あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
髙宮正貴・市川秀之・杉田浩崇 編著
『教育と政治を編み直す 規範的教育学の再構築』
→〈「序章 教育と政治を編み直す」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「序章」本文はサンプル画像の下に続いています。
序章 教育と政治を編み直す
髙宮正貴・杉田浩崇・市川秀之
一 教育学と政治学をつなぐ意義
学校教育が政治から中立であるべきだという考えは未だに根強くある。しかし、その一方で、ESD(持続可能な開発のための教育)が典型的だが、教育を通じて包摂的で公正な社会を実現するべきだとも言われる。また、近年の日本の教育改革の主要な参照枠となっているOECDのEducation2030 ではウェルビーイングが教育の目標とされているが、ウェルビーイングには個人レベルでのウェルビーイングだけでなく社会レベルのウェルビーイングが含まれている(白井 2020)。これらの事例において、包摂や公正、ウェルビーイングは政治的な価値であり、教育が広義の政治と切り離されるべきではないことが含意されている。したがって、教育が「不当な支配に服する」べきではないという点で教育は政治から自律すべきである一方で、教育と政治は密接に関わるべきだと考えることも可能である。こうして近年の教育哲学では、教育学と政治学を接合させる試みが様々になされてきている。小玉重夫が提唱する「教育政治学」は、そうした試みの代表的な事例である。
小玉の教育政治学は「教育の再政治化」を主張するが、それには二つの側面がある。一つ目は、教育という営みを政治的なものという観点から捉え直すことである。つまり、教育という営みの政治性や統治性を明らかにすることである。小玉によれば、戦後の教育学では、「教育価値(ママ)の自律性、独立性を擁護することに研究の比重が置かれてきた」(小玉 2016: 140)。たとえば、勝田守一に代表される冷戦期の「リベラルな教育学」は、「子どもの発達」の概念に依拠することで、「教育的価値の中立性」に依拠して教育学の「脱政治化」を促した(小玉 2016: 15-16)。それに対して、教育政治学は、教育そのものがもつ政治性を明らかにする。たとえば、アルチュセール(Althusser, L. P.)に従えば、家族と学校は「主要なイデオロギー装置」である(小玉 2016: 115)。
とはいえ、小玉の教育政治学の特徴は、イデオロギー装置としての学校という指摘にとどまらない。ここでは、フレイザー(Fraser, N.)による「再分配か? 承認か?」という枠組みを借りて、小玉の教育政治学の成果を簡潔に示してみよう(フレイザー 2012)。
小玉にとって、ロールズ(Rawls, J.)のリベラリズムは、資源と富の公正な「再分配」を行う政治の典型と見なされ、ボウルズ(Bowles, S.)=ギンタス(Gintis, H.)らによって乗り越えられたものとして批判されている。その一方で、小玉は、アイデンティティ・ポリティクスに基づく「承認」の政治をも批判する。小玉は、アレント(Arendt, H.)の公共性論に依拠しながら、固有のアイデンティティ(what)を自己認識するラディカル・デモクラシーが閉鎖的な共同体同士の敵対に転化してしまい、自己と異質な他者との関わりの契機を排除してしまうと批判する(小玉 1999: 203)。それに対して、小玉はアレントの公共性論に依拠して、アイデンティティ(what)に基づく敵対性の政治ではなく、異質で多様な人々が互いに「誰か(who)」として公共的空間に現れる複数性の政治を描き出す。
しかし、小玉はアレントの複数性の政治という概念だけではなく、アレントの「構成的権力」あるいは「憲法制定権力」の概念も援用する。すなわち、アレントによれば、権力をどのように制限するかではなく、どのようにして権力を樹立するかという問題が重要である(小玉 2016: 137-138)。それゆえ、アレントに従えば、政治から切り離されるべき教育、あるいは国家から介入されるべきではない教育という、戦後の日本で長い間主流だった考えではなく、むしろ権力をどのように創るのかということが教育の課題になる。この点で、アレントの政治哲学が、次に示すシティズンシップ教育をめぐる主張と結びつく。
