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立石祥子・飯田 豊 編著
『現代メディア・イベント論2 国家の儀礼から路上の実践まで』
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はじめに
飯田 豊
筆者たちは二〇一七年、『現代メディア・イベント論――パブリック・ビューイングからゲーム実況まで』(勁草書房)と題する論文集を刊行した。
「メディア・イベント」といえば、ダニエル・ダヤーンとエリフ・カッツによる定義が広く知られている。ダヤーンとカッツは、通常のテレビ放送の編成が変更され、特別枠で伝えられる大規模なイベントが、視聴者のあいだに特別な連帯の感情を媒介することに着目した。この意味において、オリンピックやFIFAワールドカップ(以下、W杯)などの国際的なスポーツ大会は、典型的なメディア・イベントである。しかしながら、都市に遍在するスクリーンから手のひらのうえのスマートフォンまで、さまざまな情報メディアに取り囲まれた日常生活が自明性を帯びていくなかで、テレビの生中継に媒介されたメディア・イベントの価値は一貫して低下してきた。「経験経済」や「コト消費」と言われるように、テレビの中継で何かを共有するのではなく、出来事が起きている現場における集合体験にこそ、大きな価値が見出される時代になっている。
こうした変化を踏まえて、同書で筆者たちは、「東京オリンピックの開催を二〇二〇年に控え、二〇二五年に再び大阪に万博を誘致する構想が進行している。現代社会におけるオリンピックや万博などの国家的行事に展望があるとすれば、「メディア」と「イベント」の機制の変容こそが、まずは問われなければならない」と主張した。少なくとも当時、東京2020大会の準備段階で打ち出されていたライブサイトやパブリック・ビューイングの試みは、こうした価値観の変化に適応しようとした、新しい放送文化と捉えることもできた。
そこで筆者たちは、パブリック・ビューイングやeスポーツなど、メディアに媒介された集合体験を「現代メディア・イベント」と捉え、その諸相を分析した。同書で取り上げた事例の多くは、インターネットの普及がなければ決して社会化しなかった文化現象である反面、ネットに媒介された日常的なつながりに参加経験が規定されるわけではなく、そこから切り離された、瞬間的な共同性や解放性をともなう集まりが形成されることが示された。来たる東京2020大会を念頭に置いていたこともあって、筆者たちの議論は、日本のメディア研究のなかで少なからぬ反響を得た。
ところが、新型コロナウイルスの感染拡大にともなって、筆者たちは同書で提示した認識枠組みを大きく更新せざるを得なくなった。そして何より、東京2020大会の延期を経て、ライブサイトもパブリック・ビューイングもそのほとんどが中止となった。筆者たちはこれらを分析する機会そのものを失った。
とはいえパンデミックは、メディア・イベントの現代的条件を考えるうえで、それ以前には見えにくかった問いを浮かび上がらせた。コロナ禍において都市の公共空間から人びとは排除され、集まりそのものが禁じられたとき、メディアを介した集合体験がいかに日常的な身体感覚と切り離せないものであったかが、かえって浮き彫りになった。「密」を避けることが徹底されるなかで、オンラインを介した新たな集まりのかたちが模索される一方、対面で集まることの意味が改めて問い直されることにもなった。
本書『現代メディア・イベント論2――国家の儀礼から路上の実践まで』は、そうした問いに応えようとする試みである。筆者たちは、メディアに媒介された集合体験という主題を引き継ぎつつ、コロナ禍を経由して変容した都市と身体とメディアの関係を、多様な事例から再考することにした。もっとも、本書の執筆者たちは、メディア・イベントという概念の射程をめぐって、必ずしも同じ立場に立っているわけではない。この概念をネットに媒介された集合体験へと拡張しようとする論考もあれば、むしろ戦後日本の思想的文脈に留まろうとすることで、安易な拡張を退けようとする論考もある。編者としてはこうした概念の揺らぎを、解消されるべき不備とは考えていない。メディア・イベントという言葉がはらむ緊張関係そのものを前提とすることが、本書の編集方針である。
