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『国家とは何か、或いは人間について』

 
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遠藤比呂通 著
『国家とは何か、或いは人間について 怒りと記憶の憲法学』

「序 やや個人的な前書き」「結 あまり普遍的ではない後書き」(pdfファイルへのリンク)〉
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序 やや個人的な前書き
 
人権という幻
 わたしは二〇一一年に、『人権という幻』という本を世に問いました。
 そのなかでわたしは、人間の尊厳とは、「いかなる人間も非合法ではない」という異議申立と、それに対する応答であるとしました。異議申立とそれに対する応答から始められるべき「対話」を継続することこそ、民主主義原理のほんとうの意味であると考えたからです。あわせて、人権とは、「対話」が継続される社会の成員としての地位である「市民権」なのだという、一つの「幻」を提示しました(同書二一九頁)。
 「幻」という概念は、旧約聖書箴言二九章一八節にある「幻なき民は滅ぶ。律法を守るものはさいわいである」に由来するものです。「幻」は実践と結びついて、人びとの心に刻まれるイメージであり、行動へと向かわせる特徴があります。神が示す正しい生は、掟=律法(トーラー)のなかで教えとして示されるいっぽう、窮境におかれた人びとに共有されるべき「幻」となって出現します。
 ただし、『人権という幻』では、「幻」を立ち上げるもととなった人間の窮境=「原風景」を描くことに多くの紙幅が費やされ、どのような行動に向かうのかを示すことに不十分でした。
 そこで本書では、「幻」を実現する人びとに焦点をあわせてみたいと思います。その際に鍵となるフレーズが、「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」です。何を言おうとしているかわかりにくいと思いますので、「わたし」を例にとって、「個人的記憶」と「集合的記憶」という二つの記憶がどのように想起されているのかを、お示ししましょう。
 
個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶
 甲府盆地を流れる荒川と相川という二つの川に挟まれた一面の田圃が徐々に住宅地になっていく一九六〇年、わたしは生まれました。山梨県甲府市の飯田というところです。
 父方の祖父は庭いじりが趣味で、自分で池をつくり、ぶどう棚を張りめぐらし、柿、いちじく、桃、栗、ざくろなど、果実を楽しめる木を植えていました。庭の奥には屋根付の材木置き場兼仕事場がありました。祖父は自分で図面を引く、いわゆる宮大工でした。右の耳に短い鉛筆を挟んで、材木の上に墨とたこ糸を使ってまっすぐ線を引いている姿を覚えています。
 祖父は第二次世界大戦中に徴用され、名古屋の中島飛行機で戦闘機をつくっていたといいます。名古屋空襲で焼け出され、焼け跡から缶詰をたくさん担いで帰ってきました。敗戦後、仕事がない時期に、闇商売でひと儲けを企てましたが騙されて大損したという話を、小さいころに祖母から聞きました。
 そのころ父は、旧制日川中学の五年生から新制日川高校三年生になりました。新設された文芸部の中心メンバーとして、「雨の降る夜」「石の表情」といった詩を隔月発行の『文園』という雑誌に寄稿し、「石の表情」では山梨県芸術祭詩部門で入選する、文学青年として活躍していました。早稲田大学文学部を志望していたようですが、進学はあきらめざるをえませんでした。
 父は、文芸部顧問の推薦で地元の新聞社に入社し、社会部記者となりました。往年のエピソードとして、社内に「遠藤辞令」という言葉があったと『日川高校物語』に記録されています。警察官の年度末の人事異動を、辞令の発令より一、二日早く、本人に伝えるという意味ですが、引越しや転校の手続などがスムースに行きとてもありがたがられたようです(もちろん、いざというときに取材に応じてもらうためですが)。
 父は、わたしの小さいころ、寝る前によく本を読んでくれました。木下順二の民話劇です。「彦市ばなし」「三年寝太郎」「赤い陣羽織」「瓜子姫とアマンジャク」、そして「夕鶴」。わたしが一番好きだったのは、「陽気な地獄破り」という戯曲でした。なんども読んでもらううちに話の筋を覚えてしまい、やがて自分で読むようになりました。ですから、この本はわたしの最初の愛読書です。
 登場するのは、鍛冶屋、手づま師(手品師)、山伏、歯の医者です。冥土の旅の途中、自分たちがどんな病気で死んだか話しあうところから始まり、地獄に落とされてからは、それぞれが特技を使って青鬼を翻弄し、最後は閻魔大王までやっつけ、地獄破りをしてしまうという話です。
 一番わくわくしたのは、地獄の責苦を執行しようとする鬼たちに対し、彼らが反省して苦しみを受け入れるどころか、かえって、地獄を楽しい場所にしてしまうところでした。たとえば、針の山の上を愉快に歩いてしまうとか、熱湯地獄を温泉にかえてしまうとか。
 最近、この作品がわたしのなかでずーっと通奏低音のように流れ続けてきたことに気づきました。きっかけは、武田清子『背教者の系譜─日本人とキリスト教』に収められた「木下順二のドラマにおける原罪意識」という文章です。そこにこんな一節があります。

