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『何か本当に重要なことがあるのか?――パーフィットの倫理学をめぐって』

 
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ピーター・シンガー 編
森村 進 監訳・訳/太田寿明・三浦基生・山本啓介 訳
『何か本当に重要なことがあるのか? パーフィットの倫理学をめぐって』

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序文
 
 デレク・パーフィットの二巻で一四〇〇頁にわたる『重要なことについて』が二〇一一年に公刊された時、それは永続する哲学的重要性を持つ著作として広く称賛された。しかしながらそれに引き続く議論の多くは、パーフィットがその本の中で、〈規範倫理学の中の三つの主要な対立する伝統――カント主義と契約主義と規則帰結主義――の最善のヴァージョンは基本的に一致していて、同一の行為を不正だとする〉と論じた部分に焦点を置いていた。だがこの独創的で重要な議論の基礎にあってそれを支持するものは、それとは別の一層基本的な主張であって、これもかなりの長さにわたって擁護されていた。その主張は〈われわれが信じたり欲したり行ったりすべき理由を持つことについて、客観的な道徳的真理とその他の規範的な真理が存在する〉というものだ。
 倫理学における客観的真理に関する懐疑主義は哲学それ自体と同じくらい古い。プラトンの『国家』は、倫理に関する懐疑的挑戦を論駁しようとする初期の試みであり、ソクラテス自身が倫理的相対主義と倫理的主観主義に挑む必要を感じていたということをおそらく示すものだろう。今日の英語圏の哲学では、倫理学におけるほとんどの懐疑主義者あるいは主観主義者の見解は、十八世紀のスコットランドの哲学者デイヴィド・ヒュームの見解に起源を有する。ヒュームは、道徳はわれわれの行動に影響を及ぼすことができるに違いないと想定したし、われわれも通常そう信じている。さもなければ道徳の意義はどこにあるのか、とわれわれは不思議に思うだろう。しかしヒュームはまた、理性はそれだけではわれわれを行動に動かすことができないとも考えた。われわれの願望と欲求がわれわれの究極的な目的を決定するのであり、理性の役割はいかにしてこれらの目的を最もよく達成するかを教えることに限定されている、理性は手段に適用されるのであって目的に適用されるのではない、というのだ。自分の指のかすり傷よりも全世界の破壊の方を選ぶことも、見知らぬ人への些細な害悪を妨げるために自分の破滅を選ぶことも、等しく理性に反しないとヒュームが主張したことは有名である。自分自身の利益に反して行動すること――「私自身のより大きな善よりもより小さな善」を選ぶこと――も、ヒュームの見解によれば理性に反しない。私が何を行うのが理性的であるかは、私が何を欲するかに依存するのである。
 もしヒュームの想定が、道徳と行動との関係についても、行動における理性の役割についても、ともに正しいとしたら、〈道徳的判断は客観的に正しいということがありうる〉と考える人々にとって明白な問題が存在することになる。道徳的判断がわれわれの行動に影響を及ぼせるのは、それが何らかの仕方でわれわれの欲求と結びつくときに限られる。そしてわれわれの欲求があなたの欲求と違っても、どちらも間違いを犯していることにはならないかもしれない。願望や欲求は真でも偽でもない。客観的に真なる道徳的判断は、人が持つ最大の欲求とは無関係に、誰にとっても真でなければならないが、ある理由に基づく行動によって自分の欲求が実現されないような人々に対して、その理由を与えるいかなる行動理由があるだろうか?
 このような推論に導かれて、過去八十年間の指導的な道徳哲学者の大部分――A・J・エイアー、C・L・スティーヴンソン、R・M・ヘア、J・L・マッキー、クリスティン・コースガード、バーナード・ウィリアムズ、サイモン・ブラックバーン、アラン・ギバードなど――は、われわれの倫理的判断が客観的に真あるいは偽でありうるという考えを斥けてきた。情緒主義、構成主義、非実在論、表出主義などさまざまの名称の下で、彼らは倫理的な主観主義あるいは懐疑主義のいくつかの形態を抱懐してきたのだ。
