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『 人間性の進化的起源――なぜヒトだけが複雑な文化を創造できたのか』

 
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ケヴィン・レイランド 著
豊川 航 訳
『人間性の進化的起源 なぜヒトだけが複雑な文化を創造できたのか』

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日本語版への序文
 
 『種の起源』を読み終えたときのことは今も鮮やかに覚えている。大学院生の頃だった。ダーウィンの自宅ダウンハウスの窓から覗く「植物に覆われミミズが這い回っている土手」の風景で締めくくられる最終段落を読み終え、私もロンドンのオフィスビルから街を見下ろしてみた。手つかずの自然などをわずかにでも期待したのは見当違いであり、眼下には醜きコンクリートジャングルが広がるばかり。がっかりしてしまった。しかし、そんな落胆も一瞬にしてワクワクへ変わった。都市があるという事実そのものに対して、そしてその複雑さに対して、進化生物学による説明は依然として必要だと気づいたからだった。このほんの瞬間に、その後三十年間の研究課題をつかんだのだ。
 この本は、人間のもつ、文化、テクノロジー、科学、そして芸術を司る能力の進化について綴ったものだ。一見すると、とても独特で人間らしいこうした能力は、一体どのように生まれたのか。この疑問を長年追求する道のりで、私は会ったことのない多くの日本の友人たち、つまり世界の反対側の研究者たちに助けられてきた。彼らは知らず知らずのうちに、勤勉さと独創性をもって難問への挑戦をサポートしてくれた。動物が知識や技能を他者の模倣を通じて獲得するかもしれない、というアイデアは古くからある。『人間の由来』(一八七一年)のなかでダーウィンは「類人猿は模倣をよく行う」と述べた〔邦訳は長谷川眞理子訳、講談社学術文庫、二〇一六年〕。前世紀を通して、動物行動学者や生態学者は、野生下の個体群に新規の行動が広がったという多くの事例を報告してきた。しかし、人間文化の動物行動的なルーツを探る科学的探求は、言ってみれば、半世紀あまり前の日本で始まったのだ。
 文化は動物のなかにも広く見られるという、今西錦司の驚くほど先見の明のある主張に触発され(今西、一九五二年)、日本の研究者は、給餌下におかれ自由生活を営む霊長類個体群に根づく「伝統」を記録しはじめた。なかでも有名なのは、さつま芋を洗うニホンザルだ。一九八〇年代後半、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの大学院生だった私は、一九五三年、日本海に浮かぶ幸島の小川で、若いメスのニホンザル「イモ」が土まみれのさつま芋を水洗いするのが水戸サツエによってはじめて観察されたという記述に出会った。さつま芋を食べる前に洗うという習慣がイモのいる群れに広まったことを報告した論文で、河合雅雄(一九六五年)は幸島で報告されるこうした独特な行動パターンを「プレカルチャー」と称した。それよりも早く、川村(一九五九年)によるニホンザルにおける社会的学習に関する別の論文で、そうした行動の変異を「サブカルチャー」とよんでいたことも、後になって学んだ。接頭語つきであるにせよ、両方の例で「文化(カルチャー)」という単語が使われたことは、サルと人間の行動の間に興味深いつながりがあるのにちがいないと私に思わせてくれた。文化という用語を使用したこと、そしてそれを裏づける魅力的な野外観察は、私たちの多くを興奮させた。人間文化の複雑さの謎めいた起源を探るための、きわめて重要な手がかりがここにあるにちがいない、そう思わせてくれた。
