あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
バリー・アイケングリーン 著
小浜裕久 監訳/浅沼信爾 解題
『世界大恐慌とリーマンショック』
→〈「訳者まえがき」「序章 歴史の活用と誤用」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「訳者まえがき」「序章」本文はサンプル画像の下に続いています。
訳者まえがき
本書は、Barry Eichengreen, Hall of Mirrors : The Great Depression, the Great Recession, and the Uses─and Misuses─of History (New York : Oxford University Press, 2015)の全訳である。「Hall of Mirrors」というと、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の回廊」を思い起こす読者も多いだろう。歴史を写す鏡と言いたかったのか、鏡が曇っていると歴史を正しく理解できないと言いたかったのかもしれない。邦題は、サブタイトルから、わかりやすく『世界大恐慌とリーマンショック』とした。
同じ著者の『とてつもない特権:君臨する基軸通貨ドルの不安』(勁草書房、2012年)同様、浅沼さんが長い「解題」を書いてくれたので、短く「まえがき」を書きたい。
この本の翻訳の話が始まって、あっという間に10年の月日が流れた。この遅れは、ひとえに監訳者の怠惰と加齢による生産性低下による。分担して翻訳してくれた友人たち、編集を担ってくれた勁草書房の宮本詳三さんには、大変な心配と迷惑をかけてしまった。なにはともあれ出版にこぎ着けることができて、ほっとしている。
かなり大きな本なので、いつものように、以下の友人たちに分担して翻訳をお願いし、監訳者と宮本さんで翻訳原稿の調整にあたった。
翻訳分担:
小浜裕久 静岡県立大学名誉教授(序章、第9章〜第12章、第22章、終章)
織井啓介 敬愛大学国際学部教授(第1章〜第4章)
長谷川純一 元国際協力銀行(JBIC)開発業務部長(第5章、第6章)
渡邉正人 政策研究大学院大学(GRIPS)政策研究院特任教授(第7章、第8章)
冨田陽子 元セーコロ21(翻訳・研究図書出版)(第13章〜第16章)
上田善久 弁護士、元パラグアイ大使(第17章)
石川 薫 川村学園理事、国際教養大学名誉客員教授(第18章〜第21章)
浅沼信爾 元一橋大学国際・公共政策大学院教授(第23章、解題)
井戸清人 元財務省国際局長、元日本銀行理事(第24章〜第26章)
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。鉄血宰相ビスマルクの言葉だという。戦後の世界秩序を大きく変える動きが懸念される現在、「歴史に学ぶ」ことの大切さは高まっている。
『幕末開港と日本の近代経済成長』(勁草書房、2021年)にも書いたように、明治の初め、岩倉使節団はビスマルクに会っている。明治のリーダーたちは、「万国公法」に基づく条約改正を目指していた。当時、弱肉強食が支配している国際社会をルールによって規制するモノとして万国公法を歓迎していたのだ。明治6年(1873年)3月31日、ビスマルクは岩倉使節団を招いた宴で、自らが小さな新興国プロシャを率いて列強と奮闘した経験を踏まえて、外交は一見「万国公法」によって行われているように見えるが、結局は力だ。「大国」は、自国に「利」があると思えば「公法」を守るが、ないと見れば、「兵威」によってこれを覆す。「小国」は、必死に「公法」に拠ろうとするが、そんな努力は「大国」の力の前に吹き飛ばされてしまうのだ、と述べたという。
宮本さんとの付き合いは、大川一司編『日本と発展途上国』(勁草書房、1986年)以来だから、かれこれ40年。アイケングリーンは本書の「あとがき」でオックッスフォード大学出版会の編集者やエイジェントとの本作りが「最後にならないように」と書いている。さあて、宮本さんとの本作りが、これからも続くでしょうか。
2025年12月
小浜 裕久
序章 歴史の活用と誤用
この書は金融危機について書かれた本である。なぜ金融危機が起こったのか、なぜ政府や市場はあのように反応したのか、そしてその結果について論じている。
