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『 クィアなアメリカ史――再解釈のアメリカ史・2』

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マイケル・ブロンスキー 著
兼子歩・坂下史子・髙内悠貴・土屋和代 訳
『クィアなアメリカ史 再解釈のアメリカ史・2』

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日本語版の読者のみなさまへ
 
 『クィアなアメリカ史』の日本語版への序文を書くことは、私にとっては、このプロジェクトの意味を省察する時間であり、また、本書が二〇一一年に刊行されて以来アメリカ合衆国で起こってきたことについて振り返る時間でもありました。
 このふたつの問いを考えるためには、本書の序で述べているように、「アメリカのクィア史」というようなものは存在しない、ということを思い出す必要があります。本書はアメリカ史のひとつの見方を提示しています。それは、同性に惹かれる経験をした人びと─かつてその経験に基づいて行動した人も、そうでなかった人も─や、さまざまな形で伝統的な二元的ジェンダー・アイデンティティとは異なっていた人びとの多くを発掘して脚光を当て、そして、現在進行中であり複雑でしばしば非常に混乱する個人的・社会的・政治的自由というプロジェクトの進展にとって、そうした人々がいかに中心的な存在であったのかを明らかにしようとする試みなのです。
 しかし、本書の題名を『クィアなアメリカ史』としたことは重要です。アメリカの始まり以来、同性に惹かれた人びとと非伝統的なジェンダー・アイデンティティを体現していた人びとは、国家と宗教と個人的敵意の力によって周縁化され、排斥され、迫害され、物理的に傷つけられてきました。この文脈においては、「クィアな」歴史とは、必然的に抵抗とサバイバルの歴史です。アメリカが独立以前にイギリスの植民地だったころから、そしてアメリカがしばしば侵略的で帝国主義的な世界大国へと徐々に発展していくあいだも、そして今日においても、このことは真実なのです。この間、同性に惹かれる人びとや、トランスジェンダーや、ノンバイナリーな人びと─手短にするためにLGBTQと呼ばれますが、この略語もそれが表している言葉も、アメリカ史の大半の時期において存在していなかったのですが─は、アメリカ文化がより開かれたものとなるよう挑んだのであり、それゆえにかれらはアメリカ文化を作り上げる上で不可欠な存在であったのです。アメリカ合衆国という文脈において、歴史的にも現在も(そしてクィア運動が成し遂げてきた進歩の全てをもってしてもなお)、「クィア史」に関する書籍を執筆し出版するということは、政治的・文化的な抵抗の実践なのです。
 『クィアなアメリカ史』の中心的なテーマおよびその文脈は、闘争とサバイバルと勝利です。本書は、先住民たちの生活を論じるところから始まっています。先住民たちは、ヨーロッパの重商主義者と宣教師たちが北米の大地の天然資源を搾取しその住民をキリスト教へと改宗させようと侵略してくる以前から、北米大陸に暮らしていました。本書の最後の章は、HIV/AIDSの流行のインパクトを描き、感染を拡大させるがままにした政府の犯罪的な無関心、そして平等結婚権運動〔同性婚の権利を要求する運動〕の登場に簡潔に触れています。これは一〇年以上前のことであり、その後、多くの出来事がありました。
 LGBTQの自由のための戦いはさまざまな形で起こります。運動の非常に初期のころ、人びとはアメリカ社会のラディカルな変革を追求しました。ラディカル・フェミニスト運動やブラックパワー運動とともに、ゲイ解放運動は、新しい解放された社会を構想しました。そしてかれらは、ある集団に別の集団にはない特権を与えるような既成の社会的権力体制の外部で活動する─あるいはこれを打倒する─ことによってのみ、自由は獲得されうるのだと主張したのです。運動史の初期において、[LGBTQ]コミュニティのメンバーたちは、ストリートへと打って出ました。その代表例が、一九六九年のストーンウォール暴動です。