 一九八〇年代までには、多くの霊長類、そして鳥類や鯨類などの数多くの動物たちにおける文化の報告が急速に集まってきた。一九七八年、マクグリューとトゥーチンは、対角毛づくろい〔互いに片腕を上げ、クロスさせながら毛づくろいを行う〕という一見無意味ともとれる行動などの伝統をはじめて報告し、それが人間文化を特徴づける多くの基準を満たしていると力説した。この論文を契機に、特にチンパンジーにおいて、接頭語抜きで「動物の文化」が議論されはじめた(Goodall 1986; Nishida 1987; McGrew 1992; Boesch 1993; Wrangham et al.1994)。マクグリューはアフリカのチンパンジー個体群に、群れごとの行動レパートリーの大きな違いがあることを記録し、それがネイチャー誌に掲載されたホワイテンらの論文(一九九九年)の前身となった。
 日本の霊長類学者による、チンパンジー行動研究への卓越した貢献は、ここでもまた、私の理解の大いなる助けになってくれた。バークレーやケンブリッジでのポスドク時代、そしてセント・アンドリュース大学で駆け出しだった頃、私は伊谷純一郎、西田利貞、杉山幸丸、松沢哲郎、水戸サツエの仕事を学んだ。松沢によるチンパンジーの野外行動実験、たとえば木の実割り行動の発達、石器の使用、新しい道具の発明、新しい採餌行動の伝播について読んだことを、今日でも覚えている。これら研究は、私にとっての進むべき道を指し示してくれた。イノベーション、情報伝達、伝統、観察学習、そして教示行動といった、私自身の研究プログラムの中核を担ういくつものテーマは、ここで種を蒔かれたのだ。
 一九九五年、日本の科学者たちは私に三度目の大きな影響を与えることになる。ケンブリッジ大学でポスドクをしていた私のもとに、青木健一から幸運な一通の招待状が届いた。青木は、当時まだ珍しかった、遺伝子- 文化共進化という新興分野へ熱中していたうちの一人で、東京で開催される「西アジアにおけるネアンデルタール人と現生人類」という、人類進化に関するすばらしい会議への招待だった。人類進化分野を率いる錚々たる顔ぶれはほぼ全員そろっていた。門外漢だった私に参加する資格はなかった。しかし、出アフリカ単一起源仮説と多地域進化仮説の対立、現生人類とネアンデルタール人との交配の有無、また「後期旧石器時代」の技術発展はヨーロッパにおいて急速に生じたのかそれとも世界中でゆっくり発達したのか、といった議論に、どんどん引き込まれていった。赤澤威のチームがシリアのデデリ洞窟から発掘したネアンデルタール人の化石との強烈な出会いは、古代人類学への私の新しい恋心をさらに高めてくれた。東京という街で得た文化的体験、すなわち、いままで経験したことのない壮麗なホテル、これまでに食べたどんなものよりも美味しい食事、そして部屋に入るや優雅にお辞儀をする人々のすばらしさも、筆舌に尽くしがたかった。
 その後、セント・アンドリュース大学での私の仕事は、数理モデリングや動物を対象とした実験から、人間の社会的学習に関する実験的研究へと拡張していった。ここでは、亀田達也による先駆的な研究が、私の研究展開に重要な影響を与えることになった。亀田は、文化進化理論の核心をなす行動ルールに関する抽象的な予測をどのように行動実験で検証できるかを示した。彼の弟子の一人が私の研究室に加わりたいと言ってくれて嬉しかったし、これが、本書の翻訳者である豊川航と出会うきっかけだった。航は、革新的なやり方で、理論と実験的知見を見事に組み合わせるという、亀田イズムの伝統を引き継いだ。彼の在籍中は、科学的にとても生産的だっただけでなく、社交的にも楽しかった。あるクリスマスに、彼と彼の妻祥子がセント・アンドリュースのパブで披露した日本の漁師踊り〔どじょうすくいのこと〕の素晴らしさは、私の研究生活のハイライトの一つだ。本書を日本語に翻訳してくれた航には、大きな恩を受けた。これは大変な仕事だ。彼に出会えたことを、とても幸運に思っている。