2008〜09年の大不況(Great Recession)と1929〜33年の大恐慌(Great Depression)という現代のわれわれが経験した2つの金融危機を分析したものだ。政策専門家だけでなく、この2つの金融危機の共通点はよく知られている。多くの論者が今回の「2008〜09年の大不況」への政策に関連して「1929〜33年の大恐慌の教訓」を論じている。今回の大不況が1930年代の大恐慌とよく似ていることから、大恐慌の教訓に立って考えようとするのはもっともなことだ。連邦準備制度理事会(FRB:Federal Reserve Board)議長のベン・バーナンキも、オバマ大統領の経済諮問委員会委員長のクリスティーナ・ローマーも、研究者時代には歴史的アプローチで分析していたから、今回の危機を1930年代の経験から見ようとするのはもっともなことだ。
政策担当者が過去の失敗から教訓を得ていたので、最悪の事態は避けることができた。リーマン・ブラザーズが破綻して世界の金融システムは崖っぷちまで追い詰められたが、政策担当者はこれ以上巨大金融機関の破綻はさせないと明言し、実際そのとおりになった。1930年代、多くの政府は保護主義の誘惑に負け、近隣窮乏化政策がとられて、国際取引が急激に縮小した。各国政府は時代遅れの考えに支配されていて、最悪のときに公共支出を削減し、景気刺激が必要なときに均衡財政政策を実施した。減税も行った。大恐慌のとき、アメリカではハーバート・フーバーが、ドイツではハインリッヒ・ブリュニングがとった政策だ。このような政策がますます景気を悪化させ、公共政策に対する信認を回復することはできなかった。
一方中央銀行家は、実需に合わせて貨幣を供給すればいいという信念(真正手形主義)にとりつかれていた。ブームのときは貨幣供給を増やし、景気後退のときは貨幣供給を減らすから、ブームもスランプも振れ幅が大きくなった。中央銀行家は金融システムの安定性の維持に責任があることを忘れ、「最後の貸し手」としての役割を果たすことをしなかったのである。その結果、銀行の連鎖倒産(破綻)が起き、企業が必要とする資金は枯渇した。物価は急落し、企業の債務は返済不能になった。皆が読んでいるアメリカ金融史の本の中でミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツは、中央銀行の政策を真っ向から批判している。1930年代の経済破綻は、いろいろな要因があったとしても、最大の原因は中央銀行の政策にあると結論付けている。
2008年の危機に際し、政策担当者は過去の経験に照らしてうまく対処したといえる。金利を下げて金融市場に資金をたくさん供給した結果、デフレと不況をもたらしたなら、政策担当者は拡張的な金融財政政策をとればいい。銀行のパニックが金融の崩壊を招いたなら、銀行部門の改革に敢然と立ち向かえばいい。もし財政均衡を目指した結果不況が悪化したのなら、財政政策で経済を刺激すればいい。もし国際協調の失敗が世界の不況を悪化させたなら、各国の政策協調がうまくいくように、個人的なネットワークと国際機関を活用すればいい。
さまざまな政策がとられたが、2010年のアメリカの失業率は10%に達した。確かに10%の失業率は高いが、大恐慌時の25%に比べるとかなり低い。大恐慌のときは何千もの銀行が経営難に陥ったが、今回は何百という単位だ。金融市場は混乱したが、1930年代のような金融市場の全面的な崩壊はうまく回避できた。
アメリカで見られたことは、他の国でも同じだった。うまくいかなかった国は、それぞれ国の事情によって経済困難は違うが、2008年に始まる不況でも国によって違いがあった。ヨーロッパのいくつかの国も不況に陥ったが、1930年代のように酷いことにはならなかった。生産は低下し、失業も増え、社会も混乱したが、大恐慌の頃と比べて経済政策も進化していたので、混乱はそれほど深刻ではなかった。
まあそう言って間違いないだろう。
でも事はそうは簡単ではない。経済危機を予想できなかったのだ。よく知られているが、エリザベス女王が2008年にLSE(ロンドン大学政治経済学部)を訪問した際、並み居る専門家に「なぜ皆さんは今回の経済危機を予想できなかったの」とお尋ねになった。半年後、有力な経済学者数人は女王に書簡を送り、「われわれは想像力の欠如で経済危機を予測できなかった」と謝罪した。
過去の不況、経済危機を見ると、いくつかの類似点がある。1920年代のアメリカで、フロリダでは不動産ブームがあり、北東部や中北部でも非住宅不動産ブームだった。21世紀初めのアイルランドやスペインで当時のアメリカ同様、不動産ブームがあった。将来の値上がりを見越してハイテク情報企業の株価が高騰した。1920年代ではラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA:Radio Coporation of America)が、最近ではアップルやグーグルだ。資金供給が爆発的に増え、資産ブームが起きた。控えめに言ったとしても、銀行や金融システムの慣行が大きく変わったことは間違いないだろう。1925年以降の金本位制が、1999年からのユーロ・システムが金融市場混乱の波及を大きくした。
