《ジェンダー対話シリーズ》第12回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?――対談後記

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2026/7/28By

 

『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』は、どこからきたのか・どこへ行きたいのか――ケアの倫理との比較を通じて
平山 亮

 
 この対談は、ケアの倫理の議論を批判的に検討するために行われました。ケアの倫理は、それが最初に提唱された発達心理学の分野を超え、今やさまざまな学問分野においてケアを考える場合の有力な枠組みとなっています。そのように幅広く受け入れられているケアの倫理に対し、わたしたちは恐れ多くも異議申し立てをしようとしてきたわけですが、わたしたちが自分たちの議論とケアの倫理のそれとの距離をきちんと考えようとしたのには理由がありました。というのも、わたしたちの共著本『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』(以下、『ケアする私』)のカギ概念であるSA(sentient activity)と、ケアの倫理が重視する他者のニーズへの注視や考慮といった営みが同じように見えるために、わたしたちの言っていることはケアの倫理と重ねて理解されることがしばしばあったからです。
 
 たとえば山根さんもわたしも、「あなた(たち)の言ってるSAって、ジョーン・トロントが言ってるcaring aboutのことでしょ」と少なからず言われたことがあります。『ケアする私』のなかでも強調してきた通り、依存的な他者が生きられるよう試みるときには「この人には何が必要で、何をしてあげたらいいのか」に頭を悩ませることになりますが、これがcaring about、つまり、ニーズに注意を向け、それについて考えることだと言われたら、少なくともやっていることだけ見れば「その通り」としか言いようがありません。でも、だからといって、わたしたちが言わんとしていることはケアの倫理の枠内に収まることなのか。ケアの倫理の論者たちがすでに言ってきたようなことを、わたしたちはただ繰り返しているだけなんだろうか。「そうではない」という私たちの回答は、『ケアする私』の終盤になって表明されているものの、それを十分に詰められないまま締めてしまったこともたしかです。それゆえにこの対談は、わたしたちにとって「やり残した宿題」を片付けるために行われたと言えます。
 
 対談を通してクリアになったのは、ケアの倫理とわたしたちは、同じような営みを対象としながらも、それをどのように見るかが大きく違う、ということでした。「ケアとはふつうこうするもの」、「ケアする際にはふつうこのような経験をするもの」として、ケアの倫理の議論がケアについて語る際の所与の前提としているものは、わたしたちにとっては検証の対象、「それって本当にそう言えるのか」「そう理解してしまってよいのか」を批判的に問い直す、当のものだったからです。
 わたしたちの議論がケアの倫理と決定的に違うところは、これまでのケアの議論のそもそもの前提からとらえ直そうとしているところです。「女性のほうがケアに必要な何かを身に着けている」というケアをめぐるジェンダー論の「常識」も含め、わたしたちはこれまでのケアの議論において、「ケアとはふつうこういうもの」という一般的に受け入れられてきた理解をそのままに、議論を進めることには否定的でした。というのもケアに関するそういう「ふつう」は、ケアをめぐる不正義を生み出しているこの社会のシステムを、前提としているからこその「ふつう」だからです。したがってその「ふつう」をなぞってケアについて考え続ける限り、そうした不正義を根っこから取り除く試みはどこかで挫かれ、システムの延命に手を貸してしまう。だからこそ、わたしたちはケアを議論するための枠組みそのものから仕立て直す必要があり、それゆえに『ケアする私』のサブタイトルは「見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために」だったのです。
 
 『ケアする私』は、ケアに関するあらゆる「ふつう」を批判的に問い直すわたしたちのプロジェクトの、いわば中間レポートに当たりますが、わたしたちがそうしたプロジェクトに取り組んでいるのは、それが社会学者としてのわたしたちにできる「しんどい」からの解放のプロジェクトだからです。現場の支援者ではないわたしたちは、ケアする人々のもとへ赴いて、それぞれの人々が抱えるそれぞれの「しんどい」を、個別に何とかしようとすることはできません。しかしながらわたしたちは社会学者として、そのような「しんどい」が、なぜ・どのように幅広く経験されてしまうことになったのかを辿ることはできます。
 もしそのような「しんどい」が、この社会でケアする人々に共有されているのだとしたら、それはこの社会における「ふつう」のケアのあり方に由来している。では、この社会において、ケアをそのようなものとしてしか理解も実践もできないと思えてしまうくらい「ふつう」になっているケアのあり方は、どのようにして成り立っているのか。言い換えれば、どのような構造を前提としているからこそ、それがケアにおける「ふつう」になっているのか・そう思えてしまうのか。そうやって、いわばケアにおける「ふつう」の成り立ちを明らかにしようとしているのが、わたしたちのプロジェクトです。そしてそれは、「しんどい」の淵源、すなわち、この社会でケアを行う上での「ふつう」を変える端緒を見つけるためにこそ必要だからです。
 