 原著 Darwin’s Unfinished Symphony が最初に出版されたのは二〇一七年。それより少し前、私はエボデボやエコデボといった分野、そして本書でも紹介した行動科学の知見に触発され、「総合進化説の拡張」と名づけられた、進化の因果関係をより広く理解しようと訴える論文をいくつか書いていた(Laland et al. 2014, 2015)。ここでも、私の視野を前進させ、遺伝というものの本質について、一般的に受け入れられているよりもはるかに広い解釈ができるようになったのは、多くの動物が学習で得た知識や技能を子孫へ伝えるという知見に加え、日本の霊長類学者たちの仕事が遺した影響だった。本書で追求されたテーマ、すなわち、生物が自ら進化を駆動すること、発生および自然選択がはたらく環境の構築、可塑性に誘導される進化、発生プロセスが表現型発現にバイアスをかける仕組みなどの多くのテーマは、人間の進化的起源に限定されず、より広く当てはまることが、私には見えはじめている。おそらく、時が経てば、こうしたテーマに関心を向ける研究者たちは本書のことを、進化理論の因果構造をより深く理解する旅の第一歩だったと考えるようになるだろう。今西をはじめ、前述した日本の研究者たちも、いささかぼんやりとした形だったかもしれないが、これらの洞察の多くを予見していたのではないか、とどうしても思えてならない。そうだとすれば、日本の科学者がこの科学的発展に重要な役割を果たしてきたというのは言い過ぎではないだろう。その英知に、この場を借りて感謝したいと思う。
 
二〇二二年九月、セント・アンドリュース、スコットランド
ケヴィン・レイランド 
 
 
はじめに
 
 この本は大勢の科学者たちの努力をまとめたものである。著者は私一人だが、私の研究室のメンバーや大勢の共同研究者たちによる努力の成果だ。私たち研究者のチームは、過去三十年にわたり「文化の進化を理解する」という難問に挑戦してきた。この本を通して、人間の心、人間の知性、人間の言語、そして人間の文化の進化的起源について、それから人間のテクノロジーや芸術が成し遂げた偉業について、科学的に納得のいく説明を示せたらいいと願う。だがそれ以上に、この本は科学という営みについて赤裸々に語る研究譚でもある。私たちの悪戦苦闘、筋の悪い問題設定に溺れ足掻く様子、あるいは「わかった!」というひらめきの瞬間について包み隠さず告白し、科学的冒険の成功と失敗を披露しよう。これは私たちの物語なのだ。私たち、つまり、これまでレイランド研究室に所属したメンバーが、人間文化の起源という、魅力的で途方もない謎へ挑んできた記録。なるべく読みやすいように心がけて書いたつもりだが、私は作家ではないし、小説のようにドラマチックでテンポよく話が展開することは期待しないでいただきたい。とはいえ、実験や理論の発見から研究の手がかりが次第に集まっていく様子は、まるで推理小説を読むようなワクワク感があるはずだ。
 本文中で紹介させてもらった研究者諸氏に対して、はじめに感謝の意を表したい。私はこれまで数多くの才能あふれる研究者と仕事をする機会に恵まれてきた。そして数え切れないほど多くの学部生、修士学生、博士学生、ポスドク研究員、そして同僚や他大学の仲間たちによる努力とひらめき、巧みな実験、見事な理論研究に支えられてきた。(中略)
 この本の着想を得たのは、およそ三十年前、私がユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで大学院生だったときだった。私はその頃、ジョン・ボナーの素晴らしい書籍『動物は文化をもつか』(一九八〇年、プリンストン大学出版〔八杉貞雄訳、岩波書店、一九八二年〕)に感銘を受けていた。ボナーによる大きな視野、そして題材となる問題スケールの大きさに惚れてしまった。しかし、動物の社会的学習の研究を長年牽引してきた最古参、マックマスター大学の心理学者ジェフ・ガレフとのやりとりを通じて、ボナーの仕事を一歩引いた視点で捉えることができるようになった。