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飯田 隆 著
『増補改訂版 言語哲学大全Ⅳ 真理と意味』
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※第Ⅱ巻のたちよみはこちら⇒『増補改訂版 言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』
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増補改訂版へのまえがき
半分以上冗談のつもりで付けたタイトルの本が、四冊にもなっただけでなく、巻によっては四十年近くも読者を得ることができ、さらに、増補と改訂を加えて版を新しくできたとは、まことにありがたいことである。このシリーズを支えてくれた読者のみなさんと、それを出し続けてくれた勁草書房に感謝するとともに、この新版が新しい読者を迎えられることを心から願う。
このシリーズはもともと、フレーゲに始まる分析的伝統の哲学のなかで発展させれてきた分析的道具を、読者が使いこなせるようになることを意図していたものであるが、その最終巻である本書は、少し毛色がちがったと感じられた読者が多いだろう。つまり、本書の目標は、哲学のさまざまな分野で応用の利くような分析的道具の紹介にあるというよりは、一九七〇年代より哲学者と言語学者の共同によって生まれた「自然言語の形式意味論」と呼ばれる分野に読者を招待することにあった。
日本語の意味論は、本シリーズを終えてからの私の仕事の中心のひとつであった。本書への「後記」というかたちで、その概要を紹介したのは余計だったかもしれないが、日本語とは大きく異なる英語のような言語を主な研究対象として作られた理論が、さまざまな調整が必要であることはもちろんだが、日本語にも適用できることが伝われば幸いである。
これまでの巻の場合と同じく、初版のテキストへの変更は最小限にとどめた。つまり、句読点とカッコ類の使い方を最近の私の使い方に改めたことと、初版より後に出た翻訳および文献への指示を註に付け加えたことが、主である。こうした追加は、[ ]でくくった。[ ]は、初版で、引用の際に私が補足する場合にも使っていたが、どちらの使い方がされているかは、コンテキストから明瞭だろう。日本語以外の著作からの引用に際しては、既存の訳を掲げている場合も、特に断っていない限り、私自身の翻訳である。第Ⅲ巻と同様、補註は全体を通じての番号で、表題も付けた。
今回は新版であるというので、もともとは十五年にわたって出したものを、全四巻あまり間を置かずに出すこととなった。そうしてみて改めて強く思ったのは、本を出版するということのたいへんさである。しかも、この新版の制作期間がコロナの流行と重なったこともあり、制作にかかわったみなさんの苦労が思いやられる。なかでも、新版の提案からその完結までの全過程を、細かな配慮とともにリードしていただいた、勁草書房編集部の土井美智子さんには、大きな感謝を捧げたい。この巻の校正に関しては、天本貴之氏の手をわずらわせた。細部に至るまで丁寧に見ていただいたことに心から感謝する。
二〇二四年一二月六日
飯田隆
後記二〇二五年
2 非真理条件的意味についての理論
(略)
こうして、たとえば、つぎのような仮説を立てることが許されよう。「これ」、「それ」、「あれ」の三つの名詞句はどれも、同一の意味性格(character)──それが使われたコンテキストで直示された対象を指示する──をもつが、互いに異なる慣習的含みをもつ、と。より一般に、「こそあ」系列の指示表現は、同一の意味性格をもつゆえに、真理条件的意味にちがいはないが、たがいに異なる慣習的含みをもつという仮説である。
たとえば、「これ」の意味特性char(「これ」)を、コンテキストCから、Cにおける話者によって直示された対象dへの関数だとしよう(char(「これ」)(C)=d)。そうすると、「これ」には、いま与えた真理条件的意味に加えて、つぎのような慣習的含みが伴う。
(21)char(「これ」)(C)は、Cにおける話者の領域に属する。
