あとがきたちよみ
『レヴィナスのユダヤ性』

About the Author: 勁草書房編集部

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Published On: 2025/3/5

 
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渡名喜庸哲 著
『レヴィナスのユダヤ性 』

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はじめに
 
 後年のインタビューで「あなたはユダヤ人思想家(penseur juif)ですか」と尋ねられたレヴィナスは、いささか苛立って、自分は「哲学をするユダヤ人(un Juif qui philosophe)」ではあるけども、「ユダヤ人哲学者(philosophe juif)」ではないと答えたという[cf. Banon 2022, 547]。「哲学」とは、「ギリシア」に端を発するとはいえ、地域的、民族的ないし時代的な個別性よりも、普遍性や合理性を旨とする知的営為だとするならば、それに「ユダヤ的」という形容をつけるのはそもそも矛盾する。哲学者本人が「ユダヤ人」ないし「ユダヤ教徒」だとしても、そのことでその人の「哲学」が「ユダヤ的」になるわけではない……レヴィナスはそう言いたかったのだろうか。
 筆者は、前著『レヴィナスの企て』において、レヴィナスのある対話の言葉に導かれつつ[ポワリエ131/一四七]、レヴィナスの哲学を「ユダヤ教の伝統とまったく無縁の人間」でも「ちゃんと読むことができる」もの、言い換えれば、ユダヤ教に関する知識があればいっそう納得しやすいかもしれないが、なくとも理解できるもの、あくまで「客観的に伝達可能な理解可能性」を有した哲学として解釈する道筋を示した[渡名喜 二〇二一、四]。その作業自体は必要なものであったと考えているが、ただし、レヴィナスの知的営みを全体として見渡したときに、そのような読みが片面的にならざるをえないことは否定できない。レヴィナスの哲学をユダヤ教に還元することは困難であるばかりか問題含みであろうが、他方で、ユダヤ教の問題を哲学者本人の単なる個人的な属性の一つにとどまるかのようにしてその哲学から切り離そうとする態度も同様に問題含みだろう。
 実際、第二次世界大戦後、とりわけ『全体性と無限』公刊までのレヴィナスの活動は、哲学者のそれというよりも、東方イスラエリット師範学校というユダヤ人教員養成機関の校長のそれであって、またその立場から戦後フランスでのユダヤ思想の再興の中心的な役を演じていた。その間、この学校を傘下に収める世界イスラエリット連盟が公刊していた機関誌『世界イスラエリット連盟手帖』をはじめ、フランスのユダヤ人共同体を主な読者とする媒体において、ユダヤ教の思想の意義や現代におけるユダヤ人の状況等をめぐる論考をいくつも発表している。これらの論考は、その哲学的主著と言える『全体性と無限』の形成とまさしく同時期に書かれ、主だったものは、同書公刊の二年後の一九六三年に「ユダヤ教についての試論」という副題をもつ『困難な自由』にまとめられる。さらに、『全体性と無限』の完成と前後して、「仏語圏ユダヤ人知識人会議」と呼ばれる組織で毎年のようにタルムードに関する講演を行なうことになる。その記録が「タルムード講話」と呼ばれる一連のテクスト群である。こうした、やはり「ユダヤ人思想家」と言いたくなる姿が、「哲学者」レヴィナスのもう一つの―あるいはある時期までは第一の―顔であったことは看過しえない事実である。
