あとがきたちよみ
『あっ! Becoming――共創する身体を生きる』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/3/12

 
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三輪敬之・西 洋子 著
『あっ! Becoming 共創する身体を生きる』

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はじめに 身体のはたらきと新たな世界
 
共創――doing, being からbecoming へ
 本書は、「共創とは何か」という問いをあらためて立て直し、その理論的・実践的地平を「身体のはたらき」から捉えなおすことを目的としている。なかでも、本章では、doing(すること)やbeing(あること)では捉えきれない、「becoming(なること)」という第三の契機が、共創の本質にいかに関わっているのかを明らかにしたい。そのために、共創の思想的背景と実践的経験の双方から、その多層的な構造を読み解いていくこととする。
 
場と共創――共創という問いの背景
 共創という言葉は、何故これほどまでに社会に広く受け入れられてきたのだろうか。それは、AI化の進行、情報メディア技術の氾濫、コミュニティの崩壊、災害対応、教育・医療・介護の諸問題、環境危機など、現代社会において人びとが何かしらの違和や不安を抱いていることと深く関係している。これらはいずれも「生きていくこと」の根本に関わる問題である。共創という概念は、そうした時代状況のなかで、「生きていくこと」そのものを問いただすための実践的な営みとして、新たな可能性を示していたのだろう。しかしながら、多様で異なる背景や価値観を有する人びとが、それぞれの可能性を創り上げながら、生き生きと共に生きていく、すなわち共創するためには、いったい何が必要なのか。この問いに対して、理論的、実践的、科学技術的な観点から本格的に論じた例は、いまだ驚くほど少ないのが現状である。そのため「共創」という言葉は、しばしば単なる「協働」や「コラボレーション」と同義に扱われてきた。言い換えれば、「共創学」と呼びうるような体系的な知の枠組みはいまだ確立されておらず、それが学問として成立しうるかどうかも現時点では定かではない。
 こうした共創に関する理論的研究に早くから取り組んだのが、東京大学名誉教授の清水博である。清水は、共創の基底には日本文化に根差した「場の思想」があることを指摘し、その解明には、近代西洋科学とは異なる、自他を分けない「場の論理」が必要であるとした(清水博『場の思想』東京大学出版会、二〇〇三年)。また彼は、共創を即興劇になぞらえ、異なる背景を持つ人びと(演者)が舞台上で即興的に演技を続けていくためには、場としての舞台に包まれながら、それぞれが自らの存在をその場に位置づけあうような関係性が、自己組織的に立ち上がってくる必要があると述べている。著者もまた、清水の誘いを受け、科学技術庁のプロジェクト研究(一九九四-一九九八)の一翼を担うこととなった。そこでは、以前より取り組んでいた「植物生命情報論」の研究成果を基に、人工林と自然林における樹木群のコミュニケーションの違いに着目し、共創においては場の生成と変容が鍵となることを導き出した。さらに、ロボットエージェントを用いて場の創出の可能性を探るべく、遠隔コミュニケーション技術の開発にも取り組んだ。これらの成果については、 二〇〇〇年に刊行された拙著(三輪敬之「共創における生命的コミュニケーション」『場と共創』NTT出版、二〇〇〇年)に詳しく述べているので、参照されたい。
 
