あとがきたちよみ
『増補改訂版 ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/1/20

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
畑仲哲雄 著
『増補改訂版 ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』

「はじめに」「CASE:09オフレコ取材で重大な事実が発覚したら」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに――報道現場のグレーゾーンへようこそ
 
道徳はわたしたちのもの
 ジャーナリズムに関する本のタイトルに「道徳」という言葉があることに違和感を抱いた人がいたのではないでしょうか。たしかに、ジャーナリズムと道徳は相性がよくありません。現代日本のジャーナリストは長らく、客観的・中立的な立場からニュースを伝えるというルールを共有し、特定の価値観から距離を置くよう努めてきました。つまり、事実を伝えるところまでがニュースの役割で、価値判断は読者や視聴者に委ねています。
 もし、ニュース原稿の中に、特定の価値観や思想が盛り込まれていたら、人々の考え方や行動を誘導しかねません。先の大戦で日本の報道機関は、国家神道に基づく軍国思想を人々に浸透させ、「鬼畜米英」「忠君愛国」などのスローガンを宣伝しました。道徳とは、善悪を判断して正しく行為するための価値体系なので、戦時下の日本だけでなく、独裁政府の為政者が「道徳」を思想統制の道具とすることは珍しくありません。
 どのような社会にも道徳や倫理があります。民主主義と自由主義を重視するわたしたちの社会では、道徳を作る主体は権力者ではなく、わたしたち市民のはずです。道徳の言葉で覆い隠されたプロパガンダには注意が必要であり、わたしたち自身も道徳的な主体であることを忘れてはいけないでしょう。
 
道徳を避けてきたジャーナリズム
 事実を伝えるニュースでは、道徳の言葉はほとんど使われませんが、わたしたちはいろいろな場面で道徳的な判断をしています。ボランティア活動や被災地に義援金を送る行為は道徳的といえます。逆に、電車内で大声を出したり、行列に割り込んだりする行為は道徳的に非難されるでしょう。わたしたちは、人生のあらゆる場面で善悪の判断をしています。
 ジャーナリストも道徳と無縁でいられるわけではありません。それどころか、ニュースの現場にいる取材記者や報道番組のディレクターたちは、過去にいくつもの道徳的な難問に直面し、厳しい判断を迫られてきました。そうした問題は、さまざまな角度から検討されることで、「共通の知見」として社会全体で共有できるはずです。しかし、それらは業界関係者の研修や勉強会で語られることはあっても、市民社会の中で論じられる機会はあまりありませんでした。
 
法的防御ができればそれで十分?
 わたしが懸念しているのは、多くのジャーナリストたちが法的な問題には強い関心を寄せるのに、道徳や倫理を「きれいごと」「お題目」のように軽んじているように見受けられることです。表現の自由は憲法で規定されているし、報道の自由をめぐる判例もあるので、取材手法や表現をめぐる法的な判断基準はたしかに重要です。
 しかし、法的な責任は問われなくても、道徳的な批判を受けることはあります。近年、コンプライアンスという言葉が使われるようになりました。この言葉には「法令遵守」だけでなく「社会的規範の遵守」という意味もあります。市民社会からの信頼にこたえるには、法規範に従うだけでは不十分で、倫理や道徳などの社会的規範からの要請にこたえることも同じくらい大切です。
 
増補改訂版で心がけたこと
 わたしは、そうした事例に関心をもち、長年にわたり道徳的な難問を調査してきました。それをひとつの形にしたのが2018 年版『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』(旧版)です。旧版は議論するためのケースブックとして使用することを念頭に20の事例を盛り込み、理論的な部分にあまりページを割きませんでした。しかし、増補改訂版(この本)では、ケースを入れ替えるとともに事例を深く考えるための倫理学の理論や思想を紹介するページも設けました。倫理学があれば、どんな難問も解決する、というわけにはいきませんが、新しく設けたページは、頭の中のもやもやを少し整理してくれるはずです。
 
