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佐藤義之 著
『生きるための意識とクオリア 現象学から考える』
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はじめに
意識とは何だろうか。私は意識によって目の前の出来事を認知し、その出来事にふさわしい対応をとる。赤信号を認知して、私は足を止める。意識とは行動のためのものだと言いたくなる。さらに言えば行動は生きるためになされるのであるから、意識は生きるためのものだ、と言ってもよいかもしれない。赤信号に止まらないと私は命さえ危うくなる。しかしながら実はこのような意識理解に反対する哲学者は数多い。
そういう哲学者たちは次のように反論するかもしれない。ロボットを考えてみるとよい。ロボットにコンピュータとビデオカメラを積み込んで、カメラに写った赤信号を認知すると止まるようにすることは現在の技術では難しいことはなかろう。赤信号で止まる私のように行動させることができるのである。しかしこのロボットが私と同様に「意識をもっている」と思うひとはいないだろう。たしかに赤信号を認知しているし、それに反応して止まるけれども、そこに私のような意識があると想定することは難しい。「ロボットは決められたように動くだけで、いくら搭載コンピュータにより複雑な判断を下し、その判断にもとづいて複雑な動作をするにしても、ゼンマイ仕掛けで動く玩具と変わらず意識などもたない」と言いたくなる。ロボットに欠けているその意識とは、赤信号を見たときに赤の「感じ」(クオリア)をもつことであろう。ロボットは赤に反応しても、赤の感じはもたないのである。
しかし意識をもたないロボットでも私とおなじことができるとするなら、意識は何の役割を果たしているのだろうか。このような点を踏まえて、意識は何の役割も果たしていない、と言う哲学者たちがいる。
一方、私の考えは正反対である。意識とは動物が生きるためにあるという前提から議論し、こういう前提から意識の可能性を探ってゆくつもりである。意識と物質との関係という根本的問題へと迫るのもこの前提からなされる。そのためにはまず意識の有用性を否定する哲学者の説をながめ、その説の妥当性を検証せねばならない。
本書の哲学的な立脚点は現象学にある。一方、意識の無用性を説く議論は、現象学の伝統とは対立する、分析系の哲学者のなかでかなりの支持をえている。ただ、本書では現象学的立場の正当性についてあらためて議論するつもりはなく、その立場を前提して議論する場合もある。現象学は意識についての議論から始まった学派であるが、その展開の過程で意識を単なる内在的なものと考えず、むしろ世界とそれに働きかける身体的行動との関連で、つまり事実的なものである主体の生との関連で考えようとする方向に発展してきた。意識主体の生を重視する本書の意識論の基本的方向性は、こういう現象学の歴史的成果を踏まえたものである。本書を支える諸概念の源泉の多くも現象学に見いだされるであろう。
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次に本書の梗概を示しておこう。
第一章は意識が物質に還元されないものだと認めつつも、意識が物質に働きかけ行動に影響することについては否定した哲学者チャーマーズの議論を批判する。むしろ、意識は動物がもつものである以上、意識は行動に影響できるし、そのことで動物の生存適性を高めるものであるはずである。この認識が本書の起点である。
しかし意識は行動に影響するということを示すだけではまだ不十分である。その「影響」はほかの心的・身体的機能で代替可能なものであってはならない。代替可能ならわざわざ意識を進化させる必要がなかったのだから。意識にしか果たせない「影響」の機能とは何か。第二章でそれは意志に「直観的理解」をあたえることだと論じる。快苦などの感じ(クオリア)をもつことで、動物は直接行為を動機づけられる。しかし動機づけは外部から意志を必然的に決定することではなく、動物は自由に意志決定し行為する。これを意識によらないコンピュータなどの情報伝達と対比して論じる。クオリアによってのみ可能な「直観的理解」をもつことで動物の行動は状況に応じた柔軟なものになる。
ところで今述べた意志の「自由」な決定は真に自由な意志決定なのか、あるいは当人が自由と感じているだけで実は決定されているのか。意志決定がコンピュータのように必然的機構によってなされているはずだという決定論は有力ではあるが、このモデルだと意識が意識以外の手段では代替不可能で、快苦などのクオリアによらねばならないような「影響」を意志にあたえることができない。意志は真の自由をもつのでなければならない(第三章)。
本書の現象学的な立脚点が最も強く表れるのが第四章である。本章では以前の拙著『「態勢」の哲学─知覚における身体と生』(勁草書房、二〇一四年)(佐藤 2014)で示した「態勢」概念を武器に意識問題へのアプローチを試みる。「態勢」は対象種ごとに異なる対象受容のための生の姿勢である。対象知覚において態勢が形成されるが、そこでは自己受容が大きな意味をもつ。梅干しを味わうときは酸っぱさに身構える態勢が形成され、梅干しの味わいにはそういう態勢の味わいの自己受容がかなりの部分を占めている。「梅干しを見ただけで口が酸っぱくなる」というのは、外的刺激が不在でも、その態勢の自己感覚が再生されているだけで、ある種の酸味が感じられるということを意味している。自己感覚はそれほど対象知覚に大きな意味をもつのである。そして想起や予期においても自己感覚はクオリアの経験として喚起され、主体を「直観的理解」において動機づけている。このような点を踏まえると、物質に還元できない謎めいたクオリアを解明するには、自己感覚への注目が必要だと考えられる。態勢が意識の成立を準備したのではないかという可能性も示唆される。
第五章ではここまで言及した以外の、意識によるクオリア経験の働きにあらためて触れる。対象知覚のカテゴリーを創出する働きのほか、知覚における真理性を主観的に保証する存在論的役割を担うなど、実は大きな役割を果たしている。意識は無用どころではないのである。
ここまでが第Ⅰ部の梗概であるが、第Ⅰ部では意識が有用性をもつという前提にもとづいた意識観の可能性を示すとともに、態勢概念などを手がかりにその解明の道を示唆した。以下の第Ⅱ部では、第Ⅰ部の成果にもとづいて、意識は生きるためのものだという観点から意識の全体的とらえ直しを試みる。
第六章、第七章では意識の全般的とらえ直しを試みる。意識は統一性をもつが、その具体的な様相として、時間・空間的統一性、自己の統一性を論じる。いずれにおいても意識が統一性を生みだす前提として、クオリアの経験(特に快苦)が利害を形作り、その利害の観点から統一性が必要とされてくる。利害と関係ないときには、統一性を生みだす理由もない。つまりこれらの統一は実践的な統一だということが明らかになる。そういう観点からすると、自己の統一は身体を含めた動物的・実践的統一である。
最終章の第八章では、本書において残された問題について触れる。
ひとつ目は意識と意志が相互前提的であるというジレンマである。われわれが見出したこのジレンマは進化論的に意識と自由意志とを考える上で大きな困難をもたらしている。
ふたつ目は物質からの意識の生成の問題である。この問題は哲学史上有数の難問であり、私の力で解明することなど望むべくもない。ただ、本書の論議をふまえて、(のちに説明する)「原態勢」による自己認識がクオリア経験を準備したのではないかという予想が立てられる。これは問題解明の一助となるかもしれない。
(傍点は割愛しました)






