あとがきたちよみ
『アジア系のアメリカ史――再解釈のアメリカ史・3』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/8/28

 
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キャサリン・C・チョイ 著
佐原彩子 訳
『アジア系のアメリカ史 再解釈のアメリカ史・3』

「序文 大いなるヘイトの時代に執筆すること」(pdfファイルへのリンク)〉
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序文 大いなるヘイトの時代に執筆すること
 
 私はこの本を個人的な緊急性を感じながら書いている。アメリカ合衆国〔以下アメリカと訳出〕においてアジア系アメリカ人は長きにわたって存在してきたのに、二〇二〇年と二〇二一年という年に私たちアジア系アメリカ人は、どうしてひどいヘイトを向けられているのだろうか。
 二〇二〇年を通して、反アジア人的で新型コロナウイルスに関連したレイシズムが増加し、とくにCOVID-19が世界的流行(パンデミック)となった三月初頭以降顕著となった。それは、アジア系アメリカ人の若者へのいじめやアジア系アメリカ人に唾を吐くといったものから新型コロナウイルスを私たちのせいにするといったことまで、悪態や物理的ハラスメントなどさまざまな形をとった。この反アジア人敵意は、テキサス州ミッドランドでビルマ系[アメリカ国土安全省報告書の表記による。第二章注7参照]アメリカ人家族がナイフで襲われるというような、ひどい暴力をもたらした。加害者は、その家族が新型コロナウイルスを撒き散らしていると非難した。
 これを私が書いている二〇二一年に、反アジア人暴力はニューヨークからアトランタ、アリゾナ州グレンデール、そしてサンフランシスコ・ベイエリアにいたるまで、私たちの周りに存在している。私たちはこの暴力のいくつかを、ソーシャルメディアで共有された動画を通して目撃している。それはアジア系アメリカ人の高齢者が一日を過ごそうとしたり、日課の運動のために散歩したり、食料品店で用事をすまそうとしていたりしているときに、突然襲われたり、地面に殴り倒されたり、顔を殴られたり、ひったくりをしようとした犯人から車から引きずり出されたりするものだった。数十年前にフィリピンから移住した六五歳のフィリピン人女性であるビルマ・カリは、三月二九日にマンハッタンの豪華な建物の前で白昼に残忍なやり方で襲われた。
 これらの暴行のなかには致命的なものもあった。押し倒されて地面に打ちつけられた四八歳のタイからの移民であるヴィチャ・ラタナパクディーは、意識を取り戻すことはなく、二日後に亡くなった。フィリピンからの移民である七四歳のフアニート・ファルコンは、顔を殴られ舗道に頭を打ちつけたために亡くなった。
 この反アジア人暴力はレイシズムであるとともに女性嫌い(ミソジニー)に関連したものでもある。アジア系アメリカ人女性は、これらの攻撃のなかで不釣り合いな割合を占めている。私たち[アジア系アメリカ人]は、二〇二一年三月一六日のアトランタでの銃撃と八人の殺人について悲痛な気持ちになった。八人の死亡者のうち六人がアジア系アメリカ人だった。銃撃犯は、セックス依存症を強調し人種的動機を否定した。しかし、多くのアジア系アメリカ人女性は、人種とジェンダーの交差によって自分たちをフェティッシュの対象としモノ扱いするステレオタイプ化を経験してきたため、その悲劇に対する理解は異なっていた。
 私の心に喚起されるのは、冷淡な暴力だけではない。フアニート・ファルコンに私はロロ〔タガログ語で祖父を意味する〕、私のフィリピンの祖父を見る。ビルマ・カリには、私のフィリピンの母が教会に行くために歩いている姿を見る。この種の暴力は、私の子どもたちの心にも[そのような身近な人へのものとして]連想されていることがわかる。そのため、それらの攻撃の犠牲者に、子どもたちは私を見るのだ。
 私の息子は大学に通うため遠くにいるが、夫と私に電話をしてくる。彼は「大丈夫か」と聞く。彼は、この種の暴力のビデオやニュースを見ている。彼は、私が恐れていることを恐れている。二〇二〇年のほとんどと二〇二一年初頭の数か月は、アジア系アメリカ人に嫌がらせし傷つけることが解禁されたかのようであった。私たちが人間以下の存在であるかのように、私たちの生命は消費してもよいものであるようだ。
