あとがきたちよみ
『新装版 パース著作集1 現象学』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/10/1

 
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チャールズ・サンダース・パース 著
米盛裕二 編訳
ジミー・エイムズ 新装版解説
『新装版 パース著作集1 現象学』

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訳者解説──パースの現象学について
 
米盛裕二
 
はじめに
 本巻には現象学に関するパースの著作を編訳して収めた。編訳といっても、『チャールズ・サンダース・パース論文集』(C・ハーツホーン、P・ワイス、A・バークス編、全八巻、以下『論文集』と略記)に収められている現象学関係の著作から抜萃し、若干再編して訳出したものである。訳出には十分腐心したつもりであるが、しかし正直に言ってパースの現象学的著作は甚だ難解で、一般の読者によく理解できるように訳出するのは容易ではない。精密論理学と形而上学から成り、さらに数学、物理学、生物学、生理学、心理学、倫理学、美学などの多領域に及ぶパースの博識が入り混った現象学の内容そのものも難解であるが、その上パースの独特の用語法もかれの思想にあまり親しんでいない読者には解り難いであろう。それにT・ゴウジも言うように、「すぐれた編集にもかかわず、『論文集』は断片的で、繰り返しが多く、体系がない。」特に現象学に関する著作はほとんど遺稿で、研究ノートの断片、未完の著書原稿、講義録などの寄せ集めであるため、おそらく未推敲のために生じたと思われる間違いや意味のとり難い部分が多々あり、論述もしばしば途切れていて、著しく体系を欠いている。これらの難点は『論文集』から抜萃した本巻では改めようもないので(ただし、未推敲のために生じたと思われる明らかな間違いは訂正した)、訳者にできることはパースの現象学について解説を加え、少しでも訳出の不備を補うことである。なお、『論文集』からの引用は各引用文の末尾に巻数とパラグラフ・ナンバーを示した。たとえば第一巻の一八二パラグラフは(1.182)とした。
(中略)
 
