あとがきたちよみ
『自由の弁証法』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/1/16

 
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マキシン・グリーン 著
木村浩則・鈴木大裕 訳
『自由の弁証法』

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訳者はしがき
 
木村浩則
 
 本書は、Maxine Greene, The Dialectic of Freedom(Teachers College Press, 1988)の全訳である。
 著者マキシン・グリーン(1917-2014)は、ユダヤ系アメリカ人として一九一七年にニューヨークで生まれた。一九三八年にバーナード・カレッジを卒業後、約一〇年間の仕事と子育てのブランクを経て、ニューヨーク大学で修士号を取得。以後、モントクレア州立大学、ニューヨーク大学、ニューヨーク市立大学ブルックリン校などで教育哲学の分野において研鑽を積み、一九六五年にコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジへ赴任した。一九七五年からはウィリアム・F・ラッセル講座を担当し、教育の哲学・歴史・社会思想・美学教育・文学に至るまで、学際的な領域にわたり数々の業績を残している。
 教育哲学会、アメリカ教育学会、教育研究学会の会長を歴任し、一九七六年にはリンカーンセンター芸術教育研究所の「フィロソファー・イン・レジデンス」に就任。アーティストとの協働を通じて、子どもの教育および教師教育の現場で実践的活動を展開した。二〇〇三年には「社会的イマジネーションとアート教育のためのマキシン・グリーン基金」を創設し、アート教育の社会的普及と発展に尽力した。二〇一三年には「マキシン・グリーン研究所」が発足し、彼女の没後もなお、グリーンの思想ならびに美的教育の理論と実践に関心を持つ世界中の教育者や研究者の交流の場となっている。
 彼女の主たる関心領域は、芸術、美的教育、文学、社会思想、フェミニズムなど多岐にわたる。これらの分野において一〇〇本以上の論説・論文を執筆し、コレクションやアンソロジーにおいても四〇本以上の論文を発表している。
 主な著作には、『公立学校と私的ビジョン』(一九六五年)、『教師の実存的出会い』(一九六七年)、『異邦人としての教師』(一九七四年、エデュケーショナル・ブック・オブ・ザ・イヤー受賞)、『学習の風景』(一九七八年)、『自由の弁証法』(一九八八年)、『想像力をときはなつ』(一九九五年)、『青いギターの変奏曲』(二〇〇一年)などがある。
 これほどまでに豊かな経歴と実績を有し、「傑出した現代アメリカの教育哲学者」「あらゆる世代に書かれ、教えられ、講義される最も重要な人物の一人」と高く評価されるグリーンであるが、日本において彼女の単著が翻訳出版されたことはこれまでなかった。ようやく二〇二五年二月、勁草書房より本邦初訳として『想像力をときはなつ』が刊行され、本書はそれに続く第二弾となる。訳書がこうして続けて刊行されることによって、グリーンの思想と実践が国内において広く認知され、関連領域の研究者たちの新たな関心を喚起する契機となることが期待される。
 私が本書の原著と出会ったのは、今から約二〇年前のことである。当時、熊本大学に勤務していた私は、ハンナ・アーレントの思想に魅了され、教育学的な観点からその受容可能性について模索していた。その過程で、教育哲学者としてアーレントの思想を深く理解し独自の議論を展開していたグリーンの存在を知るに至った。また私は、学校現場を変革するためのアート教育の可能性にも関心を寄せていたが、グリーンはこの領域においても理論と実践の両面で優れた業績を残しており、それを知ってから、彼女への関心はいっそう高まっていった。
 とはいえ、当時は彼女の著書の日本語訳や解説書が一冊もなく、偶然手にすることができたのが本書『自由の弁証法』の原著であった。二〇〇七年、東京大学大学院への内地留学の機会を得た私は、すぐさま翻訳に取り掛かったが、その作業は予想を遥かに超える困難を伴うものであった。要因は私の語学力の問題だけではない。本書でグリーンが引用する文献の量と範囲は、通常の教育学研究の枠を大きく超えていた。とくにアメリカ史やアメリカ文学に関しては知見が乏しかったため、彼女が参照した多数の文学作品の日本語訳にも目を通す必要があった。