経済政策は進歩してきたので、政策で景気循環には対処できると考える向きもあるが、完全ということはない。1920年代、アメリカでは連邦準備制度が確立され、他の国でも独立した中央銀行ができて、「新しい時代」に入ったから経済の安定性は確保されたといわれたものだ。戦後も2008〜09年の大不況(Great Recession)までは「大安定期(Great Moderation)」という言葉に象徴されるように、中央銀行の政策のおかげで景気循環はほとんどなくなったと思われていた。その結果、経済活動の大きな波動は起こらないと信じて、商業銀行はそれまで以上にレバレッジを効かせ、投資家はリスクをとるようになった。
大恐慌を経験したのだから、不況の予兆くらいわかりそうなものだろうと思う読者もいるだろう。確かにいくつかの不況の兆しは知られているが、不完全なものだった。イェール大学のロバート・シラーは1920年代の資産市場を研究し、いまでは住宅バブルの兆候についてかなりのことがわかってきている。シラーでさえも2008〜09 年の大不況があれほど酷いことになるとは予測できなかった。ハーバードの大学院生時代、ノリエル・ルービニは大恐慌の授業をとったはずで、アメリカの経常収支赤字の拡大とドル債務の膨張の危険性を警告していた。しかし、ルービニが警告したようなドルの暴落は起こらなかった。
大恐慌の歴史の研究者や経済専門家は、確かに有意な存在だが、大不況を見通せたわけではない。経済専門家も将来経済の後退が起こる可能性を指摘はしたものの、「大安定期(Great Moderation)」の合唱のなか、不況を警告する声は大きくはなかった。政策担当者も自己満足に陥っていて、市場にも不況の予兆はなく、差し迫った危機に備えることはしなかった。
専門家がなぜ金融危機を予測できなかったか。危機の原因はたくさんある。貸出の膨張も、資産バブルも、危機に対処する政策が進歩したという誤った考えだけでなく、誰も予期できない偶発的原因で起こることもあるのだ。1931年にドイツの銀行団がドイツのドナ銀行の救済に失敗したとか、イギリスの金融庁が2008年のリーマン・ブラザーズの破綻に際してバークレイズのリーマン・ブラザーズ買収を認めなかったとか。第一次世界大戦の勃発もそうだったが、金融危機も先のことをあまり考えない予期せぬ異常な考え方によって起こった。金融危機は、確かにシステムの問題もあったが人的な要因もあった。1920年代には、南部のJ・P・モルガンと言い放ったロジャーズ・コールドウェルがいたし、住宅金融組合をノーザン・ロック銀行に改組した自信過剰で元気満々の若いアダム・アップルガースは、急速に信用拡大を図り、信用不安に陥った。彼らの行動は自分の銀行の経営危機を引き起こしただけでなく、金融システムの根幹を揺るがした。逆に、ニューヨーク連銀の有能すぎたベンジャミン・ストロングが1928年に死ななかったなら、ジャン=クロード・トリシェが独仏の妥協で本来の任期の半分だけ欧州中央銀行の総裁になるという変則的なことが起こらなかったら、金融政策はもっと効果的なものになっていただろう。
不況に直面して、失業率は上昇し、力強い回復を後押しできなかったことを見ると、経済政策が進歩して経済不況をある程度押さえ込めるというわけにはいかない。2007年半ばにサブプライム住宅ローン市場は崩壊し、アメリカの不況はその年の12月に始まった。金融システムがどれくらいの影響を受けるか、どれくらい生産が低下し失業が増えるかを予想した人はほとんどいなかった。大恐慌の原因は銀行危機・金融危機だったが、その経験が政策担当者に活かされることはなかった。
銀行の破綻が大恐慌を引き起こすと誤解したのだろうか、政策担当者は、ヘッジファンド、短期公社債投信(MMF:money market funds)、コマーシャル・ペーパー発行者といったシャドーバンキングではなく、市中銀行に集中して対処しようとした。バーゼル合意は、市中銀行中心に国際業務を行っている金融機関の自己資本比率などの国際統一基準のことである。規制は一般に市中銀行に集中した。
預金保険もあるが、市中銀行の預金に対しては上限がある。1930年代の個人預金者の銀行取付があって連邦預金保険制度ができたので、取付による危険は避けることができると考えられてきた。誰もが1946年の映画「素晴らしき哉、人生(It’s a Wonderful Life)」を見たことがあると思うが、いまのバンカーはジェームズ・ステュアート演ずるジョージ・ベイリーとは違うと思っているだろう。でもビジネスをやっていると大きなお金を動かしているので10万ドルの預金保険はまったく安心できない。ビジネスマンは預金で仕事をしないで他の銀行から借り入れるから、預金保険があっても銀行システムを安定化させることはできない。