二 哲学の諸部門と体系──特に、哲学における現象学の位置
 以上で見てきたように、パースにとって哲学はわれわれの日常的共通経験の世界を固有の探究領域とし、そこに発見できる限りの真理を発見する実証的発見の科学である。そして哲学は数学に依拠しつつ、特殊諸科学に基礎を与える基礎学である。では、その哲学はどんな部門から成り、どのような体系を成すものであろうか。そして特にわれわれが関心をもっている現象学は哲学的諸科学のなかでどんな位置を占めているであろうか。
 哲学は、パースによると、三つの大きな部門から成る。その第一の部門は現象学(phenomenology, phaneroscopy)であり、第二の部門は規範科学(normative sciences)であり、第三の部門は形而上学(metaphysics)である。そしてそれらの哲学的諸科学もパースの「諸科学の分類」の原理にしたがう。すなわち哲学においてはその第一の部門である現象学が最も抽象的一般的基礎的科学であり、その上に規範科学が基礎づけられ、さらに規範科学によって形而上学が基礎づけられる。こうして哲学的諸科学も現象学から規範科学が導かれ、規範科学から形而上学が導かれるという具合に、真理の井戸に降りていく一種の梯子的体系を形成している。
 現象学の内容については後で改めて詳述するが、ひとことで言うと、現象学はわれわれの日常的共通経験の世界──すなわち日常いつでも誰でも経験する普遍的現象──を直接観察し記述し分析し、それらの現象に遍在する「それ以上分解不可能な要素」(indecomposable elements)を発見する科学である。日常いつでも誰の心にも現われる普遍的現象が現わすのは最も広い意味の「在るもの」、物質的および精神的なあらゆる「存在」(being)であり、その要素とは「存在」の最も基本的な存在様式(modes of being)または普遍的カテゴリー(universal categories)を意味している。現象学はつまり存在一般(being in general)の究極的普遍的カテゴリーを探究する最も抽象的一般的基礎的な存在の科学(the science of being)である。
 哲学の第二の部門である規範科学は現象学から導かれ、現象学の基礎の上に成り立つ。規範科学は「目的すなわちおそらくは真、正、美に対する現象の関係の普遍的かつ必然的諸法則を探究する」(5.121)。言いかえれば、規範科学は現象の理念と規範を探究する科学である。規範科学は三つの下位部門から成る。その第一の部門は美的理念と規範を探究する美学であり、第二の部門は自己統制的熟慮的行為の理念と規範を探究する倫理学であり、第三の部門は自己統制的熟慮的思惟の理念と規範を探究する論理学である。そしてそれらの部門もそれぞれ前に来る部門に依拠する。「美学は理念の科学である。すなわちそれ以外のいかなる理由も考えずに、客観的に賛美に値するものそのものを探究する科学である。わたくしはこの科学についてよく知らないが、しかしそれは現象学に依拠すべきである。倫理学──すなわち正邪に関する科学──は最高善(summum bonum)を決定するのに美学に訴えて、その助力を得なければならない。それは自己統制的あるいは熟慮的行為に関する科学である。論理学は自己統制的あるいは熟慮的思惟に関する理論であり、よって論理学はその第一原理を倫理学に求めなければならない。論理学も現象学に依拠し、さらに数学に依拠する」(1.191)。このように規範科学のなかに美学、倫理学、論理学を含め、そして美学から倫理学が導かれ、倫理学から論理学が導かれるというのは、言いかえれば、「規範には基本的に美的規範と倫理的規範と論理的規範の三つの種類があり、それらの規範は本質的につながっていて、なかでも美的規範はより基礎的であり、その上に倫理的規範が成立し、そして美的規範と倫理的規範の上に論理的規範が成り立つということ」を意味しているであろう。
 哲学の第三の部門は形而上学であり、形而上学には三つの下位部門──存在学(ontology)、宗教的形而上学(religious metaphysics)、物理的形而上学(physical metaphysics)──が含まれる。形而上学は「現象の実在を理解しようと努める」(5.121)。言いかえれば、形而上学は「実在」(real being, reality)の存在様式を探究する。現象学はわれわれの心に現われる現象を、それらの現象が実在に対応するか否かには全く関係なく、ただそれらの現象が現われるままに観察し記述し分析する。そして現象学がそれらの現象のなかに求めるのは、「実在」を含むあらゆる意味の「存在」の最も基本的普遍的様式、つまり「実在」のカテゴリーを含む存在一般の普遍的カテゴリーである。それに対して、形而上学は存在一般のなかの特に「実在」の存在様式と原理を探究する科学である。こうして現象学は形而上学よりもより抽象的一般的基礎的な科学であり、形而上学は現象学によって甚礎づけられなければならない。
 形而上学はまた規範科学に依拠し、直接には規範科学の第三の部門である論理学によって基礎づけられなければならない。すなわち、「形而上学は論理学の諸原理を単に規範的に妥当なものとしてだけでなく、存在についての真理としても絶対的に受け入れることによって得られる諸成果から成立つものである」(1.487)。「〈精密〉論理学がきっと〈精密〉形而上学への踏石となろう」(3.454)。このように形而上学は直接には論理学によって基礎づけられるが、しかし論理学はさらに倫理学に依拠し、倫理学は美学に依拠し、そしてそれらのあらゆる哲学的諸科学は現象学によって基礎づけられる。
 こうしてパースは現象学の基礎の上に厳密な科学的哲学の体系を構築しようと企図している。そして前述したように、パースはさらにその科学的哲学によってあらゆる特殊諸科学を新たに基礎づけ直そうと考えているのである。しかしいまはその科学的哲学の構想にこれ以上立入らない。われわれはそろそろパースの現象学について述べたいと思う。
 
