今回はややこしい話なので、短めに済ませることにする。刑法230条には、「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の拘禁刑又は50万円以下の罰金に処する」とある。表現の自由との関連で、憲法学でもおなじみの条文である。『広辞苑』によると、「摘示」とは、「かいつまんで示すこと」である。隅から隅まで逐一にというわけではなく、要点を示すということであろう。
続く刑法230条の2は、たとえ公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した場合であっても、一定の条件の下では、「事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」とする。そうしたときは、人の名誉を毀損する表現であったとしても違法ではなく、不法行為責任や刑事責任を問われることはない*1。
ところで、事実が真実であるとか真実ではないとは、何を意味しているのであろうか。事実であるのに真実ではないことがあり得るものだろうか。常識的に考えれば、事実であれば、当然真実であるし、真実でなければ、それは事実ではないはずである。
おそらくこの条文では省略語法が用いられている。事実が真実であるか否かが問題なのではなく、これが事実だとする言明が真実であるか、つまり本当に事実であるかが問われている。真実であったりなかったりするのは、事実ではなく、言明である。
さて、真実であるとは何を意味するのだろうか。直観的に広く受け入れられているのは、対応説という考え方で、言明が事実と対応していれば、その言明が真実だというものである。オクスフォードの日常言語哲学の創始者であるJ. L. オースティンは、プラトンやアリストテレスと同様、対応説の立場を支持した*2。
ところが、同じ日常言語哲学のメンバーであるピーター・ストロウソンは、対応説を批判する。彼によれば、「対応説に必要なのは、その除去(elimination)」である*3。
ストロウソンは次のように、議論を進める。対応説は、事実が言明と対応するか否かを問題にする。そこで言う「事実」とは何であろうか。「クロは犬である(Blacky is a dog)」という言明は、「クロ」が特定の個体を確実に指示し、しかもその個体がたしかに犬であれば、真(true)である。つまり、「クロは犬である」は真である(It is true that Blacky is a dog)。そこに「事実」が入り込む余地はない。「クロが犬であることは真である」と「クロは犬である」とは、同じことを言っている。
いや、クロが犬であるという事態が事実なのだと言われるかも知れない。その事実と「クロは犬である」という言明とが対応するからこそ、この言明は真なのだというわけである。しかし、ここで「事実」を持ち出すことは、真実とは何かという問題の解明にとって役に立たない。それは「事実」という正体不明の概念を持ち込むだけの話である。
犬が何かは分かる(少なくとも個別の犬については)。何色をしているか、見れば分かる。毛がふさふさしているか、触れば分かる。犬につまずくこともできる。しかし、事実は何色をしているか分からない。毛が生えているかどうかも分からない。事実につまずくこともできない。事実と対応していれば言明は真実だと主張することは、こうした訳の分からない「事実」という概念を持ち込むことであり、真実とは何かという問いの解明に役立つことはなさそうである。
繰り返しになるが、「クロが犬である」が真実なのは、クロという名前で名指される個体が実際に犬であるときである。それを「事実」という概念を使って説明することは、いたずらに問題を複雑化させるだけである。
話を刑法230条の2に戻すと、この条文が、「事実」に関する言明が「真実」であるか否かを問題にしているのも、その言明が特定の人を確実に名指した上で、その人について適切な叙述を行っているか否かを問題にしていることになる。
前述したように、「事実である」と「真実である」とで意味は変わらない。「……が事実と対応する」というのは、「……が事実である」の少々もったいぶった──事実を概念化した──言い方である。そして「……が事実である」は、「……が真実である」の単なる言い換えである。
何かが事実であると言うことは、特定の人に関してまさにその通りという適切な叙述を行っている(と主張している)ことを述べているだけである。簡略化を追求する法令ならではの省略語法のために、230条の2では正体不明の「事実」という概念が使われてはいるが、突き詰めれば、この概念はなくても済ませることができる。
以上、筆者がぎこちなくまとめたストロウソンの立場は、真理の剰余説(the redundancy theory of truth)だと言われることがある*4。「クロが犬であることは真だ」という言明は、「クロは犬である」という言明と同値であって、後者に何も付け加えていない。そうであれば、「真」とか「真実」という概念はあってもなくてもよい、単なる付け足し(剰余)だということになる、という立場である。
真理の剰余説は、フランク・ラムジーと結びつけて語られる*5。ラムジーによれば、「カエサルが殺されたことは本当だ」は「カエサルが殺された」と全く同じ意味である。一般化すれば、「言明pは真だ(p is true)」という言明は、言明pと全く同じである。だとすれば、「真だ(is true)」という語句は「明らかに余計な付け足し(obviously superfluous addition)」だということになる*6。
真理の剰余説からすると、刑法230条の2が「事実」に関する言明について真実であるか否かを問題にすることも、単に「余計な付け足し」をすべきか否かを問うていることになりそうである。それは何だか変ではなかろうか。