 その恐怖は、内部と外部の両面から脅威をもたらしている。その恐怖は、脳に緊張をもたらし、心を痛める。考えが錯綜する。次は、私、あるいは私の家族の一人なのか。私にそれが起こったら何をするだろう。なぜこのことが起こっているのだろう。
 
誤解と非人間化
 アジア系のアメリカ史を、二〇年以上調べ、執筆し、教鞭をとってきたアジア系アメリカ史研究者として、私は、この時代で私が観察し私たちが経験している多くのことが、新しいことではないことを知っている。アメリカでの反アジア人暴力は、一五〇年以上にわたる歴史をもつ。アジア系女性に対するモノ扱いや、アジア人の身体から病気を連想することもそうである。そのようなアジア系のアメリカ史は、未知のように思えるかもしれないが、それにもまた歴史がある。
 アジア系アメリカ史研究と教育は、とくにアメリカの大学の学科や専攻、本の出版、学会などにおいて、過去三〇年の間に大きく変化した。しかし、この進歩にもかかわらず、アジア系のアメリカ史への深刻な理解不足という問題が私たちの文化に蔓延している。
 この理解の不足はアジア系アメリカ人と私たちの歴史に対する「誤解」をもたらしてきた。代わりに、私たちが何者であるかについての[以下のような]一般化が、共通の知識として通用している。つまり、アジア系アメリカ人の子どもは賢く算数と暗記が生来的によくできる。成人のアジア系アメリカ人は、不満を言わないモデルマイノリティである。アジア系アメリカ人男性は、女性的で女々しくあるいは性的でない存在(asexual)である一方、アジア系アメリカ人女性は、エキゾチックで魅力的である。すべてのアジア系アメリカ人は成功している。
 このことの何が間違っているのだろうかと、尋ねる人がいるかもしれない。最終的にこうしたステレオタイプは、人びとと文化についてどの集団にもあるのではないのか。このことの多くは、ある集団が望むことのできるもっともポジティブなブランディングなのではないか、と。
 この誤解が問題なのは、そのステレオタイプがアジア系アメリカ人の非人間化に貢献しているからだ。それらの一面的な描写は、瞬く間に悪意になり、簡単に裏返りうる同じコインの両面を構成している。そのため、アジア系アメリカ人は一時的にモデルマイノリティであると認識されるかもしれないが、しかしその後、脅威をもたらすものへと素早く変容してしまう。アジア系アメリカ人女性は、ハスの花〔エキゾチックで従順な女性像〕であるがドラゴンレディ〔エキゾチックで脅威となりうる女性像〕でもある。両者とも魅力的だが、ドラゴンレディは悪者である。
 アメリカにおけるフィリピン人看護師についての私の最初の著作である『ケアの帝国(Empire of Care)』のために調査をしている間、この従順さと危険性の間の紙一重の違いを痛いほど観察した。一九六〇年代から一九七〇年代の間に、何万人ものフィリピン人看護師が危機的な看護師不足を改善するためにアメリカに移住した。多くのアメリカ人はこれらの女性を優しく話しかけてくれる親しみやすい存在と見なした。しかし、一九七七年の「合衆国対ナルシーソとペレス」事件では、フィリピン系移民である二人の看護師が、ミシガン州アナーバーの退役軍人病院で患者に毒を盛ったという陰謀の冤罪で起訴された。彼女らは一九七八年に最終的に無罪となったが、[被告となった]フィリピナ・ナルシーソとレオノラ・ペレスは、その経験をアメリカの「悪夢」と呼んだ。『アナーバーでの謎の死』という本の著者であるロバート・ウィルコックスは、彼女らに対する裁判について、フィリピン人移民に対して想定される不可解さを強調しながら[次のように]述べた。「彼女らが殺人を犯したことは、責任感が強く、思慮深く、恥ずかしがり屋である小さいフィリピン人女性の謎だった。しかし、殺人はベールの下に隠れている悪であったのか」。