三 現象と現象学
 パースが現象学の構想をいだくようになったのは一九〇〇年前後であり、そして『論文集』で見る限り、かれが「現象学」(phenomenology)という言葉をはじめて使ったのは一九〇二年である。当時パースは特にヘーゲルの影響下にあって、〈phenomenology〉はヘーゲルの『精神現象学』(Phänomenologie des Geistes)からとったものであろう。しかし間もなく(一九〇四年頃から)パースは〈phenomenon〉、〈phenomenology〉のほかに〈phaneron〉(複数は〈phanera〉または〈phanerons〉)、〈phaneroscopy〉というかれの新しい造語を使うようになった。一般に〈phenomenon〉には〈noumenon〉、〈appearance〉には〈reality〉という反対概念があるのに対し、〈phaneron〉はそのような反対概念を含意しない、いわば中立的表現(neutral expression)として用いられているのである。
 現象(phaneron)とはつまり「それが実在の事物に対応するか否かには全く関係なく、どんな仕方においてであれまたはどんな意味においてであれ、心に現われるいっさいのものの総合的全体を意味する」(1.284)。知覚として、イメージとして、概念として、思想として、仮説として、習慣として、その他あらゆるさまざまの仕方で、われわれの心に現われるいっさいのものが現象である。現象とはただ心に現われるものの意であり、日常いつでも誰の心にも現われるものを意味している。パースは言う、「現象ほど直接あらわに観察できるものはほかにはない。そしてわたくしは誰もが完全に親しんでいる現象(あるいはそれらと類似の事象)のほかには何ものにも言及する必要はないので、読者は誰でも、それらの現象についてわたくしがこれから述べようとしていることを明確に照査できる。実際、読者は自分自身でわたくしの観察と実験を繰り返し、試行してみなければならない。そうでないと、わたくしは生れつきの盲人に色彩装飾の効果について語らなければならない場合以上に、わたくしの意味を伝えることに全く失敗するであろう」(1.286)。「いつそして誰の心に現われるものかと問われたら、わたくしは、わたくしの心のうちに見出す現象の諸特性はあらゆる場合に、かつあらゆる心に現われるということを少しも疑ったことがないので、これらの問には答えないでおこう、と答える」(1.284)。
 ところで哲学(シイノスコピー)はわれわれの日常的共通経験の世界を固有の探究領域とし、その世界のなかに発見できる限りの真理を発見する実証的発見の科学である。とすると、もちろん現象学(ファネロスコピー)も観察科学であり、実証的発見の科学である。そして現象学が科学であれば、それは当然特別の、正当な意味における科学的観察を必要とする。現象は日常いつでも誰の心にも現われるものであり、したがって「現象ほど直接あらわに観察できるものはほかにはない」ということは、決して現象学的観察は易しく、特別の観察力を要しないということではない。「哲学の観察的部分は特に苦心を要するものではないから易しいと考えるのはひどい間違いである……反対に、絶え間なく現われる経験の諸要素に注意を向けることはきわめて難しいことである。というのは、日常的経験にはその経験の諸要素と対照するものは何もなく、対照するものがなくては、それらの要素はわれわれの注意を換起することはできないからである」(1.134)。たとえば青い眼鏡をかけた人には空の青さを識別することは難しい。同様に、われわれの日常的経験はわれわれが直接かつ自然に営む生活そのものであり、つまり日常の経験はまさに日常的に生きることをわれわれに強いる経験であるがゆえに、そのなかにいてその経験の諸要素に絶えず注意を向け、それらの要素を明確に分析識別し、そこに普遍的真理を発見するには、非凡な観察力、分析の能力が必要であり、徹底した科学的認識態度と絶えざる努力が要求される。こうして哲学的現象学的観察は、なるほど顕微鏡、その他の特殊の装置は使わないが、しかしそれは「特殊の、しかし全く正当な意味における観察である。もし哲学が時折、特殊諸科学の成果に目をとおすことがあるとしたら、それは哲学自体の固有の観察に刺激を与える調味料にほかならない」(1.241)。
 しかし現象学は実在の科学ではない。それはわれわれの心に現われる現象が実在に対応するか否かの問題にはいっさい関わらない。現象学はまた心理学でもない。現象学はつまりわれわれの心に現われる現象の心理学的発生過程とか、それらの現象の因果法則を探究するものではない。心理学はイディオスコピー(特殊科学)に属し、現象学はシイノスコピー(哲学)に属する。現象学はただ日常いつでも誰の心にも現われる普遍的現象を観察し、それらの現われ方を記述し分析するだけである。しかし、では、それらの現象を観察し記述し分析することによって現象学はそこに何を求めるのであろうか。現象学はそれらの現象のなかに発見できる限りの真理を発見しなければならないが、それはどんな真理であろうか。
 パースは言う、「わたくしは、あなた方に現象におけるすべてのものを考察せよと言っているのではなく、ただ現象のそれ以上分解不可能な要素だけを、すなわち論理的にそれ以上分解不可能であるものか、あるいは直接観察によってそれ以上分解不可能な要素だけを考察するようにすすめる。わたくしはそれらのそれ以上分解不可能な要素の分類または区分を行いたいと思う」(1.288)。「わたくしが現象学と称しているものは、現象の直接観察に基づき、その観察を一般化することによって、現象のいくつかの非常に広いクラスをはっきり目立つようにし、そのおのおののクラスの諸相を記述し、それらのクラスは何ひとつとして切り離すことができないように複雑に絡み合ってはいるけれども、しかしそれの特性は全く異なっていることが明白であることを示し、そしてある非常に短い表でもって現象の最も広いカテゴリーを包括し得ることを疑問の余地なく立証し、最後にそれらのカテゴリーの主な小分けを枚挙するという骨の折れる課題に進むような、そういう研究である」(1.286)。
 われわれの心に現われるいっさいの現象は最広義の物質的および精神的存在一般の多様な現われ方である。しかしそれらの多様な現われ方はいくつかの最も広い、それ以上還元不可能な基本的究極的クラスまたはカテゴリーに分類し区別することができるであろう。言いかえれば、それらの多様な現われ方を観察し分析し一般化することによって、それらの現象のなかに存在一般のそれ以上分解不可能な最も基本的究極的存在様式を発見することができるであろう。パースの現象学が求めるのは、そういう存在一般の最も基本的究極的な「在り方」(modes of being)であり、あらゆる現象を包摂し、統一的に把握する普遍的カテゴリーである。「現象学の仕事は、諸カテゴリーのカタログを作成し、そのカクログが十分で余計なものがないことを立証すること、それぞれのカテゴリーの特性を発見し、それぞれのカテゴリー相互の関係を明らかにすることである」(5.43)。
 こうしてパースは現象の普遍的カテゴリーまたは存在一般の基本的究極的存在様式として、第一性(firstness)、第二性(secondness)、第三性(thirdness)と呼ばれる三つの様式を導き出している。ほかに第一(first)、第二(second)、第三(third)、または一項態( monad)、二項態(dyad)、三項態(triad)、あるいは性質(quality)、事実(fact)、法則(law)とも呼ばれる。では、まずはそれらの三つのカテゴリーの不還元性──すなわちそれらの三つのカテゴリーは十分で余計なものがないこと──を見よう。(以下、本文つづく。傍点は割愛しました)
 