共存在感(co-being)の創出――信頼の存在論としてのbeing
 ウィニコット(D. W. Winnicott)は、「子ども」の発達を「being(あること)」から「doing(すること)」への過程として捉え、「子どもというのは、信頼している人のそばだけで一人になれる」と述べている。たとえば、砂場遊びに夢中になって一人で遊んでいる幼児がその状態でいられるのは、母親がそばに「いる」という安心感があるからである。ここで重要なのは、母親が子どもと一緒に遊んでいるのではなく、ただ近くに「存在している」にすぎないという点である。つまり、この関係はdoing(すること)によってではなく、being(あること)によって支えられており、相互の信頼感や安心感を伴った関係性が、すでにそこに成立しているのである(ウィニコット『遊ぶことと現実』橋本雅雄訳、岩崎学術出版社、一九七九年、芹沢俊介・三好春樹『老人介護とエロス』雲母書房、二〇〇三年)。このことは、共鳴や共感が生まれるような深いコミュニケーションとは、共に存在すること(co-being)を通して、意味やドラマが紡ぎだされていく営みであることを示唆している。
 たとえば、高齢者ケアの現場では、「ケアする側」と「される側」といった二分法的な枠組みが先行することにより、「共にどのように在りたいか」といった共存在の関係が十分に育まれないまま、「なすべきこと」が一方的にケアされる側に押しつけられてしまい、トラブルや事故につながることも少なくない。高齢者は、子どもの成長とは反対に、doing の世界からbeing の世界へと年齢とともに移行していく傾向がある。そのため、こうした問題の背景には、ケアする側が「doing の世界」の存在者として関わろうとする一方で、ケアされる側は「being の世界」へと向かう存在であり、この両者の間に非対称な関係が構造的に生じている、という困難がある。このような関係を解きほぐし、共存在感を生み出すためには、互いのあいだに「身体のはたらき」を媒介とし、そこから存在への気づきが開かれるような生成的な場を立ち上げることが求められる。
 ところが、現行のコミュニケーションシステムの多くは、「doing」の側に立ち、「co-doing(共にすること)」を支援することを目的として開発されてきたといっても過言ではない。オンライン上で「共存在感」を実感できるような経験は、実際には極めて稀である。たとえば、コンピュータ技術を活用し、複数の人びとの共同作業を支援するCSCW(Computer-Supported Cooperative Work)も、その設計思想は「doing」を中心に据えており、多様な人びとが出会い、信頼感や安心感を育むような「co-being(共に在ること)」の構築は、原理的にはほとんど考慮されていない。この問題を乗り越えるために、著者らが取り組んだのが、離れた場所にいる人びとが、互いの存在を同じ空間に位置づけ合い、暗在的な場の創出を可能にする「二領域通信システム」(第Ⅲ章にて紹介)である。このシステムでは、「身体の影」を存在のエージェントとして活用することにより、離れた場所であっても共存在感を生み出すことにはじめて成功した。これは、「co-being」という概念を技術的に取り込んだ最初の具体的試みである。そして、ここから著者と「影」との長い歴史が始まることになる。
 
障害児らとともに――他者との断絶から生まれる新しい世界
 著者は、東日本大震災のあと、二〇一二年から約七年間にわたり、被災地の石巻において、ファシリテータを務めた西洋子とともに、毎月「てあわせ表現ワークショップ」を継続的に開催してきた。そこで、多くの重度発達障害児らと出会い、それが契機となって、著者の共創に対する考え方は大きく変化することとなった。彼らとの関係は、自分の表情や身振りと相手のそれとの類似性から相手の内面を推し量る「類推説」や、フッサール(E. G. A. Husserl)の「感情移入」のような考え方では到底埋められないものであった。要するに、著者と彼らとのあいだには絶対的な断絶があったのである。言語によるコミュニケーションは成り立たず、触れることも話しかけることすらままならない――そんな孤独な状態が一年あまり続いた。そうしたなか、ある時、いつものように果てしなくつながらないやりとりを繰り返していた著者は、ふと気づく。「何ができるか」「何かしてあげたい」といった思いが自ずと消えていき、ただ彼らの傍らにいて、そのパフォーマンスをそのまま受け取る――それだけでよい、と思える自分がそこにいた。それまで続いていた「場」が切断され、これまで出会ったことのない、新しい「私の世界」が不意に立ち現れた瞬間だった。著者のなかで何かが確かに変わったように感じられた。
 もちろん、これは彼らの存在があってこそ可能になったことである。おそらく、場の切断によって、自分の内に潜在していた、まだ見ぬ〈ワタシ〉が、彼らの存在を通じて引き出された(ファシリテートされた)のだろう。それも、著者にとっては無為ともいえる、彼らのただそこにある「表現」によってである。そして、自身の内に多様な〈ワタシ〉が存在することに驚くとともに、その多様性の幅が広がれば、新しい表現が彼らとのあいだに生まれ、より善い関係性を築くことにつながる、そう感じられるようになった。そのためには「待つこと」が必要になる。そう気づいたとき、著者の心は一気に解き放たれた。その瞬間、著者がこれまで唱えてきた「共創」│すなわち、「互いに目標を共有し、一緒になってそれを実現していく創造的活動│」(三輪、前掲書、二八三頁)を超えた、新しい「共創」のかたちが、はじめて垣間見えたのである。
 