 この数十年、暴動や行進は減っていきました。そして人びとが、合衆国の法体系においては憲法が保障する「法の下の平等」と呼ばれるものを追求することによって、不平等や被害の是正[の要求]は法の領域へと移っていきました。この運動は、ゲイ解放運動から生まれ育ってゲイ解放から分かれ、LGBTQ権利運動と呼ばれています。
 この運動のここ二〇年間における闘争の多くは、法の下の平等を求めるものでありました。これらの闘争には、結婚の平等のための戦い(宗教上ではなく民法上の結婚)、LGBTQの人びとが軍隊に入ることを可能にするための戦い、民間企業がLGBTQの顧客を差別したりLGBTQの従業員を解雇したりすることを防いでくれる反差別法の制定を求める戦いなどがあります。本書『クィアなアメリカ史』の刊行以来、運動はLGBTQの人びとに法の下の平等を与えるための多くの戦いに勝利してきました。
 体制の枠内で活動することは、しばしば困難を伴いますが、非常に成功しました。しかし最近では、ドナルド・トランプ政権の誕生と非常に強力な保守的キリスト教福音主義運動の興隆に端を発して、これらの法的な成果を少しずつ解体し、すべてのアメリカ人が享受すべき基本的な法的権利をLGBTQの人びとに認めないための、多数の企てがなされてきました。同性婚に対する憲法上の保護〔二〇一五年の最高裁オーバーゲフェル判決は同性婚を憲法上の権利と解釈した〕を撤廃しようと真剣に議論する動きさえあるのです。
 かつては[LGBTQの人びとが]勝利してきたこれらの戦いは、アメリカ政治の深い保守化傾向の兆候であり、それは非白人コミュニティの投票を抑圧したり女性の生殖の権利を攻撃したりといった動きにも表れています。一九六〇年代においてブラックパワーやラディカル・フェミニズムの登場において見られたように、これらの運動の関心は、それぞれ互いに深く結びついています。『クィアなアメリカ史』が明らかにしたように、ここには闘争とサバイバルと勝利の軌跡があるのです。たとえ、勝利の後に、次の闘争の波が続いたときでさえ。
 この序文を、もうひとつの注意点を指摘することなしに終えることはできません。つまり、『クィアなアメリカ史』は明らかに、アメリカ合衆国のみに関する歴史だということです。合衆国の歴史は重要であり、アメリカはグローバル政治に極めて巨大な影響力を及ぼしてきました─その植民地主義と帝国主義の歴史ゆえに、非常にポジティブなものとはいえないとしても。
 多くの点で、今日のグローバルなLGBTQ運動はアメリカ文化に根ざしたものではあります。読者のみなさんは、このアメリカ文化について本書で触れることになります。この運動は、アメリカ史のなかの極めて特定の瞬間から生じ、西洋の啓蒙主義の伝統から登場した人権という特有の枠組みに依拠しています。この運動における多くの表現方法─抵抗の象徴としてのストーンウォール暴動、プライドの象徴としてのレインボー・フラッグなど─は、グローバルに受容されてきました。これは世界規模のコミュニティを築くうえで素晴らしいことではありますが、重要なことは、この七〇年間に登場してきたその他の各国・各地域のクィア運動の素晴らしい多様さを、「アメリカ化された」LGBTQ運動が覆い隠してしまうことがないようにすることです。『クィアなアメリカ史』がひとつの文化、ひとつの国の特有の歴史を綴ったように、大半の人びとは自分たち自身の歴史と遺産を探究し、顕彰します。それらのすべてが重要なのであり、『クィアなアメリカ史』は、より大規模で偉大なモザイクのなかのタイルの一枚にすぎないのです。
 これらの歴史の全てが重要なのです。LGBTQの人びとは、世界中どこでも、いまだに完全な自由を獲得できてはいません。いかなる国や文化にとっても、より包摂的でより解放された未来へと向かっていくための最善の方法とは、過去と格闘することなのです。
 
マイケル・ブロンスキー
 
 
訳者あとがき
 