 つまり、超人であること(賢い子ども、モデルマイノリティ)と人間以下であること(「中国ウイルス」を広げる人びと、「汚い日本人(ジャップ)」、そしてナルシーソとペレスを証言者が言及したように「一重(ひとえ)の売女(ビッチ)たち」)というような、二重性には歴史がある。この最終段階は、アジア系アメリカ人を非アメリカ人化し非人間化してモノ扱いするものである。病気の感染拡大や景気後退というような危機の時代には、悲劇的にも非人間化が、人種的・階級的・ジェンダー的・セクシュアリティ的スケープゴート化をもたらし、二〇二〇年と二〇二一年に目撃しなくてはならなかった反アジア人暴力の急増をもたらしている。
 その誤解の多くは、アメリカの過去の遺産にある。アジア系のアイデンティティは、連邦、州、地方の法律の多くにおける「アメリカ的なもの」の対極として歴史的に位置づけられてきた。一八八二年中国人排斥法やアジア移民禁止地域を作った一九一七年移民法のような、一九世紀から二〇世紀初頭にかけての移民法は文字通りアメリカからアジア人を排除しようとした。一九二二年「小沢孝雄対合衆国」と一九二三年「合衆国対バガット・シン・ティンド」の二つの連邦最高裁判決は、日本人とインド人の移民が非白人であるためアメリカ市民権に不適格であるとした。その後のカリフォルニア州における外国人土地法は、市民権に不適格である[と見なされた]人びとが土地を所有することを禁止した。[そして]アリゾナ、ネバダ、オレゴン、ユタ、その他の州における異人種間結婚禁止法によってアジア人と白人の異人種間の結婚が禁止された。
 アメリカの大衆文化は、アジア人を人間以下の脅威あるいは超人的な脅威と描き出す役割を果たした。一九世紀後半から二〇世紀初頭における万国博覧会や政治漫画によって、アジア人がアメリカの保護を必要としている文明化されていない子どもたちであり、脅威の集団であり、病気や不道徳の前触れであるとする考えが流布された。ハリウッドの黄金期に[映画]制作者たちは、アジア人が西洋世界を征服しようと試みる神秘的な悪人であると見せることによって利益を得た。
 おそらく、アメリカ人のアイデンティティとその経験の対極としてのアジア人の位置づけがもっとも力強く表現されているのは、アメリカでアジア系が長期的に存在してきたことが消去されていることと、さまざまな産業へのアジア系の貢献が消去されていることにある。アメリカでアジア人が鉄道建設、農業の開発、兵役、労働運動を通じて国家建設に貢献したとき、それらの貢献の多くが消去されたり忘却されたりした。初期の極端な歴史的事例は、一八六九年に大陸横断鉄道の完成を記念した式典の象徴的写真から、その鉄道の半分を建設したにもかかわらず、中国人の鉄道労働者の存在が消去されていることである。もう一つの事例は、全米農業労働者組合におけるフィリピン系アメリカ人ラリー・イトリオンのリーダーシップと、アメリカの労働史におけるフィリピン系アメリカ人の多くのオーガナイザーが払った犠牲について、歴史的記録が見過ごされてきたことである。
 法的排除、文化的ステレオタイプ、歴史的消去の遺産は、二一世紀においても私たちにつきまとっている。それらは、いかに一生懸命に同化したり愛国心を証明したりしようとしても、アジア系アメリカ人は気がつくと、アメリカ的経験の外側からアメリカを眺めているのかを説明するのに役立つ。私の子どもたちが父親側で第四世代の中国系アメリカ人やコリア系アメリカ人であることや、あるいは私の側で[母親側で]私の子どもたちが第三世代のフィリピン系アメリカ人であることなど関係なく、私たちは常に外国人なのだ。
 つまり、三〇年以上にわたるアジア系アメリカ史に関する著作の執筆、ドキュメンタリー映画制作、そして学会での報告発表にもかかわらず、私を含むアジア系アメリカ人研究者は、アジア系のアメリカ史への次のような反応に直面する。「本当に? 知りませんでした」。「大学で受講したエスニックスタディーズ授業の一つでそれについて少しだけ学びました」。
 しかし同時に、この外部者としての[アジア系アメリカ人の]立場の根深さは、アメリカ政治におけるアジア系アメリカ人の躍進と併存している。二〇二〇年に副大統領カマラ・ハリスは、初のアジア系かつ黒人のアメリカ人女性として、その指導者的役割に選ばれた。ロブ・ボンタは、二〇一二年にカリフォルニア州議会第一八選挙区から選出された際、フィリピン系アメリカ人初のカリフォルニア州議会議員となった。二〇二一年にカリフォルニア州知事ギャビン・ニューサムは、ボンタをカリフォルニア州の司法長官に選出し、彼をアジア系アメリカ人男性としてその地位に初めて就任させた。
