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ピーテル・ヴァン・ロメル 著
『「田舎教師」の時代 明治後期における日本文学・教育・メディア』
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はじめに
明治時代(一八六八~一九一二年)が日本において近代教育と近代文学が成立した時代であったことは周知の通りである。しかし、それぞれの成立過程で近代教育と近代文学の間に密接かつ複雑な関係が存在したということは、ほとんど注目されてこなかった。注視すべきは、次の三点である。
一点目は、明治後期において小学校教員が新しい近代的な読者層を形成したということである。明治三〇年代と四〇年代において公教育が急速に拡大し、日本の津々浦々に小学校が設置された。小学校教員数は約八万人(一八九七・明治三〇年)からほぼ一六万人(一九一二・明治四五年)にまで倍増した。義務教育の無償化(一九〇〇・明治三三年)や就学率の増加(一八九七・明治三〇年に六七パーセント、一九〇七・明治四〇に九七パーセント)、国定教科書制度の確立(一九〇三・明治三六年)、師範教育の拡大(一八九七・明治三〇年に四七校、一九一二・明治四五年に八六校)なども、初等教育が浸透する過程を示している。かくして日本全国に散在することになった大勢の青年・新進教師たちは中間的な知識人層を形成し、出版文化の熱心な受容者となった。彼らと彼女ら向けに『教育界』(一九〇一~一九二三年)や『教育学術界』(一八九九~一九三九年)、『教育実験界』(一八九八~一九二三年)といった教育雑誌や「教育小説」と呼ばれていた文学作品が出版されただけではなく、教員たち自身も創作活動に取り組み、教育雑誌などに詩歌や短編小説を数多く発表した。文学は実に教育ジャーナリズムと教員生活の中で重要な位置を占めていた。
二点目は、地方教育を新たな題材とする国木田独歩(哲夫、一八七一~一九〇八年)の「富岡先生」(『教育界』一九〇二年七月)や「酒中日記」(『文芸界』一九〇二年一一月)、「日の出」(『教育界』一九〇三年一月)、徳田秋声(末雄、一八七二~一九四三年)の『女教師』(春陽堂、一九〇五年)、「犠牲」(『中央公論』一九〇七年一〇月)、島崎藤村(春樹、一八七二~一九四三年)の『破戒』(緑陰叢書、一九〇六年)、石川啄木(一、一八八六~一九一二年)の「雲は天才である」(一九〇六年執筆、死後出版)、田山花袋(録弥、一八七二~一九三〇年)の『田舎教師』(左久良書房、一九〇九年)などの著名な作家の筆による近代小説がこの時期に出現したということである。近代社会と近代生活の諸問題と可能性を描写したり模索したりすることを中心的な役割とした近代文学は、明治前期から都会や知的なエリートに焦点をあてながら教育制度や教育思想、子育てなどを重要なテーマとして扱ってきたが、明治後期の教育界と社会全体における変化に応じて、地方教員のような周辺に属する人々に目を向け、そうした人物の生活環境や精神的状況、彼らと彼女らの人生の意義を問い直し始めるようになった。教育と密接にかかわる形で文学史は新たな段階に入っていったのである。
三点目は、当局の教育方針の変遷が近代文学のありようを理解するための重要な歴史的背景をなしたということである。特に日露戦争(一九〇四~一九〇五・明治三七~三八年)後に、社会主義や個人主義ならびに自然主義文学と恋愛小説を「危険」とみなし、文学の読書と生産を統制するようになった文部省と内務省の政策は、文学と政治との対立を激化させたのであり、この時期にとりわけ自然主義文学が演じた批判的な社会的役割の重要性を明確にうかがわせる。