もちろん、預金保険がヘッジファンド、MMF、特別目的投資事業体への信頼が高まったということもない。預金保険があったからといって1930年代のような恐慌を防ぐことができたわけではない。政策担当者は大恐慌の歴史の枠組みで経済を見ていたので、金融システムが当時とは全然違うものになっていたことを見逃していた。しかも彼らは目の前の危機に目を奪われて、それ以外の要因を見落としていた。
具体的に言えば、リーマン・ブラザーズの破綻を許してしまった。リーマンは市中銀行ではないから預金はない。だから1933年ヘンリー・フォードのガーディアン銀行グループの破綻が他の銀行に波及して銀行取付が起こったような危機が来るとは思いもしなかったのだ。
シャドーバンキングがどういうものなのか理解していなかったのである。短期金融資産投資信託(MMMF)の中にリーマン・ブラザーズの短期債券が含まれていて、リーマンが破綻したときビックリした人たちが取付に走ったのである。その結果、多くの投資家たちが投資銀行への不安を抱き、揺らぎつつあった証券化市場の崩壊に導いたのだ。
ヘンリー・ポールソンの財務省は、長官から下の方まで、リーマン・ブラザーズのような危機に陥った金融機関を救済する権限もなかったし、大きなショックを与えずに破産させる仕組みもなかったというだろう。何もせずに破産させるしかなかったのだと。あたかもリーマンが突然経営不振に陥ったというのだろう。金融規制の担当者は、半年前、投資銀行のベア・スターンズの救済をしたのに。2008〜09年の経済危機の最大の政策の失敗は、経営不振に陥ったノンバンクに対処する権限が財務省にも連邦準備制度にもなかったということだ。銀行の危機に対処するため復興金融公社(Reconstruction Finance Corporation)が1932年に設立されたが、経営不振に陥った金融機関に資本注入する権限がなかった。その後1933年の危機に直面して議会は緊急銀行法(Emergency Banking Act)を制定して資本注入ができるようになった。バーナンキ議長や他の専門家はこの歴史を知っていただろうに、有効に危機に対処できるように制度を変えるには至らなかった。
リーマン・ブラザーズの破綻もそうだが、政策がうまく機能しなかったのは、ある意味歴史の教訓でもあったのだ。もちろん、政策担当者がモラルハザードを懸念したということもある。リスクをとりすぎて経営が傾いたとしても国が救済してくれるというのだ。ベア・スターンズの救済でも、政府はモラルハザードを生むと批判されたのだ。リーマン・ブラザーズを破綻させた裏には、この批判があった。フーバー大統領のときのアンドリュー・メロン財務長官が言った「清算主義(Liquidationism)」は、1930年代の恐慌に際して「非効率な企業を退場させる」という主張だが、いまでもこういう考え方がまったくなくなったわけではない。
政策担当者は、財務省と連邦準備制度に追加的な権限を与えようとしても、救済措置に飽いている議会が反対するだろうと思っていた。一般的に言えば共和党は政府介入に反対する。突き詰めると1933年のような銀行・金融システムの壊滅的危機が起こらないと政治家は行動しないのかもしれない。
リーマン・ブラザーズが破綻したあと、政策担当者は新たな不況の瀬戸際にあることを知っていた。先進工業国のリーダーは口をそろえて金融システムを崩壊させることはないと明言した。動きが遅い議会も銀行や金融システムを支援する「不良資産救済プログラム(TARP:Troubled Asset Relief Program)」を創設した。政府は次から次へ不振に陥った金融機関に資金を注入していった。財政支援も発表され、各国の中央銀行も資本注入を推し進めた。
しかしその結果は芳しいものではなかった。どこから見てもアメリカ経済の回復は緩慢だった。ヨーロッパはもっと酷く、W型の不況(double-dip recession)に陥り2010年に二番底に入った。この安定化政策はうまくいかず、歴史の教訓を学んだはずの専門家が言うような力強い経済の回復は実現しなかった。
金融危機からの回復は、普通の不況からの回復より緩慢であるという。経済成長は金融システムの棄損によって低くなってしまう。銀行はバランスシートを正常に戻したいと考えるので、貸出を控えるようになる。家計部門も企業も、巨額の債務を抱えていて、返済可能な債務水準に戻そうとして支出を抑えるようになる。
政府はもっと踏み込んだ行動もする。銀行が貸出ができないときに政府が貸すのだ。家計部門や企業に政府が資金を貸す。不況下だから、資金を供給してもインフレの懸念は小さい。不況だから金利は低いので、財政赤字でも公的債務問題はそれほど心配しなくてもいい。