 他方で、レヴィナスにおいて「哲学」への志は確固たるものであったこと、つまり、「ユダヤ人」であろうとなかろうと理解可能な哲学を構築せんとしていたことも依然として確かである。この点では、よく指摘されるように、レヴィナス自身が、自らの著作の公刊先として、哲学的な著作とユダヤ教に関する著作とで意図的に出版社を使い分けているという事実はやはり重要だろう。後年の対話では、自身の「哲学的なテクストと告白的なテクストのあいだ」には「明白な区別」があったこと、「別々の解釈方法、分かたれた言語」のあいだに「分割線を引くこと」が「必要」であったと明言している[Levinas 1986, 18 ]。実際、表面上は、『全体性と無限』までの著作では、これら二つのテクスト群は独立を保っており、互いを架橋するような考察はほとんど見られない。これに対し『存在の彼方へ』などの後期の著作では、「我ここに」などの聖書やタルムードに由来する考えを哲学的な概念を導出するために援用するという身振りが現れてくる。二つのテクスト群の区分けと、その推移をどのように理解したらよいだろう。
 もちろん、こうした区分けがどこまで徹底したものだったか、あるいはそもそも可能だったかについては、議論の余地があるだろう。厳密に区別されたかに見える二つの次元に、さまざまな共通するテーマを指摘することもできる(われわれも、以下で二つの次元を跨ぐいくつかの論点―それがほかならぬ「顔」と「倫理」である―について指摘したい)。ここからさらに、ユダヤ性を脱ぎ去ったかに見える「哲学的」テクストの諸々の鍵概念に「ヘブライの源泉」を読み取ることもできるかもしれない[Trigano 1998 ; Chalier 2002]。あるいは逆に、リオタールのように、レヴィナスの「倫理」を高く評価しつつ、それと聖書をはじめとする宗教的な参照から切り離そうとする見方は、むしろ今日も大勢を占めるかもしれない[Lyotard 2015 ; 渡名喜 二〇二四a、第一章]。
 そもそも、一人の哲学者が著者として自らの名を署名したテクスト群に「分割線を引く」ことは可能なのか。すぐさまこう問うたのはジャック・デリダだった。デリダは重要なレヴィナス論「暴力と形而上学」の末尾で「われわれはユダヤ人か、ギリシア人か」という問いを発し、そもそも「ユダヤ」的なテクストと「ギリシア」的なテクストとを分けること自体が可能かと突きつける。その角度から、あえて二つの次元を区別しようするレヴィナスの試みに「偽装」を見ることすらためらわない[Derrida 1967, 133/一八七]。レヴィナスが、『全体性と無限』以降、自らの哲学的著作でユダヤ教の思想への言及をまさしく明け透けに示すようになるのは、こうしたデリダの批判を意識してのものかもしれない[渡名喜 二〇二四a、第二章]。
 ただし、「偽装」を指摘するまえに、レヴィナスにおける「ユダヤ」と「哲学」のそれぞれがどのような「装い」をしようとしていたのか、それぞれの「装い」がどの時期に、どのような文脈に対応して練り上げられたのかをまず確認する必要があるのではないか。仮に『全体性と無限』以降にいわゆる「転回」があったとしても、それをよりよく説明したり理解したりするためには、レヴィナスの「ユダヤ」的なテクストがどのような企図のもとで書かれ、そこではどのような「ユダヤ性」のようなものが浮かび上がってくるのかを検討する必要があるのではないか。
 フィリップ・ネモとの対談『倫理と無限』において、「あなたのなかで、聖書的なものと哲学的なものという二つの思考様式はどのように合致していたのでしょうか」と尋ねられたレヴィナスは、次のように答えている。それらは合致すべきものでしょうか。〔…〕私はそれら二つの伝統を「合致」させたり「調和」させたりしようと明白に試みたことはありません。もし合致することがあったとすれば、それはおそらくあらゆる哲学的思想が前哲学的経験に立脚しており、私のなかでは聖書の読解がこうした根源的な経験に属するものだったからでしょう。[EI 13f/一八―二〇]
 ここで「聖書的なもの」と言われているものと「哲学的なもの」という、レヴィナスが身を置くこの二つの「伝統」は、「合致」でも「調和」でもないならば、どのような仕方で関わりあうのか。レヴィナスの「哲学的思想」が立脚しているとされる「前哲学的」で「根源的な経験」とはいかなるものだったか。本書は、とりわけレヴィナスの「ユダヤ性」に注目することで、この「ユダヤ」という語に結びつけられる「経験」がいかなるものだったのかを明らかにすることを目指す。それがその「哲学的思想」とどのように関連するかについては、本書でも適宜触れることにするが、この関連を包括的に論じるのには、さらなる検討が必要になるだろう。
