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エリザベス・ロイド 著/網谷祐一 訳
『哲学者、女性のオーガズムの進化にいどむ 進化学にひそむバイアスの物語』
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第一章 はじめに─なぜ女性のオーガズムの進化を語るのか
これは女性のオーガズムの進化についての本だ。性科学者から素人に至るまで、誰にとっても女性のオーガズムは驚異の源である。進化学者も例外ではない。たくさんの進化的説明がヒト女性のオーガズムという形質に与えられてきた。本書では今ある二一個の説明すべてを吟味する。わたしはそこで、女性のオーガズムについての進化論的説明のほとんどは、証拠の扱いあるいは説明の組み立て方において致命的な欠陥があると論じる。この結論に至る際に、これまで提起されてきたさまざまな進化的説明に対して有利・不利な証拠を吟味することになる。
この本は進化的説明に潜むバイアス〔先入見〕についての本でもある。少なくとも二つの主なバイアスが女性オーガズムの進化的説明に悪影響を与えてきた。一つは、女性のオーガズムがヒトにおいて現在の形に進化したのは、オーガズムが何らかの形で女性の繁殖成功に寄与したからだ、と仮定するバイアスである。女性のオーガズムに進化的機能があることは自明に見えるかもしれないが、この結論が本当に自明かは関連する証拠を見た後に再考しなくてはならない。明らかになったのは、女性のオーガズムには生殖力あるいは繁殖成功度を増すという機能があることを適切に示した人は誰もいなかったことである。二番目のバイアスは男性中心主義的なバイアス、つまり女性の性的活動が男性のものと似ていると仮定するバイアスである。男女の性的反応が似ているという見方については時代によって賛否が異なってきた。しかし、以下で論じるように、性交に対する女性の反応が男性とは異なっていることには圧倒的な証拠がある(Lloyd 1993)。この事実は女性のオーガズムに対する多くの進化的説明を裏切ることをわたしは示す。
女性のオーガズムの進化の詳細に関するいろいろな説に賛成・反対するさまざまな証拠を検討した後で、わたしは一つの分析を提起する。その目的はこうした科学的説明の問題点を理解することである。議論の主な対象は適応主義(形質はその特定の機能のために自然選択を受けたと仮定する)のバイアスと男性中心主義(同じ刺激に対する性的反応は男女で似ていると仮定する)のバイアスである。研究を進める中でわかったのは、既存の証拠と最もよく合致すると思われる説明が確かにあることだった。この説明は、女性のオーガズムに適応的な機能があるとも、男性中心主義的な説も仮定しない。今日我々が直面する一つの謎は、なぜ進化論者は一般にこの説明を受け入れてこなかったのかである。わたしはこの謎を本書最終章で扱う。そこでの分析が示すのは、女性のオーガズムを説明しようとする人が誰でも突き当たる問題から抜け出る道はあるのだということである。まとめると、本書は女性のオーガズムについての現在最良の進化的説明を見いだすことを試み、そしてこうした探究が過去に直面してきた問題のいくつかを診断する。
進化的説明
進化的説明を与える際の一番の課題は、生物の集団がある性質・形質をどのようにして獲得したかという歴史的説明を与えることである。進化的説明のうち最も重要なものは、適応的説明という、問題となる形質が自然選択の直接的な作用に由来すると仮定される説明である。そのような説明では当の形質がそれ自身「適応」と呼ばれる。この説明が行うのは、環境と生物の過去の歴史についての記述を与えて、その形質をもっていることがいかにしてその所有者たる生物、あるいはその親戚の繁殖成功に寄与したのかを明らかにすることである(本書を通じてわたしは「包括適応度」ではなく「繁殖成功」の語を用いる)。