動物にみられる社会的学習と行動の伝達から、一体どのようにして人間の文化が進化しえたのか。これを理解するためにはボナーの説明だけでは不十分だということをジェフが気づかせてくれた。このジェフとのやりとりは、文化の進化にまつわる謎を解き明かすためにはもっとたくさんの研究が必要だということも示してくれた。ジョン・ボナーによる先見の明とジェフ・ガレフ流の厳密さを追求する姿勢とが共鳴し、いつかこの難問に挑戦してみようという気持ちが私の心に芽生えはじめた。
 本書の出版を担当してくれたプリンストン大学出版のアリソン・カレットには、本書を著す覚悟が私のなかに整うよりも十年は早い段階で、書くよう勧めてくれたことに感謝したい。また、ベッツィー・ブルメンタールとシーラ・ディーンには編集を手伝ってもらった。たいへん長引くこととなった執筆期間を通して、たえず支援と励ましを与えてくれたプリンストン大学出版のすべての人々に感謝している。
 本書の多くは、サバティカル(研究休暇)を利用して、英国ケンブリッジ大学実験心理学部はニッキー・クレイトンの研究室に滞在している間に執筆された。私をアットホームな雰囲気で迎え入れてくれ、落ち着いてかつ刺激に満ちた、とても快適な執筆環境を提供してくれたニッキーはじめ比較認知研究室の皆さんに大変感謝している。本書の最終章は、この交流から特に恩恵を受けている。また、本書に掲載するための画像を提供してくれた、ジリアン・ブラウン、ショーン・アーンショー、ロス・オドリン= スミー、スーザン・ペリー、イレーナ・シュルツ、カロリーネ・シュープリ、カレル・ファン・シャイクに大変感謝する。
 英国バイオテクノロジー・生物科学研究会議(BBSRC)、自然環境研究評議会(NERC)、英国王立教会、欧州連合研究・技術開発フレームワーク・プログラムⅥ・Ⅶ、欧州研究評議会(ERC)、およびジョン・テンプルトン財団には、私の研究に対して財政的な支援をしていただいたことに感謝したい。特に、長年にわたって私の研究を支援してくれたジョン・テンプルトン財団のポール・ウェイソン、ケヴィン・アーノルド、そしてヘザー・ミクルライトに感謝する。
 最後に、私の博士論文を指導してくれたヘンリー・プロトキンにとりわけ感謝の意を示したい。私は彼にたくさんの借りがある。ヘンリーは、絶え間ない忍耐と優しさと励ましをもって、私に研究のいろはを教えてくれた。実験計画の立て方、批判的思考力、理論と実証の両立のコツ、そして重要な細部の見極め方を鍛えてくれたのは彼だった。毎週金曜の朝に彼と議論を交わすことができたのが、博士学生生活での一番の思い出だ。彼とともにあんなにたくさんの時間を過ごすことができて、私は幸せだった。
 
二〇一六年三月 英国セント・アンドリュースにて
ケヴィン・レイランド
 
 
訳者あとがき
 
 本書は、ケヴィン・レイランド(Kevin N. Laland)著“Darwin’s Unfinished Symphony – How Culture Made the Human Mind” (Princeton University Press, 2017) の全訳だ。ただし索引は原著を参考にしつつ、日本語読者に使いやすいよう作り直した。また原文は小見出しが一切なかったが、原著者の了解を得て、訳者が小見出しを挿入した。
 原著の題名をそのまま訳せば「ダーウィンの未完成交響曲:いかにして文化が人間の心(マインド)を作ったか」。その名のとおり、この本は、ダーウィン以来の進化生物学で最大の難問ともいえる、人間という動物のもつ知性や心的性質、いわば「人間らしさ」の進化的起源を、文化進化を一つの軸に据えてひもとこうという一連の研究プログラムが蓄積してきた過去三十年の成果の集大成だ。著者はその第一人者である。レイランドといえば、フェルドマン、オドゥリン= スミーとともに「ニッチ構築理論」を体系づけた先駆者としてよく知られている。最近では、「総合進化説の拡張(Extended Evolutionary Synthesis; EES)」を提起し主導する一人でもある。その著者が数多くの共同研究者たちとともに大学院生の頃からずっと取り組んできた、まさに彼の研究の本丸といえるテーマをまとめた本書は、ダーウィン『人間の由来』への、現代科学からの返歌だ。