 レヴィナスの「ユダヤ性」というテーマに関してこれまで研究の蓄積がなかったわけではない。日本ではいくつかの例外を除いてほとんどまとまった研究はないが、少なくとも仏語圏・英語圏では多くの研究が出されている。ただし、それらは多くの場合、個別の主題を設定するものであった。具体的には、ユダヤ思想史の文脈にレヴィナスを位置づけるもの、またそのタルムード読解の意義を検討するものについては多くの研究がある。そのほか、ユダヤ思想史に限定されない思想史、あるいはさらに社会思想史的な観点からレヴィナスの知的営みを位置づける試みもある。だが、レヴィナスの思想の形成全体のなかでその「ユダヤ性」の位置あるいはその変容を包括的に検討する試みは、管見の及ぶかぎり国際的にもほとんど見られない。本書は、従来の研究の成果の上で、レヴィナスの「ユダヤ的」とされるテクスト群の解読をとおして「哲学をするユダヤ人」たるレヴィナスの「ユダヤ性」の全体像を浮き彫りにすることを目指す。このことを通じて、フランスをはじめとするヨーロッパにおけるユダヤ人の波乱に満ちた知的営みを理解するうえでも、また、現在なおも続く「イスラエル」問題を巨視的に理解するうえでも、前提となる基本的な理解枠組みが提示できればと考える。
 第Ⅰ部では、レヴィナスがリトアニアからフランスに渡り、哲学的にも生活の面でも自身の立場を固めることができるようになった一九四〇年代までを追う。とりわけレヴィナスが戦後―あるいは「アウシュヴィッツの後」―のかなりの時期自らの本職としていた教育職がいかなるものであったのか、彼が校長を務めていた東方イスラエリット師範学校およびその母体であった世界イスラエリット連盟がいかなる組織であったのかを確認し、そこからレヴィナスが「ユダヤ教育」に託した基軸的な考え方として「特殊主義的普遍主義」なるものがあったことを示す。
 第Ⅱ部では、主に一九六〇年代初頭までのレヴィナスのユダヤ教に関するテキストが収められた『困難な自由』を分析対象とする。同書は、戦後から六〇年代初期までの―つまりおおよそ第一の哲学的主著というべき『全体性と無限』執筆と同じ時期の―レヴィナスのユダヤ論考の第一の主著と呼ぶべきものだろう。ただし、同書について包括的に取り上げた研究は意外なことにさほど多くない。第Ⅱ部では、同書の全体に目を配りつつ、次の三点をとりわけ取り上げる。
 第一に注目したいのは、一冊の本としてまとめられた同書が、その内部で見せる転調であり、ゆらぎである。同書の冒頭には、ユダヤ思想の見地から「顔」の「倫理」を提示した論考がいくつか収められている。だが、同書を仔細に見ていくと、この「顔」の「倫理」の思想は、レヴィナスの倫理思想として知られるそれと同一視しえない性格をもつことが明らかになる。レヴィナスの倫理思想が「あらゆる受動性よりも受動的」な主体によって担われる「責任」を提示するとすれば、この時期のユダヤ思想的な「顔」の「倫理」は、それとは逆に、能動的な責任主体を要請する構造になっているのだ。ここには、戦後―とりわけ「アウシュヴィッツの後」―に、イスラエルではなくヨーロッパにとどまる「ディアスポラ」のユダヤ人に向けられた、「悲壮さを超えて」(同書第Ⅰ部のタイトル)をモットーとするようなメッセージがあるようにも思われる。
 第二に、『困難な自由』のこうしたメッセージは、一九五〇年代前半に書かれた同書前半の論考では色濃く見られるものの、頁が進むにつれて際立った変化を見せる。すなわち、「ユダヤ的意識」の復興に向けたメッセージは、当初はキリスト教の戦争責任を断罪するようなトーンを伴っていたのだが、徐々にそのトーンは和らぎを見せ、むしろキリスト教的な思想への「開かれ」を見せるようになる。本書第Ⅱ部第二章で、レヴィナスのシモーヌ・ヴェイユ論を足がかりにこうした変容をたどった後、第三章においてレヴィナスがどのようにキリスト教的な思想に接近していくかを確認する。