3つの狙い
 この本の狙いは3つあります。第一は、現場の経験知に頼りがちな記者たちにいちど立ち止まって熟考してみる機会を提供することです。「勉強する時間がない」「問題意識を共有する場がない」というニュース報道の実務家たちを少しでも触発できれば幸いです。
 第二は、メディアの問題に関心を寄せる市民に話題を提供することです。「マスゴミは信用できない」「オールドメディアは要らない」と決めてかかる人もいますが、この本に収録されている事例は、取材現場の当事者たちの視点で綴られていて、ジャーナリズムを他人事としてではなく、自分事として考えることを可能にします。
 第三は、報道の仕事に関心をもつ若い人たちに、ジャーナリズムの現場をシミュレーションしてもらうことです。答えは1 つではありません。優れた取材者になるには、過去の事例から学ぶことがなによりも肝要です。
 
この本の構成
 この本には全部で5つの章があります。第1 章から順に「人命と報道」「被害と危害」「約束と義務」「原則と例外」「立場と属性」です。各章には4 つのケースを設けました。
 ケースはすべて、「思考実験」→「異論対論」→「実際の事例と考察」の3 つのパートで構成されています。「思考実験」は物語です。ジャーナリズムの道徳的難問をストーリーとして受け止めてください。思考実験では、相反する2つの立場を選ばなければなりません。どちらの立場が正しく、どちらかが間違っているわけではありません。まずは直観的に、自分ならどちらの立場を支持するかを自分の心に尋ねてください。
 次に「異論対論」のページを開いてください。2 つの立場から意見を交互に並べました。ここに示された意見は、著者のわたしが脳内で議論したものです。足りない論点をご自身で補足してくれてもかまいません。
 次のページは「実際の事例と考察」です。過去にじっさいに起こった道徳的ジレンマの事例が記されています。それぞれの事例が問いかけているものを考えながら味わってください。
 さらに、各章のまとめとして、「その先へ」というページを新しく設けました。そこでは、ジャーナリズムを、倫理学の理論から考えるための筋道が示されます。倫理学や哲学を学んだことがなくてもわかるように工夫しました。
 
授業やワークショップでの活用
 もし、この本をグループディスカッションなどのワークショップで利用する場合、「思考実験」を読んだ時点でいったん本を閉じて1 回目のディスカッションをしてみましょう。自分の意見を他者に押しつけるのではなく、異なる意見に耳を傾ける時間が必要です。自分はなぜA/B の立場を支持するのか、冷静に意見を述べ合い、共有しましょう。大きな紙にみんなでキーワードを書き込んだりするのもよいでしょう。1 回目のディスカッションで重要なのは直観やインスピレーションです。
 次に、「異論対論」のページを開き、対立する意見をじっくり読み、2 回目のディスカッションをしてみましょう。2 回目のディスカッションは、感情ではなく論理を重視するよう心がけてください。自分と反対の意見には謙虚に耳を傾け、自分の意見を押しつけないようにすることが大切です。このとき、意見を最初と変えてもかまいません。複数のグループでディスカッションをする場合は、各グループでどんな話し合いをしたのか、共有するのがよいでしょう。
 
ジャーナリズムと市民社会をつなぐために
 わたしは、この本が報道現場の記者たちと、市民社会とをつなぐきっかけになることをも願っています。20 世紀がマスメディアの時代だとすれば、21 世紀初頭はソーシャルメディアの時代です。スマートフォンの小さな画面では、新聞の1 面トップの大見出しは表現できません。紛争地の記者が危険を賭して撮影した写真や、多くの時間と労力をかけた調査報道の記事は、業界内では高く評価されるかもしれませんが、多くの人々に届いているでしょうか。
 ニュース報道は民主的で自由な市民社会に不可欠です。しかし、ジャーナリズムと市民社会との距離は開き気味です。その距離を埋める手段は、読者・視聴者を「お客様」扱いすることではなく、「理解者」「協力者」になってもらうことがなによりも大切です。ジャーナリズムの未来を一緒に考えてもらうには、市民社会と対話をすることが不可欠でしょう。この本が、ジャーナリストと市民社会の対話のきっかけを作ってくれることを願ってやみません。
 