 
新装版への解説──パースのカテゴリー論の展開とその読解のための手引き
 
ジミー・エイムズ
 
はじめに
 『パース著作集』の第一巻にあたる本巻には、「現象学」という表題が付されているが、ここに収められている著作の中心的な主題は、パースの「カテゴリー論」と呼ばれる独特の理論である。現象学(phenomenology/phaneroscopy)はあくまで、カテゴリーを得るための手法として、後期(一九〇〇年代以降)のパースが構想したものである。
 パースのカテゴリー論とは何なのか、一言で説明するのは難しいが、それが彼の哲学全体の基礎を成しているのは確かである。プラグマティズム、記号論、関係の論理学、スコラ実念論(普遍者に関する実在論)、連続主義、偶然主義、進化的宇宙論といった、パースの哲学を構成する様々な要素は、すべてカテゴリー論という共通の土台の上に立っており、カテゴリー論を介して互いに繋がっている。したがって、カテゴリー論の理解なくして、パースの哲学を理解することは不可能である。さらに、カテゴリー論こそが、パースの哲学の中で最も独創性の高い部分であるとも言える。それゆえ、哲学者としてのパースの真価を最大限に引き出すためにも、彼のカテゴリー論は避けて通れない。
 本巻には、パースの中期(一八八〇年代)以降のカテゴリー論と、そのカテゴリーを得るための手法として後年に構想された現象学に関するテクストが収められている。パースの哲学における現象学の位置付けや、現象学とその他の諸科学との関係については、すでに米盛裕二氏による優れた解説が本書に収録されているので、ここではこれらの点について改めて論じることはしない。その代わり、本書に収められている著作を読む際に留意すべき点、そしてこれらの著作の背景として、パースのカテゴリー論の哲学史的文脈と、彼の生涯を通じたその発展・変遷について述べたい。
 