 アジア系アメリカ人の躍進は、アジア系の美術や文化でも起こっている。二〇二一年にスティーヴン・ユァンはアーカンソー州の田舎に定住することを模索するコリア系家族についての映画『ミナリ』でアカデミー賞の最優秀男優賞に、初めてノミネートされたアジア系アメリカ人となった。作家であり研究者であるヴィエット・タン・グエンは二〇一六年に小説『ザ・シンパサイザー』でピュリッツァー賞フィクション部門を受賞し、二〇二〇年には一〇三年におよぶピュリッツァー賞役員の歴史で選考役員に就任した初めてのアジア系アメリカ人となった。女優・コメディアン・作家・プロデューサー・ディレクターであるミンディ・カリングは、長く放映されたNBCのシットコム『ジ・オフィス』(二〇〇五―二〇一三年)でのケリー・カプーア役でよく知られているが、その番組にカリングは、作家、エクゼクティブプロデューサー、ディレクターとしても貢献した。二〇二〇年には、カリングはネットフリックスのシリーズ『私の“初めて”日記』を制作した。一〇代のインド系アメリカ人の人生に注目することで、それはアジア系アメリカ人のステレオタイプに異議を申し立てる草分け的なシリーズとして歓迎されてきた。
 このように、アジア系アメリカ人が岐路に立っていることに、[アジア系アメリカ人である]私たち自身が気づいているのだ。私たちは自分たちの躍進を祝っているのに、ヘイトの標的のままでいる。私たちアジア系アメリカ人は、どのようにしてここまで来たのだろうか。
 
暴力、消去、抵抗
 本書で、アジア系のアメリカ史において相互に連関する三つのテーマを強調することによって、私は上記の問いを検討している。そのテーマとは暴力、消去、抵抗である。本書を書くための主な動機の一つは、反アジア人暴力の一五〇年以上の歴史、女性嫌い(ミソジニー)とその他の形式のヘイトとの交差を記録することによって、いかにして現在に至ったのかを説明するためである。この歴史を記録することは、リンチ、放火、銃撃、刺傷、器物破損、脅迫、スケープゴート化、唾を吐かれる、押し倒される、殴打といったさまざまな物理的形態による、アジア系アメリカ人に対して向けられた恐怖の時間軸に向き合うことである。この歴史は、しかしながら犯罪行為についてのものだけではない。それはまた、アジア系アメリカ人にとっての人生のチャンス、生き残るための戦略、そして全体的なメンタルヘルスと幸福(ウェルビーイング)に対する暴力の影響についての歴史でもあるのだ。
 これらの出来事と対峙し、そしてそれらについて書くことは、私にとって痛みを伴うことだ。このトピックについて強調することは、暴力が生み出すトラウマを悪化させることのみに働くだろうかと、私は思い悩む。たぶんそうだ。しかし、その現在的な存在とその歴史を否定するということはできない。私たち[アジア系アメリカ人]が反アジア人暴力に対峙しなければ、それは継続するだろう。ジェイムズ・ボールドウィンが指摘するように、「直面するすべてのことが変わりうるわけではないが、直面するまで何も変えることができない」。したがって、アメリカにおける反アジア人暴力の歴史を強調して可視化することに、アメリカの歴史の正確さだけでなく、アメリカの幸福(ウェルビーイング)な未来もかかっているのだ。
 本書の二つ目の主要テーマはアジア系アメリカ人の経験の消去である。以降の章では、写真やその他のドキュメンタリー形式で行われた、消去、忘却された秘密の戦争、そして商業的再開発など、人びととそのコミュニティの存在の足跡を消し去るさまざまな形態に光を当てる。忘却された戦争の例として、一八九九年に始まったほとんど知られていない米比戦争〔フィリピンとアメリカの間で起こった一九〇二年まで続いた戦争。多くのフィリピン人が虐殺された。〕、そして一九六〇年代から七〇年代のラオスにおけるアメリカの秘密戦争〔ベトナム戦争と並行してラオスへアメリカが秘密裏に展開した大量爆撃を含む武力攻撃〕がある。二〇一二年ウィスコンシン州オーククリークにおけるグルドワラ(シク寺院)での銃撃事件の事例のように、歴史が暴力によって覆い隠されることもある。その事件は、一九一二年にカリフォルニア州ストックトンで設立されたアメリカ最古のグルドワラの一〇〇周年記念祭となるはずだったものと時期的に重なることで、その歴史から[人びとの]注意を逸らした。