 第三に、『困難な自由』のとりわけ後半に散見される「イスラエル」がレヴィナスの思想のなかでどのような位置を占めていたのかを明らかにする必要があろう。しばしばレヴィナスに「シオニスト」という呼称が結びつけられることがあるが、そうした呼称はむしろ二〇世紀のユダヤ人思想家たちがそれぞれの仕方でもっていた「イスラエル」に対する複雑な態度を平板化して理解することにつながりかねないように思われる。『困難な自由』および同時期のレヴィナスの「イスラエル」に関するテクストを読解することによって、レヴィナスにおける「イスラエル」の多面性が明らかになるだろう。
 第Ⅲ部は、『困難な自由』以降のレヴィナスにおける「ユダヤ的なもの」の位置づけを主題とする。この観点で第一に取り上げるべきは、「タルムード講話」として知られることになるレヴィナスの実践だろう。「タルムード講話」は、哲学者レヴィナスのもう一つの顔として、戦後フランスにおけるユダヤ思想再興の一翼を担うユダヤ人思想家の姿が現れた場だったと言っても過言ではあるまい。これは、一九五七年に設立された仏語圏ユダヤ人知識人会議という学会型の組織で毎年定例的に発表されることになるものだ。ここではまずこの仏語圏ユダヤ人知識人会議がいかなるものだったかを確認した後、レヴィナスのタルムード講話全体の特徴を概観する。
 ただし、同時期のレヴィナスの実践を相対的に捉えるためには、このタルムード講話にのみ注目するのでは不十分だろう。第Ⅲ部で指摘するように、レヴィナスはタルムード読解を通じて「聖書的なもの」の源泉への遡求を深めるのと並行して、キリスト教思想への接近もいっそう試みるようになるからだ。実際、フランスのカトリック知識人の会議である「カトリック知識人週間」に六八年に招かれたレヴィナスは「神人?」と題された講演を行ない、イエス・キリストの「神人」概念における「神の謙遜」概念に着目し、それを自らの「身代わり」概念へと結びつけることも辞さない。さらに、六九年からはイタリアの哲学者エンリコ・カステッリが主催するシンポジウムに参加するようになる。そこで発表された思想は、『聖句の彼方』等の著作においてタルムード講話と並んで公刊されることになる。こうした著作の内部に潜む緊張関係がいかなるものだったかを明らかにする必要があるだろう。
 こうした緊張関係を理解する糸口は、『諸国民の時に』に収められた「ユダヤ教「と」キリスト教」のタイトルに強調されるように、「と」という結びつきそのものにレヴィナスが払う関心にあるだろう。ユダヤ教「と」キリスト教、あるいは聖書「と」ギリシア人といったかたちで、ユダヤ的なものがその他者たちともちうる「共生」のかたちに最終的な関心が向けられると思われるのだ。そして、ここにこそレヴィナスのユダヤ教思想のきわめて中心的な主張が宿っていると思われる。このことは、こうした「共生」の思想こそ、レヴィナスに寄せられた数々の批判の焦点になっていることからも示されるだろう。それゆえ、第Ⅳ部ではまず、レヴィナスがユダヤ教思想に基づく共生観を示したテクスト「ライシテとイスラエルの思想」を確認したい。その後、レヴィナス的な「共生」をめぐって、ベニー・レヴィらポスト・レヴィナシアンと呼びうるフランスのユダヤ人知識人たち、ジュディス・バトラー、ジャック・デリダらがそれぞれ行なう批判を検討したい。
 以上の考察によって、最初期から、『困難な自由』を経て、タルムード講話にいたるまで展開されるレヴィナスの「ユダヤ性」のかたちがいかなるものであったのかが明らかになると同時に、その哲学的思想との関係を考えるための視座が得られるだろう。
(注は割愛しました)
 
 
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