あとがきたちよみ
『〈沖縄学〉の認識論的条件――人間科学の系譜と帝国・植民地主義』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2024/10/30

 
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徳田 匡 著
『〈沖縄学〉の認識論的条件 人間科学の系譜と帝国・植民地主義』

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序章 問いの再構築
 
1 はじめに
 本書は、二〇世紀の前半に活躍し、いわゆる「沖縄学の父」と称される伊波普猷(一八七六-一九四七)の「言説」を通して、その言説を可能にした認識論的条件である「近代日本の人間諸科学」と、同時代の帝国・植民地関係のなかで現れる〈民族〉や〈民族性〉の関係について考察するものである。
 那覇の士族の家系に生まれた伊波普猷は、尋常中学校での英語教育の廃止に反対する「中学ストライキ事件」(一八九五年)で同校を退学処分となったあと、上京して明治義会尋常中学の五年生に編入し翌年卒業している。その後三年の浪人生活を経て一九〇〇年に二十五歳で三高の第一部文科に入学した。そして一九〇三年に、東京帝国大学に入学し、三十一歳となる一九〇六年に卒業している。伊波は大学では史学を専攻するつもりだったようだが、三高時代の恩師である榊亮三郎に勧められたこともあり、比較言語学を専攻することになった。伊波はすでに三高時代から沖縄の歴史や言語に関する論文を発表していたが、その後、大学でそれらについての専門的な知識を得ていくことになる。こうして最先端の近代知に触れた伊波は、一九一一年に最初の単著『琉球人種論』を、同年それを巻頭論文に据えた主著となる『古琉球』を発表している。
 伊波は比較言語学の研究成果をもとに、日琉間の言語の同祖性を論じ、さらに形質人類学や民俗学の知識を取り入れながら、文化、人種、民族などの同祖性を措定するいわゆる「日琉同祖論」を論じたとされている。本書はこうした伊波の「言説」の形成にとって、人間諸科学という近代に特有の「知」が及ぼした影響を重視し、そこで伊波が語った人種や民族の概念が帝国化し植民地を獲得していく近代日本の状況において、どのような意味を持ちえたのかを考察するものである。その前に、本書を書くにいたった動機から説明したい。それによって、本書が探究する問題の所在も明確になるだろう。
 
2 問題の所在
 一九六〇年代末、日本への「施政権返還」が既定路線となった時期、政党・労組を含め沖縄から生まれた大衆運動――「復帰運動」――が東京中心の組織運動へと系列化されていくことが予想された。そのなかで、系列化に埋没することなく「沖縄」を問う思想を模索した「反復帰・反国家」という思想があった。筆者は以前に、その限界と可能性を論じたことがある。そのなかで重視したのは、反復帰論のなかの「沖縄人」という批判主体についてであった。
 反復帰論の中心人物であったジャーナリストで思想家の新川明は日本を相対化する思想を、「沖縄人」に準拠しておこなっていた。彼は日本への「復帰」を「心情的民族主義」と批判するが、しかし自らが提示する「沖縄人」という主体について、同様には批判していなかった。それに対して、新川と共に反復帰・反国家の論客とされた文学者の岡本恵徳は、同時代において「日本」に対する異質感として「沖縄人」の意義を認めつつ、そうした意識は「対日本」の場面には有効に機能するかもしれないが、しかし沖縄の内部へと向かう場合には暴力に変化しうると指摘し、戦時中の「集団自決」を念頭に新川の反復帰論を批判していた。これらの議論を踏まえ筆者は、新川の反復帰論における「沖縄人」という主体化の過程に「声にならぬつぶやき」という分裂が起こっていると指摘し、それこそが「内向する暴力」に反転することのない反復帰論の可能性であると論じた。その分裂が示すのは、日本の他者として渇望される「沖縄人」でもなく、沖縄の内部へと暴力を向けてしまう「民族主義」でもない、そうしたカテゴリーの構築性を暴いてしまう契機であった。そしてそれが新川の反復帰論の内部にあったということである。
 そうした議論に関連して、新川の反復帰論や異族論に現れる「沖縄人の心性」や、伊波普猷の評価に対しては少なくない違和感があった。例えば新川は、沖縄の「施政権返還」が既定路線となったなかで、沖縄側の「復帰」運動を「琉球処分」以来の「同化主義」と捉えていた。それは近代の日本と沖縄との関係を「同化主義」によって連続するものと捉える考え方である。そうした想定によって新川は、「沖縄人」が「〈国家としての日本〉に自ら積極的にのめりこんで疑わない精神志向」をもっていると批判できた。このような批判すべき「同化主義」という設定は、「沖縄人」と「日本人」との差異に注目させる効果をもつ。