 端的に言えばわたしたちは、依存的な誰かの生存や生活を支える営みを、現在ケアとして知られているもの、ケアと言えば「ふつう」こういうものとされているものから、できるだけ変えてしまいたいのです。『ケアする私』のなかでわたしたちは、SAの難しさとそれを行う大変さを可能な限り「見える化」しようとしてきましたが、それは、ケアに携わる限りそういう難しさ・大変さに直面し続けるのは避けられないことだと言いたくて、そうしているわけではありません。そうではなくて、そういう難しさ・大変さが当然で不可避のものではなくなるにはどうしたらよいかを考えたくて、そうしているのです。そのためにこそ、現在の社会のあり方を前提とした場合のケアする私(たち)の「しんどい」と、その「しんどい」がどこからくるのかを、まずはできる限り分節化しようとしてきたのです。
 
 翻ってケアの倫理の議論では、現在の社会のあり方ゆえのケアの「ふつう」を、ケアにおける普遍の事実として議論を組み立てているようにわたしたちには見えました。ケアの倫理が、「ふつう」のケアの大変さとその価値を訴え、そうしたケアを人々みんなで行う社会を目指していることは、『ケアする私』のテーマのひとつである「ケア責任の社会的分有」とも一見重なるように思えるかもしれません。しかしながら、ケアの倫理において価値づけられている「ふつう」のケアのあり方とその大変さは、わたしたちの分析では現在の社会制度(の不備)によって「つくられた」ものであり、したがってその大変さは制度的条件しだいで変えられるし、変えるべきというのがわたしたちの立場です。逆に、われわれの社会が現在ケアとして知っているもの、すなわちケアにおける「ふつう」をそのままに、それを皆で分かち合う社会を目指してしまえば、そのような社会では「ふつう」に貼りついた「しんどい」は固定化されることもあるのではないでしょうか。要するにわたしたちは、ケアの倫理が価値づけているようなケアのあり方そのものを、批判的に検討する必要性を考えているのです。
 
 ケアの倫理とわたしたちの立場の大きな違いは、ケアという営みのこの社会での扱われ方を変えるために、それに特有の道徳観や思考の様式を必要とするかどうかです。ケアの倫理の議論は、ケアとして一般的に理解されているしごとがこの社会で軽んじられすぎている、と主張しますが、その主張自体にはわたしたちも賛同します。というよりも、依存的な誰かの生存と生活を支えるしごとがこんなにも低評価で低賃金なのはどうしてか、という問いは、フェミニズムにおける長年の問いでもあるはずです。
 これを覆すために、ケアの倫理の議論では、ケアを遂行する上での特別な何かを提示しようとしています。たとえば、子どもを育ててきた母親には、子育て以外の営みでは身に着けられないような特別な思考の様式を学んできているのだ、というように。そして、そういう思考の様式の意義は、この社会ではこれまで顧みられてこなかったけれど、ほかの様式ではかなわないような「よきこと」を可能にしうる、価値あるものの見方、考え方なのだ、と。
 
 それに対してわたしたちは、そういうケア特有の何かがあるとは想定していません。『ケアする私』のなかでも対談においても指摘した通り、他者のニーズを注視し配慮することは、わたしたちの社会において、およそケアとは考えられていないしごとをする際にも行われていますし、男性たちだってあちこちで行っています(必ずしもニーズへの注視や配慮と見なされていないだけで)。ここから言えることは、ニーズへの注視や配慮(を要するしごと)のなかには、一定の評価を受け、そのコストを補償されるなど、社会によってある程度「守られて」いるものと、そのように「守られて」はいないものがあるのではないか、ということです。とりわけ問題なのは、依存的な誰かに対してそういうしごとを行う人には、私的な関係のもとでそれを行う場合であれ、職業としてそれを行う場合であれ、著しい不利益がもたらされるように資源配分が行われている(というより、必要な資源が配分されていない)ということでしょう。わたしたちが問題にしてきたのは、こういう資源配分の構造であり、だからこそ、依存的な誰かのためにそういうしごと(ニーズへの注視や配慮も含め)を行う際の「しんどい」は、どのような資源がどこでどのように不足しているためかを分析してきたのでした。
 
