グノーシス主義の研究で知られる。
*14 Émile Chartier (1868−1951)はフランスの哲学者。著作に『幸福論Propos sur le bonheur』(1928)、『定義集Définitions』(1953)がある。
*15 開戦時、アランは46歳であった。
*16 Robert Zaretsky, The Subversive Simone Weil: A Life in Five Ideas (University of Chicago Press 2021) 80−81.
*17 Ibidem 65.
*18 Pétrement (n 4) 51.
*19 Ibidem 47.
*20 Ibidem 53.
*21 Ibidem 54−55.
*22 Ibidem 60.
*23 Ibidem 71.
*24 Ibidem 511−12.
*25 Maurice Schumann (1911−1998) は、フランスの政治家。自由フランスに参加し、戦後はポンピドゥー大統領の下で外務大臣を務めた。
*26 Pétrement (n 4) 642.
*27 Ibidem 667.
*28 Ibidem 668.
*29 Ibidem 681.
*30 Ibidem 674.
*31 Ibidem 692.
*32 ロバート・ザレツキーは、シモーヌの生き方は定言命法の要請に忠実な生き方であり、理想的ではあるが、ほとんどの人にとって不可能な生き方だと言う(Zaretsky (n 16) 159)。シモーヌの生き方が不可能なものだとの観察はその通りであるが、定言命法の要請に忠実だとの観察は、定言命法に関する通俗的な誤解にもとづくもののように思われる。カントの言う定言命法の要請は、普遍的法則として妥当させると自己破壊的となる格率を排除するためのものであり、人に不可能な生き方を強いるものではない(本連載第21回「道徳対倫理──カントを読むヘーゲル」参照)。

 
 
》》》バックナンバー
第21回 道徳対倫理──カントを読むヘーゲル
第22回 未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学
第23回 思想の力──ルイス・ネイミア
第24回 道徳と自己利益の間
《全バックナンバーリスト》はこちら⇒【憲法学の散歩道】
 
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。そして周縁からこそ見える憲法学の領域という根本問題へ。新しい知的景色へ誘う挑発の書。
 
2021年11月刊
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』
長谷部恭男 著

3,300円(税込) 四六判 288ページ
ISBN 978-4-326-45126-5

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b592975.html
 
【内容紹介】 勁草書房編集部ウェブサイトでの連載エッセイ「憲法学の散歩道」20回分に書下ろし2篇を加えたもの。思考の根を深く広く伸ばすために、憲法学の思想的淵源を遡るだけでなく、その根本にある「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのかといった憲法学の領域に関わる本質的な問いへ誘う。
 
本書のあとがきはこちらからお読みいただけます。→《あとがき》

長谷部恭男

About The Author

はせべ・やすお  早稲田大学法学学術院教授。1956年、広島生まれ。東京大学法学部卒業、東京大学教授等を経て、2014年より現職。専門は憲法学。主な著作に『権力への懐疑』(日本評論社、1991年)、『憲法学のフロンティア 岩波人文書セレクション』(岩波書店、2013年)、『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書、2004年)、『Interactive 憲法』(有斐閣、2006年)、『比較不能な価値の迷路 増補新装版』(東京大学出版会、2018年)、『憲法 第7版』(新世社、2018年)、『法とは何か 増補新版』(河出書房新社、2015年)、『憲法学の虫眼鏡』(羽鳥書店、2019年)ほか、共著編著多数。