教育史研究と文学史研究はこれまで基本的に孤立分離して行われてきたと言ってよい。教育史研究者は教育史の複雑な実態を綿密に調査してきたが、雑誌や文学作品を分析の対象とすることはなかった。一方、文学研究者は「道徳」や「国家」と結びつけられる教育界を限定的ないし否定的に捉え、教育と文学との関係の複雑さと重要性を見逃してしまう傾向が強い。しかし、上述から明らかなように、近代文学と近代教育についての理解を深めるためには、この二つの領域を横断し、文学と教育を総合的に研究することが不可欠である。本書は、こうした欠落と偏向を補うために、小学校教員が形成した文学読者層を中心に、明治後期における日本の近代文学と近代教育との関係を検討し、近代教育、教育ジャーナリズム、近代文学の複雑で多様なありようと変遷過程を考え直す試みである。教育史研究やメディア史研究、文学史研究が交差する、従来にない学際的な研究領域を切り拓くことによって、日本近代文学が有した社会的意義を読み直し、近代化していく日本の教育とメディアと社会全体の具体的なありように新たな光を当てたい。
本書が達成しようとする学問上の意義は以下である。まず、本書は小学校教員群を重要な近代読者層として捉え、既存の教育史研究を踏まえながら教育雑誌の記事や投稿欄などを大量に検討することで、多くの教員たちが重んじた読書習慣の詳細とその意味を具体的に明らかにする試みである。教員たちがどのような生活を送っていたのか、どの媒体を通してどのような情報を得たのか、自らどのような意見や考えを表現したのかということを克明に描き出すことによって、国家の担い手、もしくは逆に、社会的敗者である煩悶青年という、とりわけ文学研究においてこれまで小学校教員たちに対して付与されてきた固定的イメージを修正し、地方教員が形成した文学読者層の重要性と多様な実態に関する理解を深めるものとなろう。
また、本書は『教育界』、『教育学術界』、『教育実験界』といった明治後期の代表的な民間教育雑誌を三誌選び、それぞれの雑誌の異なった編集方針や構成、各欄の内容、読者層、掲載文学を入念に分析することで、明治後期における教育ジャーナリズムの多面的な発展と変遷過程を解明することを目的とする。教員読者層や教育雑誌とその掲載文学についてはこれまでほとんど研究の対象とされていないのが現状である。とりわけ教育ジャーナリズムに関する既存の研究は資料収集や総目次の作成といった基礎的な段階に留まっている。ほぼ未開拓のままである教育雑誌を複数調査することは、明治後期において近代教育がどのように普及したのか、あるいはどのように議論されていたのかということに新たな光を当てながら、近年停滞しているように見える教育ジャーナリズム史研究にも新鮮な刺激をもたらすことになろう。
そのうえ、本書は小学校教員という特定の読者層に注目し、教員たちが読んだり執筆したりした文学作品及び教員たちについて書かれた文学作品を教育史的な背景をもとに検討することによって、現在忘れられている近代文学テキスト群を開拓し、日本近代文学が演じた社会的役割を考え直すことも可能にするだろう。従来の近代文学研究は著名な作家の古典的作品を中心に行われがちであり、その結果として、近代文学史は多くの文学テキストを視野の外に置くことになった。教育小説と教育雑誌はその一例である。しかし、教育小説群は、教育美談の他に、立志小説やロマン主義小説、広義の写実主義小説、自然主義小説などから形成され、また時代や発表媒体によって顕著な差異を示した実に多彩な作品群であった。教育小説を数多く掲載した教育雑誌は近代文学を発展させた場の一つとして機能したとも言える。かくして熱心な文学読者層を形成した教員たちと文学の生産を積極的に支えた教育雑誌に焦点を当て、ほぼ未研究のままに残されてきたこの近代文学資料の特徴や変遷過程を究明し、さらに田山花袋の『田舎教師』という古典的作品と対比させることは、近代文学の成立過程と社会的意義を捉え直す貴重なきっかけを与えるだろう。