 とはいえ、このテーマに関心をもたれる読者なら、こう疑問に思うかもしれない。文化と人間性の共進化に迫った日本語の文献は他にもあるのに、この本を読むべき理由はなにかと。たとえば、ジョセフ・ヘンリック著『文化がヒトを進化させた――人類の繁栄と〈文化- 遺伝子革命〉』(今西康子訳、白揚社、二〇一九)をすでに知っている読者であれば、いまさら文化と遺伝子の共進化フィードバックがいかに重要かを説かれても新鮮味はないなどと早とちりし、そのまま本を閉じてしまうかもしれない。あるいは、動物行動学や進化生物学一般に関心をもたれる読者にとっては、文化進化が人間進化の鍵であるという主張を前にしたとき、ヒト以外の、文化をもたない動物の進化とはなんら関係なさそうな話題だなと、やはり早とちりで、書店の棚へそっと本書を戻されてしまうかもしれない。それは不本意だ。私には、そうした早とちりが全くの見当違いだということをここで伝える責任がある。むしろ、そういった方々にこそ手にとってほしいと願っている。なにより、あなたが私のように訳者あとがきから先に読むタイプの読者であることを期待している。
 著者レイランドは英国スコットランドの由緒ある町セント・アンドリュースで動物行動学および進化生物学の教授を務めている。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンはヘンリー・プロトキンのもとで心理学の博士号を取得した後、カリフォルニア大学バークレー校のポスドク時代にはスタンフォード大学の集団遺伝学者マーク・フェルドマンと共同研究し、次いでケンブリッジ大学の動物行動学講座で講師を努めていたことからも、著者の学際的な姿勢がわかる。こうした著者自身の研究者としてのあゆみが生き生きと描かれる点は本書の見どころの一つだ。若かりし頃の著者がいかにして学問的興味に出会い、大いなる問いの前に打ちひしがれ、幸運や偶然に何度も救われながら、研究者として歩を進めていく様子はとてもスリリングだし、サイエンスという営みの面白さを教えてくれる。
 しかし、なにより本書を面白く、ユニークにしているのは、動物行動学からの豊富な知見だろう。著者の博士課程時代の研究テーマはドブネズミの社会的学習だったし、その後のキャリアでも一貫して、小魚を含めさまざまな動物を研究対象としていた。「文化の進化的な起源を知りたい研究者にとって、人間と比較するべき対象は当然ながらサルや類人猿だ。しかし、私自身は魚類を通してこのテーマを追ってきた」と著者自身が述べるように、トゲウオやグッピーを使ったあの手この手の巧みな実験が紹介される。魚の実験を通し、動物の模倣行動の巧みさが少しずつ見えてくる道程は圧巻だ。さらに、そうした動物行動学実験から得られた知見を理論的に束ねるべく、アクセルロッドによる囚人のジレンマトーナメントに倣った「社会的学習戦略トーナメント」を開催し世界中を巻き込みながら、生物一般に当てはまるべき模倣行動進化の普遍的理論が浮かび上がってくる。
