掌の美術論
第1回 緒言

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
Published On: 2023/1/27By

 

フランスを中心とした近現代美術を研究している松井裕美さんの連載が始まります。松井さんの伸びやかな筆致に導かれ、ある芸術作品の手ざわりを想像したり、そうした想像から喚起される何かに身をゆだねたりすることを楽しみにしています。みなさまもぜひご一緒に。【編集部】

 
 

緒 言

 
 この連載のタイトルには二つの意図が込められている。その一つは、各々の記事を、掌編小説のように手軽に読める、短く完結した美術論として書いてみよう、というものだ。じっくり時間をかけて火にかけている煮込み料理がくつくつと音を立てているのを聞きながら、山の中腹のバス停でバスが来るのを待ちながら、あるいは出勤電車の中で、ふと気づいたときにタブレットや携帯を取り出し読むことができる、そのような文章を書いてみたいと思った。ただしいざ自由に書いて良いとなると、なかなか書き進まないもので、お声がけくださった編集者の関戸詳子さんにはご迷惑をお掛けした。いくつも試みに記事を書いては途中でやめ、何をどう書いていこうか悩む中でふと気づいたのは、大きな見通しのたったストーリーなしに文章を書き続けるということに対して私自身が抱いていた不安だった。そこでそれぞれの記事が緩やかにつながるような筋書きを、ある程度まで想定することにした。つまり、気まぐれに出会った記事を単独で読むこともできる一方で、記事から記事へと展開する物語を追いながら読んでいただく楽しみ方もできる、これはそんな連載として、今後書かれる予定だ。
 
 もう一つの意図は、この連載を通して、芸術が触知可能性に対して持つ両義性、すなわち手で触れることができる側面と触れることができない側面という二つの相反する側面について、自分なりに考えてみたいというものだ。この二つ目の意図は、先に触れた連載の「筋書き」の重要な根底を成している。ただ、だからといって、芸術における触覚といった美学的なトピックを概説するというような野心は、私にはない。あるいはアンリ・フォシヨンが1934年に出版し、今や古典となった著書『かたちの生命』に収録されている文章「手を讃えて」を補完するような議論を展開することを目指すわけでもない。
 
 それは何よりもまず、個人的な経験に根ざす関心に由来している。私が小学生だった頃、九州に住んでいた時期がある。このとき時折訪れていた福岡のうきは市の山中には、不思議な空間があった。それは、さまざまなジャンルの芸術家たちがふらりと訪れたり、中期的に滞在したりするような、ある種の芸術家村だった。常連の中には、福岡を拠点にしつつ、アンフォルメルのような国際的な動向からも着想を得ながら展開した前衛運動である九州派の芸術家たちもいた。
 
 私を美術の世界に導き入れてくれた契機はほかにいくつもあるが、しかしこの出会いはひときわ強烈なものだった。なぜならそこで「芸術」は、周囲の花や虫に触れることができるのと同じように、手で触れることができる何かだったからだ。そこで触れることのできた「芸術」は、どくどくと脈打っているように感じられた。それはまた、物質的であるが故にいずれ朽ちゆくかもしれない危うさを抱えていた。当時は幼さ故に、こうした感覚を語る言葉を持ち合わせてはいなかったが、細心の注意を払ってそっと触るその感覚は、壊れやすい花や繊細な構造の虫を傷つけないように掌に乗せる時の、息を潜めるような緊張感と似たものがあった。
 
 この関係の中で、私の前に存在する芸術作品は、一人称である「わたし」にとって第三者的に存在する「それ」ではなく、限りある命を持った二人称の「あなた」だった。だからこそそれらは一層、掌の中の小さな儚きものたちの命を慈しむように、慈しむべきものであるように感じられた。そして慈しむというその行為によってこそ、たとえ何かの拍子に個々の作品の物質的な存在が朽ち果てたとしても、その後に失われない「何か」が残るように、幼い私には思われた。この「何か」こそ、日常の耐え難い平凡さやさまざまな生活の不安から救ってくれるものなのだと、思春期の時分にも、私は素朴に信じていた。
 