このようにして、「教育の再政治化」の二つ目の側面として、以上の理論的側面を前提にした上でのシティズンシップ教育の実践をめぐる主張が生じる。すなわち、教育政治学は、政治的に脱色された「発達」の概念に依拠するのではなく、教育という営みが政治的なものであることを前提とした上で、民主主義を担う市民の育成を学校教育の中で積極的に行うことを主張するのである。
以上が小玉の教育政治学の概略である。ここでは、「教育の再政治化」をめぐる小玉の主張について二つの問題を提起したい。第一に、「教育の再政治化」という規範の正当化に関わる問題、第二に、小玉のアレントの解釈の問題である。
第一の点について、たしかに、小玉の教育政治学からすれば、価値や規範について大人が「これが正しい」と教えるのではなく、価値や規範について「考える市民」を育てるシティズンシップ教育が主張されるので、「教育は○○であるべきである」ことを正当化する規範理論は不要なのかもしれない。しかし、教育を政治的なものと見なすことから、教育を「政治化」すべきだという結論が直ちに導かれるわけではない。たしかに、「教育の再政治化」という主張は、単に規範的な命題というよりも、福祉国家の再編をめぐる時代分析を前提にしたものではある。しかし、それと同時に、小玉は、「教育は政治的ものである」ことを前提に「教育を政治化すべきである」という結論を導き出しているが、この推論の妥当性を規範理論の観点から検討する余地がある。そこで、本書の第Ⅰ部では、教育の規範、特に正義をどのように導き出すことができるのかという問題について、規範的政治理論と教育哲学を接合させる可能性を探る。
しかし、「教育はこうあるべき」という規範を提示することは、同時に、「現実の教育はそうなっていない」という認識を生み出す。公教育の対象である子どもにとっては、「○○できるべき」という規範が、「○○できる子」と「○○できない子」という分割を生み出す。だとすると、規範理論を提示することそれ自体がもつ権力性や排除の問題を避けることはできない。小玉自身が主張するシティズンシップ教育も、それ自身が一定の育成すべき市民像という規範を含む。そうした規範を提示すること自体が生権力になりうるのではないかという問題がある。このように規範のもつ権力性を問い直し、批判するための視座として、本書の第Ⅱ部では、生政治論を援用して教育の権力性について考察する。
小玉の教育政治学に対する第二の疑問は、小玉が依拠するアレント解釈をめぐる問題点と、そこに含まれている教育関係の非対称性をめぐる問題についてである。
もちろん、小玉はアレントだけに依拠して教育政治学を構築しているわけではない。しかし、アレントが小玉の理論的支柱の一人である以上、なぜ小玉がアレントの思想のある側面を軽視するのかを再考する余地がある。その側面とは、子どもは「保護」されるべき存在だというアレントの主張である。アレントは、「子供は、[発達するために]世界から破壊的なことが何一つふりかからないように特別の保護と気遣いを必要としている」(アレント 1994: 250)と述べている。だからこそ、アレントは学校を政治的領域と見なすべきではないと主張するのだが、小玉はむしろ学校を政治化しようと言う。
小玉は、勝田守一らの「冷戦期教育学」が依拠した近代的な発達論と保護された存在という子ども論から、ツリーからリゾームへ、発達から生成へ、子どもからインファンスへというポストモダン的子ども論に移行していると論じている(小玉 2021)。しかし、子ども論の思想史的変遷を追うことが、近代的な発達論を廃棄すべきという命題を正当化するのか。ここでも、思想史的研究とは別に、規範理論による正当化論の必要性が示唆される。
また、規範理論とは異なる視角からではあるが、西村拓生の次の指摘は重要である。「アレントの公共性論の根底には、人間の生を「個体としての生命、すなわち誕生から死に至る生の物語としての輪郭をもつビオス」と「生物学的な生命としてのゾーエー」という二つの位相に分ける発想がある」(西村 2013: 89)。そして、政治的公共性一般については、前者のビオスのみが重要であるとしても、「教育的」公共性を構想する際には、ビオスだけでなく生物学的な生命であるゾーエーも組み込まなければならないのではないか、と西村は問う(西村 2013: 90-91)。要するに、政治的公共性ではなく、教育的公共性を構想する際には、政治的なものだけでなく、しばしば私的なものと見なされてきた「子を産み、育てる」という営みも無視できないのではないか、と。実際、アレント自身が、子どもは発達のために特別な保護と気遣いを必要とすると述べていることはすでに見た通りである。