 著者が、大型類人猿やヒト族の祖先種だけでなく、もっと幅広い動物群を射程に入れて話を進めるのには、彼自身の研究歴がそうだからというだけでなく、他にも積極的な理由があった。本書の第Ⅰ部「文化の基礎」では、文化伝達の基礎をなす模倣行動や社会的学習が実にさまざまな動物で見出されること、そしてそれはなぜなのかが、精緻な理論や豊富な実証データをもとに展開される。クジラや鳥の群れにさえ、「文化」とよびたくなるような(むしろ、定義によれば文化とよばざるをえないような)現象が数多く知られている。しかし、そうした動物の文化についてつぶさに観察すればするほど、「決して埋められそうにない隔たりが、人間の認知能力および文化と、他の動物が達成しえたものとの狭間に口を開けて」いることを認識させられる。たしかに文化は多くの動物に存在するし、自然界でさほど珍しいものではないらしい。では、なぜ、他の動物は宇宙ステーションを建設していないのか、と著者は問いかける。人間の特徴のうち、なにかが決定的に他の動物たちとは違ったのだ。
 ヘンリックはこれを「進化のルビコン川を渡った」と表現し、彼の本でも最後の一章を割き、なぜ人間だけが、累積的文化創出という名のルビコン川を渡れたのかについて論じた。それは大まかには本書の主張とは矛盾しない説だった。しかし、ヘンリックの本は、ルビコン川を渡ったあとに生じる遺伝子- 文化共進化プロセスに重点が置かれ書かれている。累積的文化進化を実現した生物集団だけが経験する特別なタイプの進化メカニズムが、いかに人間の独自な行動や社会を作ったかを鮮明に描く。言い換えればこれは、人間、あるいはヒト族が、地球の生物界ではたまたま唯一占めることになったきわめて特殊なニッチにまつわる、孤独な物語。
 一方、本書は、なにものかが進化のルビコン川を渡り切る以前から話が始まる。アラン・ウィルソンの「文化駆動仮説」は、脳容積が大きく文化伝達が得意な動物種ほど行動形質や形態形質の進化速度が高く、それがさらなる認知能力の進化を促すだろうと予言した。もしも文化駆動仮説が正しく、認知能力と社会的学習の精度とが自己触媒的に共進化するのなら、いずれ「ルビコン川」はなにものかによって渡られることになったはずだ。著者らのチームや同業者たちの努力によって、文化駆動仮説を支持する証拠が鳥類や霊長類系統から集まってくると、それはもはや単なる憶測とはよべなくなってくる。人間の誕生は単なる偶然なんかではなかったのだ。人間文化や人間性が誕生したのは、認知能力を発達させる自然選択圧や、都合のよい生態学的環境が、たまたま、天文学的な運の良さで存在してくれたおかげだからではない。そうではなくて、文化駆動フィードバックのもとでは、認知能力を高め、効率的な社会的学習戦略を実現させ、あわよくば累積的文化進化を生じさせようとする方向への自然選択圧は、常にはたらき続けている。あとは、ほんの少しの偶然、たとえば地上に下りて両手が使えて手先が器用になれたとか、個体群密度がある程度高くなったとかがあればよく、ヒト族から人間が生まれるのは時間の問題だと思えてくる。少なくとも、人間の由来を、天文学的に運が良かったおかげだと思わなくてもよくなったのは、私たちの孤独を癒やしてはくれまいか。
 本書のもう一つの見どころは、人間文化を支えるメカニズムを探ろうというこの一連の研究プロジェクトの、ある意味では副産物的な研究成果たちだ。著者らの研究によって、他人へ積極的に情報を伝える「教示行動」が文化伝達の効率にとってどれほど重要で、また教示行動はどのような状況下で進化しやすいのかがわかった。すると、「より効率的な教示への自然選択圧こそが、私たちの祖先において言語を進化させた決定的要因だった可能性」がみえてきた。これは、言語の進化的起源として教示機能が鍵だったとする著者による新しい仮説で、第8章で詳しく検討される。もともとは文化の進化を探るプロジェクトだったものが、言語や協力行動を含め、広く「人間らしさ」の進化的理解へと結びついていく。「人間の知性を理解することは、ダーウィンの果たせなかった、未完成交響曲」。本書の第Ⅱ部「人間らしさの進化」は、そんなダーウィンからの宿題を引き継いだ研究者たちが、現時点で提出できる回答のまとめといえる。