つまり、せいぜい二千年そこらの昔、大和王権による政治的統一で国家形成されたヤマトゥ(日本国)の成立よりも遙か以前から、そのヤマトゥ(日本国)とは別に独自の文化圏を形成して近代に至った沖縄の歴史的、地理的条件こそが、今日なおわたしたち沖縄人の意識に根強く承け継がれている日本(人)に対する差意識=潜在的距離感の大きさ=日本を全部同質化して対象化してしまう異質感を形成してきたものであろう、ということである。

 こうして新川は「沖縄人」の意識には二面性があるとする。一方には「同化主義の心性」があり、他方には「差意識=異質感の心性」がある。この二面性を体現したのが伊波普猷であるというのが新川の理解である。

沖縄の存在がその歴史的、地理的の条件によって、〈国家としての日本〉を撃つ衝迫力を所有し、こんごも所有しつづけるだろうことは、少なくとも思想の領域で「沖縄」を論ずる場合、ほとんど自明にひとしいことといってよい。なぜならば「沖縄の思想」という言葉が、定立した概念としてわたしたちに共有され得ているということ自体、まさにそのような沖縄の持つ可能性を動かすことのできない前提としない限り成立するはずはないだろうからである。/あるいはまた、沖縄独自の歴史的風土に根ざして、いわゆる「沖縄学」と称される特異の学問領域が存在し、その存立を日本も含めて共通の了解事項として了解し合ってきたことによっても、沖縄が歴史的、地理的に所有してきた可能性が、日本の他のどのような地方府県に比しても際立って存在していることを裏書きするものといえるはずだからである。/ただ「沖縄学」は、(のちに「沖縄学の父」といわれる伊波普猷に即してのべるように)沖縄の持つ、そのような可能性を掘りおこし、押し展げ、切り拓いていく方向ではなく、逆にそれを押え込む方向でその成立がはかられたものである。すなわち、沖縄近代化のためとはいえ、沖縄を日本に全的に同化させる媒体となることをみずからに課すことによって、沖縄の存在が持つ可能性をみずから積極的に埋めてきたものであった。

 新川の説明では、伊波は「差意識」を導出したにもかかわらず、それを抑圧して日本へと同化したという理解になる。新川は伊波の立場を「宿命的な自己矛盾」あるいは「悲劇的な限界性」と表現している。日本政府による上からの同化圧力と、沖縄の下からの同化による権利要求が日本帝国を補完する「同化主義」だということである。しかし岡本が批判したように、「同化主義」という設定によって自らの抵抗の主体を「民族性」に求めるならば、そこにはやはり反転した「内向する暴力」があるのではないか。
 新川の議論は、伊波が見出す「独自の文化圏」を称揚しつつ、それを抑圧する伊波を批判するという構図である。それによって新川は「異族」という幻想的な共同性を打ち立てる。これが新川の思想的基盤ともいえる。しかし本書で見るように、伊波の立論はそのようなものではない。むしろ伊波は、中央(支配国)が、地方(植民地)の独自性を認め、それに沿って統治することが「帝国」の形成であると述べ、同化主義とは異なる統治形態を論じることで「帝国」の形成に寄与していた。したがって、一九世紀末から二〇世紀において、「民族性(異質性)の抑圧=同化」が帝国・植民地関係の統治形態のすべてではなかったのである。結論からいえば、伊波は「同化主義」を明確に批判することになるが、その際に彼が立ち上げた〈民族性〉は「内向する暴力」へと反転する。その「暴力」とは〈民族〉という主体に対する「優生学」であった。伊波の学問は〈民族性〉を優生学的に思考することによって日本帝国と沖縄における帝国・植民地関係を維持する役割を果たすことになるのである。
 こうした前提に立ち、筆者は、伊波の学問と、日本政府の「同化主義・内地延長主義」は区別すべきだと考える。それは伊波に帝国主義的な思考がなかったということを主張するためではなく、反対に伊波の思想に〈民族性〉の称揚を通じた「帝国」の形成があり、それは同化主義・内地延長主義とは別物でありながら、同時に批判すべきものだからである。国家との同一化を警戒するという姿勢――反復帰・反国家――は常に重要だが、帝国による植民地統治は中心的・支配的国家との同一化・均質化を常に支配地域・植民地に求めていたわけではない。そのため、ある「民族」の支配的国家への同一化・均質化への警戒だけでは、伊波が描いたような帝国的統治、そして実際の二〇世紀の帝国・植民地関係における「統治」を批判することはできない、というのが本書の第一の執筆動機である。
 