著者
 


 
第3 章 約束と義務
CASE:09 オフレコ取材で重大な事実が発覚したら

 
1 思考実験
 中央官庁から赴任してきた新任の局長が、地元の記者クラブに加盟する報道記者たちと懇談したいと言ってきた。いわゆる「記者懇談会」というやつだ。批判の多い取材方法だが、わたしのような地方新聞の記者にとって、政府の動向を知る貴重な機会でもあるので、参加することにした。
 「ざっくばらんに、本音で語り合いたい」というのが局長の意向だった。
 参加の条件は、懇談で出た話は決して報道しないことだ。当然、メモや録音は禁止である。懇談は完全なオフレコでおこなう。ただし、誓約書を取り交わすようなことはしない。証拠を一切残さないという前提だから、腹を割った話ができる。
 その夜の記者懇談会は、わたしのほか、地元の放送局や、大手新聞社の地方支局に配属された記者たち約10 人が参加した。
 赴任してまだ日の浅い局長は、懇談会の冒頭、記者たちを前に挨拶をした。
 「記者のみなさんと、わたしのような公務員は、駆け引きすることもありますが、今夜は鎧を脱いで、遠慮なくやりましょう」
 すこし堅苦しい挨拶だったが、酒宴が始まるや、局長の舌は滑らかになっていった。グラス片手に業界の裏話を楽しそうに話したかと思うと、勢い余って政治家をこき下ろしてみせた。率直で、気さくな話しぶりに、エリート官僚らしさはなく、わたしは親しみを覚えた。
 やがて話題は、この地域のセンシティブな問題に移った。
 「そりゃさあ、あそこを捨て石にするのは忍びないよ」局長はまわりに気を遣ってビールを注ぎながら続けた。「でも、どこかに作らなきゃいけないしさ」
 地元放送局の若い記者が口を挟んだ。「あの……捨て石っていうのは、県北部のことでしょうか。つまり、例の、処分場予定地の下流域のことですよね」
 産業廃棄物処分場建設予定地の下流にある集落では反対運動が起こっている。そのことは、わが社の紙面ですでに記事にしていた。
 若い記者が続けて尋ねた。「着工の時期を住民側にどう伝えるんですか」
 「あさってレイプします、なんて言えないよね」局長は半笑いだった。「ヤるときは押し倒して無理やり……なんてね。ははは」
 県民をだまし討ちするようなやり方や下品な表現に、わたしも引っかかりを覚えたが、その後、話題はあちこちに飛び、懇談会はお開きになった。
 記者が官僚と飲む。「癒着だ」と批判する人はいるが、権力に肉薄する取材手法だという意見もある。正直なところ、わたしには、よくわからない。
 参加者全員が店の外に出たとき、また例の若い放送記者が言った。
 「いまごろすみません。でも、なんか引っかかるんです、『捨て石』とか『レイプ』とかいう言葉が。それと抜き打ち着工の話も」
 わたしもそこは気になっていたが、懇談会はオフレコだ。にもかかわらず、若い記者は続けた。
 「ごめんなさい。オフレコの約束を破ってニュースにします」
 この若造、なにを言い出すんだよ。わたしは腰が抜けそうになった。他社の記者と顔を見合わせた。みなポカンとしている。
 局長は血相を変えた。「おい! きょうのはオフレコだったんだ。約束を破ったら、今後一切、取材を受けないからな!」
 だが例の記者は一礼すると、そのまま走り去った。その場に残された記者たちは、顔を見合わせたままだ。わたしはどうすべきだろうか。
 
【A:オフレコの約束は守る】 不適切な発言があったが、証拠となるメモも録音もない。あやふやな記憶だけで記事を書くのは危険だ。あの発言を除けば、結果的によい情報収集の機会だったと思う。オフレコ懇談の信義則は守ろう。
【B:オフレコを破って書く】 オフレコは受け入れたが、局長が口にした「捨て石」や「レイプ」は暴言だ。権力者が性暴力に喩えて、住民を愚弄し、産廃処分場建設の抜き打ち着工も示唆した。書くのはジャーナリストの義務だ。
 
2 異論対論
[A]オフレコの約束は守る立場 取材記者の仕事は情報源と信頼関係を築くことから始まる。オフレコの約束は絶対だ。今夜の懇談会は完全オフレコの「オフ懇」だったし、参加する・しないは記者側の自由意志に任されていた。たしかに問題発言はあった。だが、懇談会が終わったあとで「書く」と言った若い記者に追随する必要はない。
[B]オフレコを破って書く立場 取材記者は、信頼に値する情報源とよい関係を築くべきだ。だが、今回の情報源はまったく違う。彼は県民を傷つける暴言を吐いた。その事実を書けないのはオフレコを受け入れたからだ。ミスだった。これ以上のミスを重ねないため、わたしもオフレコを破るべきだ。さもないと、わたしたちもあの暴言の共犯者になる。
(以下、[A][B]それぞれの反論、再反論つづく)
 