本書の構成は次のとおりである。
まず、序章「つながれない時代を超えて」(立石祥子)では、二〇一七年以降の時代状況の変化を、身体、メディア、権力といった観点から問い直す。新型コロナウイルスの感染拡大によって対面の集まりが禁じられ、リモートワークが一般化したことで、みずからの身体を捉え直す契機がもたらされた。ペーター・スローターダイクが「精神的訓練システム」と呼ぶ身体実践の多様なかたちが、メディアを介して改めて問われている。テレビが求心力を失いつつあるなかで、無数の小さなイベントが日々生成しては消えていく現在、本書はそうした実践の諸相を探るための問題提起をおこなう。
第一章「幻のライブサイト/パブリックビューイング――東京2020オリンピック・パラリンピックにおける構想・準備過程」(飯田豊+立石祥子)は、オリンピック・パラリンピック競技大会における「ライブサイト」および「パブリックビューイング(3)」に注目し、東京2020大会における構想・準備過程を検証する。シドニー2000大会から始まったライブサイトは、パブリックビューイングに加えて、教育プログラムやスポーツ体験などを盛り込んだ文化的な公式事業として、新しい観客と新しい競技者の両方の創出を目指す取り組みとして定着してきた(=スポーツの都市化)。もっとも東京2020大会の場合、組織委員会と東京都によって、ライブサイトがいち早く「復興五輪」のための祝祭として位置づけられ、東日本大震災の被災地での開催が決まっていたことが大きな特色であった。それに対して、多様な主体によって開催されるパブリックビューイングは、総務省やNHKによって4K・8K放送普及のための重要施策と位置づけられ、放送業界のみならず、映像業界や広告業界の期待も高かった(=都市のテレビ化)。これらの計画が何を残したのかは、メディア研究のみならず、都市社会学やスポーツ社会学などの知見を踏まえて、学際的に検証していく必要がある。
第二章「パルクール――都市と直結する身体」(平石貴士)は、都市空間の構造物を跳び越え、くぐり抜け、よじ登ることで独自の移動経路を切り拓くパルクールを取り上げ、スポーツのメディア・イベント化の現在地について考察する。もともと競技性とは無縁に発展したこのストリートカルチャーは、映像文化として世界に伝播し、多様な主体を巻き込みながら競技化が進み、コロナ禍においてオンライン競技会という新たな大会形式に結実した。「ジャム(練習会)」に集う人びとの日常的な実践と、スクリーン上の競技イベントとは、不可分に結びついている。都市のスポットで身体を鍛え、スマートフォンでベストテイクを撮影し、SNSに投稿するという営みが、メディア・イベントとしての競技大会の土台を形成している。パルクールの競技化は、IOCの「スポーツの都市化」政策とも交差しながら、第一章が論じるライブサイトの問題を、別の角度から捉え返すことにもなる。
第三章「国葬――対立と分断のメディア・イベント」(飯田豊)は、ダヤーンとカッツの古典的定義が前提としていた「連帯の感情」とは位相を異にするメディア・イベントのあり方を、二〇二二年九月の安倍晋三元首相の国葬を通じて考察する。テレビの生中継は、視聴者を一体化した追悼ムードへと動員するかに見えた。しかし実際には、放送局ごとに演出方針や解説の力点は大きく異なっていた。NHKが安倍政権の功罪を多角的に検証した一方で、フジテレビは弔意を前面に打ち出し、日本テレビは「分断の政治」の検証に力を注いだ。本章が明らかにするのは、メディア・イベントが社会の統合を一方的にもたらすのではなく、統合と分断の力学がせめぎ合う場として成立しているという点である。生中継が連帯を媒介するという古典的な図式だけでは、もはや捉えきれない。こうした問題意識は本書の他の章とも通底しており、各章が扱うさまざまな集まりのかたちが、一元的な動員とは異なる論理で成立していることを示唆している。