 とはいえ、この本はポピュラーサイエンスの本として書かれている。学術書ではない。「小説のようにドラマチックでテンポよく話が展開することは期待しないでいただきたい」と断りは入れているものの、色とりどりの動物の可愛くも奇妙な行動の逸話と、著者による英国風の皮肉の効いた言い回しがスパイスとなって、原著には独特のリズムと雰囲気が備わっている。訳者である私は著者のもとで四年間一緒に研究生活を送る機会に恵まれた。それもあって、私にとって原著の読書体験は、著者自身があたかも私に直接語りかけるようであり、著者の発話のリズムや顔の表情までが脳裏に勝手に浮かび上がる。翻訳では、そのレイランド流の雰囲気と読書体験をなるべく壊さないように努めた。しかし、もはやレイランド学派に染まった訳者は、どうしても中立よりもやや著者へ好意的な解釈でもって文意を汲むバイアスをもっていた可能性は否定できない。また、日本語としての読みやすさを優先させた結果、科学用語の厳密さを犠牲にした箇所があることも告白せねばならない。たとえば、原著で単に selection と書かれた箇所は、それがナチュラル・セレクションの意味だと明らかな場合には自然選択と訳し、自然選択だけでなく文化進化プロセスの意味も考えられる場合には「選択」ではなく「淘汰」とした。選択としなかったのは、動物による選択的行動との混乱を招きやすい可能性を考慮してのことだ。
 訳者がレイランド学派だと告白したことのついでに、ここで少し、翻訳の背景についても述べたいと思う。著者ケヴィンと初めて会ったのは二〇一四年四月、彼がケンブリッジ大学のニッキー・クレイトンのところでサバティカル中、まさに本書の原稿が仕上がっているさなかだった。学術振興会海外特別研究員へ応募するつもりの研究計画を読んでもらい、うまく採用されたあかつきにはセント・アンドリュースでポスドクとして受け入れてもらえないかと直談判しにいったのだ。ベラ・イタリアというチェーン店で一緒に昼食を取りながら、自己紹介もそこそこに、私はまだ生煮え段階の研究計画を披露した。私の研究テーマは人間の社会的学習について。一通りしゃべり終えると、ケヴィンは、むかしトゲウオでやった実験と似ていると言い出した。人間の行動実験をしようという計画の話をした矢先、あまりに唐突に魚の話が始まったので面食らった。しかし、そんなのはおかまいなしで、ケヴィンはとても楽しそうに、イザベル・クーレンやマイク・ウェブスターと一緒にやったイトヨやトミヨの実験の詳細と興味深い結果の数々について教えてくれた。そうして小一時間ばかり、魚や、鳥や、他の霊長類について話したあと、ご子息を学校まで迎えに行く時間だからということでケヴィンは唐突に席を立ち、君の研究計画は面白いと思う、あと帰るときはチップを1ポンドテーブルに置くよう、とだけ残して足早に去った。
 ともかく、それでなんとか承諾を得て、レイランド研究室に仲間入りしたのは二〇一五年四月のことだった。その頃はちょうど原著が刊行される直前の時期で、セント・アンドリュースの霊長類学者アンドリュー・ホワイテンのチームも巻き込み、原著校正を毎週一章ずつ輪読し皆で議論する機会に恵まれた。その経験から、この本は必ず誰かが日本語に翻訳せねばならない、それだけの価値があるものと確信を得た。個人的には、ベラ・イタリアでの唐突なトゲウオ話が、人間性の進化的起源へと結びつく論理のスケールと、あくまで緻密な議論の仕方に、多くを学んだ。日本語版の出版が原著から五年以上も遅れてしまったのは、ひとえに私の他力本願が原因だ。価値があると信じたのなら、はじめから自分で動くべきだった。
 翻訳出版の経験がなく、何から始めればいいのか右も左もわからない私の背中を押したのは、同世代の進化生物学者、鈴木大地さんが『意識の進化的起源――カンブリア爆発で心は生まれた』(勁草書房、二〇一七年)を翻訳されていたことだった。同じく任期付きポスドク研究員の身で、同じくヨーロッパに身を置きながら翻訳作業をこなされた先例があったことは、私に大いなる勇気を与えてくれた。そんな鈴木さんが書かれた、翻訳出版を勧めるブログ記事に半ば扇動され、思い切って鈴木さんにコンタクトをとった瞬間から、この翻訳プロジェクトは始まったといえる。翻訳のプロジェクトに興味をもってくださり、編集を担当してくださった勁草書房の鈴木クニエさんと出会えた幸運も、鈴木大地さんの紹介があったおかげだ。