呪術的恍惚の呪縛から解き放たれて、人間の悪の根源を、「外」にある「魔女」にではなく、冷厳にさめた眼で自己の内深くに見出し、そのことによって人格的主体の確立を結果するところの「原罪意識」は、キリスト教がいう絶対的超越者と緊張関係に立つことなしに、果して、生まれて来るであろうか? (中略)木下順二をして、日本人の自然のふところ深くより「原罪意識」を誘い出し、掘り起こさせているものは、彼の存在の基盤にあって隠れた姿で、彼の眼を上へと向けさせているキリスト教の神、超越者なのではないかと考えさせられるのである。(同書一九四─ 一九五頁)

 「陽気な地獄破り」は、幼いわたしの魂に、地獄や閻魔に象徴される「世間の悪」は我々がほんとうに対峙すべき人間の悪の根源ではなく、解放さるべき呪縛にすぎないということを教えてくれました。それだけでなく、呪縛から解放されることは楽しいことなのだというわくわくするような喜びを伴うことも(閻魔大王が吹き飛ばされるというシーンがあります)。
 木下が、日本人の自然のふところ深くより「原罪意識」をえぐり出していたのは、「陽気な地獄破り」を書く三年前の一九六三年に世に出された「沖縄」という作品でした。「沖縄」のなかで木下は、「どうしてもとりかえしのつかんことをどうしても取り返すために」は、日本人の差別意識の問題を「民族的原罪意識」としてえぐり出すことが必要だと明らかにしています。
 木下は、敗戦後「四〇年」を振り返った文章で、「沖縄」のなかの「どうしてもとりかえしのつかんことをどうしても取り返すために」というフレーズが自分のテーマとなり、以後の作品は大体このテーマのバリエイションか、それと関係のあるものになったと振り返っています。
 木下は、もし戦時中に社会的発言権を持っていたら「とりかえしのつかんこと」を言ったりやったりしたかもしれないと考え、「ほっとする」とともに、「とりかえしのつかんこと」を今現在の自分が犯していないと言い切ることができないと慄き続けたのです。
 木下順二のドラマにおける「原罪意識」は、幼いわたしにはわかりようがないものでした。わたしは「民族的原罪意識」による自己否定という体験をする前に、その体験によって生じる、「世間の悪」の呪縛からの解放感を知ったのでした。わたしが「民族的原罪意識」に目覚めたのは、「陽気な地獄破り」を知ってから二〇年以上の年月を経た三二歳のときです。奇しくもその場所は、木下が戯曲の舞台とした沖縄でした。わたしは『希望への権利』という本でそのときのことを次のように記しています。

私は生まれて初めて、「正義」の側ではなく、少女を利用し、犯し、捨てた、帝国陸軍の一兵士としての自分を自覚しました。「私もそこにいたら同じことをしていたのだ」という恐ろしい確信です。(同書五三頁)

