あとがきたちよみ
『想起する絵、記憶する演劇――「原爆の絵」現象は継承か、それとも教育か』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/9/4

 
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山名 淳 著
『想起する絵、記憶する演劇 「原爆の絵」現象は継承か、それとも教育か』

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はしがき
 
 「次世代と描く原爆の絵」プロジェクトは、広島の原爆投下にまつわる絵の制作を通して被爆体験証言を支援する営みとして位置づけられている。被爆体験証言者が原爆投下時の光景を語り、高校生がその語りに耳を傾けながら絵画を制作する。その過程を約八か月にわたり定期的に観察させていただいたことがある。その際、証言者がときおり「こんなもんじゃない」と口にされる場面に出会った。この言葉の意味を、今も考え続けている。
 高校生が差し出した絵に対して、「ここはこう描き変えた方がいいよ」と具体的な助言がなされることがあった。その文脈で発せられる「こんなもんじゃない」にはとまどいはなかった。しかし別の場面では、証言者自身が「こうであった」と明確に表現することの難しさに直面しているようにみえることがあった。思い出される出来事のなかには、視覚的な「光景」に収まりきらないものが含まれているのかもしれない。想像を絶する心身の痛みなどは、言葉や図像ではたしてどのようにして、またどこまで表現できるのだろうか。かりに表現がなされたとして、どこまで、またいかにして人はその表現を受け止めることができるのだろうか。「こんなもんじゃない」という言葉の奥深さに、私はまだ十分に到達することができていないと感じている。
 一般に、自分の経験を誰かに語る場では、相手に伝わりやすいように言葉を選び、また語りの順番を整えようとする働きが自ずと生じるものだ。観察させていただいた「原爆の絵」プロジェクトの打ち合わせ会でも、そのような様子は見られた。起承転結のようなストーリーラインに整理して語るということは、そうしたことの一例だろう。原爆投下のその場にいたことをめぐる複雑さや表現のしがたさをいったん自分に引き寄せて心のどこかにとどめながら、相手に理解しやすいように言葉を紡ぐことが試みられているように、私にはみえた。だが、理路整然とした語りの繫がりのあいだに、記憶の底から立ち上がる言葉の断片のようなものが現れることがあった。そうした場合、言葉の配列への配慮が背景に退いて、往々にして情念の熱量をもってその言葉が繰り返された。数か月間の打ち合わせ会のなかで、言葉と言葉のあいだにふと生じる空白も含めて、語り手と聴き手のあいだに何かがゆっくりと積み重なっていくように感じられた。
 「原爆の絵」プロジェクトは、たとえば語り手が明確なイメージを唯一の正解として保持し、受け手がそれを忠実に複写できているかを確認する営みではけっしてない。答え合わせのような作業はここでは成り立たない。「こんなもんじゃない」という言葉は、言語や図像によって構築される表現世界のさらに向こう側にあるとしか言いようのない、表象不可能な領域の方向を指し示していたように思われる。その言葉は描き手を責めるものではもちろんなく、むしろ語り手自身にも向けられていたかのようにも感じられることがあった。
 「プロジェクト」と聞くと、確立された活動のパッケージのような印象を抱きがちである。だが、「原爆の絵」プロジェクトは常にある種のもどかしさと隣り合わせである。そのもどかしさは取り除くべき何ものかではなく、むしろこの活動が成立するための重要な前提条件でもある。思えばヒロシマの想起文化は、内なる「こんなもんじゃない」という声と向き合いながら形成されてきたのではないだろうか。峠三吉が原爆詩を編む際に核心に迫る作品を選び抜こうとしたとき、丸木位里・俊が《原爆の図》の迫真性を追求し続けたとき、広島平和記念資料館の被爆再現人形やジオラマの制作者たちが「本物らしさ」を求めて試行錯誤したとき。そうした表象に触れるとき、内なる「こんなもんじゃない」という声が響いてくるように感じられることがある。
 「原爆の絵」プロジェクトの観察で私が目撃したのは、ヒロシマの想起文化の根底に横たわるそうした声との対話が生じる貴重な瞬間だったのではないか。いつの日か、この声との直接の対話を欠いた表現活動が求められることになる。二〇二五年に「戦後八〇年」を迎えたことは、「それはいかにして可能か」という喫緊の問いに向き合うための重要な機会でもあった。
 「原爆の絵」プロジェクトのような過去の経験を伝える営みは、一般に〈記憶の継承〉と呼ばれている。だが、そもそも〈記憶の継承〉とはいったい何を意味するのか。「原爆の絵」プロジェクトに関する考察のみならず、過去の記憶を伝えようとする文化の問題を深く考えようとする者ならだれもが共通して突き当たるこの問いに本書も向き合うことになる。「記憶」も「継承」も自明ではない。記憶という語によって何をどのように論じるべきか。それはいかなる営みとして理解されるべきか。「原爆の絵」プロジェクトとその演劇化にかかわる方々が、ご自身の貴重な経験を自らの専有物とせず、〈記憶の継承〉をめぐる根本問題をともに考えるために差し出してくださったことに、心から感謝申し上げたい。なお、本書において関係者の方々に言及する際に基本的に敬称を略させていただいている。ご寛恕いただければ幸いである。
 
 
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