 次に戦後の「民族」論を振り返っておきたい。戦後の民族論は、国内外の「民族」をどのように見ていたのか。まず、戦後に「民族」を反帝国主義の拠点としたのは、江口朴郎の民族論である。江口は、二〇世紀前半の従属地域における反帝国主義的運動の「民族」的契機の重要性を指摘し、従属地域の「民族運動」を「極端なるナショナリズム」と呼ぶことで急激な変化を排撃しようとする帝国・植民地主義の問題を論じている。江口は、第一次世界大戦期に出てきた「民族自決」(self-determination)について、ウィルソン米大統領の「一四ヶ条の平和原則」(一九一八年)のなかの「民族自決」は、ロシア革命の影響を受けて出されたものであり、その主張は英仏の描く「帝国主義的勝利」ではないとする。そして「強國に操られる民族政策に對抗するものが『民族自決』の原則であった」と評価する。さらにインドを念頭に戦後冷戦下の第三勢力は、国内の民衆運動と大国による外圧のあいだにあって、自民族中心的にならざるを得なくなるが、他方で民族主義(ナショナリズム)に反感を抱く人々も、民族運動が露呈させる近代の矛盾に目を向けざるをえなくなると述べる。
 こうした江口の民族論を継承しつつ、大衆運動と「民族主義」の関係の再検討から、それに異なる評価を下したのが板垣雄三の「n地域」論である。板垣は、今日の帝国的支配は、実質的支配国が従属地域を外在的に支配しており、従属地域が実質的支配国から独立することで帝国的支配が終息するものではないとして、従来の帝国・植民地関係のモデルを批判している。また独立の担い手とされる「民族主義」については、実際には実質的支配国が民衆の主体的な運動を「成型化」することでそれを封じ込める役割を果たしているとして、被支配地域の「民族主義」なしには「帝国主義体制」は存続しえないと指摘する。つまり帝国は支配地域に「同化」を求めないどころか、「民族主義」をその支配の重要な要素とみなすのである。
 こうした議論は板垣だけでなく、欧米の帝国・植民地研究にも現れる。「脱植民地の帝国主義」(The Imperialism of Decolonization)と題されたロジャー・ルイスとロナルド・ロビンソンの議論は、戦後のアメリカの帝国主義を次のように考える。「国際経済の隷属状態は残りながら、可視的な帝国はなくなるかもしれない。……アメリカの影響力は、帝国的なものの棄権と、民族主義者の招来によって拡大した」。彼らは、英米による北アフリカや中東での民族主義者への支援を通じた影響力の確保などから、第二次世界大戦後の植民地の独立は、その地域へのアメリカの進出と、グローバルな英米関係の変容から見るべきであると主張する。つまり脱植民地とは英米のグローバルなヘゲモニーの再編過程であり、そのなかで「民族主義者」(nationalists)との依存関係によって脱植民地的帝国主義が成立していると主張する。そして脱植民地的帝国主義では、領土の直接支配ではない間接的な帝国主義が行われていることに注意を向けている。ここでも民族自決や民族主義、民族性の称揚が帝国・植民地関係を崩壊させるどころか、逆にそれを維持、強化していることが指摘される。
 こうした議論は沖縄の近現代史にも適用可能である。例えば沖縄戦が始まる前の一九四四年一一月一五日に出版された『琉球列島に関する民事ハンドブック』(Civil Affairs Handbook, Ryukyu [Loochoo] Islands)や、同年六月一日に米軍戦略局調査分析部による対沖縄心理作戦計画案として作成された『琉球列島の沖縄人――日本の少数民族』(THE OKINAWANS OF THE LOO CHOO ISLANDS : A JAPANESE MINORITY GROUP)には、沖縄住民の「民族的特徴」について、次のように記されていた。