 パーフィットは、実践的理性の限界に関するヒュームの見解に依拠する主観主義の諸形態を批判する。その批判は、道徳よりも自己利益に関する状況において理性が果たす役割に関する議論から始まる。パーフィットはある人物を想像するようわれわれに促す。その人は、われわれの大部分と同じように、自分が将来いかなる快楽や苦痛を経験することになるかを気にかけているが、次の点が異なる。それらの快苦が未来の火曜日に生ずるならば、彼はそれを全く気にかけないのだ。もし彼が火曜日以外の日に起こるであろうことを考えるならば、彼はその日の激痛よりも現在のずっと小さな不愉快の方を経験しようとするだろうが、その激痛がもし未来の火曜日に生ずるだろうとしたら、彼はそれを気にかけず、今現在の小さな不愉快よりもそちらの方を選ぶだろう。この男は、将来の火曜日の苦痛が他の日の苦痛よりも小さいわけではないということについて何の幻想も抱いていない。彼はその火曜日が現在になった時、その激痛が月曜日や水曜日のものと同じくらい恐ろしいだろうということを知っているからだ。彼はまた、その時になれば自分がこの激痛に全然無関心ではないだろう――その時には未来の火曜日ではないのだから――ということも知っている。また彼は、未来の火曜日に自分に起きることに対する無関心のために彼に褒賞を与える奇妙な神様がいると信じているわけでもない。彼は純粋に、その欲求の対象においてわれわれと異なるのだ。確かにこの男の欲求は非理性的である、とパーフィットは主張する。「ある試練の方がずっと痛いということは、それを選ばない強い理由だ。この試練が未来の火曜日に起こるということは、それを選ぶ理由にならない」[OWMⅠ六〇]。
 このような男が非理性的だということを否定するのは難しい。そしてこの非合理性の唯一可能な源泉は彼の欲求だ。しかしヒュームのアプローチは、欲求というものが理性的であるとか非理性的であるとかいう余地を残さない。ヒュームに従う人たちは〈これはとてもおかしな種類の欲求で、われわれが知る限り誰一人としてこのような欲求を持ったことがない〉と言うかもしれないが、誰かがそのような欲求を持つことはやはり想像できる。そしてヒュームの見解にとっての難問を提起するにはそれだけで十分だ。さらに、多くの人々は未来の火曜日への無関心にいくらか似た態度を持っている。たとえば多くの人々は歯医者に行くのを後に延ばす――たとえ彼らが、そうすることは今歯医者に行くよりも全体として大きな苦痛をもたらすということを十分意識しているとしても。少なくとも極端なケースでは、これらの欲求も非理性的だと思われるのだが、理由に関する主観主義者はそうだと言うことができないように思われる。
 同様にして、理由に関する主観主義者は〈炎に私の手を入れることは私に激痛を与えるという事実は、私が炎に手を入れるべきでない理由である〉と言うことができない。彼らは〈私が炎に私の手を入れるべきでない理由を今持つか否かは、私が激痛を避けることを今欲しているか否かに依存する〉と言わなければならない。これは間違いだとパーフィットは考える[OWMI11節]。欲求がわれわれに行為への理由を与えることはない、というのである。私は激痛を経験したいと欲するかもしれないが、その欲求は私の手を炎に入れるべき理由を与えることはない。私はこの欲求を持つべき理由を持っておらず、それを持つべきでない強い理由を持っているからだ。パーフィットは、彼の見解によると理由はわれわれを動機づけないかもしれないということを認める。あるものが私をある仕方で行動するように動機づけるか否かは心理的な問題であって、私がそうすべき理由を持つという規範的な事実とは全く別である、とパーフィットは言う。私はあることを行うべき理由を持ちながらもそのように動機づけられないということがありうるのである。