経済が正常化するまで政府は続ければいい。1933年から1937年の間、そこそこ政府はその政策を続け、アメリカの経済成長率は年率8%であった。比較すると、2010年から2013年の期間の成長率は2%にすぎなかった。8%成長が可能だったというわけではない。どれほどの成長が実現するかは、不況による落ち込みがどれくらいだったかによる。アメリカ経済も世界経済も、もっと成長する可能性はある。
なぜ経済成長が加速しなかったか、何の不思議もない。2010年からアメリカもヨーロッパも緊縮政策に舵を切ったのだ。アメリカ復興・再投資法のもと、オバマ政権は積極財政をとったが2010財政年度をピークに財政支出は低下し始めた。2011年夏、オバマ政権と議会は1兆2000億ドルの歳出削減に合意した。2013年にブッシュ政権の高額所得者への減税政策が終わり、労働者の社会保障信託基金への積立金が減り、連邦政府の支出が一律8・5%削減された。その結果、総需要にも経済成長にもマイナスの影響があった。
ヨーロッパの緊縮政策はもっと厳しかった。ギリシャでは歳出はどんどん拡大し、緊縮政策の実施は不可欠だった。しかしながら2010年に始まったEC、ECB、IMF(トロイカ)監視下の構造調整は、これまでに見られないほどの包括的なものだった。トロイカは、3年間で歳出削減と税収をGDPの11%増やすように要求し、ギリシャ全体の支出を1割以上減らすことを求めたのである。ユーロ圏全体で見れば、不況で公共支出以外の項目も増えていなかったにもかかわらず2011年は財政赤字を少し削減したが、2012年は大きく減らした。ユーロ圏の外にいて自国で金融政策を選択できるイギリスでさえ、財政支出を削減し、トータルでGDPの5%もの増税を実施した。
危機に直面して中央銀行はさまざまな例外的政策を実施して危機から脱しようとした。連邦準備制度は3次にわたる量的金融緩和(QE:quantitative easing)を実施し、何か月も国債(treasury bonds)や不動産担保証券(mortgagebacked securities)を購入したが、目標インフレ率の2%を下回って経済成長も元気がなかったにもかかわらず国債などの買い入れを増やそうとはしなかった。2013年の春と夏に量的金融緩和の縮小(tapering)の意向が示され、金利は上昇した。経済成長率を2%上昇させようとしている経済にあって、これは望ましい処方箋ではなかった。
もし連邦準備制度が景気刺激をしようとしなければ、欧州中央銀行(ECB)はあまり手を出さなかった。2010年、根拠はよくわからないが景気回復は目前であり異次元緩和はそろそろ手仕舞いにすると表明した。2011年の春と夏、2度にわたり金利を引き上げた。なぜヨーロッパ経済が回復しないでさらに次の不況に入っていたかを理解するために、歴史を振り返ってみよう。
どうしてこのような異常な政策転換が起きたのか、歴史的に考えてみよう。中央銀行は、本務としてインフレを恐れる。特に1923年のハイパーインフレを経験しているので、ドイツの中央銀行は他のどの国よりもインフレにきわめてセンシティブだ。ECBはブンデスバンク(ドイツ連邦銀行)と同じ構造を持っているのでヨーロッパの政策もインフレに極めてセンシティブだ。ジャン=クロード・トリシェECB総裁はドイツ人と同じようにインフレと戦う姿勢を見せた。
アメリカは1920年代だけでなく歴史上ハイパーインフレを経験していない。でもワイマール共和国が経験したハイパーインフレの危機が迫っているという論者もいる。1930年代の経験を考えれば、恐慌寸前で金利がゼロで設備が過剰な状況では中央銀行はインフレをあまり気にせず資金注入をすることができるが、そのような歴史の教訓は忘れ去られていた。バーナンキ議長や連邦公開市場委員会のメンバーのような中央銀行の有能な専門家は、よくわかっていたと思う。でも彼らは批判に神経質だった。批判が感情的になり、議会が強くドルの切り下げに反対すると、連邦準備制度の理事たちは連邦準備制度の独立性に不安を抱く。その結果、経済が正常に戻ったと思える水準より前に金融政策を正常に戻そうと思う。
中央銀行家が、これまで経験しなかったような不動産担保証券を購入するといった異次元金融緩和にまで踏み出すと、批判はますます強くなる。連邦準備制度が2014年まで続く不動産担保証券の購入を続けると、住宅バブルになるんじゃないか、恐慌になるんじゃないかと批判は強まった。低金利が続くと金融機関が過大なリスクをとるようになる恐れがあるといわれる。これはまさに先に述べたモラルハザードの懸念なのだが、リーマン・ブラザーズを救済しなかったという政策判断につながるものだ。