14.住民(PEOPLE) 141.民族的特徴(Racial Characteristics)
民族的起源 琉球列島の民族史は、日本民族史と類似している。初期の住民は北海道の残存アイヌ族と同族の原始コーカソイド系のようだ。彼らは色白で毛深くがっちりとしており、一部は北方に移動したかあるいは絶滅したかのどちらかで、また一部はその後(とはいってもまだ有史以前)南方からの移民の流れに吸収された。
身体的特徴 琉球の住民の外見は日本人によく似ており、列島各地で大差がないことがわかった。……日本人と比べて見ると、琉球人は幾分背が低く、がっしりしていて色黒で、鼻はきわだって高く額が広く頬骨はあまり目立たないと報告されている。琉球人の毛は日本人に比べて波立っており、またある地域の人々はアイヌの血が強いことを反映して顎髭や体毛がかなり濃い。しかしながら、全体的に琉球人と日本人の間の身体的相違はほとんどなく、両民族によほど詳しくない限り見分けがつかない。
民族的立場 日本人と琉球島民との密着した民族関係や近似している言語にもかかわらず(略)、島民は日本人から民族的に平等だとは見なされていない。琉球人は、その粗野な振る舞いから、いわば「田舎から出てきた貧乏な親戚」として扱われ、いろいろな方法で差別されている。一方、島民は劣等感など全く感じておらず、むしろ島の伝統と中国との積年にわたる文化的つながりに誇りを持っている。よって、琉球人と日本人との関係に固有の性質は潜在的な不和の種であり、このなかから政治的に利用できる要素をつくることが出来るかも知れない。島民の間で軍国主義や熱狂的な愛国主義はたとえあったとしても、わずかしか育っていない。
亀裂の利用 沖縄人と日本人の間のひびを現在の戦争に利用する事はできるだろうか。……沖縄人は踏みつけにされてきた、という考えを増大させ、そして日本人全体と対比させて沖縄人としての自覚を持たせるように方向づけをする宣伝活動、即ち懐柔策は、実を結ぶ可能性がある。「負け犬」が自己主張する時は今だ、という感情は、奨励と誘発により、実際に爆発することはないかもしれないが、彼等の領土や国に侵入しようとする敵の計画を黙認するという状態になる可能性はある。