3 実際の事例と考察
 最初に確認しておくべきは、ニュース報道では情報源を明示するのが基本原則ということだ。「〇〇市の警察/消防によると」「副社長の〇〇氏によると」「〇〇被告の〇〇弁護士によると」のように、情報源をはっきり示す。こうすることで検証が可能になる。
 ジャーナリストたちは検証に耐える信頼性の高い記事を書くよう方向づけられる。誤報や捏造を防ぐ効果もある。原則はオンレコ(on the record)であり、オフレコ(off the record)は例外的な手法だ。
 ただ、オフレコ取材は読者や視聴者の目に触れないため誤解されやすいが、べつに後ろめたい情報収集法ではない。アメリカのメディア界では、オフレコやオンレコ、情報源をぼかすルールが比較的守られている。
 
●――情報源を不透明にするルール
 情報源を曖昧にするケースは2 種類ある。1 つは背景説明で「バックグラウンド・ブリーフィング」と呼ばれる。大統領や閣僚は記者会見に何時間も時間を割けない。このため事情に通じた人物が記者たちに説明する。「〇〇省高官によれば」というふうに、情報源の属性が一定程度明らかにされるニュースはバックグラウンドの説明によって書かれたものと考えていいだろう。
 2 つめは、情報源の属性をぼかす「ディープ・バックグラウンド・ブリーフィング」だ。非公式に情報を開示した人物がだれなのかを具体的に書けない場合、「〇〇筋」などと記される。この区別はアメリカ国務省が職員向けに配付したガイドラインに掲載され、ワシントンの記者たちのあいだで慣例になっている。その先にオフレコが連なる。
 日本でも、霞が関や永田町の「政官界」担当の記者は、日常的に「政府高官」や「消息筋」などと書く。だが、それらはあくまでも権力と一部記者たちでつくる「狭い村だけで守られる掟」でしかない。大手メディアでも首都圏から離れた支局の記者は「〇〇省幹部」と「〇〇省筋」とを区別できるかどうか疑わしいくらいだ。
 地方の役所や議会、経済界などでも「オフレコ」という言葉は使われるが、発言者を秘匿化することを意味したり、失言後のエクスキューズとして用いられたり、かならずしも運用は一定しない。同時に、ジャーナリストの側の理解も一様ではない。
 マスメディアが政党や官公庁を取材するのは、公共的で公益性の高いオフィシャルな情報が集まるからだ。権力者たちは「ここだけの話」という条件を提示しがちでもある。記者クラブ所属の記者を対象にした記者懇は、そうした場として利用される。
 参加する記者の心理はどんなものだろう。当局が考えていることを理解したい。多くの情報に触れたい。本音や実像に肉薄したい。怖い物見たさ。特オチがこわい。声がかかったことが誇らしい……。しかしオフレコを条件にした取材で知った情報は報道できなくなるので、度を超すと「知る権利」に応えられなくなる。
 
●――内部告発と「取材源の秘匿」の関係
 オフレコの延長線上にあるものとして、内部告発者を守る「取材源の秘匿」も考えておくべきだ。情報を提供する内部告発者に危害が及ぶ可能性は高い。実話をもとに作られた映画『シルクウッド』は原子力発電所の不正を書いてもらうため新聞社に向かう途中で変死した労働者の事件が、『インサイダー』でもタバコ会社の不正を告発した副社長の自宅に銃弾が送られてくる場面が描かれた。内部告発を取材する場合、ジャーナリストやメディアは取材源を絶対に守らなければならない(〈CASE 18〉も参照)。
 さて、今回の思考実験についていえば、「完全オフレコの懇談会」(オフ懇)に参加した時点で、記者側は市民社会から支持を得にくい状況に陥ってしまったといえる。オフレコ取材について日本新聞協会は「真実や事実の深層、実態に迫り、その背景を正確に把握するための有効な手法」「結果として国民の知る権利にこたえうる重要な手段」とその有用性を認めつつも、「ニュースソース側に不当な選択権を与え、国民の知る権利を制約・制限する結果を招く安易なオフレコ取材は厳に慎むべき」と釘を刺している。世界最大の通信社AP(Associated Press)も、相手がバックグラウンドやオフレコを望んでも、オンレコ取材を求める努力をするようガイドラインで奨めている。
 