 要するに、わたしたちが問題にしているのは、ケアに必要な資源を手に入れることも、その資源が足りないことによる不利益も、ケアする人任せにされていることなのであって、そのしごとをしている人が身に着け実践している特別な何か(ほかにはない稀有な道徳観だとか思考の様式だとか)がきちんと評価されていないことでは必ずしもないのです。というよりも、仮にそんな特別な何かを身に着け実践してそのしごとをしていなかったとしても、そのしごとに携わる上でもたらされるリスクやコストは、制度的にきちんと軽減・解消されなければいけない、とわたしたちは考えているからです。
 急いで付け加えると、これは別に、ケアに携わることで習得できる特別な何かなどない、と言っているわけではありません。たとえば『ケアする私』のなかで論じたように、さまざまなケースに携わってきたケアワーカーには、「こういう場合にはこういうふうにするとうまくいくかもしれない」という経験にもとづく「引き出し」を多数持っている人もおり、これは正当に評価されるべき「熟練技能」だと言えるでしょう。家族として子どもや要介護高齢者の世話に当たるケアラーたちのなかにも、意思疎通の難しい相手が発するさまざまなサインを読み取り、ここではどのように接したらよいかを試行錯誤の末に編み出している人がたくさんいます。ここでのポイントは、そういう「熟練技能」を持っていようといまいと、そのしごとに携わることで構造的にもたらされる社会生活上の不利益はできる限りなくさないといけない、ということであり、そうした生活の保障は「熟練技能」の多寡とは関係なく行われるべき、ということです。
 
 これは、あくまでわたし個人の考えであり、それゆえにここに限っては主語を「わたし」にしておきますが、わたしはケアの倫理の議論を読んだときに、これってメリトクラシー(身に着けた能力や業績によって評価と報酬がもたらされるシステム)の発想と何が違うんだろう、と思ったことを告白しておきます。道徳観にせよ、思考の様式にせよ、ほかにはないすばらしい「頭の使い方」を学び、それを実践しているからこそこのしごとは評価されるべき、という主張は、逆に言えば、そういうすばらしい「頭の使い方」をしていないのであれば軽んじられたままでよい、と言っているのと同じことだからです。
 これに対しては、いや、どんなしごとにもそれぞれ貴重な「頭の使い方」があるんだ、という「みんなちがって、みんないい」の考え方で立ち向かうのもひとつの手かもしれませんが、わたしはむしろ、そのしごと特有のすばらしい何かがあるかどうかなんて関係ないほうがいいのに、と思ってしまうのです。仮にどんなに見方を変えたところで、そこに価値ある「頭の使い方」を見出せなかったとしても、そのしごとに携わることでその人の社会生活に不利益がもたらされるのだとしたら、それはやはり公的な制度によって何とかしてもらわなければいけない。そのような考えのもと、現在のケアをめぐる不正義を訴え変えていこうとするほうが、基本的人権の観点からはよほど「倫理的」にわたしには思えるのですが、どうでしょうか。
 
ケアの「ふつう」を疑い、個人に押し付けられるケア責任の淵源を問う。「しんどい」からの解放に向け言葉を紡ぎ続けるお二人による『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。[編集部]
 
 
【プロフィール】山根純佳(やまね・すみか) 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了、博士(社会学)。山形大学人文学部准教授、実践女子大学人間社会学部教授を経て、現在名古屋大学大学院環境学研究科教授。ジェンダー研究、再生産・ケア労働論。著書に『なぜ女性はケア労働をするのか──性別分業の再生産を超えて』、『産む産まないは女の権利か──フェミニズムとリベラリズム』(ともに勁草書房)、『岩波講座 社会学』シリーズ(岩波書店)編集委員など。
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程、オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。東京都健康長寿医療センター研究所研究員、大阪公立大学准教授を経て、現在同志社大学社会学部教授。家族社会学、老年社会学、ジェンダー研究。著書に『介護する息子たち──男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房)、『男性学基本論文集』(共編訳、勁草書房)など。
 
 
 

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
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