てあわせ表現――感覚の臨界点から始まるbecoming
 著者は、てあわせ表現(第Ⅱ章を参照)のワークショップにおいて、ファシリテータと組んだ際、触れ合った手を通して、言葉で言い表せないような感覚に突如として襲われたことがある。まさに火花が散るような出来事であり、その前と後では世界がまったく異なって感じられた。この瞬間は、「内」と「外」の境界がふっと消え去ったかのようであり、一瞬、場すら感じられなくなったのである。おそらくこれは、意識から自由になった「素の身体」の現れであり、同時に、「素の感性」が立ち現れた瞬間だったのだろう。ここでいう「素の身体」とは、意識によって制御された運動から解き放たれ、他者や環境に対して自然発生的に響き合う、生成の根源としての身体の状態を指している。今、振り返ってみると、この瞬間こそが「あっ!」であり、「becoming」の起点であったのだと実感される。もし、新たな表現的世界が自身のうちに生まれるとすれば、それは「私と私の世界が共に変容する」という経験として訪れるだろう。そして、その変容は、意識ではなく身体のはたらきによってこそ可能になるはずである。
 てあわせ表現は、互いにイメージを共有し、一つのまとまりのある表現を創り上げることを目指すものではない。むしろ、表現のなかで生まれるイメージは、それぞれ異なっていてよく、その違いを通じて〈ワタシ〉の生成に出会うことこそが本質である。他者の表現に応答しながら、自身のなかに何かが生成されていくような関係が、そこには立ち上がっている。このような実感は、参加者の言葉――「あなたと表現を創りあえてよかった」、「私のなかに何か新しいものが生まれた」――によっても裏づけられている。したがって、てあわせ表現とは、〈ワタシ〉に生(な)ることを通じて、それぞれの可能性を他者とともに創りあげていく共創過程に他ならない。この〈ワタシ〉に生(な)るということは、私の世界が変容していくことであり、すなわちbecoming である。その意味で、てあわせ表現は、becoming に向かう身体表現技法とみなすことができる。重要なのは、becoming は、「表現する身体」から始まるという点である。そして、そのbecoming のプロセス自体が他者と共有されるとき、「私」は消え去り、素の人間が立ち現れ、「表現の等価性」が身体の深層にまで滲みこんでいくのである。障害の有無や年齢の違いにかかわらず、すべての表現は等価である――そのことを「表現する身体」でつかみとることは、DEIを内側から支えることにもつながる。ここでいう「等価な表現」とは、発話能力や運動能力の違いや有無にかかわらず、すべての身体がもつ創造性を等しく価値あるものとして受け止める態度を指す。すなわち意味の強弱によって評価するのではなく、身体が世界に対して開かれているという「あり方」そのものに価値を見出すことに他ならない。
 
そして、becoming――風として立ち現れる身体
 共創における身体のはたらきには、共存在感を生み出すbeing としてのはたらきとは別に、「生る」感覚をもたらすbecoming としてのはたらきがあることが、てあわせ表現の実践から明らかになってきた。このことは自他を区切るdoing――すなわち「する・される」の関係――と、自他を区切らないco-being――すなわち「共存在」の場――という二つのはたらきだけでは不十分であり、そこにbecoming が加わることによって、はじめて共創が成就することを示している。本書全体を貫く革新的な視点が、まさにここにある。もちろん、doing とbeing の重要性が失われるわけではない。becoming はそれらに新たな次元を接続する第三の契機として捉えられるべきである。
 では、doing, being, becoming は、共創とどのように関係しあっているのか。それを技術的、実験的、実践的に明らかにしようとする試みが、第Ⅱ、第Ⅲ章で述べる「てあわせ表現」と「シャドウ・メディア」の研究である。そこから導きだされたことを簡単に言えば次のようになる。
 「共創」における「創(創造)」を問うとき、私たちの理性はしばしば、「する(doing)」と「ある(being)」という二項対立的な枠組みのなかで思考しがちである。しかし、becoming はまさにその枠組みを越えて、予期せぬかたちで立ち上がる。確かに私たちの経験としては、まずdoing とbeing のズレを感じ、それが何らかの出来事によって変容したように捉えがちである。しかし、現場に身を置く者の感性は、創造の現実がまったく逆の軌跡を描いて出現することを直観している。すなわち、「あっ!」という閃光のような瞬間こそがbecoming をもたらし、「being」や「doing」を行う私は、becoming に伴われて後から発現してくるのである。
 本書が強調したいのは、私たちが「ズレ」を意味あるものとして感じとるとき、その背後にはすでに becomingという生成的な出来事が起こっている、という点である。出来事に触れてしまった身体が思わず動き、ただ「なってしまった」としか言えない瞬間に、〈ワタシ〉が立ち上がる。言い換えれば、becoming はズレの結果ではなく、むしろズレを生み出す出来事の契機そのものである。その瞬間、人は「共創感」に包まれ、「表現する身体」は「創造する身体」へと変容する。こうした体験を経てはじめて、私たちは〈ワタシ〉に生(な)るという生成の出来事を通じて、「表現の等価性」に触れることができるのである。
 次に挙げるのは、身体表現ワークショップのファシリテータとして、西が語った詩である。