ストロウソンは、「真だ」「本当だ」「真実だ」といった言い回しが、何の意味もない付け足しだとは考えない*7。そもそも、「クロが犬であることは本当だ」と言われるのは、クロが犬か否かについて疑義が呈されている場合であろう。「クロは犬だ」と言って済む場合に、わざわざ「クロが犬であることは本当だ」とは言わない。
日常会話で「……は本当だ」という語句が付け足されるのは、クロが犬であることを確証したり、請け合ったりする言語行為(speech act)がそこで遂行されているからである。クロが犬だという言明が繰り返されているだけではない。つまり、「……は本当だ」と言われるとき、何の意味もない語句が余計に付け足されているわけではない。オースティンの日常言語哲学が示すのは、そのことである*8。
刑法230条の2が「事実に関する言明」について真実であるか否かを問題にしている場合でも、人の名誉を毀損する言明が、特定の人についての適切な言明であることが証明されるか否かが、問題にされている。そうした証明が要求される場面だからこそ、それが問われる。名誉毀損訴訟の場で「……は真実」だということは、「……であることは証明される」ということと、結局同じことである。
だとすると、「事実が真実であることの証明があるか否か」というよりも、「言明pが特定の人に関する適切な言明であることが証明されるか否か」という言い方をした方が正確なのであろうが、法律の条文で「言明p」などという記号を用いるわけにもいかない。そのため、省略語法と剰余語法が入り交じった、少々捻子曲がった日本語の言い回しになっている。日常言語哲学から学び得ることは、いろいろある*9。
モードリン・コレッジ(Magdalen College)のフェロウであったオースティンは、第二次世界大戦中の1940年7月に召集され、1941年9月、イギリス本国軍総司令部の情報部スタッフとなった。彼は、ロンメル将軍の北アフリカ侵攻を正確に予測して情報部でたちまち頭角をあらわす。1944年2月、彼が統括する部署は、ヨーロッパ大陸への反攻を目指す連合国軍総司令部(Supreme Headquarters of the Allied Expeditionary Force)の下に置かれた。
航空写真、解読された通信文、レジスタンスからの提供情報等、オースティンの部署における膨大な情報の収集・処理により、大陸への上陸地点はノルマンディーしかないことが確定し、さらに当地の情報が徹底的に収集され、それをもとに上陸部隊の大尉以上の士官向けに『侵攻必携 Invade Mecum』*10が7カ月かけて編集され、1万部が印刷された。それは、道路、鉄道、水路、電力、通信、工業、農業等を描く多数の地図の他、大小の都市に関する概観、人口、海抜、官庁、郵便局、駅、道路・水路による距離、電力、ガス、上下水道、ガソリンスタンド、工場、宿舎、病院の各項目の情報を記載していた。ノルマンディー地方に関する『侵攻必携』第4巻は560頁で防水ケース入りであったが、それでも軍服のポケットに収納可能であった*11。
オースティンの指揮下で収集・処理された情報の正確性は驚愕すべきものであった。シェルブール近郊で守備にあたったドイツ軍のフリードリヒ・キュッパー大佐は、数日にわたる連合国軍の攻撃にもかかわらず、降伏の招請を拒み続けた。ある日、アメリカ軍のバートン少将が部下とともに、白旗を掲げてキュッパーの司令部を訪問し、机の上に地図を広げて連合国側の兵力を説明して、最終的な攻撃前に降伏するよう説得した。キュッパーはなお意思をまげなかったが、机上の地図を見やり、「この地図を少し見ていいか」と言ってそれを検分したところ、ドイツ軍側の火砲の位置、弾薬量、人員、指揮官がすべて、ドイツ軍の地図よりも正確に記されていることが判明した。顔面蒼白となったキュッパー大佐は部下と短く会話を交わしたのち、降伏する旨をバートン司令官に告げたとのことである*12。
オースティンは情報の収集・処理を通じてノルマンディー上陸作戦に際して何万人もの連合国軍兵士の生命を救った。彼が連合国の勝利に大きく貢献したことは、疑いがない。
オースティンは部下に配慮する指揮官であったが、上官に対する物言いはときに辛辣であった。上陸作戦前の1944年4月、彼がアイゼンハワーほか総司令部の将軍たちにノルマンディー海岸の傾斜について説明していたとき、ある中将が彼の判断の適切さに疑問を呈した。オースティンは、「あなた方、上級将官の問題はいつも同じだ。歩ける前に走り出すどころか、立ち上がれもしないうちに歩き出そうとする」と応じた。将軍たちは居住まいを正し、謝罪したとのことである*13。
真理に関するオースティンとストロウソンの論争で、勝利したのはストロウソンだというのが大方の見方であった。戦後のオクスフォード哲学に君臨したオースティンは、王位を失った*14。彼は、「クロが犬である」が真であることと、クロが犬であるという事実が二つの異なる事柄であると信じた。
オースティンの伝記を著したM. W. ロウは、彼が情報部門の将校であったことが、この信念と関係しているとする*15。言語哲学者としての彼は文法と語彙に関心を寄せ、情報部門の将校であった彼は、事物と出来事に関心を寄せる。両者は異なる世界に属すると彼は考えた*16。
しかも彼は、「事実」と言われるものが、言明が叙述する内容にほかならないという立場は、観念論を帰結すると考えた*17。この立場をしりぞけるには、言明が叙述する内容を基礎づける形而上学的「事実」があり、それが言明を真とするとの筋道をとるのが自然ではある。しかし、そうした「事実」にこだわる必要はない。それは単なる神話である。ありもしないものを分析する必要はない*18。