一 本書に収められている著作を読む際の留意点
 まず、本書に収められているテクストを読む際の注意点を二点述べておこう。一つ目は、『パース著作集』の本巻だけでなく、第二巻(記号学)と第三巻(形而上学)についても言えることだが、パースの著作が年代順ではなくテーマ別に配列されており、それゆえ、パースの異なる時期に属する著作が隣り合うようにして並置されている、という点である。
 例えば、本書の第三章の大部分は、一八八七~一八八八年にかけて執筆された「謎を解き当てる」(“A Guess at the Riddle”)と題するエッセイから構成されているが、この著作で展開されているカテゴリー論は、一九〇〇年代以降の後期のカテゴリー論とはいくつかの点で大きく異なる。一つだけ例を挙げれば、「謎を解き当てる」では、三つのカテゴリーがそれぞれ「第一は偶然性、第二は法則、そして第三は習慣形成の要素である」というように説明されている(本書九五頁)。しかし、パースの後期のカテゴリー論の立場から言えば、法則は第二性ではなく第三性のカテゴリーに属するはずである。「謎を解き当てる」の記述は、この点で後期のカテゴリー論と明確に矛盾している。「謎を解き当てる」は、パースのカテゴリー論がまだ成熟していない時期の著作であるために、このような内容上の食い違いが見られるのである。
 読者がこのような事情を知らず、一八八〇年代の著作と一九〇〇年代の著作を単に並べて読んでしまうと、きっと戸惑うことになるだろう。パースの考えが、この二〇年ほどの間で大きく変わっているからである(すでに触れたように、一八八〇年代の段階では「現象学」の構想自体がまだ存在していない)。だからこそ、パースの著作を読む際には、その著作がどの年代に書かれたものであるかを意識しておくことが重要である。時系列を踏まえてテクストを読んでいくことで、パースの思考の変化が見えてくるだけでなく、テクスト間に見られる内容上の齟齬やアプローチの差異に不必要に惑わされることも少なくなるはずである。読者の便宜のため、本解説の末尾に、本書各節の出典と執筆年の一覧を掲げておくので、適宜参照されたい。
 二つ目の留意されたい点は、本訳書が、パースのいわゆる旧版著作集Collected Papers of Charles Sanders Peirce(以下「CP」と略記)を底本としている点である。これは、一九三一年から一九五八年にかけてハーバード大学出版局から刊行された全八巻の著作集であり、それまでほとんど知られていなかったパースの哲学や論理学の業績を、世界に広く知らしめる上で大きな役割を果たした。もしCPが刊行されていなければ、パースはおそらく歴史の闇に忘却されていただろう。その意味で、散逸したパースの膨大な遺稿を整理・刊行した編者たちの功績は、当然讃えられるべきである。
 しかし、現代の研究水準からすれば、CPの編纂方針には重大な問題がある。最大の問題は、本書と同様、パースの著作が年代順ではなくテーマ別に配列されている点である。時系列やテクスト校訂にあまり注意が払われず、一つの論文や講義シリーズが分割されて別の箇所に掲載されていたり、執筆時期が大きく離れた著作からの抜粋が同じ節題のもとで並置されていたりするのである。特に、本訳書の第一・二章の底本となっているCP第一巻の「現象学」パートの最初の二章(CP 1.284-353)は、時期の異なる様々な著作からの抜粋集である。本訳書の第一・二章は、それをさらに抄訳したものである。読まれる際は、そのことを念頭に置く必要がある。
 現在では、CPの欠点を補う新しい批判版著作集Writings of Charles S. Peirce: A Chronological Edition(以下「W」と略記)が、パース・エディション・プロジェクト(Peirce Edition Project)──アメリカのインディアナポリスに拠点を置くパースの研究所──から順次刊行中である。予定されている全三〇巻のうち、二〇二六年七月現在では七巻が刊行されている。CPとは異なり、こちらの新版著作集では、パースの著作が時系列順に配列されており、さらにテクスト校訂や遺稿の再構成にも細心の注意が払われている。また、同じパース・エディション・プロジェクトから、パースの哲学関連の主要な著作を集めた選集The Essential Peirce: Selected Philosophical Writings(以下「EP」と略記)も全二巻で刊行されている。こちらも時系列順に編纂されたもので、パースの哲学への入門に適した選集となっている。(以下、本文つづく。注番号は割愛しました)
 
『新装版 パース著作集 2』はこちら⇒ 【新装版 パース著作集 2 記号学】たちよみ
『新装版 パース著作集 3』はこちら⇒ 【新装版 パース著作集 3 形而上学】たちよみ

 
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