 本書の第三のテーマである抵抗とは、長い間アジア系アメリカ人が暴力を生き延び、生活を向上させ、かれらの歴史の消去に対抗するために発揮してきた創造的な力である。それはまた、相互扶助組織を作ったり、労働組合を作るための連帯をなしたり、学校でのエスニックスタディーズを要求したり、新しい法律を導いたりするような多くの形態をなしている。抵抗はまた、アジア系アメリカ人の想像力と、単に[抑圧に対して]反対するというだけではないその創造的な行動への意志に分かち難く結びつけられている。アジア系アメリカ人の創造性は個人的なやり方と共同体的なやり方の両方に表現され、歴史はそれらのやり方がいかに交差し重なり合うかを示している。気づかないうちに、抵抗という個人の創造的な力は、自身を超え、そして世代を跨いだ、想像的思考と弾力性をもたらす。たとえば、エンジェル島〔サンフランシスコ市沖の島。太平洋を渡ってきた移民はここに一度収容され入国審査を受けた〕の移民局で中国人収容者は、一九一〇年代の初頭に収容所の壁に詩を彫ることによって孤独と怒りを表現しようとした。この創造的なひらめきは、レノラ・リー・ダンスカンパニーによる近年の公演「これらの壁の内側で(Within These Walls)」に生き続けている。二〇一七年にこの公演はエンジェル島移民局の内部および周辺で行われ、その振り付けは癒やしと哀れみの時間と空間を作り出し、一八八二年中国人排斥法の一三五周年を記念したのである。
 
異種混淆性と時系列
 最後に、本書の原題である「合衆国におけるアジア系アメリカ人の歴史(ヒストリーズ)」は、アジア系のアメリカ史の主な二つの事柄である異種混淆性と時系列についての声明である。アジア系アメリカ人は一枚岩ではない。複数の歴史がある異種混淆的集団である。アジア系アメリカ人という概念は際立っている一方で――反アジア人暴力の最近の増加が、エスニックおよび社会経済的な違いを跨いでアジア系アメリカ人に影響を与えているように――、多くのアジア系アメリカ人は、かれら自身が内包する真の多様性ゆえにそのカテゴリーにおいて周縁化されている、あるいは不可視化されているとさえ感じている。さらに、ソーシャルメディアにおいて、研究者は、たとえばフィリピン系や南アジア系アメリカ人をより本質的に[アジア系に]包摂することを求めて#BrownAsiansExist〔褐色のアジア人は存在する〕というハッシュタグを使用してきた。そうした研究者は、アジア系アメリカ人を構成する多くの異なる集団を省略することが、深い問題をはらんでいると指摘している。
 一九六五年移民国籍法の制定以前において、アジア系アメリカ人のなかの最大集団――中国、日本、コリア、インド、フィリピン――の歴史を統合することにまつわる問題は十分に深刻である。そして、従来よりも公平な移民政策をもたらしたこの移民法は、それ以降のアジア諸国からの移民の数を飛躍的に増加させた。過去六〇年間でアジア人のアメリカへの移民は、高度に教育を受けた移民あるいは難民のように特徴的な人口集団として位置づけられてきた。移民と定住に関するこれらの近年の歴史は、アジア系アメリカ人の構成とその意味を複雑化してきた。
 二一世紀初頭において、多様性と成長はアジア系アメリカの特徴であり続けている。二三〇〇万人のアジア系アメリカ人の記録は、人びとのルーツを東アジアや東南アジア、インド大陸の二〇か国以上にたどることができる。アジア系アメリカ人であり、かつ少なくとも他の一つの人種カテゴリーを選ぶマルチレイシャル〔複数の人種的ルーツをもつこと〕なアメリカ人と、アメリカ生まれのアジア系移民の子孫は、この幅広い異種混淆性にさらに貢献している。この目覚ましい多様性に貢献する別の要因は、個別のコミュニティ組織や教育プログラム、アメリカ政府が後援するフェスティバルなどにおいて、AAPI(アジア系アメリカ人と太平洋島嶼民(パシフィックアイランダー)[の頭文字])、APIA(アジア系と太平洋島嶼系アメリカ人[の頭文字])、APA(アジア太平洋系アメリカ人[の頭文字]〕)というような包括的カテゴリーによって、アジア系アメリカ人と太平洋島嶼民(パシフィックアイランダー)を一つの集団とすることにある。