 
〈その先へ〉 義務をはたす第三の選択肢はあるか
 
 第3 章では、情報源と取材者とのあいだに結ばれた約束にまつわる難問をどのように考えればよいかを検討した。CASE 09 の「オフレコ取材で重大な事実が発覚したら」では、情報源が口を滑らせた不適切な発言を報道する難問に挑んだ。情報源との約束を破って報道すれば「だまし討ち」になる。だが、約束を守って報道しなければ、読者・視聴者への「背任」になる。典型的なジレンマ的状況といえるだろう。CASE 10 の「記事の事前チェックを求められたら」とCASE 11 の「取材謝礼を要求されたら」では、情報源とのあいだに明示的な約束をしていないケースを扱った。契約を交わしていないのだから法的な義務は発生しない。だからといって、取材に協力してくれた情報源の要望を無条件に断ったり、労力に恩義を感じたりしないことは道徳的といえるだろうか。CASE 12 の「ジャーナリストに社会運動ができるか」は、少し趣向を変えて、地域メディアの取材者は、地元の課題解決のために、情報源と読者との関係をどのように再構築できるかを検討した。
 そもそも「取材」という言葉は辞書では「作品や報道の材料をある物事・人から取ること」などと説明される。取材活動の目的は、材料=事実を取ることであり、情報源はその手段にすぎない。ただし、取材者=取る側、情報源=取られる側と役割が固定されているわけではない。情報源の側もマスメディアには強い情報発信力があることを理解していて、記者を利用したいと考える場合もある。そんなとき、取材の現場は「狐と狸の化かし合い」のような状況に陥る。
 しかし、すべてのニュース報道が利害や打算から作られているわけではない。情報源と取材者が、社会課題を改善するという共通の目標を分かち合うこともある。そうしたとき、情報源と取材者は信頼の絆で結ばれ、問題解決に力を発揮する。
 
◆――ブレーキが壊れた路面電車と待避線
 ここでは規範倫理学の中でも義務論1という理論を参照しながら考えてみたい。義務論の特徴は、ほかに代替できないような道徳に従って行為することを命じている点だ。功利主義(帰結主義)が「結果」を重視するのに対し、義務論は「行為」自体にこだわる。
 功利主義と義務論の違いを理解するのに有名な思考実験を紹介しよう。この思考実験の主人公は路面電車の運転士だ。運転士は電車のブレーキが故障したことに気がつき、パニックに陥ってしまった。悪いことに、進行方向の線路上で5 人の保線員が黙々と作業していて、そのまま直進すれば5 人の命が失われる。運転士は絶望したが、よく見ると少し先に、本線から待避線が出ているのが目に入った。ハンドルを切って電車を待避線に進めれば、5 人の保線員の命は助かる。だが、待避線の先にも保線員が1 人いる。待避線に進めば1 人の保線員の命は奪われる(トロリー問題)。
 もし自分が運転士だとすれば、ハンドルを切るだろうか。それとも直進するだろうか。おそらく大多数の人がハンドルを切って5 人の命を救うのではないだろうか。たしかに1 人は犠牲になるが、5 人の命と天秤にかければ、答えは明らかだ。そうした判断は、功利主義の見地からみて道徳的に正しいといえる。
 