 おそらく、これまでグリーンの著書が日本語訳として出版されなかった理由の一つには、彼女が膨大な文学作品や芸術作品を自在に引用し、それらを縦横に駆使して深い議論を展開している点があると思われる。翻訳作業は私にとって大きな挑戦であり、半年間の留学期間と東京大学図書館および都立図書館の豊富な蔵書の助けがなければ、完成は到底不可能であっただろう。そして何よりも、ラディカルで批判精神に満ち、情熱と希望にあふれるグリーンの一語一語が、私の無謀な挑戦を支え、励まし続けてくれたのである。
 次に、本書の内容について簡単に紹介しておきたい。かつてアドルノは『啓蒙の弁証法』において、理性が人間を旧来の束縛から解放すると同時に、新たな画一化と抑圧をもたらしたと論じた。グリーンも本書において、「自由の弁証法」、すなわち自由社会の典型とされるアメリカにおいて最も鋭く現れた自由のアポリア(逆説)を明らかにしようとしている。
 彼女は、アメリカ社会における自由の問題を、主に文学作品に依拠しながら思想史的に振り返り、人間の解放と社会の民主化を志向する立場から、現代社会における自由概念の再定義を行い、それを教育の課題として位置づけようとしている。本書においてグリーンは、文学、哲学、歴史学、教育学などの諸領域を横断しながら、アメリカ社会とその教育における自由、可能性、イマジネーションの相互関係を検討している。
 そして、「自由社会」とみなされてきたアメリカの中で、女性、移民、マイノリティといった視点から、自由の探求の過程、それに伴う対立や葛藤について論じる。また、アメリカ建国以来の歴史を振り返りながら、権利を持たなかった人々がいかにして力を取り戻していったか、彼ら/彼女らがどのように自由を理解し、行使し、あるいは失ってきたかを明らかにしようとしている。
 グリーンが本書で特に強調するのは、教育におけるアートの役割である。アートの経験は人間の想像力を解き放ち、若者を「可能性のビジョン」へと導くのである。そしてグリーンは、教師と学生の双方が主体性を持ち、限界を乗り越え、自由の探求に向かって歩むような教育と学びの在り方を提示する。彼女によれば、それは孤立の中で行われるのではなく、他者との相互交流の中で、私的空間ではなく公共的空間において実現されるべきものである。
 グリーンは序論において、本書が想定する読者について次のように述べている。「本書は、不完全で、不満を抱き、汲み尽くされない精神の可能性をもって、困難と抵抗に満ちた世界のなかで自由の実現への希望を胸に教育にたずさわっている読者を求めています。私が望むのは、テクノロジーに溢れた社会で必要とされるであろう教育に対する人間的な枠組への関心と信念を再び目覚めさせることです。それは読者に、失われた自発性、異なるものや新しいものへの忘れられた渇望を取り戻させることです。私が望むのは、他者とともに生きることの意味、個人の自己実現ならびに生(life)と良識(decency)に捧げられた民主主義の実現のために、他者との対話において自由を達成することの意味を人々に思い出してもらうことなのです」。
 以上の言葉に示されているように、本書は直接的には教育関係者に向けられているが、その視線はさらに広く、自由社会に生きながらも、あるいは生きるがゆえに真の自由を希求するすべての人々に向けられている。そう考えると、本書は、孤独や絶望に満ちた「暗い時代」(アーレント)を生きる我々にとって、共感と希望をもたらす書であり得るのではないだろうか。
 本書は、共訳者である鈴木大裕氏との共同作業の成果である。教育学研究と社会運動の両面において、マキシン・グリーンのもとで活動を行ってきた鈴木氏には、原著の文脈とグリーンの思想を損なうことなく、一語一句丹念に訳文のチェックと修正を行っていただいた。可能な限り読みやすく、分かりやすい日本語となるよう議論を重ねた結果、出版予定が大幅に遅れることとなった。勁草書房ならびに編集担当の藤尾やしお氏には、多大なご迷惑をおかけしたことを、ここに深くお詫び申し上げる。
 同時に本書は、二〇〇七年に始まった翻訳作業の過程で出会った数多くの方々の支援と協力の賜物でもある。内地留学時代には、当時東京大学大学院に在籍していた青木美智子氏、ベンジャミン・トバクマン氏にとりわけお世話になった。熊本大学へ戻ってからは、教育学部・文学部の同僚より様々な助言を得ることができた。鶴見女子大学の岸本智典氏には、出版をあきらめかけていた私の翻訳を世に出すため、出版社への橋渡しをしていただいた。そして、勁草書房の藤尾氏には、本書刊行の意義をご理解いただき、出版に向けた数々の作業を担っていただいた。これら多くの方々の支えなしには、本書の刊行は実現しなかった。ここに記して、心より感謝の意を表するものである。
 先ほど「可能な限り読みやすいものにしたい」と記したが、その試みが実を結んだかどうかは、読者諸氏のご判断に委ねるしかない。ご高覧の上、出版社を通じてご意見やご感想をお寄せいただければ、訳者としてこれ以上の喜びはない。
 