 「エンパワリング・パシフィックアイランダー・コミュニティーズ」という全国組織によれば、「ネイティブ・ハワイアンおよびパシフィックアイランダー」は、ポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの先住民に起源をもつ人びとを指す。アジア系アメリカ人と太平洋島嶼民を[まとめて一つの]集団とする慣行は四〇年以上の歴史をもつ。たとえばそれは毎年五月のアジア太平洋系アメリカ人文化遺産月間のフェスティバルで使われるが、一九七九年アジア太平洋系文化遺産週間はアメリカ政府後援のイベントとして始まった。アジア系および太平洋島嶼系アメリカ健康フォーラムは、アジア系アメリカ人、ハワイ先住民、そして太平洋島嶼民の健康を改善するために一九八六年に設立された。ニューヨーク大学アジア系/太平洋系/アメリカン・インスティチュートは一九九六年以来、アジア系/太平洋系/アメリカ人コミュニティが直面している問題について一般市民向けのプログラムを提供してきた。そしてストップAAPIヘイト通報センターは、アメリカにおける反アジア人暴力の近年の増加を記録し、それと闘うために二〇二〇年に設立された。
 これらのカテゴリーを使用する特定の組織や出来事に言及するときに、本書はアジア系のアメリカ史に焦点を絞っている。この注目は太平洋島嶼系アメリカ史を排除することを意図していない。逆に、太平洋島嶼系アメリカコミュニティの指導者や研究者の太平洋島嶼研究をかれらのやり方で学び、特定し、それによってアメリカの軍事主義や占領という文脈での先住民性、統治、言語の再活性というかれらの経験を前面に出し、そしてそれらの経験を世界の他地域の太平洋島嶼コミュニティと接続することは重要だと認めているのである。エンパワリング・パシフィックアイランダー・コミュニティーズの代表である、タヴェ・サミュエルは次のように述べる。「AAPI[というカテゴリー]は驚くほど野心的です。AAPIは世界のもっとも大きな地域のいくらかをカバーし代弁することを主張しています……。やり方によっては、周縁化と消去は不可避であると思われます」。
 サミュエルの観察はまた、多くの異なるコミュニティを包摂する「アジア系アメリカ人」という用語についても当てはまりうる。アジア系アメリカ人は、二〇〇〇年から二〇一九年にかけてのすべての人種およびエスニック集団のなかで最速の人口成長を記録した。この成長は、アメリカの地理についての私たちの思い込みを再想像させ再考するように促す。二〇一九年に次の州はアジア系アメリカ人の人口が最大となった。それは、カリフォルニア、ニューヨーク、テキサス、ニュージャージー、イリノイ、ワシントン、フロリダ、ヴァージニア、ハワイ、マサチューセッツ州である。しかしながら、アジア系アメリカ人口のもっとも劇的な成長の一部は、ノースダコタとサウスダコタ州で起こった。それらの州はアジア系アメリカ人の存在がもっともなさそうに思えるだろう。
 アメリカにおけるアジア系アメリカ人の多様性は、特定のアジア系アメリカ人エスニック集団内および集団間の拡大する社会経済格差によって構成されている。一九七〇年から二〇一六年にかけて[アメリカで]の白人、黒人、ヒスパニック、アジア人の所得に関する報告書において、ピューリサーチセンターは黒人に代わってアジア人がもっとも所得が不平等である集団となったと述べた。アジア系アメリカ人のなかの主な差異のうち、いくつかのみを挙げれば、たとえば母国に由来する地域的・言語的アイデンティティ、移民とアメリカ生まれ世代間の世代差、アメリカで住むところに依拠した地域差異、そして顕著な階層格差といったものが、アジア系アメリカ人のいくつもの歴史をもたらしてきた。
 本書のタイトルは、この多様性と成長を含む一つの歴史に対する挑戦の大きさを認識している。私は、すべてのアジア系アメリカ人の経験を包摂したとは主張しないし、一冊の本でそのようにできるとも思わない。むしろ、本書を書くための主たる動機の一つは、インド系・コリア系・フィリピン系・カンボジア系アメリカ人のような、そしてとくに混淆人種(ミックスレイス)や養子縁組されたアジア系アメリカ人のような特定のエスニック集団や主題的経験に焦点を当てて、アジア系アメリカ人についてあまりよく知られていない物語を組み込んだり語ったりするためである。これらの集団は時折、さまざまなアジア系アメリカ人の経験を統合することを試みる歴史書で言及されるが、アメリカ文化と社会でのその長い歴史、大きく増加する数、そして増大する可視性にもかかわらず、一般的にあまり注目されていない。