「風はわたしになる。その風はわたしに吹く。そのとき風はあなたになり、その風はあなたに吹く。世界は風にあふれている。」

 この言葉は、ファシリテーションの本質をとらえていると同時に、共創におけるbecoming のあり方を見事に言い表している。だがこれは、ファシリテータに限られた経験ではなく、本来は誰もが体験しうるものである。むしろ、「創造する身体」の本質を的確に捉えたものと言えるだろう。ここで重要なのは、「わたしが風になる」のではなく「風はわたしになる」という倒置にある。「創造する身体」は内であり外であり、いや、もはや内と外の区別すらなく、自在に振舞うことによって、「他なるもの」に開かれ、「他なるもの」に気づくことができる。そのとき、風は自ずとわたし(=〈ワタシ〉)になるのである。つまり、「わたし」という主体が立ちあがる以前に、創造の起点としての「身体のはたらき」が存在している。「創造(表現)する身体」はそのまま「風になる」といってもよいだろう。風が身体に映る(あるいは移る)ことによって、風はわたしに吹き、新しい「私」と「私の世界」がそこに生まれる。そして同時に、風を媒介として、新しい「あなた」と「あなたの世界」もまた立ち上がる。こうして、世界は多様かつ多重な風であふれることになる。このような解釈が妥当かどうかは、あらためて西洋子に確認すべきであろうが、少なくともここには、「根源的受動性」とも呼ぶべき身体のはたらきが強く示唆されている。それは意識の深層から立ち上がる「素の身体」の力であり、そこから自然に響き出る「素の感性」としても現れる。いずれも、自らの意図を超えて〈ワタシ〉が生成されてしまう出来事を触発する契機であり、becoming が立ち上がる原点にほかならない。
 以上から明らかになるのは、共創における「創」とは、「共」から形式的に導かれる集合知のようなものではない、という点である。むしろそれは他者(モノや環境も含む)の表現を身体が感受し、その感受のうちに「何か」が〈ワタシ〉になってしまう│その「瞬間」に深く関わっていると考えられる。いずれにせよ、共創は、doingとbeing にbecoming を加えた三者の相互作用によって生まれる。それらを媒介するのが身体のはたらきであり、そこで生起するものこそが本書で取り上げる「表現」なのである。そのような立場から、著者らはこれを「共創表現」と総称してきた。そこでは、高齢者であろうと子どもであろうと、障害の有無を問わず、「身体でただ表現する」ことにこそ本質がある。てあわせ表現とは、まさにそのような共創表現の実践に他ならない。
 植物が植物になっていくように、人間もまた、人間へとbecoming していく。それはアリストテレス(Aristotelēs)が語った「キネーシス」から「エネルゲイア」への転回とも響き合う出来事である。このとき人は、初めて「表現の等価性」によって裏打ちされた「共創センス」を身に帯びることができる。それは、DEI(多様性・公平性・包摂性)を内側から貫く感受性であり、人と人とのあいだに愛を育むための、繊細かつ根源的なセンスでもある。
 このような視座に立つとき、「共創学」の創造と体系化は、今まさに切実に求められているのではないだろうか。本書では、doing とbeing に加え、becoming という第三の視点から共創を捉えなおすことによって、「創ること」そのものが、他者との出会いと変容のプロセスであることを示す。ここで提示した実践と理論の断片が、共創の思想と方法を深化させ、拡張していくための一つの出発点となることを願っている。
 
 
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