 主観主義者は、客観的な行為理由、あるいは対象によって与えられる行為理由が存在するということを否定するから、もしパーフィットが正しくて、あるものへの現在の欲求を持つということが人に行為理由を与えないとしたら、〈主観主義の見解によると、われわれはいかなることを行うべき理由も持たない。だからあるものがわれわれにとって重要だとしても、もっと大きな意味では何も重要でない〉という結論が出てくることになる。ここにおいてパーフィットは、主観主義を受け入れながら何も大きな変化がなかったかのように進む中道路線を避ける。パーフィットにとって、もし倫理的真理が存在しなかったら、ニヒリズムが待ち構えていて、われわれがなすべきことが何であるかを明らかにしようとして年月を送ってきた彼やその他の人々の生涯は無駄だったことになる[OWMⅡ三一四]。この大胆な主張は本書の論文のいくつかにおいて論じられている。それらの論文の著者たちは、たとえ倫理的真理がパーフィットの用いる「真理」の強固な意味においては存在しないとしても、パーフィットの生涯は決して無駄ではなかったと彼に示そうとしている。
 パーフィットは倫理的主観主義だけでなく倫理的自然主義も斥ける。〈他の事柄が等しければ、われわれは苦しみを減少させるべき理由を持つ〉と述べることは、パーフィットが真であると信ずる実質的な規範的主張を行うことだが、それは「善い」や「べし」のような道徳的用語の意味から引き出せるものではない。この点でパーフィットはヒュームと意見を同じくして、「である」から「べし」を引き出すことはできないと考えている。つまり、自然的事実のいかなる集合もそれ自体では規範的真理を含意しない、というのだ。われわれは規範的真理を自然的世界に関する事実と同一視することができない――後者の事実が、われわれの生物学的性質によるものであれ、進化によるものであれ、われわれが何らかの特定された状況下で是認するところのものであれ、それ以外の因果的あるいは心理的事実であれ。
 ではわれわれはどのようにして規範的真理を知るに至るのか? パーフィットの客観主義の先駆者たちの多く――十八世紀のリチャード・プライス、十九世紀のヘンリー・シジウィック、二十世紀前半のW・D・ロス――のように、パーフィットは直観主義者である。彼は書いている。「われわれは理由に応えて、ある規範的真理を認識する直観的能力を持つ」[OWMⅡ五七六]。だがこれらの直観的な能力は、パーフィットにとっては、何らかの特別の準感覚能力ではないし、われわれがその能力を用いて非自然的事実という何らかの神秘的な新しい領域を発見するというわけでもない。むしろ、われわれは二足す二が四であることを知るのと同じような仕方で、自分があることを行うべき理由を持っているということを知るに至るのである。これは〈世界は自然科学による検討に開かれている種類の事実を参照することによって十分に説明することができる〉という広く信じられている形而上学的見解と衝突する。この見解を斥けることはあらゆる種類の幽霊のような実体を信ずることにつながるように見えるので、多くの非宗教的な哲学者は形而上学的あるいは存在論的な自然主義を受け入れてきたが、パーフィットはいかなる非自然的な宗教的信念も擁護せず、〈還元不可能に規範的な真理がなかったら、ニヒリストが正しいということになり、何も重要でないことになる〉と論ずる。
 たとえば、〈もしわれわれがある妥当な議論の前提が真であるということを確定するならば、われわれはその議論の結論を信ずべき決定的な理由を持つ〉というのは還元不可能に規範的な主張だ。かくしてパーフィットは形而上学的自然主義者たちに挑戦する。彼は言う。――あなたの擁護する立場が真だとしたら、われわれはそれを受け入れるべきいかなる理由も持たないことになる。というのは、そのような理由が存在しないことになるからだ――。その立場はそれでもやはり真かもしれないが、われわれが奉ずべき理由を持つ唯一の立場は、〈形而上学的自然主義は偽である〉というものである。
 かりにわれわれがパーフィットの議論を受け入れるとしても、それは客観主義にとって空しい勝利にすぎない、と反論する人もいるだろう。パーフィットはヒュームの反論を乗り越えることができたが、それは〈道徳はわれわれを行動へと動かすことができなければならない〉という想定を斥けるからにすぎない、というわけである。もしわれわれが道徳的真理に従って行動するように動機づけられないとしたら、客観的道徳の意味は何なのか? パーフィットはこれに対して、〈われわれが理性的存在者である限り、われわれは道徳が与える理由に応えるだろう〉とカントのように答えることができよう。そしてもしわれわれが理性的存在者でなかったら、そう、それらの真理はやはり真なのである――誰一人として道徳的真理に基づいて行動することがないとしても。