第四章「表現手法としてのメディア・イベント――磯崎新に見る戦後美術の想像力」(松井茂)は、建築家の磯崎新が構想した「博多湾オリンピック」や「プラットフォーム2020」など、一連のアンビルド・プロジェクトを手がかりに、メディア・イベントを戦後美術の想像力に根ざした表現手法として捉え直す。磯崎は一九五二年の「血のメーデー事件」や一九六八年の新宿騒乱を、映像に媒介された「ヴァーチャルな臨場感」として経験しており、国家ではなく都市を表象する祝祭の構想には、この経験に裏打ちされた異議申し立ての思想が貫かれている。雑誌、書籍、版画といった複製メディア、そして展覧会を駆使し、実現の如何にかかわらずオピニオンを世に問うことにこそ、磯崎の作品概念があると松井は指摘する。本章はメディア・イベントを「戦後の思想を反映した独学者たちの表現」として捉え直している。メディア・イベントという概念の拡張に対して明確に異を唱える論考であり、本書がはらむ概念の揺らぎを体現するものとして、折り返し地点に配置した。
第五章「字幕組――オンライン・プラットフォームのもうひとつの可能性」(程遥)は、GAFAや大手ストリーミングサービスによる管理や収益化という一面から語られがちなオンライン・プラットフォームに対して、別の可能性を切り拓いてきた実践として、中国における「字幕組」――外国語コンテンツに翻訳字幕を付けて配布するファン団体(Fansub)――を取り上げる。字幕組は、日本アニメが中国の公式チャンネルから締め出されていた〈空白の一〇年〉において、独自のファイル共有のネットワークと視聴文化を創出し、単なる海賊版とも正規配信とも異なるオルタナティヴなプラットフォームとして機能してきた。字幕組チルドレンはただコンテンツを消費するのではなく、そのコミュニティのなかで「視聴者」として育てられ、やがては「制作者」へと転化していく。これは現代のメディア・イベントが、プラットフォームを所有する大企業が一方的に形成するものではないことを示唆する。エンドユーザーによる小さな集まりの実践こそが、別の流通経路を生み出してきたのである。
第六章「ゴスロリファッション――「手づくり」ブームとメディア」(橋迫瑞穂)は、二〇〇〇年代以降に独自の展開を遂げたゴシック&ロリータ(ゴスロリ)ファッションを手がかりに、「手づくり」とメディアの結びつきを問う。専門誌『ゴスロリバイブル』の前期と後期の差異を読み解くことで、「手づくり」が当初は個人の「精神性」を内面化する営みとして位置づけられていたのが、やがてメゾンが提供する物語に組み込まれた記号の集積に変容していく過程を明らかにする。「手づくり」された作品が記号化されることで、それはネット上で売買可能な商品となり、専門のプラットフォームによるイベントの展開へとつながっていく。本章はまた、この変容がジェンダー規範と分かちがたく結びついていることを明らかにする。ゴスロリにおける「手づくり」の歴史は、個々人の日常的実践がいかにしてイベントを生成していくかを示す事例でもある。
第七章「日常のなかの非日常――集まりのメディア理論史から考える」(立石祥子)は、本書の理論的総括にあたる。「つながり」ではなく「集まり」を論じるための枠組みとして、「現代メディア・イベント」概念の意義を再考する。本書の各章は、一見するとその題材に共通点を見出しにくいかもしれないし、メディア・イベント概念の捉え方も一枚岩ではない。そのうえで本章は、日常のなかに絶えず生まれては消えていく無数の小さな集まりこそが、メディア・イベントの土台をなしているという見通しを示す。大規模なメディア・イベントが失調した時代だからこそ、本書はその足元に目を凝らしたい。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
序章――つながれない時代を超えて
立石祥子
二〇二〇年に新型コロナウイルスの蔓延によって対面での集まりが消えていった頃から、さらに言えば、日常生活が戻ってきた後になっても、私たちは身体に対して敏感であることを余儀なくされてきた。もちろん、電子メディアを介して社会生活を維持してきたコロナ禍を経て、インターネット環境はいっそう重視されている。しかしその一方で、私たちの意識はデバイスの向こう側に広がる世界にのみ結びついていくわけではない。そうではなく、現実の空間において他者の身体を敏感に眼差すようになったのと同時に、自分自身の身体への関心が高まっているのではないか。そのような問いのもと、二〇一七年の『現代メディア・イベント論』から大きく変化した状況を捉えるために、コロナ禍における身体とメディアの関係について改めて考えてみたい。