 米軍は日琉間の民族的な「固有の性質」を「不和の種」として利用し、「沖縄人としての自覚」を持たせることで懐柔することが可能だと考えていた。こうした民族的「性質」や「自覚」によって戦後沖縄の米軍統治が容易になったとは思えないが、しかし、これまで述べてきたような戦後の帝国・植民地関係を参照するなら、こうした要素を米軍が統治に利用するという世界的な文脈は存在していた。
 さらにこれらの米軍資料を作成するにあたって利用された書物には、伊波普猷『古琉球』『琉球史の趨勢』(一九一一年)、『琉球古今記』(一九二六年)、『孤島苦の琉球史』(一九二六年)、真境名安興『沖縄一千年史』(一九二三年)、島袋源一郎『沖縄歴史』(一九三二年)、安里延『沖縄海洋発展史』(一九四一年)など、沖縄出身者による沖縄の研究書が多数挙げられている。これらの研究をもとに、一九四七年、GHQのマッカーサーは「米国が沖縄を保有することにつき、日本人に反発があるとは思えない。沖縄人は日本人ではなく、戦争も放棄した」と述べ、「沖縄人」と「日本人」とが異なる民族であることを根拠として沖縄保有を表明したのである。また実際、占領米軍は海軍から陸軍へと管轄権を移管する際に「沖縄基地司令部」から「琉球司令部」へと名称を変更し、加えて沖縄の公的機関の名称を「沖縄」から「琉球」へと変更している。「実質的には、一九四六年七月一日をもって、『沖縄』は『琉球』に変えられたといってよいだろう」と鹿野政直が指摘するように占領初期から民族的な「自覚」に基づく分離統治は行われていた。米軍は戦中から「民族」という亀裂を利用して、戦闘や占領を行おうと考えており、実際そのような政策をとったのである。
 戦後の「民族」と帝国・植民地関係、そして米軍占領を見てきたが、そこには抵抗の主体としての「民族」と、そうした「民族」的自覚を植民地や占領の継続として利用するという統治者側の思惑が見えてくる。帝国と植民地の関係とは、領土的拡張や支配国・支配民族の文化を被支配国・被支配民族に押し付けるだけではない。反対に、帝国・軍事機関は、自らが影響力を行使する地域の主権や領土を保全し、当該地に居住する人々を自らの意図に沿うように「成型」することが重要であった。こうした戦後の帝国・植民地の関係を支えているのは「民族」というものが「ある」という主張であり、そうした「民族」の歴史や性質に応じてその「自覚」を成型することであり、それによって最終的には直接的に占領しなくても帝国の利益――軍事的・経済的利益――を確保していくことにあった。そうであるなら、帝国・植民地関係においては、新川が想定するような「差意識」は帝国の「統治」の技術にとって主要な道具であると考えることができる。だとすれば、一九一〇年代に伊波普猷が導出した沖縄・沖縄人の可能性――民族の「個性」――はその当時のグローバルな「帝国」状況に照らした場合においても、そしてのちに米軍が彼の著作を差意識に基づく占領統治の基礎文献にしたことからも、近代における帝国・植民地関係の「統治」にとって少なくない重要性を帯びたのではないか。こうした疑問を考えるには、まずこの「民族性」――民族を特徴づける身体・精神の性質――とは一体何なのか。それはどのようにして見出され、利用されるに至ったのかを考えなければならない。その歴史性を問わねばならない。それは帝国・植民地関係のなかで「統治」とどのように関係してきたのか。「民族」に基づく統治はどのように思考されたのか。そうした諸々の疑問が浮かび上がる。これらが本書の執筆動機である。
 