南米のオオアリクイ(Myrmecophaga tridactyla)を取り上げよう。この動物は哺乳類の中のアリクイ目(もく)に属す。この目はアリクイの他にアルマジロやナマケモノを含む。これらはすべてアルマジロから鎧を抜いたものによく似た動物から由来する。アリクイはそれ以降自身の生き残りと生殖を助ける特殊な形質(つまり適応)を進化させてきた。アリを食べるという生活様式のための特殊な適応には、頭部と喉部の構造の分化が含まれる。オオアリクイの舌は六〇センチにも及び、巣からアリを食べるときに突きだした舌は頭全体と同じ長さまで伸びることがある。この長い舌とともに、このアリクイは分化した巨大な唾液腺をもち、ねばねばした唾液で舌を覆い、アリを捕まえる。他の適応には首にある分化した舌骨と舌の結合があり、長い舌を導き延ばすのに役立つ。加えて、アリクイの細長い顔には、アリの巣に差し込むのに適した長い鼻がある。こうした形質は、それぞれ自然選択によって長い時間をかけて形作られてきた。より分化した顎とより長い舌をもった動物個体は、そうでない個体よりも生き残って生殖する可能性が高かった。進化的時間にわたってこの選択の過程を繰り返すことで、アルマジロのような先祖から現在の高度に適応したオオアリクイが進化したのだ(オオアリクイとアリクイ目の詳細についてはMoeller 1975 ; Naples 1999 ; Rose 2001 を参照)。
適応
メアリー・ジェーン・ウェスト゠エバーハードが書いたように、「ある形質を特定の課題に対する『適応』と考えるのが正しいのは、それがその課題をより効果的に果たすように特定の道筋で進化してきた(進化の歴史の中で変化してきた)こと、そしてその結果として生じる適応度の向上によってその変化が生じてきたことを示す証拠があるときに限る」(West-Eberhard 1992, p. 13. 第六章では適応について対照的な見方を示す)。言い換えると、適応とは適応度を増す特定の役割を果たすように進化した形質であり、またそのことによって広まった形質である。しかしある形質が適応であることを示すのは簡単ではない。(以下、本文つづく)
訳者あとがき
本書は Lloyd, E.A., The Case of the Female Orgasm : Bias in the Science of Evolution, Harvard University Press, 2005 の全訳である。
著者のエリザベス・ロイドは、米インディアナ大学科学医学史科学医学哲学名誉特別教授。専門は科学哲学全般だが、特に生物学(進化論)の哲学に詳しく、著書 The Structure and Confirmation of Evolutionary Theory(「進化理論の構造と確証」、プリンストン大学出版局)は生物学の哲学の基本書の一つである。またフェミニスト科学哲学にも造詣が深く、一九九〇年代に盛り上がった「サイエンス・ウォーズ」では、そのきっかけとなった『高次の迷信』の共著者ポール・グロースからの批判を受けたりもしている。
本書の概要と反響
本書は、一言で言うと、ヒト女性のオーガズムの進化、およびそれについての進化学者の論説を哲学的に分析する本である。ヒト女性のオーガズムはさまざまな分野の科学者を魅了してきたが、特に進化学者はそれがどのように進化してきたかについて、さまざまな説を提唱してきた。そうした説のほとんどは、オーガズムが何らかの仕方で女性の生き残りと繁殖に役立った=進化的適応であることを仮定する(第三章・第四章、第六章〜第八章)。
例えば〈ペアの絆〉説では、女性がオーガズムを感じることで男女の絆が深まり、それが女性の生き残り・繁殖に役立ったと考える(第三章)。また精子競争説ではオーガズムによって精子が受精しやすくなるとされ、それをもとに女性は遺伝的質が高い男性と性交したときにオーガズムを得る可能性が高くなる=遺伝的質の高い男性の子を得やすくなる、と主張する論者もいる(第四章、第七章)。