◆――橋の上から身を乗り出している巨大な男
 この思考実験には別の設定がある。こんどの主人公は運転士ではなく、線路上に架けられた橋の上にいる通行人だ。ふと見ると、路面電車が近づいてきた。電車の進行方向には5 人の保線員が作業している。だが、電車は速度を下げておらず、運転士が窓から顔を出して「ブレーキが故障した!」と絶叫している。電車がこのまま直進すると、5 人の保線員は犠牲になる。そう思ったとき、橋の欄干から大きく身を乗り出して、下を眺めている巨大な男がいるのが目に入った。もし、彼を線路上に突き落とせば彼の命は犠牲になるが、路面電車を止めることができ、5 人を助けられると仮定しよう。
 先の待避線の思考実験で、犠牲者数に着目してハンドルを切ることに賛成した人は、巨大な男を突き落とすことに同意するだろうか。悲劇的な状況にある運転士が、とっさに進路を変えるのに比べると、橋の上の思考実験の主人公は自分の意志で、何の罪もない男性を殺害することになる。功利主義の立場なら、多数者の利益のために少数の犠牲を容認するかもしれないが、義務論の立場なら、殺人という行為を認めたりしない。
 義務論の中でも比較的わかりやすい考え方について概観しておこう。義務論はいくつかの道徳法則によって特徴づけられる2。その道徳法則が命じているものを大雑把にいうと、そのひとつは「普遍的なルールに基づいて行為せよ」ということになる。すべての人が毎回同じようにおこなう行為こそが道徳的に正しいという理屈だ。もうひとつは、「人間を道具や手段として扱うな」という法則だ。その根底にはすべての人間の尊厳は尊重されなければならないという倫理観がある。義務論は、すべての人間に対して自律的で自由な存在であれと推奨する。
 
◆――職業倫理との相性
 一人ひとりの人間性を認め合う義務論の道徳法則は、人間の幸福・不幸を量的にとらえがちな功利主義とは対照的である。社会全体の効用≒幸福を最大化することを道徳的と考える功利主義は、多数の負傷者がいる災害現場で助かりそうな人を選別する医療者たちの選別(トリアージ)と共通する点がある。社会の富を増やすマクロ経済政策とも相性がよさそうだ。わたしたちの利害関心にかかわる重要な情報を、不特定多数に一斉に発信するマスメディアの事業とも相性がとてもよい。
 対する義務論は、徹底的に目の前の「行為」にこだわる。なにが悪い行為で、なにが良い行為かを考える。日本には「嘘も方便」という諺があるが、義務論はあらゆる嘘を不道徳と考える。良かれと思ってつく嘘を推奨してしまえば、患者を安心させるため病名を告げない医者や、犯人逮捕に証拠を捏造する捜査員のように職業規範を瓦解させかねない。一人ひとりのジャーナリストの行動規範を考えるうえでも、義務論は避けて通れない。
 
◆――読者・視聴者に対する義務
 義務論の道徳法則に従えば、CASE 09 のオフレコ取材は参加した時点でアウトだ。オフレコ取材は普遍的な手法になりえない。すべての取材がオフレコになれば、取材者は情報源への依存度を高めていくことが明らかだからだ。取材者は「取る側」ではなく「もらう・ねだる側」になり、情報源は「取られる側」ではなく「与える・ほどこす側」になる。取材記者は民主的な社会の番犬どころか、権力の膝に乗る愛玩犬と化し、市民社会の「知る権利」や「表現の自由」が縮小していくことは避けられない。
 思考実験では、参加した一人の記者が、オフレコを破って報道すると言って去っていった。残された記者たちはみな呆然とし、情報源は激怒した。そこで、主人公の立場で第三の選択肢を検討してみたい。
 たとえば、走り去っていった若い記者を追いかけて連れ戻し、「問題発言」をどのように扱うかを参加者全員で協議できるなら、試す価値はあるだろう。オフレコ懇談会は情報源が記者クラブに提案して成立したイベントだ。記者クラブという制度には組織の閉鎖性や権力との癒着などで批判を受けることが多いが、取材者が組織の壁を超えて連帯して権力監視することで市民社会への義務をはたせるかもしれない。
 その若い記者を捕まえることができなかったとしたらどうするか。おそらく彼は「問題発言」を報道することを社内で提案するだろう。情報源との約束を反故にすることになるが、ライバル社が報道しない重要な情報を報じることは市民社会にとって有益だ。スクープ報道は組織の名声を高めることになるかもしれない。しかし、だからといって、取材記者がオフレコ懇談に加わっていた、つまり視聴者を裏切っていた事実が免責されるわけではない。
 そこで主人公により道徳的な行為をさせるなら、権力者の「問題発言」だけでなく、オフレコ懇談がもたらした害悪や、それに参加したことへの謝罪と反省をも詳細に伝えることで、読者に対する誠実な態度を示せそうだ。もしかすると、それが「普遍的なルール」になるかもしれない。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 