3 本書の分析方法
 これまでの議論で見えてきたのは、「人種・民族」(race, ethnicity, nation)は、植民地・占領地を統治するための技術的な「道具」であるということである。そしてこうした見解は、人種や民族の定義を求め、それらが構築物であることを批判するだけでは、なぜそれらが統治の道具として機能し、役に立っているのかが見えてこないということをも示している。以下、それを考えることで本書の分析方法につなげたい。
 近年の「人種」や「民族」といった概念の研究は、普遍性の表象に対する批判や、人種差別の発話実践や、抵抗運動の主体形成に関わるものとしてなされてきた。例えば、竹沢泰子による「小文字のrace」、「大文字のRace」、「抵抗の人種Race of Resistance」の議論に特徴的である。竹沢は、「社会分化した集団の差異」が「明瞭な優劣や排除を伴って政治・経済・社会制度に表現される場合、これを便宜的に小文字の”race”」と定義し、「単なる偏見が、制度化された差別を伴うrace へと転化する要因としては、まずなにより労働や宗教・政治面における制度的変化が考えられる」と述べる。また「大文字のRace」は、「世界中の人々のマッピングと分類を意識して構築された科学的概念として流通する人種」で「国民国家形成、植民地主義などの文脈で、それぞれの社会において独自の展開を見せる」という。三つ目の「抵抗の人種RR」は「支配への抵抗、独立運動やマイノリティ運動などのなかで、それぞれの社会で劣位の人種とされた様々な集団の抵抗を呼び覚ます」いわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」として理解される。
 竹沢の議論は、人種や民族という言葉が使われる場面から、人種差別、分類概念、そして政治的抵抗の諸形態を抽出し論じるものだが、筆者はこのような操作的区分が意義あるものだとしても、植民地統治の分析に応用することはできないと考える。デイヴィッド・スコット(David Scott)が一九九五年に発表したポストコロニアル研究における記念碑的論文「植民地統治性」(Colonial Governmentality)を参考にその理由を述べておこう。スコットは、それまでの植民地主義批判の特徴を、被植民者の「人間性からの排除」や「政治主権制度からの排除」に対する批判と抵抗であると捉える。また、「人種」(race)の記号を用いて被植民者を劣者や根本的他者として表象する「植民地の差異のルール」(rule of colonial difference)というパルタ・チャタジー(Partha Chatterjee)の分析概念にも言及しながら、これまでの植民地主義批判とは異なる問いを立てようとする。スコットは、「人種」を表象する「知」は時代によって変化しており、決して通時的に一貫した現象ではないと主張する。そしてその変化する「人種」表象の植民地統治における具体的な効果とは何なのか、またそれぞれの表象とその形式がどんな政治的合理性や主体構成の実践に挿入されたのか、という植民地統治の個別性を考察すべきであるとする。つまり、人種表象の不連続性とともに、異なる政治的合理性や異なる権力構成が主導権を握る不連続性があり、そこから植民地における統治の対象と、それが何のために必要で、どのように仮構されたのかを明らかにすべきであると述べている。そして、人種・民族の融和や抵抗も、こうした統治実践との関係で解明されるべきであるとしている。こうした歴史的に構成された「知と権力」の関係が、スコットのいう「植民地権力の政治的合理性」(the political rationalities of colonial power)や「植民地統治性」なのだ。
 スコットの議論を敷衍すれば、竹沢の議論は、「人種」(=「差異のルール」)によって被植民者の「人間性からの排除」や「政治主権制度からの排除」に対する批判や抵抗の分析を可能にしている。しかしそれは、スコットが回避した分析方法である。そこからは「知」の変容などによる「人種」概念の不連続性と、不連続的に現れる統治権力の種別性や統治形態の再編の政治的合理性を読み取ることができない。
 スコットはこうした「知と権力」の関係を捉える方法としてミシェル・フーコー(Michel Foucault)の「統治性」(governmentality)を植民地関係に応用した「植民地統治性」という概念を提示している。スコットによれば、植民地統治性とは、旧来の生活形態を体系的に解体し、そこに新たな条件を構築することで近代化を義務づけるような新たな権力形態である。そしてそれは、植民地における身体の搾取ではなく、植民地における「人口」のふるまいに対する統治効果を生み出すものとされる。また植民地統治性は、フーコーが示した近代ヨーロッパにおける人口統治の分析を、単に植民地に適用するだけではなく、植民地の統治の種別性、個別性を記述することでもある。
 フーコーは「統治性」を「主権」と「生権力(規律権力・生政治)」の三つの位相の関係性として考えている。まず、一七世紀から一八世紀にかけて、個別の身体を標的にし、その身体の有用性・従順性を伸長しようとする規律権力が現れる。監視や処罰による個別の身体への働きかけによって、より多くの剰余労働を得られるよう身体を最適化する権力関係が近代資本主義を下支えするものとして現れる。そしてこの規律権力に覆い被さるように、「人口の自然性」に働きかける公衆衛生や保険といったテクノロジーにより人々を人口の水準で「生きさせよう」とする生政治が現れる。この二つが生権力を構成する。