文学と教育との関係という側面から日本近代文学が演じた社会的意義を再検討することは、従来の日本近代文学研究のありようそのものを考え直す試みでもある。近代文学、とりわけ日露戦争後の自然主義以降の文学を一方的に自己中心的ないし国家主義的なテキスト群として捉えがちである既存の日本近代文学研究は、そもそも近代文学が有した社会的意義を低く評価してきた。詳細は第9章で論じるが、日本近代文学が日露戦争後に田山花袋を中心とした自然主義の発生によって社会性を喪失したという文学史の捉え方は、大正時代(一九一二~一九二六年)のマルクス主義の影響によって形成され、敗戦後さらに強化されてきた文学史観であるが、歴史的な事実よりも、研究者たち自身の思想的な先入観を反映すると言って良い。また、一九六〇年代後半と一九七〇年代に起こった思想的運動の影響を受け、自己中心的とみなされてきた日本近代文学を国家主義と結びつけてさらに否定的に意味づける研究動向も依然として根強いが、そうした研究は明治社会の歴史的実態よりも、むしろ国家や帝国、植民地主義、ジェンダーなどに関するあらかじめ決められた価値観に基づいて取り組む研究者たちの姿自体を暴く。こうした学術上の問題を指摘し、とりわけ自然主義文学を再検討する試みは英語圏では多くなくともなされているが、日本国内では伝統的な解釈パラダイムが未だに支配的であると言わざるを得ない。教育と文学との関係を研究することは、政治と文学との関係を再検討し、文学が演じてきた広い意味での「教育的」な役割の多様性と複雑さを考え直す課題であり、この点でまさに現在取り組むべきアクチュアルな問題を構成するものであろう。
研究方法に関しては、上記からすでに明らかなように、作家論や作品論を利用しつつも、文学が創作され、普及され、受容される際に機能した媒体とその社会的・歴史的な背景を重視する必要がある。歴史的文脈と媒体自体の特徴を解釈の枠として重んじることは、無名の教師たちによって執筆された作品を分析する場合には不可避のものであるが、読者を中心に捉えながら、文学が果たした社会的役割を究明しようとする本書の目的としても最も有効である。単行本も分析の対象とするが、その際には序文や広告、当時の批評や読者からの感想文などを利用しつつ作品を位置づける。作家に関する情報も生かすが、たとえば田山花袋の自然主義を議論するにあたっては、既存の作家論の他に、花袋が雑誌『文章世界』(一九〇六~一九二〇年)に載せた評論や選評なども重要な資料とし、花袋と読者・投稿者、あるいは自然主義と読者・投稿者との関係を可能な限り掘り出し、明治社会における文学の働きの具体的なありようを明らかにするように努める。日本国内外の学術界における研究動向を視野に入れながら学際的なアプローチをとり、大量の一次資料を研究の基盤とすることで、明治期の近代文学と近代教育の複雑で多様な歴史的実態をなるべく公平で客観的に描き出し、日本近代文学研究の新たな可能性を提示することを試みる。
最後に、時代区分について説明しておく。本書では明治二〇年代、明治三〇年代、明治四〇年代という大まかな時代区分を用いる。これは一〇年ごとの区切りが分かりやすく便利であるという理由からではなく、各時代に大きな質的差異が認められるからである。明治二〇年代は日本の教育制度と教育方針が森有礼(一八四七~一八八九年)の諸教育令(一八八六・明治一九年)と教育勅語(一八九〇・明治二三年)によって設立された時代として位置づけることができる。明治三〇年代、すなわち日清戦争(一八九四~一八九五・明治二七~二八年)後から日露戦争(一九〇四~一九〇五・明治三七~三八年)までの時期に概ね相当する時代は、初等教育が日本全国において拡大・浸透し、小学校教員という新たな職業層と読者層が発生した時期であり、同時に近代教育と近代社会をめぐる理想と価値観が絶えず根本的に問い直され続けた時代である。明治四〇年代は日露戦争後から大正時代の始まりまでで、政府が社会問題の深刻化に直面して、思想の統制を強化し、忠君愛国主義に基づいた教育政策を実行した時期を指す。本書は明治後期、すなわち明治三〇・四〇年代を中心に扱うが、明治後期における教育と文学の特徴を把握するために、明治二〇年代も視野に入れる。教育史に基づいたこの時代区分は、本書で論証するように、教育史と密接な関係をもつ文学史を理解するためにも有益である。
本書は大きく三部立てで、全一三章から成る。以下、各部と各章の目的を簡潔にまとめておく。