 
訳者あとがき――マキシン・グリーンの思い出と『自由の弁証法』について
 
鈴木大裕
 
 白人男性ばかりの教育哲学界にて、「文芸的過ぎる」と批判されながらも詩や文学、芸術を自由に自分の研究に取り入れ、オーソドックスにとらわれることを嫌ったマキシン・グリーン。そんな恩師に習い、私も慣例にとらわれず、自由に綴ってみたいと思う。私自身は、彼女を研究対象としてきたわけではない。しかし、彼女の助手として、極めて近い距離でかかわってきた者として、私が見たマキシン・グリーンという人間をお伝えできたらと思う。そしてそれが、この本に綴られている彼女の言葉を理解する一助になればと思う。

出会い
 私が初めて『自由の弁証法』と出会ったのは一九九六年、ニューヨークで大学の学部生として教育学を専攻していた時だった。『民主主義と教育』というコースで読み合った本の一つだった。そこには、教育学はもちろん、詩や小説、芸術や哲学などが散りばめられていて、それまで私が読んだどの本とも異なっていた。それはまるで、彼女の哲学と人生に影響を及ぼした数々の美的体験を紡ぎ合わせた、いわば彼女のライフストーリーを読んでいるような、不思議な感覚だった。答えのない問いを立て、断言することはせず、常に自分が間違っているかもしれないという弱さを隠すことなく、彼女は一緒に考えましょうと私を会話の中に招き入れた。そして、読み終わった時には、私はマキシン・グリーンという人間と出会えたような気がしていた。
 私は大学を卒業し、そのままアメリカで修士課程を修了した後、日本で中学校の教員になった。そして、コロンビア大学大学院の博士課程に入学するために、二〇〇八年に再渡米した際、私は彼女がまだご存命であったことに驚き、しかも現役で教え続けていたことに衝撃を受けた。彼女は当時九〇歳。いつ亡くなってもおかしくないと思い、私は迷わず彼女の授業を受けた。
 『教育と美的体験』(Education and the Aesthetic Experience)と名づけられた彼女のクラスは、週一回、火曜日の夕方に彼女の家で行われた。彼女は、「グリーン博士」と呼ばれることを嫌い、生徒たちに「マキシン」とファーストネームで呼ばせた。私たち生徒は、セントラルパークの見えるリビングで、マキシンを囲んで床に座り、小説を読み合い、映画を鑑賞し、一枚の絵について語り合い、芸術、教育、哲学の交差点に社会変革の可能性を模索した。それは、色鮮やかで、豊かな時間だった。私はといえば、議論についていくので精一杯。学期を通して、発言することはほとんどなかった。
 修士課程で教育哲学を専攻した私は、卒業後の就職を考えて、博士課程ではもう少し「実践的」なものを研究しようと思っていた。だから、教育政策や教育法などの授業を数多く受けていた。そんな間にも、マキシンが授業で放った言葉の数々が、私の中でこだまし続けていた。