 幼い頃に私が掌で触れることのできた芸術が信じさせてくれたこの「何か」とは、今から思えば、自律した芸術こそが持つ「美」がこの世に実在し、なおかつ目の前の作品がなくなってもなお存在するような普遍性を持ち得る、ということだったのだろう。だが、触れることができる「あなた」、しかし触れることができるというその性質によって、損なわれてしまうかもしれない「あなた」、そしてその感覚の中でこそ信じることのできる「何か」、それは一体、何なのだろうかという問いが、「美」や「芸術の自律性」というよう概念について知るようになってなお、しもその答えが自明ではないものとして、私のうちに立ち上がってくることがある。
 
 つまり、「掌の美術」をめぐる私の最初の素朴な疑問は、美術館という展示空間で培われたものでもなければ、触覚をめぐる興味深い美学的議論が展開される数々の書物から引き出されたものでもなかったために、そうした制度や既存の言説の中で紋切り型の解答として与えられている説明から逃れる側面を私の中で持ち続けることになったのだ。このことはむしろ、「芸術」だと私が信じているもののうちに、何かしら制度や既存の言説を逃れる本質を求める私自身の願望を反映しているのかもしれない。いずれにしても、原初的な芸術体験で得た感覚は、私のもとにときおり再来しては、その度ごとに、未だ答えを持たぬ問いを浮かび上がらせてきた。
 
 とはいえ、九州を離れてから掌で美術に触れる機会をなくした私は、この喪失を埋めるべく美術館をしばしば訪れるようになった。大学では美術史を専攻し(私にとっては作品に一番近づける学問分野に思われた)、当時竹橋にあった国立近代美術館の工芸館で学芸員のインターンシップをした。そこでは、現地に赴いて作品調査をする先生方の研究旅行に同行し、作品サイズの測量や支持体の詳細な分析といった作業を、間近で学ぶ機会を得た。工芸館では、数々の名品の展示や収納を通して、文字通り作品に触れることができた。パブロ・ピカソの陶磁器という、ややマニアックなテーマを修士論文のテーマに選んだのも、当時の私にとっては焼き物が、もっとも触覚を重視するジャンルであるように思われたからだ。
 
 こうした経緯で、パブロ・ピカソという難問に取り組むことになったのだが、そこから展開したモダン・アートの研究は、別の角度から「触知可能性」という問題にアプローチする契機になった。複製品や自然物を用いた芸術への関心である。日常にある既製品や生活の中に溢れている自然物を芸術の中に取り入れる、ということは、とりもなおさず、わたしたちが生活の中で手に触れることができるそうした事物に、手に触れることができない「何か」を新しく付与する、ということを意味する。それは今・ここにしかない一回性、いわゆる芸術作品の「アウラ」と呼ばれるものである場合もあれば、芸術家の知的アイディアや無意識の欲望といったものである場合もあるだろう。では、この「何か」は、芸術に接する私たちに対して、どのように機能し、作品と私たちとの関係性との間にどのような作用をもたらすのだろうか?これが「掌の美術」をめぐる私の第二の問いである。
 
 近年出版されたデイヴィッド・ホプキンスの『ダーク・トイズ』は、こうした問いに取り組むにあたって、重要な手がかりとなるだろう(David Hopkins, Dark Toys: Surrealism and the Culture of Childhood, Yale University Press, 2021)。この著書は、デュシャンのレディメイドやシュルレアリスムのオブジェ、ポップ・アートの彫刻を、芸術家たちが玩具へと向けた関心から新たに読み解いていくものだった。
 
 玩具とは、数多く存在する物質の一つでありながら、それを使って遊ぶ者にとっては特別な意味を持つ。どんなにそれが抽象的なかたちをしていても、あるいは抽象的であればあるほど、玩具は子供たちの想像力の中で具体的な形象と結びつく可能性を与えられる。しかし時に玩具は、その実質的な中身の空虚さ、生命の不在、シミュラークルとしての本質ゆえに、それで遊ぼうとする者に、あるいはそれにノスタルジックな眼差しを向ける大人に、メランコリックな気分をも引き起こす(著者は多くの芸術家の作品に認められるそうしたメランコリーを説明するのに、ボードレールの「玩具のモラル」に度々立ち戻っている)。それはまた、同時代に流通する商品のミニチュアという、共時的な側面を持つ場合もあれば、かつて儀礼の中で宗教的な意味を持っていたその歴史性を喚起するような、通時的な側面を持つ場合もある(こうした指摘の参照源とされているのは、とりわけ、アガンベンの『幼年期と歴史』のなかの一章「おもちゃの国」である)。
 