 本書は、Michael Bronski, A Queer History of the United States (New York: Beacon Press, 2011)の全訳である。本書はアメリカ図書館協会(American Library Association)の「イズラエル・フィッシュマン最優秀LGBTノンフィクション賞」を受賞するなど、非常に高い評価を受けた。二〇一九年には本書のジュニア版としてA Queer History of the United States for Young Readers も刊行されたが、こちらは『学校図書室ジャーナル(School Library Journal)』が選ぶ同年の最優秀ノンフィクションの一冊に選ばれている。本書の原著は米ビーコン・プレス社の「再解釈のアメリカ史(ReVisioning American History)」シリーズの一巻目であるが、原著ではシリーズ五巻目にあたる『アメリカ黒人女性史』(兼子・坂下・土屋訳、勁草書房、二〇二二年)が先に邦訳刊行されたため、邦訳版では本書はシリーズ二巻目となる。
 本書の著者マイケル・ブロンスキーは、フリーのジャーナリストとして、LGBTQをめぐる諸問題に関して精力的に著述・発言しつつ、アメリカ合衆国のLGBTQ史研究者としても活動し、多数の著作を発表してきた。ダートマス大学の教員を経て、二〇一一年よりハーヴァード大学教授として「女性・ジェンダー・セクシュアリティ研究」プログラムの授業を担当している。エイズ危機とゲイ・アクティヴィズムに関するジャーナリストとしての業績により、一九九五年にエイズ問題と取り組む最大の非営利団体であるエイズ行動委員会(AIDS Action Committee)から表彰を受けた。著書としては、本書のほか、性的関係における快楽それ自体の文化的意味をめぐるゲイ・コミュニティと主流社会のあいだの緊張・対立、主流社会におけるホモフォビア(同性愛嫌悪)の歴史的意味、そして主流社会の性文化に対するゲイ文化の影響と貢献の重要性について論じたCulture Clash: The Making of Gay Sensibility (Boston: South End Press, 1984) やThe Pleasure Principle: Sex, Backlash, and the Making of Gay Freedom (New York: St. Martin’s Press, 1998)などがある。また、一九五〇〜六〇年代のゲイ男性を扱った「パルプ」(安価で扇情的な大衆小説のこと、第九章を参照)のアンソロジーであるPulp Fiction: Uncovering the Golden Age of Gay Male Pulps (New York: St. Martin’s Griffin, 2003)は、LGBTQ文学の振興を目的とする団体であるラムダ文学財団(Lambda Literary Foundation)の最優秀ノンフィクション賞候補となった。
 本書はアメリカにおいてLGBTQ史の概説として非常に高い評価を得たが、それは本書がもつ教科書としてのいくつかの優れた特徴による。まず、本書は簡潔ながら、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸への入植が始まる頃から二〇世紀末にいたるまでのアメリカの歴史を網羅しているという、その通史としての包括性にある。そのため、多様な歴史的事例が豊富に紹介されており、読者を飽きさせない。アメリカのLGBTQの歴史に関する概説的な邦語文献としては、リリアン・フェイダーマンによる『レズビアンの歴史』(富岡明美・原美奈子訳、筑摩書房、一九九六年)という名著があるが、こちらは二〇世紀を中心としている。レズビアン、ゲイ、そしてトランスジェンダーやその他のクィアも含めた包括的なアメリカLGBTQ史叙述はこれまでに日本語では出版されておらず、その意味で本書は貴重である。