「最も大切な問いは、答えのない問いです。」
「哲学はするものです。」

 とうとう私は、彼女にメールを書くようになり、そうして彼女との対話が始まった。そのうち、話をしようと自宅に誘われるようになり、二〇一二年、私は助手として、彼女の授業を手伝うことになった。
 助手となり、多くの時間を彼女と過ごすようになると、彼女がなぜあのような、形式にとらわれない論文を書くのかが腑に落ちた。ある時、彼女が依頼された原稿のアウトラインを作っている場面に遭遇した。普通であれば、自分が打ち出したいポイントを書き出すだろう。一番目のポイント、二番目、三番目、最後にどう締め括るか……。しかしマキシンは、「そうね、カミューの『ペスト』でしょ、それにピカソの『ゲルニカ』、アドリエンヌ・リッチの『誠実』、ああそうね、トニー・モリソンの『青い眼が欲しい』も……」そんなふうに、語らせたい作品名を書き出すのだ。どうりで……と私は思った。
 ある日、私はマキシンにこう聞かれた。「博士論文を終えた後、あなたは何をやりたいの?」「ええ、まだはっきりとはしてないけど、学者にはなりたくないと思っています。活動家になりたいですね」、と私は正直に答えた。すると、彼女はこう応えた。「学者でも、活動家になれると思いたいわ。」唸る想いだった。確かにそうだ。それはマキシンが身をもって示している。学者である前に一人のアクティビスト(活動家)である彼女は、アメリカ社会を蝕む無関心を危惧し、何十年も前から哲学を通して人々の麻痺した意識の改革に取り組んできたではないか。
 一九七三年出版のTeacher as Stranger(日本語にしたら『よそ者としての教師』という訳が一番近いように思う)では、「哲学をすること」の重要性を次のように説いている。「哲学をすることとは、世界が自分の意識の前に姿を現す時、そこで起こる現象や出来事に対して高い意識をもつことだ。哲学をすることとは、ジャン= ポール・サルトルが言うように、根源的なプロジェクトをつくることであり、対峙する日常を超え、創られるべく現実の名の下にあたりまえの現実を拒むことだ」
 
この本が出版された時代と背景について(一九八八年初版)
 一九七三年に出版したTeacher as Strangerで、マキシンはDelta Kappa Gamma から、その年の最も優れた教育書に与えられる賞を受賞している。その後の彼女の作品で展開される数多くのアイディアの種が詰まった一冊だ。そして、一九八一年には、全米最大のアメリカ教育学会(AERA)の会長に就任。賞も知名度も手にした彼女にとって、やっと書きたいことを自由に書けるようになった頃に出版されたこの『自由の弁証法』は、彼女が長年心に秘めてきた想いの結晶だったのではないだろうか。
 本書は、一九八八年にマキシンが行ったジョン・デューイ講座がもとになっており、彼女の代表作として今も幅広い人々に読み続けられている。一九八〇年代といえば、新自由主義教育「改革」という大波が押し寄せていた時代だ。社会的弱者に優しい福祉国家の「大きな政府」は税金の無駄遣いだとする保守の価値観が広がり、様々な公共事業の規制緩和と民営化が進められた。そんな中、一九八三年にレーガン政権下で連邦教育省が発表した報告書、『危機に立つ国家』は、世界市場におけるアメリカの衰退を公教育のせいにした。それを機に、メディアを通して国を上げての学校、教員バッシングが始まった。アメリカ経済の立て直しには、大胆で抜本的な教育改革が必要だと叫ばれ、各学校が自らの生存を賭けて生徒を奪い合う「市場型」学校選択制度や教員の能力給・職階制度など、教育にも市場原理を導入する取り組みが各地で展開されるようになった。新自由主義教育改革を根底で支える「自己責任論」の蔓延で、貧困は個人の努力不足であり、人種やジェンダーは言い訳にならないと批判され、社会の構造的な不平等が覆い隠されていった。そうして公の責任は自己責任へ、権利は選択肢へ、平等と包摂は競争と排除へと置き換えられ、誰もが「勝ち組」を目指すよう仕向けられていったのだ。
 本書『自由の弁証法』が、英語以外の言語に翻訳されるのは世界初とのこと。これまで翻訳されてこなかったのは、本当に多くの文学作品が本を通して散りばめられていることも大きかったのではないだろうか。引用されているすべての原文や訳書を集めるだけでも、とてつもない労力だ。本書を最初に翻訳しようと思った木村浩則教授に、改めて敬意を表したい。
 本来、本書はもっと早く日本に紹介されるべき本であった。同時に、いまの日本にこそ求められている本でもあると思う。先述の、この本が書かれた時代背景を読み、まさに今の日本ではないか、と感じた読者も少なくないのではないだろうか。この本には、当時の社会の潮流を問いただし、あらがおうとするマキシンの姿がある。

