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チャールズ・サンダース・パース 著
遠藤 弘 編訳
乘立雄輝 新装版解説
『新装版 パース著作集3 形而上学』
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訳者解説
遠藤 弘
パース哲学は未だその草稿の大半が出版されぬままの状態にあるから、ここでその形而上学の全貌を的確に把握して論述することは困難であるが、既刊の著作集全八巻から、従来訳出されたものとの重複を可能な限り避けながら、適宜抜萃して成った本訳書の内容を要約し、パース形而上学の一端を粗述するなら次のごとくになろうかと思われる。
一哲学者パースの精神史に関心を抱く後世の研究者のためにパース自身が書き残した一節(「精神の法則」本書一二四頁以下)を読むと、彼は幼少の折から周囲の形而上学的雰囲気の中に身をおき、自己の形而上学的発想の素因を培ってきた模様である。その素因があるとき彼を次のように語らしめている。「私をこれらの形而上学的思索へと導き入れたもの──以前の私はこうしたものに近づこうとする気持をもたなかったし、そのときまでは私は主として科学方法論の一学究者であった──は、今日分子、原子について知っている以上のことがらを一体いかにして探り出そうとするのか、という私の私自身への問であった。さらなる崇高な前進を為し遂げるための遠大なる計画をどのように打ち立てるべきだろうか」(「習慣論」本書七二頁)。そしてパースはこうも語っている。「プラグマティシズムは論理的分析の理論ないし真理の定義の理論であり、その効果は最高の形而上学的諸概念に応用されたときに最大となる」(「神の実在性」本書一七四頁)。
さて、彼の形而上学は彼自身言うところの科学的形而上学である。それは当時の生物学、化学、物理学、数学とりわけ集合論、位相幾何学等々に関する彼自身の実に広汎な、そして綿密な研究の成果との関連の中で形而上学を思索し、ひいては宗教をも論ずるというものである。この形而上学の重要な礎石のひとつは、化学の原子価にならって、いわば概念の原子価を考えることが可能であるという着想、そしてその概念の原子価は基本的には一価から高々三価まであり、より以上のものはことごとく三価に還元できるという実に奇抜なテーゼの論証であったとみてよかろう。関係論理学の研究を経て到達したこの論証は第一性(Firstness)、第二性(Secondness)、第三性(Thirdness)というパース哲学におけるもっとも個性的な概念を確立せしめたのである。これらの概念に関する詳しい論述は本著作集第一巻『現象学』においてなされており、それを参照していただくほかはないが、ここでとりわけ形而上学に関連するそれらの概念の特徴を挙げながら簡単な解説を試みることにしよう。
第一性とは自発性、存在における同一性、斯様性(suchness)つまり他のいかなるものにも関わりなく、それがあるがごとくあるところのもの、時間からも、実現されることからも独立の永遠なる質、単なる潜勢態、可能性、情態の質などである。例えば、赤という質がそれである。本書では、文脈によって多少の異同はあるが、Feelingに主として情態という訳語をあてている。これはFeelingが一定の現実的な感情ではなく、可能性としての存在を表わすからである。一定の鮮明度によって限定された赤はもはや第一のもの(First)ではない。そうした限定を受ける以前の赤そのものが第一のものなのである。これはそのもの自体に他者への関係を含まない。従来の個と普遍という分け方からすれば、これは個でもなければ、普遍でもない。個は限定されているが、かような個としての限定は未だ受けていない。普遍はもろもろの事例を包摂するが、第一性は何かを包摂するということがない。ただし「実在論者の考え方からすれば、感覚的質は感覚の単なる可能性であるけれども、可能性は現実的でないとき、可能性でありつづける」(一・四二二)と語るパースの口調から存続する普遍としての第一性を感じとることができるのも確かである。しかしこの点についての詳論は後の機会に譲ることにする。また第一性に主観─客観という分類の基準が当てはまるかといえば、情態はいわば主客未分である。それは虚空を漂う雰囲気的可能性でしかない。
これに対して第二性とは、他者への関わりを予想する在り方であり、主客の対立や、内に限定を含んだ事実としての現実などがこれに相当する。パースが専門的な術語としてexistenceを用いるときは、いつもこの意味においてであり、本書ではこれに現存という訳語を当てることにした。現存する(exist)とは自らをある関係におくということである。パースにとって、厳密な意味での個は同一宇宙内の他の一切の個に対して純然たる二項関係を形成する。すなわち個として現存するものはすべて脱自的に存する(ex-sist)。というのもそれは他の現存者に対して働きかけることによって自己同一性を獲得するからである(五・四二九)。また第二性は粗暴な作用ともみなされる。それは非合理的であるばかりでなく、反合理的でさえある。つまり、それを合理化することはそれの存在(ビーイング)を破壊してしまうと考えられるのである(六・三四二)。