コロナ禍以降、私たちの社会生活において大きく変化したもののひとつとして、リモートワークの普及が挙げられる。いまやそれは、労働者の身体をめぐるせめぎ合いの場となっている。というのも、労働者を出社させることの究極的な目的は、その身体の制御にあるからである。仕事にふさわしい衣服を身につけること、身なりを整えること、飲食を制限すること、無駄口を慎むこと。こうした一連の振る舞いは、身体を労働に適したかたちへと整えていく規律の実践である。経営者が直接的に身体を統制するだけではない。労働者みずからが、身体を労働向けに規律化していくために、人びとの身体は同一の空間に「集まっている」必要がある。
人びとをオフィスに集め、一斉に働かせる仕組みを支えているのが、ミシェル・フーコーのいう身体の「規律・訓練」である。兵舎や工場、学級で、監督者の目を逃れて逸脱が生じないようにするためには、権力が一方的な規則によって座席を割り当てればよい、とフーコーは述べる。だがリモートワーク環境においては、監督者が労働者の身体を従来と同じ方法で配置し統制することはできない。もちろんそれは監視の消滅を意味しない。オンライン会議システムや勤怠管理ソフトウェアを通じて、身体は別のかたちで可視化され、管理され続ける。それでもなお、人びとは出社という慣行そのものを問い直すことを通じて、みずからの身体と労働との関係を再考する契機を得た。
コロナ禍では、生存を優先する社会のあり方と自由の制限をめぐる議論も活発になっていく。ジャン=リュック・ナンシーは、まさに「ウイルス感染の荒々しさは、経営管理や行政の荒々しさとして蔓延している」と指摘しつつも、そこに「国家の著しい濫用などない」と留保を付している。私たちに求められた移動の不自由やマスクの不快感は、非常にシンプルな権力の介入によってもたらされたものであり、パンデミックの持つ「相互接続という全般的な法則」の覇権を握る行政こそが権力として立ち現れてくるだけのことである。外出を控え、マスクをすることは、私たち自身も望むはずの感染予防であり、行政は人びとの「相互接続」を整理するにすぎないが、私たちがこれらを強制されていると感じてしまうのは、これらの対処自体が分かりやすい権力であるからだ。もっとも、ナンシーは、コロナ禍においてなお「オリンピックの開催を堅持したい政府」への批判も忘れていない。コロナ禍では、危機的な状況を利用して政治的・経済的な決定が進められることへの警戒も生じた。ナオミ・クラインが「惨事便乗型資本主義」と呼んだ問題系は、日本における東京オリンピック開催をめぐる議論にも影を落としていた。
コロナ禍以降のリモートワークの浸透は、人びとに、それまで自明視されていた身体と労働の関係を問い直させた。ドイツ体操運動から身体の規律化について考察する釜崎太は次のように指摘している。すなわち、「国民主義にせよ、消費社会にせよ、近代の権力関係は、私たち一人ひとりの『身体』に刻まれていることになる」。しかし、ここで重要なのはむしろ、コロナ禍を通じて人びとが改めてみずからの身体に意識を向けるようになったという事実である。身体は管理や統制の対象であると同時に、みずから働きかけ、手入れし、維持する対象として前景化した。私たちは、そのような身体との新たな向き合い方のなかで日々を過ごしてきたのである。
さて、このような状況にあってこそ、私たちは身体を整えることを通じた自己形成の実践をこれまで以上におこなってきたのではないか。「巣ごもり需要」といった言葉が示したように、産業界へのコロナ禍の影響は「K字型」として二極化した。飲食や観光、劇場・興行、フィットネスクラブなどの生活娯楽関連サービスは軒並み大幅に落ち込んだ。心身の健康維持は、自宅において、身体と向き合うことを通じて担われるほかなくなったのである。
