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『リップマン 公共哲学』

 
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ウォルター・リップマン 著
小林正弥 監訳
『リップマン 公共哲学』

「第1章 曖昧な革命」「解説 文明的・政治的危機の時代に甦る公共哲学の原点」冒頭(pdfファイルへのリンク)〉
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第1章 曖昧な革命
 
1 なぜこの書を執筆するのか
 あの運命的な一九三八年の夏のあいだ、私は理性と感情において、西洋社会で深刻さを増す混乱と折り合いをつけようとして、一冊の書物を書き始めた。当時私はパリに住んでいたが、間もなくチェンバレン氏とダラディエ氏をミュンヘンが行くこととなる決定がなされていたことを知っていた〔それぞれイギリスの首相アーサー・ネヴィル・――とフランスの首相エドゥアール・――を指し、決定とは一九三八年九月二九日のミュンヘン協定のことを指している〕。もう一つの世界大戦を回避するには、みじめな降伏によるほかなく、まさに進行中の猛攻撃に仏英が抵抗できるだろうという確かな見込みもなかった。仏英は態勢が整っておらず、人々は分裂し、意気消沈していた。アメリカ人は遠く離れ、中立の立場を取ると決めており、戦備をしていなかった。私は、大西洋共同体の諸国はこの挑戦に堪えられないだろうということ、そしてもし諸国が失敗したら、私たちは自身の偉大な文明的品性
(シヴイリテイ)(civility)の伝統、すなわち西洋の人々が何世紀もの闘争の末に獲得しながら、今や野蛮の台頭によって脅かされている諸自由を失うだろうという予感に満たされていた。
 本書の執筆は、西洋の自由民主主義諸国は二〇世紀の現実に対処することができないという驚くべき失敗を、自分自身にもより理解できるようにする必要に迫られてのことである。フランスの陥落によって、私たちもまた間もなく交戦しなければならなくなること、さらにイギリスの戦い〔バトル・オブ・ブリテンとも呼ばれる、一九四〇年七月からドイツ空軍が行った、イギリスへの大規模攻撃作戦による交戦。この航空戦にイギリスが勝利したことで、ドイツによる本土上陸作戦は中止された〕が敗れると、私たちは自分たちの力で交戦しなければならないようになることが明らかになったころ、私はすでに本書の草稿を書いていた。
 しかし、当時アメリカ人には、軍事的組織の態勢が整っていなかったのと同様に、心の準備もできてはいなかった。この生死のかかった挑戦に対抗できるように、民主主義諸国をこの苦難に対抗すべく呼び集め、集結させ、勇気づけることができるだろうか? 民主主義諸国はよりすぐれた資産を持ってはいる。民主主義諸国はまた人員、資源、そして影響力を持っている。しかし洞察力、辛抱する規律、そしてそれを成しとげようとする決心があるだろうか? 手段があったとしても、同時に意志を持ち、どうすべきか知っているだろうか? 第二次世界大戦は第一次世界大戦の廃噓と失敗のなかから生じつつあった。西洋の民主的な諸政府が、そのような問題を統制し、必要な決断を行えることを示すものは何もなかった。出来事に対して反応をすることはできても、統制することはできなかった。西洋社会の構造を支離滅裂にするような疲弊なしに、また一般大衆を排除するような最悪の苦しみなしに、さらには取り返しがつかなくなるような暴力手段に訴えることもなしに、民主的な諸政府は敗北と征服を回避できるだろうか? 諸政府はあまりにも緩慢すぎ、それゆえ何かわけもわからないことに巻き込まれてしまっていた。諸政府は見えたままに理解することを拒み、聞こえたままに信ずることを拒み、見込みのない希望を望み、待つだけだったのである。