オースティンが連合国軍総司令部の情報部署を統括したことは、その後の世界の歩みにとってきわめて善いことであった。それが、哲学の歩みにとって善いことであったか否かは、なお検証されるべきことがらである*19。
*1 最大判昭和61年6月11日民集40巻4号872頁〔北方ジャーナル事件最高裁判決〕。230条の2の定める一定の条件は、人の名誉を毀損する表現行為が「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった」と認められることである。違法ではないとは、そうすることには十分な正当化理由があることを意味する(see JL Austin, ‘A Plea for Excuses’ in his Philosophical Papers (3rd edn, Oxford University Press 1979) 176)。HLAハート『法の概念』長谷部恭男訳(ちくま学芸文庫、2014)281頁をも参照。オースティンとハートはオクスフォードで共同のセミナーを主宰していた。
*2 JL Austin, ‘Truth’ in his Philosophical Papers (3rd edn, Oxford University Press 1979) in particular, 121−22. オースティンのこの論文集の第2版は、勁草書房から邦訳(『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、1991)が刊行されている。
*3 PF Strawson, ‘Truth’ in his Logico-Linguistic Papers (2nd edn, Ashgate 2004) 147.
*4 MW Rowe, J.L. Austin: Philosopher and D-Day Intelligence Officer (Oxford University Press 2023) 461.
*5 ラムジーについては、さしあたり長谷部恭男『歴史と理性と憲法と』(勁草書房、2023)第2章「未来に立ち向かう──フランク・ラムジーの哲学」参照。
*6 FP Ramsey, ‘Facts and Propositions’ in his Philosophical Papers (DH Mellor ed, Cambridge University Press 1990) 39.
*7 Strawson (n 3) 158.
*8 この点については、オースティンも同意している(Austin (n 2) 133)。「……は本当だ」と言う代わりに「……であることを私は知っている」と言っても同様に確証し、請け合うことができる(JL Austin, ‘Other Minds’ in Philosophical Papers (3rd edn, Oxford University Press 1979) 99)。また、単に「クロは犬だ」と述べることが、確証や請け合いの役割を果たすことも十分あり得る(JL Austin, How to Do Things with Words (2nd edn, Oxford University Press 1976) chapter XI)。
*9 オースティンの言語哲学は、後期ウィトゲンシュタインとは全く独立に展開されたと言われることがあるが(see, for example, Isaiah Berlin, ‘J.L. Austin and the Early Beginnings of Oxford Philosophy’ in his Personal Impressions (expanded edn, Henry Hardy ed, Princeton University Press 1998) 143)、ロウが指摘するように(Rowe (n 4) 145−47)、この主張の信憑性は疑わしい。オースティンが少なくともウィトゲンシュタインの青色本を熟読していたことは、十分に考えられる。
*10 Invade Mecumは、「私と一緒に侵攻しよう」という意味である。上陸地点に関するドイツ側の予測を攪乱するため、ブルターニュ地方やカレー地方に関する『侵攻必携』も編纂された。
*11 Rowe (n 4) 248−53.
*12 Ibidem 332.
*13 Ibidem 288−89.
*14 Ibidem 468.
*15 Ibidem 466.
*16 Austin (n 2) 123−24.
*17 Rowe (n 4) 466−67. オースティンは、具体的文脈における日常用語の使用は、明らかに実在論に立脚していると考えた。「あれは本当にゴシキヒワか(Is it a real goldfinch)?」という問いに対する一般人の通常の答えは、それが幻影でも蜃気楼でもなく、縫いぐるみでもないというもので、バークリに代表される観念論者が(あるいはデカルトが)想定するようなものではない。See Austin (n 8) ‘Other Minds’ 86−89.
*18 Rowe (n 4) 467.
*19 オースティンは、死の直前、妹に向かって、「これほどの自分の才能を哲学よりも実際的なことに捧げるべきだったと思う」と述懐した(ibidem 607)。
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第34回 例外事態について決定する者
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【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。
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