ドイツの思想家ペーター・スローターダイクは、著書『Du muβt dein Leben ändern(君は人生を変えねばならない)』において「一匹の亡霊が西洋を徘徊している――宗教という名の亡霊が」という書き出しで、世界各地に見られる宗教的・身体的・倫理的実践について考察している。西欧的な啓蒙主義が廃れたポストモダンの時代に、宗教が勃興しているのか? 否、そうではなく、今日では「このままではいけないという気づきが至る所で高まっている」という、倫理的意義のあるただひとつの事実だけがあるのだ。
スローターダイクは、「真の宗教」と迷信、あるいは信者と非信者といった従来の区分を退け、そこにあるのはただ、実践者と未実践者、または実践者と異なる実践者という差異のみだと述べる。フリードリヒ・ニーチェやフランツ・カフカの禁欲主義や断食の寓話、ドストエフスキーに由来する「正直な言葉(ehrlich Wort)」という一九世紀の流行ジャンル、フーコーの「セルフケア」、そしてセルフケアを拒否する運命論者たちの不摂生という実践、インドにおける瞑想など、スローターダイクは数世紀にわたる世界中の身体的実践を横断的に取り上げる。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
おわりに
立石祥子
二〇一七年に出版された『現代メディア・イベント論』において、私たちは、都市の特定の場所に結びついた体験に注目してきた。パブリック・ビューイングや野外ロックフェスティバル、ゲーム実況、ZINEの集まり、中国におけるコミックマーケット、さらには大阪万博の企業パビリオン――これらが生み出す、場所に根差した一時的な出来事は、硬直化しつつあるマスメディアが作り上げたメディア・イベントとは性格を異にしている。それらは、既存の場所の意味を書き換え、かつ更新していく、オーディエンス自身のメディア実践として捉えることが可能であった。
しかし同時に、こうしたオーディエンス文化が送り手側の戦略のなかへと回収され、再び新たに上からの意味づけが施されることもある。第一章で触れた東京2020大会にて、東北地方でパブリック・ビューイングをはじめとする「ライブサイト」が実施されることが「復興五輪」という物語と結びつけられてきたように、メディア・イベントは常に複数の力の交差のなかで編成されている。意味づけをめぐるせめぎ合いを経ながら、現代のメディア・イベントは、単一の解釈に回収されることのない、多層的で複雑な意味を内包する〈出来事〉として現れてきたといえる。こうした観点から本書では、現代のメディア・イベントが内包する多層性と複雑さを、さまざまな領域における具体的な事例を通じて検討してきた。続く第二章では、パルクールという都市実践において、競技者による都市での身体運動と映像を撮影し共有するという反復的な実践が、メディア・イベントとしての競技大会を下支えしていることが示されていた。第三章では、国葬を例に、メディア・イベントが対立や分断をも可視化する場として立ち現れていることが明らかとなった。さらに第四章では、既存のメディア・イベント研究が十分に扱ってこなかった「表現者」の意図と戦後美術との関係に着目し、戦後美術の抵抗精神を継承しながらメディアを通じて社会的想像力を喚起する実践が「表現手法としてのメディア・イベント」として示された。第五章では、中国における「字幕組」による実践の分析から、外国語コンテンツに字幕を付して共有するファンコミュニティが、独自の流通経路と視聴文化を形成し、消費者であると同時に担い手でもある主体を生み出してきた過程が明らかにされた。第六章では、ゴシック&ロリータ・ファッションの雑誌文化がメディア・イベントへと接続されていく過程が論じられた。さらに第七章では、本書の理論的総括として、「つながり」ではなく「集まり」という観点からメディア・イベントを捉え直す枠組みが提示された。各章に通底しているのは、メディア・イベントを、身体的な営み、メディア技術、プラットフォーム、制度的枠組み、さらには多様な主体の関与が折り重なるなかで生成され、複数の力が交錯する実践として捉えようとする問題意識である。
(以下、本文つづく)