 アジア系のアメリカ史の起源が多数あることについて、本書のタイトルと序文はその他のことも示唆する。[それは]アジア系のアメリカ史をつくる多くの方法があることだ。そして、アメリカ史と同様に――ニューイングランドの丘の上の町を建設したピューリタンの到来の神話を扱ってきたが、現在は歴史的人物とその視点についての多様性や、虐殺と奴隷制と帝国主義についての矛盾だらけで苦痛に満ちた遺産と格闘している――アジア系のアメリカ史における唯一の起源的物語もまた存在しないのである。私の望みは、複数のアジア系のアメリカ史について本書で強調したことが新しいものを呼び起こし、作り出されることである。
 
 大学においてアジア系のアメリカ史を二〇年以上教えてきて、私はその主題が概念化されてきた方法に対して学生が不満を表明することにも耳を傾けてきた。時系列に関連して生じる主な懸念は、とくにアジア系のアメリカ史が直線的に前進するものとして描かれること、つまり一八四八年にカリフォルニアで金が発見されたという過去の一つの起点から始まり、一九八〇年代の社会正義を求めるアジア系アメリカ人運動(ムーブメント)あるいは東南アジア系難民の再定住でおおよそ終息するといった描かれ方に関するものである。アジア系のアメリカ史の授業コースの最終週あるいはおそらく最終日でさえ、さらに現在的な課題にほとんど関心を向けることなく終了する。同様のパターンはアジア系のアメリカ史の書籍にも現れる。
 対照的に、本書は二〇二〇年から始まり、[そこに見られる]アジア系のアメリカ史の多様な時系列の起源に注目し、以降の各章ではそれらの起源の初期の起点の時代に戻る。本書の各章は時を遡ったり進んでいったりする。そうすることで、各章は今のところまだ知られていない歴史的出来事のなかのつながりを明らかにする。それは、一八七五年法が二〇二一年三月のアトランタ殺人におけるアジア系アメリカ人女性のモノ扱いとフェティッシュ化を引き起こしたというものや、中国人移民に対する一八六九年のフレデリック・ダグラスによる演説から一九六〇年代ユリ・コチヤマ(コウチヤマ)とマルコムXの友情にいたる、黒人とアジア系アメリカ人の間の歴史的連帯の継続といったことである。
 最後に、近年の大いなるヘイトが吹き荒れるなかで、最近の事象に言及するために私は独特の叙述の仕方をする。本書では、第一人称、第二人称そして伝統的な第三人称の叙述[を使い分けること]で執筆する。さらに、演劇やその他の芸術作品で一般的に用いられ、歴史書では用いられない幕間を含む。そして、個人的経験を共有する。この特有の著述はクリエイティブなノンフィクション、エッセイ、研究論文のジャンルを跨いだ私の書き物から発するものだ。しかし、この叙述法は主に、一般社会がアジア系のアメリカ史についていまだほとんど知識がないということについての私の深い懸念に起因している。このことは、私たちの歴史についての叙述法と関係している。物語を通してのみ、日付、名前、出来事、そして考えが読者と共鳴する印象を与えることができるのである。
 リスクが高い状況にあるために私は書いている。この感染拡大によってアジア系のアメリカ史がさらに消去される可能性が私たちのなかにあるのである。私たちは数多くの喪失を体験してきた。アジア系アメリカ人が愛する人びとが、アメリカでの九〇万人以上のCOVID-19の死者に含まれている。小規模経営店の閉鎖とともに、アジアのレストランの味、匂い、見た目、そして音がなくなった。反アジア人暴力が一年を通じて増加し、私たち[アジア系アメリカ人]はアメリカで安全であるという感覚を失うこととなった。
 そして、恐れることなしに、私が生きたいと望むように私は執筆する。すべての人に対する共感と気配りを強調するような集団的な目的感覚とともに、私たちの国が前進することを願って、私は執筆する。研究と教育から、私はアジア系のアメリカ史が前進の方法を示しうることを学んできたのだ。
(注番号は割愛しました)
 
 
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