ECBの場合、モラルハザードの懸念は金融市場ではなく政治家に向いている。中央銀行が経済成長を後押ししようとすると、政府は過剰な支出をしがちになり、改革は遅れ、リスクはどんどんふくれあがるようになる。ECBは財政の健全化、構造改革も促進できるようになった。財政赤字の縮小は経済成長にマイナスの影響がある。
財政政策の場合、景気刺激策を継続しても初めに約束されたことは全部は実現しない。政治家はできそうもないことを言いがちだし、危機に直面すると人々は財政出動がうまくいくと思ってしまう。政策の失敗かそれ以外の要因によって不況なのかを区別して考えなくてはいけない。短期の需要創出のための財政出動と中期の財政健全化を両立させないといけないが、なかなか難しい。ギリシャのように財政赤字を縮小し公的債務を減らしつつ財政健全化を図らなければならない国と、ドイツやアメリカのようにそうする余裕がある国を区別して考えなくてはならない。不況にはさまざまな要因が絡んでいるが、ひとつ言えることは、前述した区別がついていないことだ。
大恐慌の経験により、われわれはケインズをはじめとする多くの学者の研究から財政刺激策について学んだが、多くは忘れ去られてしまった。ケインズは主に言葉で経済を考えたが、その後の学者たちは、直感を数学的に証明することに力を注いだ。その結果、数学的分析そのものが意味ある分析のようになってしまった。アカデミックな研究は、一般的で、合理的で、操作しやすくて、エレガントなものになった。合理的主体は、すべて効率的に最大化するのだ。だから政府が間違いを犯さない限り間違いは起こらない。このような考え方に基づいた経済モデルによれば政府の介入は危機の原因であり、回復の遅れの原因なのだ。フレディマック(連邦住宅金融抵当公庫)とかファニーメイ(連邦住宅抵当公庫)といった政府系機関による市場介入が、危機をもたらした住宅金融市場での過剰介入であり、政府介入への不信が回復の遅れの原因だというのだ。
誰でもわかるように、財政出動も政府による介入で、経済学者たちはいいことではないと考えるのだ。経済モデルでは、いま財政赤字を出して政府が支出を増やしても、人々はどうせ将来赤字を埋めるために増税されると考えて自分の消費は増やさないというのだ。一時的に財政支出を増やしても、ケインズが言うほどの効果はないということだ。それ以上に、一時的に財政支出を増やしても何の効果もないという論者もいる。五大湖周辺の大学にいるいわゆる淡水学派の経済学者(freshwater economists)は、この考え方に飛びつくだろう。バーナード・ショーが言っているように、経済学者をたくさん集めて問題解決の政策を聞いても、結論は出ないのだ。最も基本的な経済政策を聞いたとしても、彼らは合意できない。
ヨーロッパでもケインズの理論は確立されていなかった。ワイマール共和国での放漫財政とハイパーインフレの記憶から、ドイツの経済学者は赤字財政下の公共支出に懐疑的で、政府は契約履行の強化と競争の促進に重点を置いていた。これは、「淡水学派」の言う「政府は悪、民間は善」という単純な思想よりは少しは進んだ考えだが、景気刺激からはなるべく早く脱して緊縮政策に移行すべきという考え方だ。
この政策転換は理論的根拠も曖昧で、実証的にも根拠は弱い。二人のアメリカ人経済学者が、公的債務がGDPの90%になると成長が減速するという証左を示している。債務がたくさん蓄積されると経済成長に悪影響が出ることには誰も異論はないだろうが、90%という数字には疑問が呈された。アメリカとイギリスの公的債務水準は90 %に近づいていたが、ユーロ圏全体では90%を超えており緊縮財政に転換するという政策担当者には都合が良かった。「90%ルール」の正否はともかく、EUのオリ・レーン経済金融問題委員の政策転換は便利だったろう。
二人のイタリア人経済学者は、増税ではなく公的歳出削減による緊縮財政政策はケインズ政策に反する可能性を指摘している。1980年代、1990年代のイタリアのように、巨額の公的債務があって、金利が高く、税金が高い国ではAlesina and Ardagna(2010)の主張は当てはまるだろう。そういう状況だと、歳出削減は政府に対する信認を高め、民間投資を高める可能性がある。イタリア経済に当てはまるからといって、債務の水準が低い国でも妥当するかはわからない。金利がゼロに近い国でも当てはまらない。ユーロ圏の国は、自国通貨を切り下げることはできないので、国内需要を減らして輸出を増やすという政策はとることはできない。先進国全体が不況に陥ったなら、輸出を増やすこともできない。
アメリカの下院で財政赤字の専門家を自認するポール・ライアンは、拡張的財政再建は不可能ではないという。EU諸国の財務大臣も大臣会合のあとの記者会見や共同声明で同じようなことを言うこともある。政治家たちは財政再建は経済拡張的だということもあるし、緊縮政策は痛みはないし良いことばかりだともいう。でも現実はそれほど甘くはない。緊縮政策そのものを目的としていて痛みも利益も関係ないという人を除けば、緊縮政策は経済にきついショックを与える。