 木下が「民族的原罪意識」をえぐり出すことによって描こうとしたのは、「過去」の問題ではありません。「沖縄」で描かれたのは、「アメリカー」に接収されてしまう周囲二〇キロの小さな島の人びとの犠牲のうえに自分たちの社会が存続しているという、わたしたち自身の「罪」の問題、つまり「今」の問題でした。「今」と直面するためには、どうしても「過去」の想起が必要なのだというメッセージが、この作品の「どうしてもとりかえしのつかんことをどうしても取り返すために」という台詞に集約されているのだと思います。
 
本書の構成
 本書もこのメッセージを受け止めたいと思います。木下順二の通奏低音は、幼い日から、二〇二〇年に還暦を迎えたわたしの生の通奏低音でもあるからです。
 本書が読者に伝えようとするメッセージは、決して難しいものではありません。実現することは困難だとしても。
 人間についての考察は、人間の尊厳をその出発点にしなければならない。
 ここでいう人間とは、人間としての存在そのものが危機に瀕している、歴史的人間をいう。歴史的人間は、彼女、彼自身の個人的記憶に規定されているだけでなく、社会の多数の人間が忘却の彼方へ押しやろうとする、集合的記憶を保持せざるをえない存在である。
 歴史的人間が生きていかざるをえない国家という場においては、政治における嘘により、集合的記憶を保持することに大きな困難が伴う。しかし、個々の歴史的人間が、その個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶だけが、共同社会をカタストロフィーから救うことのできる唯一の希望である。
 したがって、尊厳とは、人間社会において人間どうしが相互に歴史的人間として「その場に存在する権利」(the right of the place)を保障しあうことである。
 
 本書の内容を一言でいえば、国家という場において、個人的記憶のなかに集合的記憶を想起しつづける歴史的人間が、相互に保障しあうその場に存在する権利が、「人権という幻」と対比される「人権という掟」なのだということを示すことです。「その場に存在する権利」については、本書全体で語るわけですが、文学的表現をかりて言えば、『ハムレット』第二幕第二場でハムレットが、内大臣ポロウニアスに言う、「この人たちに、おまえ自身の名誉と地位にふさわしいもてなしを与えなさい」(私訳)という掟によって象徴されるものです。
 つまり、本書のタイトルはほんとうは、「国家とは何か、或いは人間がその場に存在する権利について」ということになります。これでは長すぎるので、少し縮めました。そして、そのなかでもっとも大切な「或いは人間について」の部分にぜひ注目してください。
 本書はこのメッセージを、プリズム(三稜鏡)によって分光して提示します。第一の稜は、個人の記憶が集合的記憶として想起されつづけ(あるいは忘却され)、真理と嘘の闘いが繰り広げられる場である、国家です(第1講から第4講)。第二の稜は、国家において、個人的記憶と集合的記憶により人格を形成し、保持しつづけようとする人間です(第5講)。そして、第三の稜は、わたしが、「その場に存在する権利」のための闘争を日々おこなっている、大阪住吉と西成の釜ヶ崎についての報告です(第6講および第7講)。
 第1講から第4講までは、二〇一九年五月から一一月まで、大阪のエル大阪でおこなわれたZAZAグループの学習会での講演にもとづいています。ZAZAグループとは、国歌斉唱時に不起立を貫いたため処分をうけた公立学校の教師のグループです。わたしを講師として招いてくださった山田肇先生と奥野泰孝先生にお礼を申し上げます。第1講の骨組みは、『情況』二〇一九年春号に寄せた「法を侵す権力」でした。第3講の6節は、判例時報社「私の心に残る裁判例・第八回」に執筆した内容を発展させたものです。作品社の福田隆雄さんと判例時報社の小林香澄さんに助けられました。
 第5講は、二〇一九年一二月一四日に、いわき市文化センターでおこなわれた市民大学憲法講座にもとづいています。講座を準備してくださった、矢吹道徳さんと遠藤正則さんに感謝します。その際、原発訴訟の現状について、福島市出身の花澤俊之弁護士にも報告していただきました。花澤弁護士の闘いについては、閑話休題5で紹介します。
 第6講は、差別とは何かを問いつづけることの道案内をしてくれた沖浦和光の著作の解読を出発点に、わたしが二〇〇〇年四月以来二〇年にわたって法律相談をおこなってきた大阪住吉隣保館での営みについて報告します。あわせて、積極的差別是正策ではどうにもならない、部落差別の根幹にある問題に触れます。執筆に際しては、沖浦著作集第三巻の解題と書評『竹の民俗誌』を下敷きにしました。執筆の機会を与えてくださった元現代書館編集部の村井三夫さんと前田憲二監督にもお礼を申し上げなければなりません。隣保館での相談事業をともに担ってくださった、村田望さんと友永健吾さんにもお世話になりました。
 第7講は、一九九九年七月以来二〇二〇年二月まで、三度中断しながらも法律相談をおこなってきた釜ヶ崎の現状を報告します。そして、わたしが「ホームレス状態について」学ぶきっかけとなったケンブリッジでのある青年との出会いについて触れます。この出会いの重要性に気づいたのは、二〇一四年に開催されたジェンダー法学会において報告する機会を与えられたからです。お招きいただいた小島妙子理事長(当時)に感謝します。
 最後に、釜ヶ崎での強制排除に対し待ったをかけた裁判所の決定を付録として掲載することにしました。決定を獲得するための苦難の道をリードしてくださった武村二三夫弁護士、牧野幸子弁護士、稲垣浩さんをはじめとする当事者の方々にお礼を言わせてください。
 