 だが本書の最大の特徴は、序にも述べられているように、今日であればLGBTQと呼ばれることになる人びと「について」の歴史叙述にはとどまっていない、という点にある。本書の原題であるA Queer History という表現は、歴史そのものがクィアにされることを意味する。すなわち本書は、クィアという視点を通してアメリカ史全体を再解釈しているという点で、野心的な試みなのである。本書は、アメリカ独立革命や南北戦争、革新主義改革運動やニューディール、第二次世界大戦など、アメリカ史の基本的な重要事項をなぞっている。だが、単にそうした重大な歴史的事件や事象のなかに同性愛者やトランスジェンダー「も」存在していた、と指摘することは、本書の主たる目的ではない。もちろん、歴史上に存在したLGBTQの人びとについて知ることができるのは、本書の重要な美点である。だが同時に、歴史におけるそうした人びとの存在が示しているのは、クィアの視点を通してアメリカ史を読み直すことによって、これまで一般的に理解されてきたアメリカ史が異なる姿を見せるようになるということである。アメリカ史をクィアに読み替えることを通じて、LGBTQの人びとの存在は、むしろアメリカ史をアメリカ史たらしめるために不可欠の存在であるということが明らかにされていく。そのことが顕著に表れるのは、ジョージ・ワシントンとラファイエットの関係、一九世紀を代表する思想家・作家であるエマソンやソローやディキンソンやメルヴィルの世界、ウェブスターのような政治家が培った友情、ジェーン・アダムズやエレノア・ローズヴェルトのような改革の時代を代表する女性など、アメリカ史上の有名人たち─その中には、日本の世界史の学校教科書にさえ取り上げられうるような人名もある─を、クィアに読みといていく本書の叙述である。
 そうした叙述を通じて、本書は性的マイノリティと主流社会の境界線のあいまいさ、流動性、そして恣意性を明らかにする。性的に異物とみなしたものを執拗に排除しようとする植民地期のピューリタン社会が根源的に内包していた不安。特定の性的道徳に基づく社会の浄化を追求しながら、その道徳規範から外れた異性装のパフォーマーたちに喝采を送る二〇世紀初頭の都市社会。豊かさと反共主義のなかで、強制的な異性愛主義が強まっていきながら、同時に異性愛者が同性愛に強迫観念的に関心を寄せ、語り、読もうとする一九五〇年代。こうした叙述から浮かび上がってくるのは、セクシュアリティやジェンダーに基づく排除を追求してきた主流社会の歴史が、性に取り憑かれてきた人びとの歴史そのものであった、という現実である。本書を通じて問われているのは、LGBTQではなく主流社会のあり方の異常さなのである。この異常さの歴史的な諸相を丁寧に明らかにしていることは、本書の優れた点であるといえるだろう。
 本書は残念ながら原著が二〇一一年刊行であるため、ここ十数年の情勢には言及されていない。本書が刊行された時点では、同性婚が法制化されたのは数州であった。しかしその後、急速に同性婚を法制化する州が増加し、二〇一五年のオーバーゲフェル対ホッジズ判決によって全米で同性婚は法制化され、同性婚禁止は違憲とされるようになった。だが、このような「勝利」に対する反動が、二〇一六年からのトランプ政権のもとで後押しされながら、全米に広がっている。俗に「信仰の自由法」と呼ばれる、公務員や小売業者等に信仰を理由としたLGBTQへのサービス拒否を権利として保護する法律が制定されたり(トランプ政権の副大統領マイク・ペンスが知事として制定を後押ししたインディアナ州はその代表例である)、学校の図書室からLGBTQを肯定するとみなされた書籍が排除されたりしている。フロリダ州で通称「ゲイというな法」が制定され、学校でLGBTQについて教えたり議論したりすること自体を禁止されたことは、日本でも若干報道された。近年では、保守派・極右による攻撃の対象はおもにトランスジェンダー、とくにトランスジェンダーの子どもや若者たちとなっており、未成年に対するジェンダーアファーミングケア(ケアを受ける人のジェンダー・アイデンティティを尊重し、そのジェンダーで生きていくことを助けるケアで、対象はトランスジェンダーに限定されない)を禁止する州は二〇二三年二月段階で少なくとも一二州に上る。二〇二〇年に最初のトランスジェンダー女性の女子スポーツ参加を禁止する法律がアイダホ州で制定された後、二〇二三年三月までに一九州で同様の法律が制定された。このようなLGBTQ、とくにトランスジェンダーをターゲットとした攻撃は、二〇二二年六月のロー対ウェード判決を覆す最高裁判所の判断などとともに、人びとの身体についての自己決定権に対する政府による介入の広がりという危険な傾向の一部として理解される必要がある。また、トランスジェンダーに対する攻撃が極右の隆盛を可能にしている構造はアメリカ国内のみならずグローバルにみられる傾向であり、その意味でも本書のテーマの一つである「迫害社会」のあり方と性的マイノリティの政治の関係を理解することには、差し迫った重要性があるといえる。