 私のように二つの大戦前の柔和な雰囲気を知っていた者には、西洋の自由民主主義の病に気づきそれを認めるということは、容易なことではなかった。しかし、私たちが準備も戦備もないまま二つめの大戦に引きこまれつつあったとき、私たちの社会には深い混乱があり、しかもそれは、私たちの敵の陰謀や人間的な状況の逆境からではなく、私たち自身の中から生じたものであるということを否定できないように思えた。私はそのように感じていた多くの仲間たちの一人であった。この仲間たちは、徹底的な抵抗が至上命令であり、敗北すれば取り返しがつかず耐えがたいものになるであろうということを決して疑わなかったが、それとともに、全面戦争になれば私たちの世界は、民主主義にとっても四つの自由〔F・ルーズベルトによる⑴表現の自由、⑵信仰の自由、⑶欠乏からの自由(平和的生活を保障する経済上の相互理解)、⑷恐怖からの自由を指す〕にとっても安全ではありえなくなるということを心の中で知っていた。私にはわかったのだった――私たちは怪我をしているのではなく病気であるということ、そして私たちが秩序と平和を世界にもたらすことができなかったがために、私たちの後継者に選ばれたと信じている人によって襲われていることを。
 
2 一九一七年――革命の年
 一九四一年一二月、私はこの原稿をしまい込んでしまった。世界にとっても私にとっても、非常に多くのことが起ころうとしていたので、この書物を書く仕事に戻ったとしても、全く新しく始めることになろうと思ったからである。戦後になって私がこの書物の仕事に戻ったときには、本書に啓示を与えた予感は、おそろしいほどに現実のものとなっていた。自由民主主義では、何かがとても誤ってしまった。なるほど民主主義諸国は敵を負かしはしたし、敗北と服従は免れることができた。しかし、平和を樹立し秩序を回復することはできなかったのである。この一世代において再び、破滅的な戦争を防止できず、しかも戦争遂行に対し備えようともしなかった。そして、ようやく莫大な費用をかけて敵を破っても、その勝利から平和を生むことはできなかったのである。民主主義諸国は、これまで以上に大きくなり、かつ広範囲になっていく戦争の悪循環に巻き込まれた。次のことを否定することができるだろうか? 民主主義諸国は現実に対処して、事態を統べ、死活的な利益を守ることができず、そして恐らくは、自由で民主的な国家として生き残れると保証できないような病にかかっているということを。
 西洋の凋落は思い違いではなかった。ウィルソンが民主的諸政府の下での平和な世界を宣言してから僅か三〇年で、北大西洋の民主主義諸国は西欧とユーラシア大陸の辺縁の防衛に手いっぱいとなった。半世紀も経たない間に、そうなってしまったのである。一九〇〇年には、地球上のすべての人々が、憤りすら感じていても、西洋諸国の優越を認めていた。西洋諸国は人類の進歩における認められたリーダーであり、次のようなことは自明と考えられていた。後進諸国が西洋の技術を使用し、自由な選挙を行い、権利章典を尊重し、そして西洋の政治哲学によって生きるようになること――これらを、いつ学ぶかというのは問題だが、そうなるかどうかは問題ではありえなかった。一九一七年までは、世界のどこでも、ロシアでさえも、新しい政治のモデルは、英、仏、米国流の自由民主主義であった。
 しかし、一九二〇年の終わりまでに、事態は急変した。当時、ブライス卿〔ジェームス・――。一八三八‐一九二二。イギリスの法律家、歴史家、政治家〕は『近代民主政治論』(Modern Democracy)〔「地方政治は民主主義の最良の学校、その成功の最良の保証人なり」という言葉で知られる主著〕をほぼ完成させていた。依然として戦前の流儀で、民主主義は普及しつつあり、世界における民主主義国の数は一五年以内に二倍になったと書いてはいたが、危険な兆候を目にして悩んでいたのである。彼は序言において、「若い世代にとって真に助けになる」ことではないかもしれないが、「経験による悲観論を抑える」ことはできないと書いた。「民主主義は普及し、また民主主義を試みたいかなる国も、それを放棄しようとはしていないにしても、私たちは、一七八九年〔フランス革命〕の人々と同じように、民主主義が政治の自然な形であり、結局のところ必然的な形であると考えることはできない。