「しかし、教育にたずさわる私たちは、過去への連続性を維持するだけでなく、来たるべきものの土台を準備することに関わらなければなりません。このことを心に留めながら、私は他の見方、すなわち世界における今とは異なるあり方を探求したいのです。私は、「改革」が叫ばれている今こそ、教育することの意味を探求したいと思います。私の中心的な関心は人間の自由であり、「当たり前」を乗り超える能力であり、物事の別のあり様を想像する能力です。」(p.3)

 なぜいま、マキシン・グリーンなのかといえば、彼女がイマジネーションを哲学した人だからだろう。今日、日本の社会は「息苦しい」とよく言われる。空気が停滞し、新しい風を通すすきまがないのだ。そんな今こそ、想像することをやめない人々と、彼女の言う「開かれた空間」が何より求められているのだろう。
 本書の第一章の冒頭、マキシンは、自分たちが生まれながらにして自由であると信じ込んでいるアメリカ人の悲劇性について書いている。もし本当に生まれつき自由ならば、差別や経済格差など、この社会における様々な不平等を、私たちはどう理解したら良いのか? より公平な社会を求める人々の怒りは、パウロ・フレイレが目指した「より愛しやすい社会」の創造を求めるエネルギーはどこへ向かったら良いのだろうか?
 マキシンが自由の前提条件と考えるパブリックスペースだって同じだ。マキシンは、多くのアメリカ人が、パブリックスペースはすでに公園や広場などの形で「与えられている」と思い込んでいると批判する。しかし、パブリックスペースとは物理的な空間などではない。それは、どこか満たされていない不完全さと同時に、それを乗り超える希望を胸に抱いた人々が集った時、人々の間に一時的に生じるものだ。それは、全体主義のように人々が思想や表現の自由を奪われ、誰もが同じ考え方を強要される社会ではあり得ない。様々な経験やバックグラウンドを持ち、意見も考え方も異なる人々が集まって初めてパブリックな空間が生まれるのだ。ハンナ・アーレントを引用し、マキシンは言う。「それぞれが知っている最もよき存在のしかたで多様な個人がお互いの前に現れることのできる、真のパブリックスペースを見出す(あるいは創り出す)こと」(p.1)だと。
 
Maxineの晩年
 マキシンは、亡くなる二週間前まで教え続けた。二〇一四年のことだった。最後の方は、授業での発言は減っていくばかりだった。グループディスカッションを追うことが段々困難になり、ほとんど喋らない日もあった。しかし、学生たちは、教室にいる彼女の存在から学んでいるようだった。車椅子に座り、鼻のチューブから酸素を取り入れながらも授業に参加し、生徒の発言に頷く彼女。口を開こうものなら、生徒たちは一言も逃さないよう身を乗り出して耳を傾け、一生懸命ノートを取っていた。テストなどなく、唯一の評価は、「親愛なるマキシンへ」から始まる彼女への手紙だった。学生たちは、手紙の最後に書かれた、ミミズが這ったような彼女の字を、一生懸命解読しようとした。
 ある日、マキシンが授業中にほとんど話さなかった時、授業を締めくくる前に、何か最後の言葉はないかと私は尋ねた。そして、彼女は優しくこう言ったのだった。

「最後の言葉などありません。残るのは問いだけです。」

 私はそう語ったイメージのまま、マキシンを覚えていたいと思う。
 生前、マキシンは言っていた。「私は世界を救いたいと思っているのではないのです。ただ会話を始めたいだけ。」
 
 この日本でも、彼女が始めた会話の広がりに期待したい。そして、願わくば、この本を読んだ私たちの間に、自由が芽生えうるパブリックスペースが生まれますように。
(傍点と注は割愛しました)
 
 
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