【寄稿◎遠藤比呂通】
金顕球先生にティリッヒを学ぶ――『人権という幻』と『国家とは何か、或いは人間について』のあとがきから

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2023/10/18


 
 わたしはこれまで、鈴木クニエさんに編集をお願いして、勁草書房から2冊の本を出させていただきました。2011年の『人権という幻』と、2021年の『国家とは何か、或いは人間について』です。これら二つの著作には、「執拗低音」がありました。それが、金顕球(キム・ヒョング)先生という存在でした。
 
 「執拗低音(basso ostinato)」というのは、丸山眞男が日本の思想について使った表現で、もともとは音楽用語です。丸山は、日本の思想の固有性は、ある思想(たとえば「キリシタンの教え」=主旋律)を「輸入」する際に生じる独特な変化(たとえば「ドチリイナ・キシリシタン」では「神に背く自由を通じて神の愛に至る」ディアレクティークが理解されていない=執拗低音)をみることで明らかになると考えました(丸山眞男「原型・古層・執拗低音」『丸山眞男集 12 一九八二―一九八七』岩波書店、2003年)。丸山が「執拗低音」を用いたのは、執拗低音が、主旋律には含まれない低音のパターンであるにもかかわらず、主旋律に独特の色彩を与えることに着目したからです。
 
 わたしは、二つの著作の中で、金先生という「執拗低音」に触れています。より正確に言えば、パウル・ティリッヒという「主旋律」に対する、金先生という「執拗低音」にです。
 
 まず、『人権という幻』の「あとがき」から、引用します。

「言葉を意図的に曖昧にすることによって嘘をつく」。日本社会の根幹にあるデモーニッシュな構造との闘いのなかでティリッヒ哲学を学ばれた、日本基督教団布施教会の金顕球牧師にも感謝します。本書でわたしのティリッヒ理解は、ほとんど金牧師から教えていただいたことです。

 次に、『国家とは何か、或いは人間について』のあとがきを引用します。

 本書の成立について、お世話になった方々に感謝の言葉を述べさせていただきます。
 まず、日本基督教団の金顕球(キム・ヒョング)牧師に。金牧師は、私のティリッヒについての先生であるのみならず、「その場に存在する権利」が人権の中核にあることを、滞日経験の深みから教えてくださったからです。第二次大戦後、英国で出版された New English Bible は、ローマ書一二章一〇節の翻訳として、“Give pride of place to one another in esteem.”を採用しました。「互いに尊敬しなさい」ということを越えて、最高の地位を与え合いなさいという意味です。その場に存在することを無視される経験のなかで、にもかかわらず(in spite of)闘いつづけることを促す掟です。

 今回読み直してみて、これらの「感謝の辞」の中には、私の2冊の本の根幹的な主題が余すところなく書かれていることに、我ながら驚きました。
 
 「人権という幻」の「幻」(vision)は、民族が犯した過去の過ちに関する「原風景」(=記憶)と不可分に結びついている、というのが同書の主題でした。この「原風景」を表現するなら、言葉を意図的に曖昧にすることによって嘘をつく日本社会の根幹にあるデモーニッシュな構造ということになります。さらに、「国家とは何か」が主題とした人権という「掟」とは、存在を無視される経験にもかかわらず「その場に存在する権利」の闘いをあきらめないことなのです。
 
 なぜ、わたしは、これらの重要なことを本文ではく、「感謝の辞」に書いたのでしょうか。それは、ここでいう幻、原風景、掟は、いずれも、金先生の滞日経験における深みから発せられたものだったからです。いくら想像力をはたらかせ、自分の身近な経験からその深みを理解しようと努めても、そこには、絶望的な深淵がありました。金先生が「執拗低音」であったのは、「主旋律」にとっての重要性にもかかわらず、私には、表現することができない、苦しみの深さがそこにあったからです。
 

 
 先日、金先生の伴侶であり、日本基督教団西九条ハニル教会を担任する、申英子(シン・ヨンジャ)牧師からお電話をいただき、金先生が、2023年8月31日に、家族が見守られるなか他界されたと知りました。それをうかがったとき、私の脳裏に、ある日の金先生の姿が浮かんできました。
 
 布施教会のいつもの席にお座りになった金先生が、ティリッヒの神学について、自分の苦しみの経験を交えながらお話されている姿です。真正面に座った私に、マンツーマンで、午後2時ごろから、申牧師が帰宅される午後7時ごろまで語り続けるお話に、私は飽きることも疲れることもなく聞き入っていました。
 
 それが、一体何回繰り返されたでしょうか。途中でまじまじと私の顔を見て、「遠藤さんは、よく私の話に耐えられますね」と真面目な顔でおっしゃるのです。そこで教えていただいたティリッヒの読み方、こちらの方は、「執拗低音」ではなく、上記二つの私の本の「主旋律」となっています。
 