そして第三性とは、あらゆる実在性、あらゆる力能がそこから導かれる生ける知性である。それは複数の他者を相互に結びつけることの内にその存在(ビーイング)を有する。既述の可能性と現存もこの第三性という精神的事実によって一つの三項関係の中に投げ入れられ、結合へともたらされるのである。これの典型的な例が記号である。記号は、それが示す対象と解釈項とを結合する、あるいは両者の結合を媒介すると言ってもよい。本書第一章において、パース記号論を理解する上でのもっとも重要な資料のひとつと目される「プラグマティズム概説」を訳出しておいた。けれども記号論そのものに関しては第二巻『記号論』を参照していただきたい。本書でこれをとりあげた意図は、むしろ当の議論が展開するにつれて記号現象から習慣、法則という新たな第三のもの(Third)が導かれる過程に注目していただくためである。すなわち知的概念の意味を明らかにしようとする試みの中でパースは論理的解釈項の本質を「……なら、……であろう」という条件法によって表現されるようなひとつの傾向、すなわち習慣とみなす。しかもその条件法の様相を単なる主観的様相としてではなく、客観的、実在的様相として規定するのである。だから習慣はパースの場合ほとんど法則と同義である。大胆な言い方をすれば、記号概念そのものの拡張が法則なのである。事実パースは自然法則を(もちろん唯名論的な意味においてではなく)現実的諸事実を決定づける記号とみなしている(八・三一九)。
そうしてみると、「知性」や「精神」という語も日常生活において記号を生み出す単なる、人間の知性、人間の精神という枠を越えたものを指すと解する方が適当と思われるであろう。自然に対峙する精神、ないしは精神に相対して立つ自然を考えるのは究極においてパースの意図するところではないように思う。彼の形而上学は客観的観念論であり、第三性はいわば万物に渗透している。単に現象学の立場にとどまらず、形而上学として精神を問題にする限り、パースにとって精神は元来自然の精神なのである。彼は次のように論じている。「すべての知識は観察によってもたらされるが、その一部は外からわれわれに強要され、自然の精神から結果するようにみえる。そして一部は内側から見た限りでの当の精神の深奥からやってくる。この内側から見た限りでの精神をわれわれは利己的な破格の表現法によってわれわれの精神とよんでいるのである。」(二・四四四)
ところで、習慣がひとつの傾向として必ずしも例外を許さないような厳しいものではないのと同様、パースにとって法則もまた決して逸脱を許さぬものではない。もろもろの事実において法則からの絶対的に偶発的な逸脱が起る。言いかえれば、自然の一様性は決して絶対的に厳密ではなく、むしろ多様性は永遠に増えつづける。法則は法則のみを生み、そして偶然は偶然を生む、という。ところが溯源の原理にしたがって根源へ溯ってみると、そもそも法則の最初の萌芽がそれ自体偶然に、すなわち第一のものとして発生したのである。彼によれば、あらゆる自然法則は一般化への傾向という自然の根本的普遍的傾向がもたらす、偶然からの進化の結果なのである。そうしてみると、永遠に増えつづける多様性といえどもある確からしさのもとで当の普遍的一般化の傾向に従っているはずである。それは一つの組織化された異質性へ、あるいは合理化された多様性への移行であり、結局は無形性から単形性への成長なのである。つまりパースの場合法則と偶然の平行論がこの普遍的傾向という目的論的な仮説によって見事に調和へともたらされている。あるいはこう考えてもよかろう。法則という一般者は当の仮説のもとでは不確定である。この不確定ということと偶然との間に不整合はない、と。パース形而上学にとって第三性がもつ根本的な意義は、それがこの普遍的傾向論をもたらした点にあると言えるであろう。