ヴェルサイユでの等族会議〔身分制社会を土台として特権身分により構成された議会で、フランスでは三部会と呼ばれ、聖職者、貴族、有力都市の市民の代表者で構成された〕の人々の目を自由という昇りゆく陽がくらませて以降、多くのことが起こった。人々の政治は、いつでもどこでも良い政治であることを保証するとはまだ証明されてはいない。多くの国で目に余る弊害に対するいらだちが、民主政に代えて王政または寡頭政治をもたらしたように、同じようないらだちがいつか現在の進展を逆行させるかもしれないということは、ありそうもないことだとしても考えられないことではない」――このように言わざるをえなかったのである。
 それから三年後、ムッソリーニがローマに進軍し、イタリアは大規模民主主義国のうち、初めて「進展を逆行させる」国となった。今にして思えば、第一次世界大戦末期に、ブライス卿が経験による悲観論と考えたことは、実際には、敏感で賢明な観察者の直観だったことがわかるのである。彼は、あまりにも事態に近すぎて気づいていなかったが、民主主義の前途に根本的な変化が生じつつあるということを骨の髄で感じていたのである。
 民主主義国家の内部で、見えざる革命が起こっていたのだと、私は今や確信する。第一次世界大戦の三年目までに、累積された損害はあまりに過大となってきたので、すべての交戦国の制度上の秩序は圧力と緊張の下に崩れていた。フェレーロ〔グッリエルモ・――。一八七一‐一九四二。イタリアの歴史家、ジャーナリスト、小説家。著書に『権力論』や『古代ローマ一千年史』がある〕の効果的な文句を借りれば、戦争は無限膨脹的になってしまい、戦前の政府は人々の忍耐と忠誠の上にこのような無制限の為替手形を課すことはできなくなった。敗戦国においては、その代償として、既成秩序に対する革命が起こり、ロマノフ王朝、ホーエンツォレルン家〔ドイツ帝国〕、ハプスブルク帝国、そしてオスマン帝国は崩壊した。戦勝国では、諸制度が打ちこわされることはなかったし、支配者たちは追放や投獄、処刑もされはしなかった。しかし憲法秩序は、その内部において、微妙ではあるが根本的な変革にさらされたのである。(以下、本文つづく。注番号は割愛しました)
 
 
解説 文明的・政治的危機の時代に甦る公共哲学の原点
 
1 ポピュリズム、コロナ禍、独裁国の侵略戦争に対する「文明的品性の哲学」
 本書『公共哲学』(一九五五年)は、公共哲学という言葉を初めて本格的に用いた記念碑的著作であり、公共哲学という学問的潮流のまさしく起点をなす。この点には、歴史的な思想的意義がある。公共哲学の原点としてはハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスが挙げられることが多いが、概念そのものは本書に始まる。
 公共哲学に相当する思想は、西洋ではプラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学から長い歴史を有し、時代を貫く普遍的意義とともに、それぞれの時代に固有の意義を持つ。本書が初めて邦訳された『公共の哲学』(矢部貞治訳、時事通信社、一九五七年)においても、その時代の特性が刻印されている。
 それでは、現時点において本書はどのような意義を持っているだろうか。「公共哲学の原型」たる本書には、近年の以下の展開によって新しい時代的意義が加わったと言うことができるだろう。
 第一に、左右のポピュリズムの勃興による、民主主義の世界的危機である。民主主義を牽引してきた西洋諸国で、極右とすら形容される政治的運動が議会において無視できない議席を持ち始め、民主主義の母国とされている英米仏ですら、トランプ政権(米)やボリス・ジョンソン政権(英)のように、ポピュリズム的傾向を帯びる政治家が政権を担った。日本でも、政権や新しい政党に、このような傾向が看取できる。