 次に、「主権」において重要なのは「君主主権」モデルから「社会契約論」モデルへの移行である。かつての国家は「君主主権」の枠組みで統治することを想定し、実際にそうした統治を行っていた。その場合には、統治者・主権者たる王や諸侯、領主を中心にそこから同心円的に広がる権力構造が特徴であった。しかし社会契約論では主権は人民にあり、主権者たる人民が被治者である人民自身を統治するという関係に変容する。君主主権では王の身体・生命が重要であったのに対して、社会契約論では人民が人民自身の身体・生命を「生きさせる」関係に変容する。つまり主権には、法権利としての主権が君主から人民に移譲されるという連続性と、配慮の対象が君主から人民へ移行するという不連続性がある。この君主主権から人民主権へという「主権の民主化」が、生権力に結びつく。なぜなら、一方で人民主権は君主を排除し、特権的な主体であり客体でもある人民を出現させ、人民自身が人民自身を生きさせる関係へと移行するからだ。他方でこれは、社会契約論の「法権利」が、生権力的関係に支えられていることをも意味する。
 ここで重要なことは、生権力自体は、社会契約論モデルの法権利には記載されないということだ。あくまでそれは、身体の有用性・従順性の創造と、人口水準での統治テクノロジーだからである。つまり、生権力は法権利とは異なる固有の言説を有しながら、法権利を支えるのである。そしてこの生権力の固有の言説は、法ではなく、近代の人間諸科学の臨床的な「知」によって裏づけられる。というのも、フーコーが述べるように、特権的な主体でもあり客体でもある「人間」は、近代の人間諸科学によって生み出されたからだ。フーコーはまた、この特権的「人間」の集団性が「人口」であるとも述べている。したがって、この「人間(身体)」と「人間集団(人口)」が生権力の固有の言説を解読する上で最も重要な要素となり、それに対する具体的な統治テクノロジーのための「知」の形成を問うことが「統治性」研究であり、そしてそれを植民地の具体的な権力関係に見出すのが「植民地統治性」研究となる。そこで本書の分析方法は、以下のようになる。第一に、人間諸科学――比較言語学、形質人類学――における「集合的身体=人口」としての〈人種・民族〉(以下、〈民族〉に統一する)の捉え方を分析する。そこでは、近代において現れる「人種」や「民族」の表象が一貫したものではなく、その表象の不連続性と、それらが人間諸科学によって特権的な〈歴史主体〉として表象されることが論じられる。
 第二に、特権的な〈歴史主体〉としての〈民族〉が、法権利と結びつく際の齟齬と転換を見る。というのも、近代日本においては「天皇」という君主主権と人民主権(国民主権)と、新たな〈歴史主体〉である〈民族〉との関係が問題とならざるをえない。人間諸科学によって新たに生み出された〈民族〉の言説が、君主主権や人民主権の言説の内部で、どのようにそれらと対立し、あるいはそれらを下支えし、その主権│法権利の連続性を支えるのかを考察する。
 第三に、「人口」を標的とする「統治」は主権権力ではなく生権力として現れる。そのため、固有の法則性をもつ人間集団(人口)としての〈民族〉に対する「統治」の構想がどのような言説のなかに現れるのかを問う。それは帝国化する近代日本が植民地を獲得する過程と深く関係する。
 第四に、具体的な統治実践について考える。〈民族〉の表象と、さらにそれを支える近代の人間諸科学の「知」が、人口としての民族を「生きさせる」ための規範として、個々の身体と〈民族〉(人口)を同時に標的とする「優生学」(民族衛生学)と、その〈民族〉の精神性を標的とする「郷土史」が浮上してくる。このような〈民族〉の内的な規範化とは別に、もう一つ重要なのは、東アジアで帝国化する日本が多民族統治に向けて模索する「統治の合理性」である。そこでは他者の排除や、強制的な同化だけではなく、〈民族〉の内的な自然性(人口の自然性)に配慮した「統治」が目指され、それを通じて植民地統治を正当化する言説が生み出される。
 そして最後に、全体を通して本書は伊波普猷の「言説」、特に「日琉同祖論」に焦点を当てる。その理由は、伊波の「言説」が近代における特権的な〈歴史主体〉である〈民族〉を描き出し、また帝国・植民地関係に挿入される近代日本の人間諸科学の成立と展開に深く関係するからである。さらにいえば、そうした「知」を前提にした帝国と植民地の関係を伊波が先取りして論じているからである。重要なのは思考の主体としての「伊波が」何を語ったかではなく、「伊波が語ったこと」が語りとして表出したその認識論的条件を「植民地統治性」の表出として考察することにある。換言すれば、「伊波普猷」とは「植民地統治性」が生産される「現場」であり、臨床的な「知」に基づく統治実践が行使された「末端」であるという意味で、近代日本の植民地統治性を分析するための極めて重要なトポスなのである。
(注番号、傍点、下線は割愛しました)
 
 
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