緊縮政策をとる際、政策担当者が一番気を遣うのはその痛みをいかに小さくするかだ。大恐慌を避けることはできた。緊急事態は何とか脱したというだろう。いかに早く正常な政策に戻ることができるかを気にかける。1930年代のような大恐慌にならなかったのはそのとおりだが、経済が元気を取り戻すことに失敗したのは皮肉なことだ。
マクロ経済政策に当てはまることは金融改革にも当てはまる。アメリカでは、投資銀行業務と市中銀行業務を分離するグラス=スティーガル法が制定された。証券市場監督のために証券取引委員会(SEC:Securities and Exchange Commission)ができた。1999年、グラス=スティーガル法に代わる法律が必要だという声があがったが、必ずしも望ましい規制改革ではなかった。ドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法(Dodd-Frank Wall Street Reform and Consumer Protection Act of 2010)が制定され、金融機関の投機的取引を規制するために消費者金融保護局(Consumer Financial Protection Bureau)ができた。しかし大銀行が分割されたわけではない。実際は逆だ。「大きすぎて潰せない(too-big-to-fail)」問題に対処する改革はまったく進んでいない。グラス=スティーガル法は、投資銀行業務と市中銀行業務を厳しく分離したが、証券引受業や保険業などさまざまな金融分野のきちんとした線引きはできていない。
大恐慌と今回の大不況の違いは、前述したように、政策担当者が最悪の事態を回避したことにある。1930年代の大恐慌のときは深刻で、銀行も証券市場も崩壊してしまったので金融制度そのものへの信頼が失われてしまった。今回の大不況では、ぎりぎりのところで恐慌も金融崩壊も避けることができた。その結果、いまの制度はそれほど悪くないとみんな思うようになった。それで根本的な改革の気分は弱められた。改革を後押しする気分は小さくなった。政治家の多くはそんな気になったので改革の気運は弱くなった。成功は失敗の母なのだろう。
アメリカで規制改革をするには、共和党・民主党と2つの政党が合意すればよいだけだが、EUでやろうとすると27か国が合意しなくてはならない。EU加盟国の政府は、ドイツを含めてすべて平等の建前だ。このジョージ・オーウェルのようなヨーロッパで、小さな国がわが道を行くとすると問題が生じる可能性がある。欧州安定機構(ESM:European Stability Mechanism)のもと、スペインの経済危機を救済しようとしたときのフィンランドの態度がそれにあたる。改革を実施しようとすると、ユーロ圏の中だけでなくそれ以外のEU加盟国も合意しなくてはならない。銀行家のボーナスを制限しようとしたとき、イギリスは欧州司法裁判所(European Court of Justice)に提訴した。
この難しさを知るには、銀行同盟との協議を振り返るのがよいだろう。ユーロの創設によって、ヨーロッパの銀行は結びつきを強めた。しかし銀行と加盟各国の金融規制の調整はうまくいかなかったのである。ユーロ圏は一つの通貨と一つの金融市場なのに、気も遠くなりそうなことに27か国の金融規制(国立銀行規制当局)がそのままだったのだ。危機に陥った銀行の問題を解決するには、一つの監督機関、一つの預金保険機構、一つの問題解決制度が必要だった。EUの金融システムの信認を高めるには、銀行同盟(Banking Union)を創設しなくてはならない。
2012年、危機が一番酷かったとき、EUの首脳たちは銀行同盟の創設に合意した。一つの銀行監督機関の創設にも合意した。交渉の過程は大変だった。強い銀行制度の国は中央集権化された監督官庁は気に入らなかった。ちゃんとしていない銀行が危機に陥ってそれを救済し、その国の人たちの預金を一つの預金補償制度のもとで補償するのは面白くないというのだ。ドイツのメルケル首相などは、この制度が効率的に運用し資金を供給できるようにEU条約を改訂すべきだという。しかし別の国はEU条約の改訂には議会の承認が要るので反対する。時には国民投票にまで話が進むのでEU条約の改訂は大ごとなのだ。
それでヨーロッパの首脳たちは半分だけ合意したのだ。銀行監督機関は130の大銀行だけを監督し、一つの預金保険機構と危機解決制度は後で考えることにした。