 これらの政治は、従来の民主主義的政党や政治家とは大きくスタイルや内容が異なっている。その特色の一つが、敵味方の二分法を多用して、従来の政治的エスタブリッシュメントを敵視し、庶民・人民に訴えようとすることである。たとえば、トランプ前大統領のツイッターに典型的に見られたように、噓も含めて直截に自分の認識や意見を述べ、時には口汚く「敵」とみなす政治家を攻撃したり罵ったりする。このスタイルは、従来の政治的良識から見れば知性や品位を欠いていて、顰蹙をかうものだが、支持者の拍手喝采を受け、人気の上昇を招くことがある。既成政治に不満を持つ大衆にとって、この異端的な政治的様式こそが魅力となり、政治的エネルギーの源となるのである。
 もちろん問題は、このような政治が民主主義を衰滅させ、世界に混乱や不幸を引き起こすのではないか、ということである。振り返ってみると、これに似たスタイルの極右的政治が世界を席巻したのは、枢軸国のファシズム・全体主義とそれによって引き起こされた第二次世界大戦だった。
 その歴史的悲劇の中から生まれたのが本書である。当時のアメリカを代表するジャーナリストだった著者リップマンが、世界大戦をもたらした政治について省察を重ね、その悲痛な体験が繰り返されないように、「公共哲学」という概念を鋳造して洞察を集約した。それは、二〇世紀の「西洋の自由民主主義」の「失敗」や「病弊」(第1章・章2章)に対して、自由民主主義に失われがちな「公共哲学」の必要性を訴える書である。よって、その公共哲学の中核的概念は、野蛮で暴力的な思想に対する「civility(文明的品性)の哲学」なのである。
 トランプ政権は二〇二〇年の大統領選挙で敗北して退陣したとはいえ、日本も含め世界の各地でポピュリズムによる民主主義の危機は継続している。よって、今こそ、リップマンの到達点である本書を顧みて、現在の危機を克服するための思想として生かすべきだろう。
 第二に、二〇二〇年から続く世界的なコロナ禍は、第二次世界大戦以来の犠牲者と混乱を内外で巻き起こしている。現在はまだその渦中にあるが、過去における感染症の大流行後と同じように、収束後には、この厳しい歴史的経験に基づいて、新しい世界の構築が思想的にも現実的にも課題となるだろう。
 たとえば、英米やブラジル、日本など、ネオ・リベラリズム(リバタリアニズム)の影響が強かった諸国は、市場経済における利益を重視するあまり、感染症対策が中途半端ないし等閑となり、被害者の増大を招いた。これを直視すれば、健康・生命を守るための公衆衛生をもっと重視する必要性が浮かび上がるはずだ。公衆衛生はpublic health の訳語であり、直訳すれば「公共的健康」である。
 「公衆衛生=公共的健康」は公共的利益・公共善の要の一つであり、公共性の実現を最優先する思想こそ、「公共哲学」に他ならない。よって、コロナ禍という悲痛な体験により、公共哲学の重要性が改めて認識されて然るべきだろう。浅薄な「世論」に流されることなく、私益に対して「公共的利益」を優先することこそ、本書の要諦である。コロナ禍が終わっても、地球環境問題のもたらす異常気象のように、次々と危機が押し寄せることが予想される。この中から、新しい文明が生まれ出ずるとすれば、その中核となるのが公共哲学であろう。
 さらに第三に、二〇二二年二月のロシア・プーチン政権のウクライナ侵攻によって、独裁国による侵略戦争という深甚な危機までもが生じ、世界が震撼している。この侵略はナチス・ドイツのポーランド侵略を想起させ、展開次第では第三次世界大戦にすらなりかねないものである。独裁国による侵略に始まる世界大戦こそ、リップマンが本書を執筆した時代背景だった。これに対して西洋の民主主義諸国が早期に適切な対応ができなかったという問題こそが、本書における公共哲学の提起を促したのである。
 アメリカやNATO諸国が軍事的に介入すれば、世界大戦と核戦争の危機が現実化してしまう。他方で軟弱な対応をすれば、第二次大戦後の国際的秩序が崩壊して、独裁国家の侵略が許される無秩序状態が現出するだろう。第二次世界大戦時のジレンマが、新しい形で再び現れた。西洋民主主義諸国が、この難局に対して適切に対処し、世界的危機の拡大を抑止できるだろうか。さらに、このような事態の現出には、ロシアのプーチン政権だけではなく、西洋民主主義諸国の国際的政策(たとえばNATOの東方拡大)にも責任の一端がないだろうか。