 触知可能な物質としての客観性/客体性と、それに触れる者との関係の中で意味を変える主観性。実質的な中身が空虚であるからこそかき立てられる自由な想像力と、シュミラークルとしての本質が喚起するメランコリー。同時代性と歴史性。経済システムの中での流通(複製)可能性と、そうしたシステムを逃れる唯一性。玩具が有するそうした両義的側面の交差点に位置づけられるのは、デュシャンの《トランクの箱》である。1941年にデュシャンの監修のもと数量を限定して出版されたこの「作品」には、持ち運び可能な箱状の入れ物に、レディメイドのミニチュアを含む彼の作品の複製品が収納されている。それは、箱を開けるたびに、それに触れるたびに、異なる意味を持ち得る玩具に他ならない。デュシャンは一方では、この箱を開ける者を、たちまちにして玩具で遊ぶ子供に変える。だが他方では、「作品」に触れるや否やその通俗的な素材の中にシュミラークルとしての本質を見てしまうような、子供になりきれない大人は、そうした玩具の起源となるようなデュシャンのアイディアに接近しようと密かに期待しつつ、この期待を見事に裏切られることになる。こうして、複製可能であるはずのもの、触れることができるはずのものとして目の前に差し出されたその「作品」は、複製可能ではない「何か」、失われてしまって取り戻すことができない「何か」を喚起し、子供になりきれない私たち大人をメランコリーに陥れるのである。
 
 幼い頃に「掌の美術」を通して知ることになった「芸術」への素朴な賛美と、大人になった私が「掌の美術論」を通して感じるようになったメランコリーの間には、超え難い溝がある。そしてこの溝こそ、この連載の一つの大きなテーマとなる。つまり私がこの連載で論じていこうと思う、芸術の「触知可能性」をめぐる議論は、必ずしも「美」や「アウラ」を、「芸術」に本質的に備わる普遍的なものとして扱うわけではない。むしろそうした概念がどのように作品や文脈ごとに意味を変え、異なる理論的布置の上に置き直され得るのかという点について、考えていくつもりだ。その中で、作者という主体のあり方や、その思想が、どのようにそうした概念を問い直し、また場合によっては、そうした概念を礎にして築かれた諸構造の転覆を企てることに関わってきたのかについて、見ていきたい。したがってこの連載は、個々の記事としては「触知可能性」をめぐる断片的な考察となる一方で、大局的には、芸術と現実との関係性について考察することになるだろう。
 
 様々な時代の芸術作品は、「触知可能性」に異なるやり方でアプローチする中で、どのように現実との関係性を変えていくのだろうか。この問いに取り組むということは、私自身が「芸術」に対して抱いてきた素朴な賛美そのものを掛け金にして、触知可能な「玩具」が引き起こすメランコリーと戯れるような、さまざまな芸術実践のゲームに参与することを意味している。またこの連載を開始するにあたり、あてどない期待を込めつつ次のように問うことを禁じ得ない。すなわち、この連載で触れることになる芸術家の作品や言葉の数々は、あなた方自身の掌の中で、そして私自身の掌の中で、どのような脈動を新たに開始するのだろうか。
 
 
第2回は2月下旬に公開予定です。お楽しみに。【編集部】
 

About the Author: 松井裕美

まつい・ひろみ  東京大学大学院総合文化研究科准教授。博士(美術史)。専攻は、フランスを中心とする近現代美術。著書に『キュビスム芸術史:20世紀西洋美術と新しい<現実>』(名古屋大学出版会、2019年)、翻訳にデイヴィッド・コッティントン『現代アート入門』(名古屋大学出版会、2020年)など。
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