さて、以上のごとき第一、第二、第三性がいかにして生ずるにいたったか、ということがパース形而上学にとっての最大の問題のひとつである。そして彼の論調にややたどたどしさが感じられはするものの、第三章で展開されているその議論はわれわれに多くを示唆するように思われる。まず〈絶対的な無〉からの創造が説かれる。もちろんヘーゲルの無のごとき抽象的な無をここで問題にしようというのではない。パースの無は純粋な零である。この無は否定の無ではない。否定は「に対する他」であり、順序数で言えば、第二である。第一にも先んずるこの無は絶対に限定されざる無制限の可能性であり、限りなき自由であるとパースはいう。ヘーゲルにおけるごとき発展への必然的強制はここにはない。しかしこの自由の論理あるいは潜勢態の論理によれば、かかる潜勢態は自ずと自己抹消ヘ導かれる。自己を抹消しないとすれば、それはまったく怠惰で、無為な潜勢態のままにとどまるが、しかしそれは自らが完全な怠惰であることによって、いわば自己主張を行わずに自らを抹消してしまうことになる。つまり自由、潜勢、さらには偶然、自発などとよばれうる無としての端緒は自らの絶対的な状態を脱して、ある一定の可能性になるのである。これが純粋な第一のもの、質の単位である。そしてこれは特定の意識じみたもの、眠った意識、潜勢的な意識であると説明される。というのも質意識はそのもの自体もっとも強烈に意識されてしかるべきだが、他とのコントラストを欠くがゆえに実はまったく忘却されてしまうからである。カント的立場に立てば、人問が悟性を働かせてそれらを比較、統一すると見るべきであろうが、パースによれば、そもそもその統一性なるものは悟性の側にではなく、質そのものが有する。元来質意識は争い、あるいは二重性の意識ではない。だからして自由であり、そのことが却って多くの質の間に騒然たる多様性を生む。悟性の機能はそうしたもろもろの質から成る合成写真を撮ることに他ならない。つまり統一性を導入するどころか、質意識には含まれない相克をもちこむ結果となる。それが統一体としての体裁をとるのは実は全体が一つの質をもつからである。(以下、本文つづく。傍点は割愛しました)
新装版への解説――「希望」としてのパース形而上学
乘立雄輝
『パース著作集3 形而上学』では、筆者の理解とは若干異なる点があるものの、既にパースの形而上学の概要について旧版の遠藤弘氏による丁寧な解説がなされていることを踏まえ、この新装版への解説では次の三点を示すことで「パースの形而上学」をめぐって読者の理解を助け、その先への展望を示すことを目指したい。その三点とは、(1)パースの形而上学に対する研究者たちの評価、さらに、その評価に応える形で(2)パースの学問体系において「形而上学」が占める位置と、その形而上学に担わされた「使命」、そして(3)パースの形而上学、特に、その中核をなす宇宙論が現代でも持ちうる可能性、である。
一 パースの形而上学、その現在地
さて、この『パース著作集』第3巻で主題として取り上げられるパースの形而上学、特にその中でも一八八四年から一八九八年にかけて集中的に展開された「進化論的宇宙論(evolutionary cosmology)」と呼ばれる宇宙論、宇宙生成論(cosmogony)は、パース研究者たちの間でも最も評価が分かれる領域である。
そのパースの宇宙論とは、本書の第二章以下、そして遠藤氏の解説で論じられているものであるが、非常に大雑把に説明するならば、宇宙は、「時間」というものすらなかった始原において、純粋に不確定な可能性(潜在性)という混沌から生まれ、その中で習慣(法則など)が偶然を契機として発現し、それらの習慣が進化していく過程で宇宙が秩序だっていき、現在の姿になっているというものである。この宇宙の進化は「具体的合理性(concrete reasonableness)」の成長として捉えられているのだが、当然のことながら、現在の宇宙もその進化の途上にあると考えられている。その未来へ向かって不断に進化し続けている宇宙の姿を、哲学や物理学、数学の様々な概念を駆使しながらパースは描き出すのである。
この原初の段階から現在に至るまでの宇宙とその内に在る秩序の生成を提示するするパースの形而上学は、パース研究の黎明期から、多くの研究者たちの頭を悩ませてきた。その筆頭が、パース研究の初期にあたる一九五二年のギャリー(W. B. Gallie)による『パースとプラグマティズム』という研究書に登場する、パース哲学における「黒い羊(black sheep)」、「白い象(white elephant)」、すなわち「持て余しもの」という評価だろう(Gallie 1952: 215)。プラグマティズムの学説に代表されるように、経験的かつ科学的な方法を最重要視するパース哲学にあって、それとは正反対の、強い思弁的性格で異様な姿を見せる宇宙論への困惑は、七十年以上経った現在に至るまで多くの研究者たちに共有されていると言ってよい。
その一例として、現在のパース研究者たちの中でも宇宙論に否定的態度を示す急先鋒であり、影響力も強いショート(T. L. Short)の言説がある。彼は「パースに宇宙論はあったのか?」(Short 2010, cf. Short 2022)という挑発的なタイトルの論文の中で、それに「否(No.)」と応える。パースの宇宙論を精査した上で、ショートは、宇宙論はその概略的な構想が示されただけで、緻密な考察によって精錬された他の領域におけるパースの営為とは異なり、宇宙「論」と呼べるまでの域に達することなく構想段階に留まっているばかりか、その構想すらもパース自身によって途中で放棄されたと断言する。