 この大危機にあたって、再び「独裁 対 民主主義」という構図が現れている。これは、「野蛮な暴力 対 文明的な品性」の対立でもある。アメリカで、品位を欠いたトランプ政権よりも理性的なバイデン政権が成立していたのは、幸いだった。すぐに行われた強力な国際的経済制裁には、第二次世界大戦時の宥和政策の教訓が生きていると思われる。リップマンが当時の失敗から紡ぎ出した公共哲学の要請に、新たに耳を傾ける時が到来したのである。日本もまた、「文明的な品性」を重んじて、平和の回復のために最善を尽くすべきだろう。
 本書では「civility の哲学」と「公共哲学」という両語がほぼ同意語として用いられているが、civility の訳し方は難しく、前述の初邦訳では公民道となっている。「civility の哲学」という概念についてリップマンは、イギリスの政治思想史家アーネスト・バーカー(一八七四–一九六〇)の『civilityの伝統』(一九四八年)を最初の注で挙げている。バーカーはcivility について「civilized される状態」という辞書の定義を挙げ、この本を「文化と文明の歴史における一連の研究」と説明しつつ、civilityが文明(civilization)よりも良い言葉であるとしている。彼は、イギリスの詩人・文芸評論家のコヴェントリー・パットモア(一八二三–一八九六)の「六〇〇〇年の公正な要約である/civility の伝統」という二行の詩句に示唆されて、この書名を付けたという。詩人ダンテのいうhumana civilitas の継続的な脈絡がこの書物に一貫しているというのである。
 よって、リップマンもこのような意味を念頭に置いていると思われ、自然法に基づく「civility の哲学」という彼の説明も、バーカーの考え方に大きく依拠している。もっとも、リップマン自身はこの言葉を定義していないため、英語圏の研究書では辞書的な意味と用例から考えている。その実質的な内容は、古代からの「偉大な」伝統における文明的特性や自然法、自由、権力制約などを含んでいる。つまり自然法に基礎を置き、古代から連綿として現実に存在している自由と権力制約の哲学という意味であり、今日においては自由民主主義を支える不変の哲学を指す。
 翻訳にあたっては、civil という言葉に即して「市民性の哲学」という訳も考えたが、上述の説明からわかるようにcivility には「文明」という意味が強い。実際、ギリシア・ローマ以来の都市国家や市民だけをリップマンは念頭に置いているのではなく、中世のカトリックにおける自然法という意味が含まれている。civility には、野蛮に対する文明的・品位礼節という意味があり、彼は、野蛮に対するcivility の哲学という表現を用いている。これは「文明性の哲学」を指すことになる。
 他方でcivility には「礼節・品位・品格」という意味も含まれているが、「礼節」には行儀作法のイメージが強く、自由や権力制約という政治的な意味から距離がある。さらに最近、政治哲学でdignity(尊厳)を「品位」と訳すことがあるので、「品性」という訳語を選んだ。こうして本書では、上述の二つの時代的危機における意味、つまり第一の「品位・品性」という意味と、第二の「文明性」という意味を込めて、「文明的品性の哲学」と訳すことにした。
 今は、「民主主義の危機」と「感染症による文明的危機」と「独裁による侵略戦争」というこの三つの危機が重なっている。この文明的・政治的危機の時代において、「文明的品性の哲学」こそが、シヴィリティという良識の復活によって民主主義と平和を再生させ、公共性の復権によって新しい文明を開花させ、二つの危機を乗り越える道を開削しうるかもしれない。(以下、本文つづく。注番号は割愛しました)
 
 
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