27か国からなるEUで、物事を決めるのがいかに大変かがわかる。しかしこのことはEUが通貨統合を進めていることの証しだといえる。危機に陥った国に対する緊急融資制度やECBがその国の国債を買い入れる仕組みを持っており、ユーロ・システムの崩壊を防ぐ仕組みが整っているといえよう。このように制度が整いつつあるということは、銀行同盟をもの凄く急ぐこともないともいえよう。これも失敗は成功の母だといえよう。
ヨーロッパは金融同盟として機能しており、1930年代の金本位制のようなことはなく、驚くべきことに今回の危機でもきちんと対応した。1920年代末、金本位制は経済安定、金融安定のすぐれた仕組みだと考えられていた。1914年から1924年の間、世界経済はうまく運営されていた。しかし第一次世界大戦後に改定された金本位制は安定的でもなかったし続けられるものでもなかった。1931年の危機を防ぐことができたというよりいろいろな問題に発展したといえる。多くの資金が効率的に外資を利用できない国に流れたし、政府の政策対応力をダメにした。結果は銀行取付であり、国際収支危機であり、投資家は政府が銀行も通貨も守れないことを知ったのである。金本位制から脱したことで、彼らは経済規律を失ったのである。通貨が不足したときは、紙幣を印刷することができるようになった。政府は銀行システムを救済することができるようにもなった。恐慌を防ぐためにいろいろなことができるようになったのである。
ユーロを創設した人たちは、この歴史を知っていた。1992年から1993年の欧州為替相場メカニズム(Exchange Rate Mechanism)崩壊も知っていたし、ヨーロッパの通貨が登山家のロープのように互いに結びつけられていることも理解していた。彼らは、新しい金融制度を前よりも強固なものにしようとし始めた。各国の通貨を固定相場で結ぶのではなく、単一通貨を創設しようとしたのだ。単一通貨だから、自国通貨を切り下げることはできない。ユーロ・システムは、各国の中央銀行によって規制されるのではなく、一つの中央銀行、すなわち欧州中央銀行(ECB)によって規制されているのだ。
重要なことは、通貨統合条約には脱退の規定がないことだ。1930年代の金本位制は、法律改正や議会の承認が必要な場合もあったが自国だけで離脱が可能だった。しかしユーロから離脱するには条約の義務を無効にし、他のEUメンバーとの友好的関係を混乱させるリスクを負う。
金本位制の問題を避けつつユーロを設計していた人たちは、交渉相手を説得した。安定化という幻想を作り出して、ユーロ・システムは、1920年代と同じく大量の資金流入をきちんとコントロールできない南欧諸国に大量の資金を流入させた。資金流入が流出に代わっても、各国の中央銀行は紙幣を印刷することもできないし、政府が資金を借りることもできないし、結果として1930年代同様不況に陥った。危機に陥った国が何かしなければいけないことは明らかだった。それができなかった政府を支援しなければならなかった。ユーロは金本位制のような仕組みにいくのではないかという議論も盛んにあった。不況に陥った国はユーロを離脱するというのだ。その国が嫌だというなら、他の国に入れ替えればいいというのだ。そんなことをしたら、最悪、民主主義の危機だ。
それは歴史の教訓の読み違いだ。1930年代、各国が金本位制を離脱したとき、国際貿易も資金の流れも崩壊した。今回の不況では、ヨーロッパ諸国は、そのような悲劇を回避した。単一市場を守りヨーロッパ内での貿易・資金の流れを維持するため、ユーロを守らなければならない。1930年代、政治的連帯が恐慌のきっかけともなった。危機の予感があったが、今回の不況では危機が予感された各国政府は1930年代と比べて格段の進歩を遂げた国際機関の協力を得て共同して事にあたった。経済的余力のあったヨーロッパの国々は危機にさらされる国に融資を行った。もっと大きな融資も可能だったが、1930年代を比べれば大きな融資であった。
ユーロ・システムが崩壊したら民主主義の危機であったが、それは起こらなかった。激しいデモもあった。政権も倒された。しかし民主主義は生き残った。大恐慌の経験からできた福祉国家制度やセイフティーネットが崩壊するという悲劇的予言は現実のものとはならなかった。一番経済的打撃を受けたヨーロッパの国の失業率は大恐慌時と同じく25%を超えたが、全体的な経済の落ち込みは大恐慌時と比べて小さかった。それで政治的な反発も弱くなった。このことからも現行システムをやめようという考えを弱めた。
世界大恐慌の経験は今回の大不況への対応に影を落としている。いかに歴史を活用するか、あるいは間違って利用するかは、恐慌の歴史をいかに分析研究するかだけでなく、恐慌に対処すべく発達したさまざまな制度を研究しなくてはならない。世界大恐慌以前の1920年の発端から研究しなくてはならない。