もちろん、「話者の領域」をどう特徴づけるかは、これまで多くの議論がなされてきたし、これからもなされるだろうが、この点はいまは問わない。注目したいのは、「も」と分類辞の場合とは異なって、「これ」の慣習的含みはコンテキストに依存するということである。「男」を数えるのにどのような分類辞を用いるかは、「男」が発話されるコンテキストによって変わるわけではないのに対して、「これ」を使うのが適切かどうかは、それが発話されるコンテキストによって変わる。
このように使用のコンテキストによって適切性が変わる慣習的含みをもつと考えられる表現の、もうひとつの例は、敬語である。比較的簡単な例として、丁寧体と普通体という区別を取り上げよう。つぎは、益岡・田窪『基礎日本語文法』に挙がっている例である(二一七頁、例文番号は変更した)。
(22)天候が回復した。
(23)天候が回復しました。
(22)と(23)の真理条件的意味にまったくちがいがないことは明らかだろう。では、両者のあいだのちがいはどこにあるのだろうか。ひとつの考え方は、丁寧体である(23)には、それが発話されるコンテキストCで、話し手は、聞き手を敬っているという慣習的含みが伴うが、(22)には、そうした含みは伴っていないというものだろう。
敬語と対照的なのが、さまざまな差別的表現である。こうした表現が差別的である理由は、その真理条件的意味によるのではなく、慣習的含みのような非真理条件的意味によると思われる。
非真理条件的意味を扱う理論枠組みは、慣習的含みによるものだけでない。S・プレデッリは、言語的意味を、真理条件的意味を担う意味性格(character)と、非真理条件的意味を担うバイアス(bias)の二つの要素から成ると考えることを提案している。言語表現のバイアスとは、その表現の使用がそこで適切であるためにコンテキストが満たすべき条件のことである。プレデッリも取り上げている幼児語の例がわかりやすい。「わんわん」という語は、「犬」と同じ意味性格をもち、それゆえ、真理条件的意味は同じだが、「犬」とちがって、つぎの条件を満足するコンテキストCでのみ適切に使用できるというバイアスをもっている。
(24)Cにおける聞き手はこどもである。
バイアスの概念は大きな柔軟性をもつゆえに、多くの場面で使うことができる。とくに興味深いのは、益岡・田窪『基礎日本語文法』で「感動詞」というカテゴリーにまとめられている表現(六〇〜六一頁)への適用の可能性である。「もしもし」とか「さようなら」といった表現の意味──非真理条件的意味──を形式化できたらすばらしいだろう。
しかし、バイアスの概念だけでは、非真理条件的意味の分析に十分ではないと考える理由がある。分類辞の場合を思い出せばよい。言語表現のバイアスとは、その使用が適切であるようなコンテキストを画定するものである。ここで言う「コンテキスト」とは、その表現がどんな言語的脈略におかれているかではない。その表現の発話の状況における、話し手、聞き手、時、場所といった要素、ならびに、その要素のあいだの関係がコンテキストを構成する。そうすると、「人」という分類辞と「冊」という分類辞に関して、その発話が適切であるようなコンテキストのちがいはない。ということは、「人」と「冊」のあいだにバイアスのちがいはないことになる。バイアスが非真理条件的意味のすべてであるならば、これは、「人」と「冊」のあいだに非真理条件的意味のちがいもないことになる。これは容認できない帰結である。
非真理条件的意味の満足の行く理論的枠組みへの探索は、まだ始まったばかりである。慣習的含みやバイアスといった概念は、それ単独で非真理条件的意味の全体をカバーできないとしても、果たすべき役割をもつということは、ありそうなことである。
ごく簡単に見てきたように、非真理条件的意味についての理論的考察にとって、日本語は、豊富な材料を提供する。また、日本語研究のなかでこれまで蓄積されてきた成果にも、大きな利用価値がある。ただ、逆に言って、真理条件的意味にかかわるコアの部分は、非真理条件的意味の外被のせいで見えにくいというきらいがある。日本語研究者(それだけとは限らないが)のあいだでの、真理条件意味論への関心の低さは、真理条件的でない意味にかかわる現象の方が、ずっと多彩であり、日本語の日本語らしさをよく表すからではないかと、私はときに考える。
(以下本文つづく)