   *
 二〇一〇年に私はプリンストンで、当時近刊予定だった『重要なことについて』についての大学院セミナーを行った。パーフィットがその目的のために入手可能にしてくれた草稿を用いたのだ。パーフィットはその第Ⅰ部で論じた倫理学における客観主義という論点に第Ⅵ部で立ち戻り、彼と反対の立場を擁護する何人かの今日の高名な哲学者を、時としてかなり辛辣に批判する。これらの哲学者の数人はそのセミナーの間にプリンストンにいたか、あるいはプリンストンを訪れることができるくらい近くにいたので、私は彼らの見解に対するパーフィットの批判を議論するために彼らを招いた。ハリー・フランクファートとフランク・ジャクソンとマーク・シュローダーとサイモン・ブラックバーンが応じてくれた。われわれが彼らと行った議論はパーフィットの立場だけでなく、真なる規範的言明というものが存在しうるか否かに関する長年の論争にも光明を投じた。もしこれらの議論が、パーフィットと意見を異にする他の哲学者のものも含めてパーフィットによる応答と一緒に公刊されたら、その結果生まれる本は倫理学における客観主義の議論を活性化させることになるだろう、と私は思った。
 私が本書への寄稿を招待した人のすべてが招待に応じたわけではないが、彼らの多くはそうしてくれた。その中には表出主義や自然主義や構成主義の指導的提唱者も含まれる。それに加えて、私はセミナーに参加した大学院生の二人であるリチャード・チャペルとアンドルー・ハドルストンが書いた傑出した論文と、直観主義的客観主義を支持ずるブルース・ラッセルによる論文も収録した。本書の最終章である私とカタジナ・デ・ラザリ=ラデクの共著論文は、オックスフォード大学出版会の本書担当編集者であるピーター・モントチロフの慫慂によって加えられたが、それはまたパーフィットが、この論文を収録すればそれに対する返答の中で自分が道徳における不偏的理由の位置に関する見解を明らかにする機会になる、と考えたからでもある。
 読者はすでに気づかれたかもしれないが、本書の諸論文に対するパーフィットの応答は本書にはない。それはある予期されなかった出来事のためだ。ピーター・レイルトンは本書に寄稿した自然主義擁護論の最後の部分で、彼とパーフィットがいかにして両者の意見の相違を解決しうるかを示唆して、パーフィットは喜んでその示唆を受け入れた。準実在論的表出主義者のアラン・ギバードは以前彼の著書の『意味と規範性』の中で、〈存在論的に重い非自然的な規範的性質が存在するという信念を非自然主義者が捨てさえすれば、自分の表出主義の最善のヴァージョンは、そのテーゼにおいて、非自然主義の最善のヴァージョンと一致する〉と主張していた――もっとも彼は〈両者の見解はそれらが提出する説明において異なる〉と付言していたのだが。パーフィットはギバードに対する返答の中で、自分が擁護する形態の非自然主義である非実在論的認知主義は、ギバードがギバード自身の見解と一致すると言った形態を厳密にとっている、と主張する。
 パーフィットはメタ倫理に関するこれらの意見の不一致を解消するというもくろみが極めて有意義だと考えたので、その解消が可能であると考える理由を説明するいくつかの章を書き、レイルトンとギバードの二人に、この解決の程度について彼らの見解を述べる補論を寄稿するよう招待した。その結果、本書に収録されたレイルトンとギバードの論文は、それらが論じている論点に関する彼らの最終的な見解としてではなく、哲学においてあまりにも希少な、ある過程の段階として理解されるべきである。その希少な過程とは、最初は根本的に対立しているように見えた立場の擁護者たちが、その対立をさらに強化させる代わりに、メタ倫理上の意見の不一致を有意に減少させる過程である。しかしながらパーフィットの広範な議論にレイルトンとギバードの補論を加えると、すべてを一巻の中に収めるのは手に負えないことになった。それゆえパーフィットと私は、元の批判的な諸論文だけをここに本書のように出版することに同意した。パーフィットによる応答はレイルトンとギバードの補論と一緒に、本書と同時に出版される別の本の中に現われることになる。その題名は『重要なことについて 第3巻』である。
 