パースの宇宙論へ否定的な評価を与える他の研究者たちも似たような見解に立ち、パースの宇宙論がその他のパースの哲学的学説、たとえば、概念の意味を明晰にするためのプラグマティズムの方法論や、記号に関する一般理論としての「記号論(semeiotic)」などとの整合性が保てない、粗雑な見取り図に留まっていること、また、パースは、新しい時代に相応しい形而上学は神学校で教えられる類いのものではなく、実験室で鍛えられた精神によって構築される「科学的形而上学(scientific metaphysics)」でなければならないことを幾度も主張しているにもかかわらず、肝心の彼の宇宙論が、「科学的」と呼ぶに耐えうるための検証可能な水準にまで到達しないままに終わっていることなどを否定的な見解の根拠としている。
けれども、宇宙論を中核としたパースの形而上学に否定的な研究者たちが多い最大の理由は、パースの知的遺産を現代英語圏の哲学に活かそうとしたとき、極度に思弁的な彼の形而上学が、その足枷になるように思えるからであろう。それは、パースの形而上学の一翼をなし、宇宙論とも密接に結びつく「スコラ的実在論(Scholastic Realism)」(本書第一章を参照)、すなわち現実的な個体だけではなく、不確定な可能性や一般性、そして連続性(continuity)の実在を強く主張する学説についても言えることである。
たとえば、本書の第二章以降を読めば分かる通り、パースの宇宙論は、ドイツ観念論においてシェリングが展開した「自然哲学(Naturphilosophie)」、そしてヘーゲルの影響を強く受けており、スコラ的実在論とは、その名の通り、中世のスコラ哲学者であったドゥンス・スコトゥスによる「実在(realitas, reality)」概念の規定を基盤に置いている。しかし、パースの科学的探究の理論やプラグマティズム、そして記号論や論理学における成果を現代哲学へと接続しようと多くのパース研究者が試みるとき、それらの思弁的で晦渋な議論は、パースの思考の先進性と明晰性を鈍らせるものとして映るのは仕方がないこととも言える。まさしく、彼らにとってのパースの形而上学とは、そのプラグマティズムや記号論が現代に持ちうる意義と可能性を追究する立場から見るならば、「黒い羊と白い象」という厄介者なのである。したがって、多くの研究者たちが、パースの哲学を現代の哲学や記号論の展開へと積極的に活かすためには、彼の形而上学を敢えて切り離すこと、言い換えるならば、パース哲学の「不採算部門」として無視することもやむなしとしているのである。
二 パースの学問体系における形而上学の使命
このように、思弁性の強いパースの形而上学を脇に置いて、パースの残した遺産を現代哲学の思考へとつなげることで継承していこうとする多くの研究者たちの試みは、ある意味では「生産的」な態度として評価されて然るべきであろう。
しかし、パースの形而上学を別の視座から俯瞰するならば、パースの哲学が現代の議論に寄与しうる可能性を見出すことができるのではないだろうか。すなわち、パースの形而上学や宇宙論を「厄介者」として切り捨てるのはあまりにもったいなく、まだまだ秘められた可能性があるにちがいない。これが本解説で提示したい論点である。
その「別の視座」とは、宇宙論が積極的に展開された時期から数年後の一九〇二年から一九〇三年にかけて、パースがカーネギー財団への助成金応募のために作った、自身のこれまでの知的活動の概観や、ハーヴァード大学におけるプラグマティズムについての連続講義、そして、ローウェル・レクチャーという一連の講義で付録として示された、彼自身による独創的な学問体系の構想である。その学問体系は、この両年に全貌を明らかにされたものだが、それは突然、姿を現したわけではなく、パース自身が折に触れて、諸学問の体系および、その間にある秩序について、断片的にではあるが言及してきたという経緯を持つ。それは、パースが生涯にわたって強く影響を受けたカントの「純粋理性の建築術」に範をとるものであり、初期の頃から最晩年に至るまで、パースは学問体系の構想を練り直しながら、自身の思索を展開してきたのである。したがって、この両年に登場する「学問体系」は、パースの長年にわたる建築術的(architectonic)な知的体系の構想の集大成と言うべきだろう。そして、この学問体系が暫定的な完成を見ることによって、パースは、自身の個別領域での研究が有する意味を再確認することができたのではないかとも推察される。というのも、パースの記号論の研究が質・量ともに充実し始めるのは、この学問体系の構想が提示された年を境にしてからなのである。(以下、本文つづく)
『新装版 パース著作集 1』はこちら⇒ 【新装版 パース著作集 1 現象学】たちよみ
『新装版 パース著作集 2』はこちら⇒ 【新装版 パース著作集 2 記号学】たちよみ