 
あとがき――ジャーナリズムはだれのものか
 
市民に対する誓い
 専門性が高い職業には、その影響力と責任に伴う規範や倫理が必要とされます。たとえば医師や弁護士は、それぞれ自律的な専門職団体を結成し、「医の倫理」や「弁護士倫理」を公表しています。これらの文書には、団体の構成員が共有すべき理念、理想、規律、そして価値観が明記されています。それは社会の信頼に応えようとする専門職の「宣誓」といえます。
 ニュースを発信するジャーナリストにも職業倫理があります。日本新聞協会は「新聞倫理綱領」を公表していますが、それは業界の倫理であり、ジャーナリストによる宣誓とはいえません。取材現場の記者たちが参照するのは、企業が従業員向けに作成しているマニュアルやガイドラインなどの社内文書で、それらは原則として非公開であり、読者・視聴者にとってジャーナリストたちの行動原理は見えづらいものとなっています。
 過去には、2001 年に朝日新聞社の役員から信濃毎日新聞社主筆に転じた中馬清福さんが、新聞協会の雑誌に「新聞記者行動規範」の私案を公表したことがあります。しかし、それは新聞協会の公式ウェブサイトで公開されておらず、市民に対する公的な宣誓としての役割をはたしていません。
 わたしは、中馬さんのように報道倫理を検討してきた人たちの努力に敬意を払いながらも、これまでの業界主導のアプローチとは一線を画した視点からジャーナリズムの倫理を考察しています。
 
ジャーナリズムは社会のもの
 たとえば、医師の職業倫理の根幹にあるのは、生命の尊重という人類にとって普遍的な倫理です。その昔「医は仁術」という言葉がありました。医療とは人を思いやる「仁」の心に基づく術であり、技術や知識に加えて、思いやりや慈しみの心をもつことを促す言葉として用いられました。
 しかし現代の医療現場には、十分な説明と同意を表す「インフォームドコンセント」という考え方が導入されています。現代の医師たちにとって患者は治療に参加する能力をもつパートナーです。多くの病院では「患者中心医療」を掲げるようになっています。
 加えて、脳死移植やクローン技術などが現実のものとなったことで、新たな倫理的難問が生まれました。それらの難問は医療にとどまらず、法律、哲学、宗教、政治など幅広い分野にまたがる生命倫理という枠組みで研究されています。
 ひるがえってジャーナリズムの世界はどうでしょうか。ジャーナリズムの分野にも数多くの難問があります。有名な「ハゲワシと少女」の写真は、高校の教科書でも取りあげられていて、取材者の行動規範という枠を超えて、市民社会の倫理の中で善いジャーナリズムのあり方を考える素材になっています。この本も、業界標準のルールづくりではなく、市民社会にとって善いジャーナリズムとはなにかを倫理的に考察するためのものです。
 
善い社会を作る知恵
 巨大テック企業が提供するデジタル機器やソーシャル・ネットワークなどのプラットフォームは、わたしたちの暮らしに欠かせないものとなっています。わたしたちはスマートフォンを使って日常的に人々と交流したり、ニュースに触れたりしています。むろん、SNS は便利な半面、デマや偽情報、誹謗中傷などの弊害が指摘され、有効な手だては見つかっていません。生成AI の普及も、有益な面だけに目を向けるわけにはいかず、数々の問題が起こるでしょう。
 コンピュータやスマートフォンなどは、時代とともに変化していきます。しかし、言論の自由やデモクラシーなどジャーナリズムの根幹を支える考え方は、いまも昔もそれほど変わっていません。古代の思想家や宗教者が唱えた倫理や道徳も、現代社会に脈々と受け継がれています。
 近年、新聞やテレビを「オールドメディア」と呼び、時代遅れの存在のように考える人が現れています。しかし、いま「ジャーナリズム」と呼ばれているものは、権力をもたない普通の人たちが、数百年の歳月をかけて、善い社会生活を送るために模索し続けてきた方法と知恵です。
(以下、本文つづく)
 
 
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