しかしロイドは本書でそうした説を丹念に吟味して、その多くが性科学の成果(第二章)を適切に参照せず、さらに無意識のバイアス・思い込み─例えば男性の性行動をひな形にして女性の行動を理解するバイアス、オーガズムのような複雑な形質は自然選択の産物に違いないという思い込み─に基づいていることを明らかにする(第八章)。
そのうえでロイドは、「女性のオーガズムは適応ではなくて、男性のオーガズムの副産物である」という副産物説を取り上げ、これが現時点で最も説得力があると論じる(第五章)。本書はその意味で、女性のオーガズムという興味深い生物学的・性科学的現象を哲学者の目で真正面から取り上げつつ、それを研究する科学者が知らず知らずのうちにもっていたバイアスを明らかにする。
本書は原著出版当時、学術界および一般社会で広く話題になった。『ネイチャー』『ヒパティア』『クォータリー・レビュー・オブ・バイオロジー』などの幅広い分野の一流学術誌で書評が掲載されただけでなく、『ニューヨーク・タイムズ』『ボストン・グローブ』『ガーディアン』『グローブ・アンド・メール』などの国際的一流紙でも記事が掲載された。それにとどまらず、「ザ・ビュー」(米ABCテレビのトークショー)や「サタデー・ナイト・ライブ」(米NBCテレビのコメディ番組)などの人気テレビ番組でも取り上げられた。
翻訳までの経緯
ではなぜわたしが本書を翻訳しようと思ったのか。わたしがこの本の原著を読んだのは、手元の記録だと二〇一七年頃である。このトピックについてのロイドの研究論文を生物学の哲学の有名なアンソロジーで読み、その流れで本書を手に取ったのだった。
一読、強い感銘を受けた。それは、本書を読む前はわたし自身、女性のオーガズムの進化に対して適応主義的な考えをもっていたからだ。拙著『理性の起源』(河出書房新社)で進化心理学者のストリップクラブの研究(ダンサーが月経周期のどの期間にあるかに応じて男性からのチップの金額が変わる)を紹介したように、わたしは男女の交配にはさまざまな点で進化的な力がかかっている可能性を受け入れていた。それゆえ、女性のオーガズムのような顕著な形質は自然選択が働いて当然だろうと(漠然とだが)考えていた。それを本書は豊富な証拠で覆していったのだから、爽快な読書体験になった。
その後本書の内容を交えた研究発表をしたり、本書がその潮流の一部をなすフェミニスト科学哲学に興味をもちながら、「本書がどこかで翻訳されればよいのに」と、これまた漠然と思っていた。しかしあるとき、「もしこの本が邦訳されるならば、わたしは訳者として世界で二番目に適した人間ではないか」と思い当たった。冒頭で書いたように、著者は本書で進化生物学・性科学・科学哲学を架橋した議論をしている。しかし、理系の研究者で科学哲学に通暁している人は少ないし、また純粋に哲学だけをやってきているだけでは理系の研究の扱い方もわからないだろう。ならばこうした本の翻訳にはわたしのような経歴の者がふさわしいのではないか。そうした意気込みで訳書の企画を勁草書房の編集者である鈴木クニエさんに持ち込んだのだった。
原著出版後の研究動向
本書を完読された方ならおわかりのように、著者は原著出版時点(二〇〇五年)までの女性のオーガズムについての主な進化研究をほとんどすべて取り上げて検討している。だが今は二〇二五年である。原著出版から二〇年経ち、読者の中にはそれ以降の研究動向が気になる人もいるだろう。そのため訳者の目から見た原著出版後の研究動向を簡単に紹介する。なお訳者は副産物説にやや肩入れしているので以下の紹介にも偏りがあるかもしれないこと、また紙幅の関係で言及できない重要な研究が多くあることを断っておく。
■パヴリチェフとワグナーの論文
このトピックに関する近年の大きな進展の一つは、パヴリチェフとワグナーの論文である(Pavličev & Wagner 2016)。本文で見たようにヒト女性のオーガズムについての副産物説では、クリトリスとペニスが同じ発生的起源をもつ(つまり相同である)ことを強調し、それらへの刺激から生じるオーガズムも同様に男女で相同だとする。