 
謝辞
 
 私が最も多くを負っているのは、本書の論文の著者たちである。彼らがいなかったら本書は存在しなかった。私は彼らが本書に寄稿したことだけでなく、デレク・パーフィットが彼らへの応答を書き、書き直し、拡充している間に彼らが示した忍耐についても感謝する。パーフィットに対する私の感謝は多岐にわたる。第一に、私の大学院セミナーのための基本的テクストとして『重要なことについて 第1巻・第2巻』の出版前の原稿を私に使わせてくれたことについて。第二に、本書の諸論文への応答に同意してくれたことについて。第三に、その応答が本書と同時に出版されるように大変な努力をして応答を完成させてくれたことについて。自分にとって可能な最善の著作を作ろうという極めて適切な配慮と締切とのバランスをとるのは決して容易なことではないが、私はパーフィットがいかにしてそれを実現したかに喜びを感ずるし、『重要なことについて 第3巻』の読者も同じように彼の達成した結果を評価するだろうと確信している。
 私はピーター・レイルトンとアラン・ギバードとデレク・パーフィットに、序文の最後の二つのパラグラフの中で彼らの意見の一致の程度をどう表現するかに関する示唆について感謝する。序文の中のいくつかの文章は、『タイムズ・リテラリー・サプリメント』二〇一一年五月二十日号の私の『重要なことについて』の書評を利用している。
 オックスフォード大学出版局では、ピーター・モントチロフが本書の提案当初からそれが形をとるまでいつも助けてくれた。エミリー・ブランドは円滑な制作を、ティモシー・ベックはすばらしい編集をしてくれた。
 
プリンストン大学ヒューマン・バリューセンター、およびメルボルン大学歴史・哲学研究スクール
ピーター・シンガー
 
 
訳者解説
 
 本書はPeter Singer (ed.), Does Anything Really Matter? Essays on Parfit on Objectivity (Oxford University Press, 2017)の全訳である。編者であり寄稿者の一人でもあるピーター・シンガー(一九四六― )は、動物解放論やグローバル正義論や〈効果的利他主義〉によってつとに世界的に有名な功利主義の倫理学者であり、邦訳書も多いからわざわざ紹介する必要はないだろう。デレク・パーフィットの『重要なことについて 第1巻・第2巻』、特にそのメタ倫理学の部分に関する論文集である本書の成立事情については、シンガーの序文で十分に述べられている通りである。一つだけ個人的な感想を述べさせてもらえば、本書に寄稿している錚々たる倫理学者の中に、プリンストンでの大学院セミナーに参加したというハリー・フランクファートの名が見えないことは残念だ。フランクファートはその題名も『われわれが気にかけることの重要性』という論文集の著者だし、パーフィットも彼の〈主観主義〉を『重要なことについて』13節で批判していたからだ。
 またこれもシンガーの序文の最後で言及されている、本書に対するパーフィットの応答をまとめた『重要なことについて 第3巻』の邦訳も、この訳書と期を同じくして刊行されることになっている。そのため本書の諸論文の内容についてはそちらの訳者解説で触れることにしたい。
 だが読者のために言えば、本書所収の十三篇の論文は題材だけでなく難解さの点でもまちまちだから、論文の順序にとらわれずに、関心を持てる論文や理解しやすい論文から読むのがよい。そして本書の諸論文の難しさは、個々の著者が従来どのようなメタ倫理学説を抱懐してきたかがわかれば、ある程度まで解消されるだろう。幸いブラックバーンとスミスとダーウォルとシンガー/ラザリ=ラデクの倫理学書は邦訳があるし、ギバードとスミスとストリートとシュローダー(私見では彼らの論文は本書の中でも手ごわい方に属する)のメタ倫理学については蝶名林亮(編著)『メタ倫理学の最前線』(勁草書房、二〇一九年)の中に紹介がある。
 
 本書の翻訳は、私がパーフィットの『重要なことについて 第1巻・第2巻』の翻訳を終えた後、二〇二二年から二〇二三年にかけて行われた。テムキンとストリートとダーウォルの論文は、それぞれ私の新進気鋭の友人である三浦基生、山本啓介、太田寿明の三氏に訳してもらったが、最終的には監訳者として私が手を入れた個所がある。
 当然のことながら各論文は『重要なことについて』に随所で言及しているので、訳文にはその訳書頁数(時には節や章の数)も可能な限り付記したが、訳書の頁数を厳密に特定できない場合も少なくなかった。そのため本書の最初に『重要なことについて 第1巻・第2巻』の原書と訳書の頁数の対照表を付した。なお本書の執筆者たちは意識的にか無意識にか、『重要なことについて』の文章や表記を少し変えて引用している場合が時々あるが、大部分は内容にかかわらないので一々注記しなかった。
 本書のカバー写真は、パーフィットが撮影したサンクト・ペテルブルクのエルミタージュ冬宮の前の広場である。『重要なことについて 第1巻・第2巻』に引き続き、面倒な編集作業をしていただいた勁草書房の鈴木クニエさんに感謝する。
 
二〇二三年七夕の日
森村 進
 
 
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