 翻訳はまず、原著をざっと粗訳するところからはじまった。粗訳の段階では、妻の祥子にもたくさん手伝ってもらった。レイランド研究室で金曜日恒例、行きつけのパブでの憩いの時間に、ケヴィンや他のラボメンバーから研究のよもやま話をたくさん聞きかじりつつも、研究を生業としていない祥子は、日本語版の最初の読者としてこれ以上にない適任だった。そうしてできあがった粗訳を、研究者仲間であるたくさんの友人や先輩たちに読んでもらい、コメントをもらった。五十音順で、佐藤浩輔氏、清水あおぐ氏、菅澤承子氏、鈴木大地氏、須山巨基氏、田村光平氏、中田星矢氏、中分遥氏に、心から感謝申し上げる。皆さんの助言のおかげで、私の潜在的なバイアスは大幅に解消されたし、文章は見違えるほど読みやすくなった。もちろん、翻訳の誤りや訳し漏れ、意訳の行き過ぎのすべての責任は訳者だけに帰されるのは言うまでもない。
 最後になってしまったが、勁草書房の鈴木クニエさんへの感謝の気持ちを述べなければならない。進化生物学や進化人類学、行動科学の分野に精通していらっしゃる鈴木さんの助けがなければ、このプロジェクトは到底成り立たなかったし、仮に私が勝手に訳し始めていたとしても、途中で頓挫したまま翻訳は完遂できなかったことだろう。いつ終わるとも知れぬ翻訳作業の期間中、モチベーションを常にある閾値以上に保つことができたのは、鈴木さんが定期的に送ってくださった温かいリマインドのメールだった。翻訳出版は原著をバージョンアップさせること、というお言葉は忘れられないし、それはいつも私の念頭にあった。鈴木さんからの的確な助言、言葉選びのセンスとバランス感覚には、いつも頼りっぱなしだった。
 この八年、ヨーロッパで学問をする機会に恵まれ常々感じるのは、学問分野や領域を超え、国境も無関係に、風通し良く研究が行われることの尊さだ。進化生物学や進化人類学はもとより、生態学、動物行動学、脳神経科学、複雑系科学、認知科学、心理学、経済学といった、基礎科学全般の知見を総動員することで、ようやく、人間性の進化を理解するための「答えみたいなもの」が見えてきた。科学の難問は本来的に、知の総力戦で挑まねばならない。なぜなら難問の方は、私たちの勝手な都合で設定した学問分野や国境の垣根などに気を遣ってくれないのだ。たくさんの研究者が分野横断的に交流する様子が生き生きと描かれる本書は、科学という文化的活動のあるべき姿についても多くの気づきをくれるだろう。
 面白くて意義深い科学の問題は、先人たちが築いてきた知の財産にちがいない。それは特定の分野の研究者が独占できるものでもなく、さらにいえば研究を生業にする一握りの人間だけが味わうべきものでもない。人間全員がそれを味わえ、先人の偉業に感嘆でき、さらなる前進を誰もが夢見られて然るべきだ。少なくともそれが理想的な状態だと私は思う。人間文化の進化、ならびに「人間らしさ」の進化を理解することは、ダーウィンから続く、進化生物学の最大の難問の一つだった。私たち人類の知の最前線はいま、どのあたりにあるのか。ダーウィンが残した宿題への回答は、どの程度果たされているのか。本書は、その最先端まで読者を引っ張っていってくれる。ややもすれば難解な学術書に化けてしまってもおかしくない、この複雑に入り組んだテーマを、あくまでも平易な言葉で、根気強く綴ってくれたケヴィンに改めて感謝を伝えたい。
 
二〇二二年十月、ボーデン湖を望むコンスタンツ大学のオフィスにて
豊川 航
 
 
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