 「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」を背に負いながら、「陽気な地獄破り」から「沖縄」への旅を続けられる読者のみなさんの「喜び」となることを祈って、本書を世に送り出したいと思います。
 
二〇二〇年一二月 遠藤比呂通
 
 
結 あまり普遍的ではない後書き
 
点の軌跡
 本書を執筆しているあいだじゅう、丸山眞男の次の言葉が、頭を離れませんでした。

状況に働きかける行為以外に主体はない。行為そのもの、働きかけるという行為を通して主体がある。その根源に実体としての主体はない、そんなものは肉体的な存在があるだけです。それは精神の上で何ものも意味しない、点でいいんです。しょっちゅう変貌する状況、その状況に働きかける場合、その行為の軌跡をつないで行けば、そこに主体が出る。それが責任の問題です。(丸山「点の軌跡─『沖縄』観劇所感」『丸山眞男集第9巻』一四二─ 一四三頁)

 この言葉は、序で引用した木下順二の戯曲「沖縄」に対するコメント、「点の軌跡─『沖縄』観劇所感」のなかにあります。「沖縄」のなかで丸山が注目したのは、秀という沖縄の女性が山野という元日本兵(秀とともに招集された沖縄の学生を軍の命令で殺した)の綱を「断ち切る」ことでした。丸山は、この「断ち切る」の意味を、沖縄の日本に対する復讐や対立ではなく、沖縄対日本という枠組み自体を「断ち切る」ことだと捉えました。日本は日本、沖縄は沖縄というように、内と外で考えているかぎりは、ほんとうの意味での責任を問うことはできないのではないか、と丸山はいうのです。いったん状況から自らを「断ち切る」ことが必要なのだと。
 木下の戯曲「沖縄」は、一九六〇年代の、アメリカ軍政下の周囲二〇キロの小さな島が舞台となっています。日本兵からもアメリカ兵からも犯された秀が、島に戻って司(巫女)にさせられそうになりますが、拒否します。日本からもアメリカからも捨てられ、沖縄さえも「断ち切る」ことではじめて、「どうしてもとりかえしのつかんことを、どうしても取り返す」何かをすることができたのです。秀は、自分の行為の責任(それは沖縄の責任でもあるのですが)を背負って崖から飛び降ります。木下順二の代表作である『夕鶴』の主人公つうが、最後に「点」となって飛び去っていったように。
 木下順二の友人であり、よき理解者でもある丸山が、「断ち切る」ということの痛切な意味を説き、沖縄対日本という対立図式を否定したことは、日本人の民族的原罪意識の問題を中心テーマとして「沖縄」を読むことに対し、疑問符をつけることです。それはとりもなおさず、本書の枠組みへの警告でもあります。
 くわえて、丸山が、面積や長さをもたない点(=しがらみをもたない)としての個人の責任の問題を提示していることは、わたしという「人間」の個人的記憶から出発して集合的記憶を想起しつづける本書の試み自体への批判でもあります。
 にもかかわらず、わたしは本書で「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」という枠組みを維持しました。それは、丸山眞男もまた、自己の学問の出発点を「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」においていたことを知ったからです。
 
