あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
飯田 隆 著
『増補改訂版 言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』
→〈「増補改訂版へのまえがき」「後記 二〇二三年(抜粋)」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
※第Ⅰ巻のたちよみはこちら⇒『増補改訂版 言語哲学大全Ⅰ 論理と言語』
*サンプル画像はクリックで拡大します。「まえがき」本文はサンプル画像の下に続いています。
増補改訂版へのまえがき
第Ⅰ巻の場合と同じく、初版のテキストへの変更は最小限にとどめた。つまり、句読点とカッコ類の使い方を最近の私の使い方に改めたことと、初版より後に出た翻訳および文献への指示を註に付け加えたことが、主である。日本語以外の著作からの引用に際しては、既存の訳を掲げている場合も、特に断っていない限り、私自身の翻訳である。ひとつだけ述べておかなければならないのは、第2章の註14である。その最初に註記したように、『論理哲学論考』の論理の扱いについてのこの註の内容を、現在の私は誤りだと考えている。それにもかかわらず、この註をそのままにしておいたのは、第一に、第2章の補註1が、もとの註を訂正する形になっているためであり、第二に、それに私が従ったのは誤りであったにせよ、『論理哲学論考』の論理観が単純な誤りに基づいているかもしれない――実際にはそうでなかったことが現在ではわかっているが――というフォグリンの指摘は、この書物を神聖不可侵とみなす傾向への抗議として、いまでも意義をもっていると思うからである。
本書の初版(一九八九年)を出したあとまもなく私は、クワインの『論理的観点から』の新しい訳(一九九二年)とウィトゲンシュタインについての概説書『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』(一九九七年)を出した。この二冊は、言ってみれば、本書の副産物のようなものである。さいわい現在まだどちらも手にすることができるはずなので、註等で新しく補足した箇所で参照を求めている。したがって、初版での岩波書店版のクワインへの参照は、まだ手に入る拙訳に差し替えさせてもらった。
この巻に関しても、勁草書房編集部の土井美智子さんにすっかりお世話になった。コロナの流行がまだ収まらないなか、細かな配慮をしていただいただけでなく、遠隔の地からの私の注文にもこたえていただけたことは本当にありがたかった。また、校正に際しては、高取正大氏の手をわずらわせた。校正上の問題点だけでなく、内容に関することまで丁寧に見て頂いて感謝する。
『言語哲学大全』全四巻の増補改訂もこれで、巻数で言えば半分終わったことになる。しかしながら、このシリーズは、巻を追うごとに厚くなって行ったので、頁数から言えば、半分にはまだまだ届かない。無事にゴールまでたどり着きたいものである。
二〇二三年四月二四日
飯田 隆
後記 二〇二三年
2 論理実証主義と経験主義
「経験主義のふたつのドグマ」は、論理実証主義のその後の評価において決定的な役割を果たした。なかでも大きいのは、「ドグマなき経験主義」の前に来たものとして、論理実証主義が経験主義の系譜に属するという見方を定着させたことである。論理実証主義が経験主義の一形態であるという理解を広めたことには、もちろん、論理実証主義者自身にも大きな責任があることは疑いない。かれらは自分たちの立場を「論理実証主義」とか「論理経験主義」と呼んだからである。しかし、これらの名称はどれも、かれらの運動の歴史のなかでは比較的遅い時期に初めて出てきたという。実際、本書1・1節(四一頁)で触れた、かれらの運動のマニフェスト(一九二九年)で、かれらは自分たちの立場を「科学的世界把握Wissenschaftliche Weltauffassung」としか呼んでいない。
「論理実証主義」や「論理経験主義」といった名称によって隠されてしまったのは、かれらの運動の革命的性格である。かれらは、実証主義や経験主義といった哲学のなかの一流派を引き継ぎ、それを新しい段階に進ませようとしたのでは決してない。かれらは端的に言って、これまでの哲学を、別の何かに代えようとしていたのである。それは、たとえば、マルクスが、哲学をかれの経済学的探究に基づく別のものに代えようとしたり、一部のフェミニストが、哲学が本質的に家父長的なものであるとして、哲学を廃止してその代わりとなる分野を建設しようとしたのに似ている。「形而上学の追放」という、かれらのスローガンは、形而上学抜きの哲学を作ろうということではなく、形而上学的なものでしかありえない哲学を廃棄しようという呼びかけにほかならない。『論理哲学論考』にかれらが自分たちと同じ思想を見いだしたと思ったのは、そこに実証主義者や経験主義者がいると思ったからではない。むしろそれは、「哲学的事柄についてこれまで書かれてきた命題や問いの大部分は、偽なのではなく、無意味なのである」(四・〇〇三)という、哲学への全面的否定のゆえである。
このことは、論理実証主義者のなかでも保守的とみなされていたシュリックが、論理実証主義の機関紙とも言うべき『認識Erkenntnis』の創刊号のために書いた論文「哲学の転回点」(一九三〇)からも見ることができる。ここでかれは、「哲学」という名称を返上することこそしないが、過去の哲学のなかの何ひとつについても肯定するようなことは言っていない。「実証主義」も「経験主義」も、ここにはまったく出てこない。論理実証主義者の多くは、新カント派から出発したのであって、実証主義からも経験主義からも、とくに大きな影響を受けたようにはみえない。シュリックが、「哲学の転回点」で挙げているのは、フレーゲとラッセルの論理学であり、それにもまして、ウィトゲンシュタインの論理観である。
「科学的世界把握」の支持者たちが、「論理実証主義」あるいは「論理経験主義」を自分たちの立場の呼称として認めるようになったのは、主に運動の国際化がきっかけだったと思われる。アメリカに移ったカルナップが、英語で書いた論文「テスト可能性と意味」(一九三六)中のひとつの註で次のように書いているのが示唆的である。
しかし、われわれの運動はいまや、関連する見解をもつ他の国々のグループも含むような、もっと一般的な名称を必要としている。たぶん、(モリスの提案になる)「科学的経験主義」が適切だろう。
カルナップを始めとする論理実証主義者の多くが、アメリカに移り各地の大学の哲学科にポストを得るとともに、論理実証主義の運動としての側面は薄まり、アカデミックな哲学のなかで大きな影響力を振るうようになった。その際、自らの主張を英語圏での経験主義の系譜のなかに位置づけることは、いろいろな点で有利となっただろうということは想像に難くない。第一に、それは自分たちの立場を、相手にもなじみのある哲学の枠組みから理解する助けとなっただろう。第二に、そうすることで、論理実証主義が、哲学の歴史的展開のなかの必然的段階であるというストーリーを紡ぐことが可能となった。形而上学の排斥、命題の意味はそれが経験においてどう検証されるかによって与えられるとする検証原理、論理と数学は言語的規約に由来するとする規約主義、有意味な命題がすべて経験における検証を必要とするならば、異なる科学のあいだに根本的な違いはないとする統一科学の理念、これらすべてが、経験主義の自然な発展のなかに位置づけられることになる。これはたしかに、よくできたストーリーである。だが、よくできすぎているのも事実である。
現実の歴史がもつ複雑さよりも、それを材料に作り上げられたストーリーの方が、その歴史を担った当事者にとってさえ、真実とされることが多い。ましてや、それが「経験主義のふたつのドグマ」のように、半世紀以上にわたって読み継がれてきた「古典」に記されていることならば、疑いようのない真実とみなされることに不思議はない。(以下、本文つづく。注は割愛しました)