これに対してパヴリチェフとワグナーは、メスのオーガズムに関連する形質の分布を系統樹上で互いに比較することで、霊長類以前にメスのオーガズムがどういう形質と相同だったかを探究する。具体的には、排卵形式のあり方・クリトリスの解剖学的位置などに関してどの動物がどの形質をもっているかを調査し、それらを既存の系統樹上で重ね合わせた。この比較から二人は、霊長類以前では、メスのオーガズムを構成する反射は排卵を誘発するという機能をもっていたと結論する。詳しく言うと、霊長類とその姉妹群の共通祖先では、オスとの交尾からの刺激によってメス性器でオーガズム状の反射が生じ、排卵が誘発されていたというのである(「交尾排卵」と呼ばれる)。ところがヒトを含む霊長類では排卵にそうした外的な刺激は必要なく、自発的に排卵が生じる(「自然排卵」)。また両者によれば、オキシトシンやプロラクチンといったホルモン分泌においてヒト女性のオーガズムと交尾排卵は類似しており、この点でもこの結論が支持されるという。
パヴリチェフとワグナーが指摘するように、この説の対象は霊長類以前におけるメスのオーガズムの起源であって、ヒト女性のオーガズムの進化ではない。それでも私見によれば、この説は副産物説の信憑性に影響を及ぼす。一つは、この説が正しいなら、ヒト女性のオーガズムは男性のオーガズムの単なる相同物ではなく、独自の進化的由来をもつことである。その意味で副産物説による女性のオーガズムの説明は完全ではないことになる。
しかしこの説は副産物説を擁護するのにも使える。副産物説に挙げられる批判の一つには「女性のオーガズムには選択圧がかかっていないのに、(第二章で記されたような)複雑な表現型をもつのはなぜか」という問いがある(例えば Puts & Dawood 2006)。ところがパヴリチェフとワグナーが正しいなら、メスのオーガズムは以前は複雑な特徴を備えていたわけで、それが右の相同関係によって維持されている可能性が出てくるのである。
■副産物説の進展
パヴリチェフとワグナーの論文についてはここまでにしよう。原著出版後ロイドは副産物説をサポートする論文をキム・ウォレンとの共著で二篇執筆した。ここでは紙幅の関係でその一つを紹介しよう(Wallen & Lloyd 2011)。
この論文でウォレンとロイドは、女性のクリトリスと尿道口の間の距離とオーガズム率の相関を検討する。具体的には二人は、一九二〇年代・四〇年代に出版された二つの論文にある未解析データを、現代の統計手法で再解析する。この距離はクリトリス・膣間の距離の代替指標だが(膣との距離を直接測るのは開口部の同じ部分を安定的に測るのが難しいと言う)、もしこの距離とオーガズム率の間に「距離が短い方がオーガズム率が高い」という相関があれば、この解剖学的特徴が女性のオーガズム率の主要な要因だということになる。結果は相関が認められた。
一方で副産物説に不利なデータもある。ジーチとサンティラの研究では、一万人を超えるフィンランド人の双子・きょうだいにアンケートしたデータを用いて、クリトリスとペニスの性的敏感性に男女で共通の遺伝的基盤があるかを調べた(Zietsch & Santtila 2011)。本文で見たように、副産物説ではクリトリスとペニスが相同であることを強調し、女性でクリトリスが維持されているのは、主に男性においてペニスが強力な自然選択を受けていることによると主張する。すると、男女の相同形質の間には性的敏感性において共通の遺伝的基盤があるだろうという予測が成り立つ。ジーチとサンティラは性的敏感性の指標として、女性では性交時のオーガズム率、男性では射精までの時間を用いた。結果は、双子によるデータでは二つの指標の背後にそれぞれ遺伝的基盤があることが示唆されたが、同時にこの二つの指標は男女きょうだい間では相関が乏しかったことも明らかになった。これは、男女きょうだいにおいて、女性のオーガズム率と男性の射精までの時間の間には共通の遺伝的な基盤がないように見えるということである。(以下、本文つづく)