二〇世紀最大のパラドックス
 丸山眞男は、敗戦後三〇年の八月一五日を記念する講演で、はじめて自己の学問の出発点となった二つの個人的体験について語りました。単に個人的体験を語っただけでなく、そのことがどのような思想史的意味をもつのかについて、きわめて明晰に語ったのです(丸山「二十世紀最大のパラドックス」『丸山眞男集第9巻』二八七頁)。
 その一つは、丸山が旧制高校に在学していたときに、特別高等警察に逮捕された経験です。ドストエフスキーのいう「懐疑のるつぼのなかで鍛えられた信仰」を参照して、「国体」がこのような懐疑に耐えているのかという疑問を丸山は日記に書きました。それを示されながら、「おまえは君主制を否定するのか」と問い詰められた際、「否定したつもりはありません」と答えようとしたら、いきなり猛烈な罵声と鉄拳が飛んできたという体験です。
 丸山はこの体験を反省するなかで、戦前から戦後の巨大な思想的転換の意義がどこにあるのかを知ったといいます。戦前に疑問を抱くことと否定することの区別がなかったのは、君主制=天皇制を受け入れるか受け入れないかの選択の余地がなかったからです。そして、彼は戦後に生きる人びとに、こう問いかけます。疑問に思うことさえ認められなかったときに天皇制を受け入れたのと、天皇制を否定する選択肢があるにもかかわらず天皇制を受け入れるのと(積極的にであれ、受動的にであれ)、その意味はまったくちがうのではないかと。ここから、象徴天皇制を受け入れることの責任の問題がでてきます。
 二番目の体験は、東京帝国大学法学部の助教授であった丸山が、二度目の招集を受け宇品の司令部で軍務についていたとき、爆心地から五キロの地点で被爆したことです。閃光は目にしたものの、建物の影にいたため熱風を受けずに生き残った丸山は、終生「生きてるんだな」という死と隣り合わせの実感をもちつづけました。核兵器のもとで、戦争が内と外にいる両方の人にまったく不条理に死をもたらす事実こそ、軍隊ではなく国家そのものの定義を変えてでも、憲法九条の非武装を維持しようとする丸山の平和的生存権の出発点でした。
 丸山眞男の戦後三〇年の八月一五日は、敗戦のその日、子を想って死んでいった母親の思い出の想起ではじまっています。母親の残した歌が、丸山をして個人的体験を語らせたのでした。

召されゆきし吾子(あこ)をしのびて病床に泣くはうとまし不忠の母ぞ

 自分の子どもが名誉ある戦死を遂げたとして喜ぶべきなのに、悲しみがわいてきて抑えようがないという相克のなかに生きざるをえなかった母。彼女へのレクイエムとして、丸山は「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」を語ったのでした。
 