西村のアレント解釈に依拠するならば、小玉が言及しない「子を産み、育てる」といういわゆる私事は、むしろ教育の公共性にとって不可欠な構成要素であると捉えられる。それに関連して、小玉のように政治的なものを私的なものや社会的なものよりも優位に置く発想はフェミニズムとケアの倫理によって批判されつつある(岡野 2024)。この批判に依拠するなら、教育の公共性と公教育を考える際には、私的なものや社会的なものを公的なものに従属させるのではなく、私的なもの、社会的なもの、政治的なものを連続的に捉えることもできる。たとえば、「家庭の道徳的等価物としての学校」を提唱するマーティン(Martin, J. R.)の「スクールホーム」論はその実例である(マーティン 2007)。
心理学者のギリガン(Gilligan, C.)が提唱したケアの倫理が(ギリガン 2022)、教育哲学者であるノディングズ(Noddings, N.)によって教育の領域に持ち込まれたことは、以上の点から見て必然的である(ノディングズ 1997)。アレントは、政治的領域の原則は「平等」だとするが(アレント 2016)、ケアリングはケアする人とケアされる人の非対称性を前提とする。もちろん、ケアする人がケアを必要する場合もあるが、教師と子どもの教育的関係においては、通常は子どもの方がケアされるべき存在である。それは、生物学的、発達的、社会的に、子どもの方が大人よりも傷つきやすいからでもある。
このように教育をケアの視点から語ることは不可欠ではあるが、同時に、ケアの営みは教育以外にもあることから、改めて「教育的な(る)もの」とは何かが問題になる。そこで、本書の第Ⅲ部では、教育と政治を接合させる上で、単なる政治一般にも、また単なるケア一般にも回収されない「教育的な(る)もの」を語ることはいかにして可能かを探究する。
こうして本書は、正義、生政治、人間形成という三つの問題領域を対象に、教育をめぐる「べき」や望ましさについての規範を導き出しつつも、その規範を問い直し、批判するための「規範的教育学」を構築することを目的とする。
次節では、第Ⅰ部から第Ⅲ部の各部で何を問題とするのかをもう少し詳細に見ていくが、その前に本書で採用する研究の方法論について述べておこう。本書で提示しようとする「規範的教育学」は、価値と科学あるいは規範と事実の峻別という方法論をめぐっては、小玉の教育政治学よりも包括的なアプローチを採用する。小玉は「価値と科学を峻別」しない「脱行動論革命」(小玉 2016: 108)に依拠している。しかし、価値と科学または規範と事実の関係については、小玉が想定している存在論的または解釈学的な把握の仕方がすべてではない。規範と事実の関係については、大雑把に分けるなら、①規範と事実を峻別できる、かつ峻別すべきだと考える立場と、②規範をもある種の事実と見なし、あるいは規範と事実は峻別できずに混ざり合っていると考える立場がある。①は、実践理性と理論理性、すなわち自由の領域である道徳と必然の領域である自然の因果法則とを峻別するカント(Kant, I.)とカント主義の倫理学に加えて(カント 2022)、道徳的事実と自然的事実を峻別する分析的政治哲学の立場である(マクダーモット 2011)。一方、②は「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(ヘーゲル 2001: 25)とするヘーゲル(Hegel, G. W. F.)の弁証法的思考が典型であり、解釈学、正統派マルクス主義、批判理論、コミュニタリアニズム、いわゆるポストモダニズムに共通する立場である(マクネイ 2011)。
この分類に基づくなら、教育の存在論的機制に関する探究を重視する小玉の教育政治学は②の立場に依拠するため、①の立場には冷淡であるように見える。小玉は「いま、教育研究に求められているのは、そうした再政治化と多義性を読み解く社会科学的視点と共に、その中から選択されるべき新たな公教育のビジョンを探究する人間学的視点である」(小玉 2016: 140)と述べているが、おそらくそこに①のカント主義の倫理学や分析的政治哲学が入る余地はなさそうである。しかし、「規範的教育学」は、②の弁証法や解釈学などの立場とともに、①のカント主義の倫理学や分析的政治哲学などによる規範の探究も重視する。
(以下、本文つづく。注番号と傍点は割愛しました)