 私が、金先生からどのように学んだのか。金先生の「ゼミ」の一場面を、哀悼の意味を込め、再現してみたいと思います。

金牧師 ティリッヒの神学を、日本の教会や学校では説教集と切り離して読むから、肝心なところがわからないのよ。
遠藤  彼の神学、哲学を理解するために、どの説教から始めたらよいですかね。
金牧師 『地の基ふるい動く』(後藤真訳、新教出版社、1974年)にある「実存の深淵」は、正に世界のキリスト教世界を震撼させた説教だった。
遠藤  真理は、表面にはなく深みにある。苦しみの深さは、真理に至る唯一の道である。あの説教ですね。
金牧師 この説教を、日本語で読むのは不可能に近いのよ。深いというところを、「重く受けとめます」と言ってしまう。苦しみの深さが、真理の深さだという考えが出てこない。
遠藤  いただいた英語の説教集で先生の引いた線をたどりながら、この説教を読みました。たしかに、日本語で読んだときとはまったく違う印象でした。
金牧師 この説教を読まないで、ティリッヒの『組織神学』(第1巻、谷口美智雄訳、新教出版社、1990年)を読んでも、彼を理解することは難しい。
遠藤  『組織神学』は、ドイツ語を母語とするティリッヒが、アメリカに亡命してから英語で書いたものですね。
金牧師 彼は、ユニオン神学校に行ったがポストがなくて、同僚達のカンパで暮らしていた。アメリカの神学者は説教ができなかったらまったく評価されない。そんななかで彼がした説教には、彼が築いた『組織神学』のエッセンスが詰まっている。
遠藤  説教集3冊、英文と日本語両方で読みました。読んでいるときには、わかった気になるのですが、どうしたわけか、読み終わったあと頭に残らないんです。
(ここで金牧師は、恐い顔を和らげ、笑顔になって少しくだけた口調になる)
金牧師 遠藤さん。何歳ですか。ティリッヒの説教は、苦しみの深みから述べられているのよ。「in spite of(にもかかわらず)」として読まなければ、手のひらから砂が落ちていくように、何も残らないよ。食うに困らず、信徒や生徒に先生、先生と呼ばれる日本人が、自分たちが十字架につけたイエスのことを聞いたってわかるはずないじゃないの。遠藤さんは、そこに気がついた。あなたは誰なの(笑)。
遠藤  先生は、ティリッヒのことを語るとき、何度も、何度も、「にもかかわらず」と語られますね。
金牧師 遠藤さん、あなたは、「虫けらのように殺された」ことがない。「虫けらのように殺された」在日の私が、日本人のために祈るようになるのに、何年かかったと思いますか。それ「にもかかわらず」祈るから、祈りなのでしょう。それがわからなければ、ティリッヒもわからない。彼の神学は、絶望の深淵から紡ぎ出される、それ「にもかかわらず」生きる勇気に基づいているから。

 

 
 金先生は、1936年3月21日(旧暦)、大韓民国忠清北道沃川(オックチョン)で生まれ、光復節(カンブクチョル)=日本の降伏を小学校3年で迎えます。韓国神学大学を1970年に卒業し、来日して、東京大学社会科学研究所の研究生となります。1976年、40歳で牧師になり、大垣、札幌で在日大韓基督教会の担任となった後、お亡くなりになるまで日本基督教団布施教会の主任担任教師でした。
 
 この間、金先生は差別と闘い続けられました。相手は、日本人だけではありません。ときには、同胞である韓国人をも容赦されませんでした。私は、日本基督教団を相手方とする裁判で熊野勝之弁護士と一緒に、金先生の代理人となりました。この裁判の和解において、日本基督教団大阪教区議長は、「原告からも十分に事情を聴取し、事実関係の吟味を尽くすという観点から、配慮がたりなかったことについて心から謝罪する」と、金先生に謝罪しました。教会の重要事項の決定において、金先生の「その場に存在する権利」を無視したことを「心から謝罪」したのです。
 
 差別との闘いを闘い抜かれた金先生に、説教「実存の深淵」の最後の言葉を捧げたいと思います。

For in the depth is truth; in the depth is hope; and in the depth is joy.
(深淵には、真理があり、希望があり、そして、喜びがあるからです)

 
 先生、本当に、本当にありがとうございました。
 
遠藤比呂通(えんどう・ひろみち)
1960年山梨県生まれ。東京大学法学部卒業後、東京大学法学部助手、東北大学法学部助教授(憲法講座)を経て、1997年弁護士登録。1998年4月西成法律事務所開設。『自由とは何か――法律学における自由論の系譜』(日本評論社、1993)、『市民と憲法訴訟――Constitution as a Sword』(信山社、2007)、『希望への権利――釜ヶ崎で憲法を生きる』(岩波書店、2014)など。
 
 
遠藤比呂通 著
『人権という幻 対話と尊厳の憲法学』
2011年9月刊、四六判・272ページ、2,970円(税込)
ISBN 978-4-326-45096-1
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b93614.html
人権は、理論的には正しいけど、実践には役に立たない──。この命題は、学問と世界と実務の世界に棲み分ける人々の間で、無意識のうちに共有されている。だが2つの世界を行き来する著者は、命題の奥底にある核へと斬り込んでいく。事件で出会った人々の声を紡いで「人権の実効化というはてしない物語」を綴った、初の書き下ろし。


『国家とは何か、或いは人間について 怒りと記憶の憲法学』
2021年2月刊、四六判・256ページ、2,970円(税込)
ISBN 978-4-326-45124-1
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b556780.html
対話が継続される社会的地位としての市民権こそ人権だという「幻」を前作では見た。その幻はイメージとなって人々の心に刻まれ、行動へと向かわせていく。幻の原風景から出立し、本作では「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」を鍵に、幻の実現に焦点をあわせて新たな光を紡ぎ出す。互いに保障しあう場に存在する権利とは?
 
『国家とは何か、或いは人間について』のたちよみは⇒こちら

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