亡き母へのレクイエム
 わたしも本書を亡き母へのレクイエムとしたいと思います。
 わたしの母は、二〇一五年四月二三日、大阪・住吉にある市営住宅の一室で、八六歳の生涯を終えました。癌が発見されて四か月余りの闘病生活でした。連れ合いの李鍾和が毎日入院先の病院に見舞いに行き、手を握りしめながら母の半生のさまざまな話を聴いてくれました。わたしにも話したことがない父との馴れ初めや、小学校のわたしを理解できなくて悩んだことなどなど。鍾和は、母からたくさんの宝物をもらったと言っています。
 母は、一九二九年一月一〇日に、山梨県で生まれました。戦後二期目の女性警察官となり、少年補導係を務めていました。二〇〇〇年の四月に住吉に移住するまで山梨を離れたことはありません。住吉に来てからは、寿湯という銭湯で仲間になった人たちと交際していました。老人会でいっしょに旅行をしたり、江州河内音頭を聴いたり、充実した第二の人生だったと思います。
 母は、山梨にいたころ、労働組合の集会に紛れ込んで内偵する仕事をしたことがあるそうです。その母が、住吉解放会館の廃止に反対して、市役所前の抗議活動に参加し、ゼッケンをつけてシュプレヒコールを叫んでいました。住吉は旧熊野街道沿いにあり、住吉大社の近くにある村ですが、住吉大社の祭礼なのに御神輿が住吉の集落を避けてなかに入ってこないといって、たいへん怒っていました。「あんな祭りに行くもんか」、と。
 母の戦争体験は、甲府の空襲体験でした。百石町という中心街に住んでいた母は、自分の母親といっしょに焼夷弾の火事から逃げまわり、飯田の県営球場がある場所までたどりついたそうです。そこに逃げてきた人のなかに、臨月の妊婦さんがいて、不発の焼夷弾の破片がそのお腹に刺さっていたということを話してくれました。
 もう一つの母の空襲体験があります。それは、すぐ上の兄の「天皇体験」でした。警察官だった叔父は、空襲の夜、長靴を履いて、避難誘導、救助作業に従事したそうです。明け方警察署に戻ると、黒焦げになった長靴を見た上司から、「天皇陛下の恩賜の長靴を焦がすこと何事か」と怒鳴られたというのです。このことがあったせいか、母は天皇とか、日の丸とかが大嫌いでした。
 一九九二年の八月一五日に父が亡くなってから、母は水泳をはじめ、世代別ではけっこういいところまでいったのですが、全国大会には行きませんでした。「日の丸が表彰式で掲揚されるような大会には行くもんか」というのが理由です。
 「個人的記憶のなかに想起しつづける集合的記憶」を語る本書は、父が幼いわたしに読んでくれた木下順二の「陽気な地獄破り」からはじまりました。もしかすると、ほんとうは、わたしの記憶にさえない、母から受け継いだ「恨」(ハン)にルーツがあるのかもしれません。
 その意味で、本書を母塚原千鶴子の思い出に捧げさせていただくことにします。
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 本書は、『人権という幻─対話と尊厳の憲法学』の続篇という意味をもちます。文章だけでなく、構想全体にわたるアドバイスを惜しまなかった、勁草書房の鈴木クニエさんの存在があってはじめて完成しました。
 本書の成立について、お世話になった方々に感謝の言葉を述べさせていただきます。
 まず、日本基督教団の金顕球(キム・ヒョング)牧師に。金牧師は、私のティリッヒについての先生であるのみならず、「その場に存在する権利」が人権の中核にあることを、滞日経験の深みから教えてくださったからです。第二次大戦後、英国で出版されたNew English Bibleは、ローマ書一二章一〇節の翻訳として、“Give pride of place to one another in esteem” を採用しました。「互いに尊敬しなさい」ということを越えて、最高の地位を与え合いなさいという意味です。その場に存在することを無視される経験のなかで、にもかかわらず(in spiteof)闘いつづけることを促す掟です。
 次に、ドイツ文化圏にはまったく不案内のわたしに、ドイツ語文献との照合、文献の入手を含めて導き手となってくださった、龍谷大学法科大学院の金尚均(キム・サンギュン)教授と、早稲田大学文学研究科院生の遠藤愛明さんにも感謝します。
 最後に、「死ぬ日まで空を仰ぎ」の道を、一人ではなくともに歩めることに感謝して、愛する妻、李鍾和(イ・ジョンファ)にも感謝のハートを贈らせてください。
 
 
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