第Ⅰ部では明治日本の教育史の時代区分を提示し、文学と教育ジャーナリズムが教育の発達史と教員の日常生活においてどのような役割を果たしたかを明確にする。日本の近代教育が初期の個人主義や自由主義、実学主義から短期間の内に国家主義へ転じたことは周知の通りだが、「国家主義」は日露戦争までは、必ずしも忠君愛国主義を意味してはいなかった。第1章で、この点に留意しながら、明治二〇・三〇・四〇年代における教育方針と思想の特徴をより精密に検証し、さらに各時代に共存した多様な考えや教育の実践にも注目することで、明治期の教育界の複雑な実態を描き出す。論証するように、教育ジャーナリズムと文学の役割は、教育思想を普及させたり、それについての議論を活性化したり、批判的に検討したりすることが可能になるために不可欠なものであった。この役割の重要性は、第2章で地方の小学校教員の生活状況と読書習慣を調査する際にも明らかになる。第2章は地方の小学校教員を明治後期に生じた新たな文学読者層として捉える。小学校教員は中間知識人層を形成しつつも、経済的に恵まれなかった周辺的な人物であった。彼らと彼女らの生活状況が具体的にどのようであったか、また教員生活の中で読書ととりわけ文学がどのような位置を占めたかを明らかにする。なお、地方教員が重要な文学読者層を形成したことを論証するだけではなく、比較的幅広く雑誌や文学を読んでいた教員読者層の多様性も明確にする。
本書の第Ⅱ部では教育小説群を研究の対象とし、具体的な作品分析を通して、教育ジャーナリズムと文学が明治後期に果たした複数の役割とその変遷過程をとりわけ地方教員の観点から明確にする。第3章では教育小説という小説群の概要を説明し、先行研究の成果と問題点を議論したうえで、第4章でまず明治二〇年代の教育小説群を分析の対象とする。明治二〇年代の教育小説群が唱えた教育思想と果たした教育的な役割を究明するだけではなく、この作品群を立志小説の一種として捉えることによって、明治期を通して流行した立志小説ジャンルの性質とその系譜についての理解を深めることも目的とする。第5~7章では『教育界』、『教育学術界』、『教育実験界』といった明治後期の代表的な民間教育雑誌を主たる資料として選び、各雑誌の編集方針や構成、内容を明確にしたうえで、誌面を飾った二三〇作以上の文学作品をすべて列挙、整理し、入念に検討する。日露戦争前と後との明確な差異だけではなく、各雑誌の記事や文芸欄の中で見られる多様性を詳しく議論することによって、明治後期における教育ジャーナリズムとその中で重要な位置を占めた文学の多数の役割と変遷過程を究明する。第8章ではさらに、日露戦争後に強化された国家主義的な思想をいっそうはっきりと唱道したプロパガンダとも言うべきである、明治四〇年代に出版された単行本の教育小説も分析することで、当時の公的な教育思想が、文学において具体的にどのような内容と形式によって教員に唱道されていたかを詳細に議論する。
第Ⅲ部は日露戦争後に激化した自然主義と当局との衝突という歴史的背景を描いたうえで、自然主義文学の主導者であった田山花袋とその代表的な自然主義小説『田舎教師』を中心に、日本における自然主義文学が演じた社会的な役割を捉え直す試みである。日露戦争後の自然主義文学ととりわけ花袋の小説は既存の研究において、視野の狭い私小説・告白小説、あるいは保守的ないし国家主義的な文学として批判的に位置づけられる傾向が根深いが、本書は主に西欧で行われてきた最新の研究を手掛かりとし(第9章)、作家論(第10章)、花袋の自然主義をめぐる議論(第11 章)、作品論(第12章)、花袋受容に関する議論(第13章)を通して、花袋の文学と自然主義文学全体に関する理解を修正する。ロマン主義から自然主義文学へ転じた花袋は、学習雑誌『中学世界』(一八九八~一九二八年)と文学投稿雑誌『文章世界』の懸賞小説の選評者として積極的に文学青年の指導を行い、青年たちが立身出世、恋愛、国家にまつわるロマン主義的な理想から距離をとり、人間と社会を現実的で批判的な精神で観察して検討するように促した。田山花袋の自然主義運動と小説『田舎教師』を歴史的な文脈で解釈すると、読者たちの抱いた文学理念や思想を刺激し、オルタナティブな教育運動として重要な役割を演じたということが分かる。
(注は割愛しました)