 また、この十数年におけるアメリカ・クィア史研究の進展に照らすならば、本書の叙述には限界もあることを指摘しておかなければならない。問題点のひとつは、同性愛(特にゲイ男性)に関する叙述と比較すると、それ以外の性的マイノリティ、たとえばトランスジェンダー史の叙述が、現代に近づくにつれて相対的に手薄になっていくことである。性的マイノリティがゲイ男性に代表されてしまうことで、それ以外の人々が後景に追いやられてしまう構図は、LGBTQ運動史において繰り返されてきた問題でもある。また、著者は「性的なコミュニティ」としてクィア・コミュニティを描くが、近年とくにアセクシュアリティの立場から、恋愛やセックスを欲望することが自然であるという規範自体が問われていることを踏まえるならば、クィアなコミュニティをどのように定義し、記述することが可能かについて、今後さらなるアップデートが必要であろう。
 また、本書ではLGBTQコミュニティの人種・階級的な複雑さにも言及がされているが、そうした複雑さを一貫した分析と叙述の枠組みとしているわけではない。だが、近年の研究ではLGBTQコミュニティ内の人種的相違と緊張や対立などの複雑な関係を明らかにしたり、ジェンダーやセクシュアリティのカテゴリーがいかに人種のカテゴリーと絡み合いながら構築されてきたかを明らかにするインターセクショナルなクィア史研究が盛んになってきている。加えて、本書はほぼアメリカ合衆国の一国史としての叙述となっており、そのためにアメリカ賛美の語りとみなしうる箇所も散見され、また「アメリカ的」なナラティヴの拘束力の強さを感じさせる箇所もある。だが近年では、アメリカのジェンダー・セクシュアリティの歴史は、アメリカ帝国主義や植民地主義の歴史と切り離せないことを示すトランスナショナルなクィア・ヒストリーの重要性が高まっていることも、無視できない。
 とはいえ、そうした限界や欠点を踏まえてなお、本書がアメリカ史、ひいては歴史そのものの読み方、理解の仕方を変えるインパクトを有していることは疑いない。そして、植民地期から二〇世紀末までのアメリカ史を再解釈した本書の論点は、二一世紀のアメリカにおけるLGBTQの状況、そしてジェンダーとセクシュアリティをめぐるアメリカ社会の現在を理解するために、極めて有益な歴史的視点をもたらしてくれる。本書の邦訳版を刊行する意義はまさにここにあると訳者は考えている。
 本書は、まだクィア視点から叙述された日本史の通史的な書籍が刊行されていない日本の出版界の状況において、歴史をクィア的に読み直すための手がかりが多数詰まっているといえるだろう。どの時代にも排除と抑圧と搾取が渦巻く社会のなかでその隙間を巧みに生き抜き自己を表現しようとした人びとがいたこと、そして歴史の決定的瞬間に立ち上がり声を上げた人びとの姿を知ることは、勇気づけられることである。また、主流社会に属する読者にとっては、本書を通じて、変わらなければならないのは「主流」社会の側なのだということを、痛切に感じられるのではないだろうか。訳者一同は、本書がすべての読者にさまざまな驚きや刺激や学びをもたらしてくれるであろうと期待している。
 本書は勁草書房の橋本晶子さんの多大なるご尽力のおかげで刊行まで無事にたどりつくことができた。出版業界が決して順風ではないこの時代に、本書の刊行を強力に後押しいただいてくれたことに対して、あらためて感謝の意を表したい。
 
訳者を代表して
兼子 歩・髙内悠貴
 
 
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