あとがきたちよみ
『意識の辺縁――意識障害、胎児、脳オルガノイド、動物、AIのための倫理学』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/11/5

 
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ジョナサン・バーチ 著
篠崎大河・鈴木大地・佐々木健人・竹下昌志 訳
『意識の辺縁 意識障害、胎児、脳オルガノイド、動物、AIのための倫理学』

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おわりに 一歩引いて考える
 
 自宅の近くの森で、ショウジョウバエほどの小さなハエが左手の中指にとまった。普通なら息を吹いて追い払うが、今回は本書のことが頭から離れなかったので、そのままにした。『オクトパスの神秘』〔ドキュメンタリー映画〕に登場するタコのように、そのハエは私の肌に妙に好奇心を抱いたようで、質感や匂いを探り、脚を上げたり下げたりした。そのような状態で、私は二十分ほど歩き回った。
 見れば見るほど、ハエの何たるかが分かってくる。それは、複雑な脳を備えた、探索的で、予測不可能で、不可解な生物なのだ。どこにでもいる厄介者という誤ったハエの認識は、より正確で現実に即した認識へと変わっていく。はじめは、こんな小さな存在者が、イヌやタコのように複雑で興味深いものであるはずがないと考える。だが、しっかり観察すれば、それを考え直すことになる。
 私は人間の創意工夫を楽観視しているので、ハエのように多能で複雑なシステムがいつか構築できると思っている。つまり、新たな有感性候補を生み出すであろう。我々は、それらを利用するのだろうか、それとも共存するのだろうか。道具的な関係を支配的にしようという圧力はとてつもなく強いだろう。その誘惑を回避する唯一の方法はおそらく、そもそも最初からそのような存在者を作り出そうとしないことだ。しかし、別の方法もあるかもしれない。それは我々全員が、有感な生命に対する我々の姿勢を利用から共生へと変えるにはどうすればよいのか、真剣かつ正直に熟考することだ。そうすれば、新たなかたちの有感性を生み出す方法を見つけたときに、その準備ができているだろう。
 本書では、有感性の辺縁における現実のジレンマにどのように向き合い、適切に対処するのかに関する、行為、意思決定、政策を論じてきた。そうしたジレンマのなかには、驚くべき速さで我々の目前に迫っているものもあれば、すでに直面しているものも、つねに我々とともにあったものもある。私の示してきた枠組みと一連の提案(本書の冒頭にまとめられている)が、こうした問題についての討議の基盤となれば幸いである。我々は、こうした事例において何をなすべきか決める必要があり、しかも喫緊の問題にもかかわらず冷静に決める必要がある。我々は、価値観の対立を深く考え、専門家やステークホルダー、活動家の話を聞き、合意やメタ合意のできる点を探し出し、原則的に許容でき、適理的で、合理的な必要性のある、一貫した予防措置を策定する必要がある。
 以上のような行為と意思決定が必要な状況は、意見を集め、憶測に制約を課し、我々に判断を迫る。つまり、何を有感性の証拠とみなすのか、そして、そうした証拠がどのように我々を導くべきなのかについての判断である。だが喫緊の問題であるからといって、急ぎ慌てる必要があることにはならない。良い意思決定は、急ぎ慌てることからも、先延ばしにすることからも生まれず、適度な時間をかけることから生まれる。有感性の辺縁において、不安を搔き立て、しばしば恐ろしい問題に直面したとき、我々は迅速に行為する準備をする必要に迫られる。だが同時に、熟考し、思案し、適理的な不合意の範疇にあるすべての見解に耳を傾ける時間を設ける必要もある。また、そのなかでつねに有感性候補そのものを議論の中心に確実に置きつづけなければならない。
 


 
訳者あとがき
 
 本書は、Birch, J. (2024) The Edge of Sentience: Risk and Precaution in Humans, Other Animals, and AI. Oxford University Press の全訳である。
 著者のジョナサン・バーチ(Jonathan Birch)は、ケンブリッジ大学で自然科学と科学史・科学哲学を学び、二〇一三年に博士号を取得した哲学者で、現在はLSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス)教授を務める。初期の業績として社会進化論に関するThe Philosophy of Social Evolution (2017, Oxford University Press)がある。その後は動物意識の哲学を中心的主題とし、二〇二五年からはLSEのジェレミー・カラー動物意識センター(Jeremy Coller Centre for Animal Sentience)の初代センター長として、この分野を名実ともにリードしている。
 バーチは政策提言にも関与してきた。とりわけ重要なのが、彼がリーダーを務めた二〇二一年のLSEの政策報告書「頭足類および十脚目甲殻類における有感性の証拠に関するレビュー」である。これを受け英国では二〇二二年には動物福祉(有感性)法(Animal Welfare (Sentience) Act)が制定され、これらの動物が有感的な存在者として認められた。さらに二〇二五年には同法に基づき、生きたまま十脚甲殻類を茹でることは容認できないといった指針が打ち出された。こうした実践的関与は、本書の民主主義理論や市民会議の検討に反映されている。
 
本書の位置づけ・反響
 本書『意識の辺縁』は、有感性に関するバーチの業績を集約した記念碑的著作である。動物のみならず、ヒトの胎児・重度意識障害者からAIに至るまで、有感性をめぐる科学的証拠・理論と哲学的検討を結びつける。しかも有感性の有無を推測するだけでなく、こうした「辺縁」にいる存在者に人間社会がどう応答すべきかという倫理的・政治的考察にまで踏み込む。生命倫理学・動物倫理学の蓄積と民主主義理論を踏まえたその現実的提案は、科学者や一般市民にとっても検討に値する。
 原著は二〇二四年七月に刊行され、大きな反響を呼んだ。二〇二六年六月時点で、Google Scholar 上では約二〇〇件以上引用されたとされており、哲学の研究書としては異例の影響力をもつ文献となっている。二〇二五年にはNayef Al-Rodhan International Prize in Transdisciplinary Philosophy を受賞した。
 なお原題を直訳すれば『有感性の辺縁』となるが、「有感性」の語は邦題として用いるにはまだ人口に膾炙していないと判断して、『意識の辺縁』とした。意識と有感性の概念的な違いについては第2章を参照されたい。
 
本書の内容
 本書は各部が概ね独立しており、意識の理論(第Ⅰ部)、倫理・政治(第Ⅱ部)、ヒト(第Ⅲ部)、動物(第Ⅳ部)、AI(第Ⅴ部)のいずれからでも読み始められる。全体を貫く問いは、「有感性の有無を確実には判断できない存在者に対して、私たちはどう判断し、どう行動すべきか」である。
 冒頭の「枠組みと提案の要約」で本書全体の枠組みが一望できる。バーチは有感性を「感情価付随経験」、すなわち快楽や苦痛のように主体にとって良い/悪いものとして経験される状態をもつ能力として捉える。そのうえで、有感性が確証されていなくても無視すべきでない現実的可能性があり、福祉リスクを特定して予防的措置を設計できる証拠基盤がある存在者を「有感性候補」、まだ候補には達しないが今後候補となりうる存在者を「優先的研究対象」と呼ぶ。第1章では有感性が不確実な諸事例が導入され、それらが不確実性下での実践的・法的判断という共通の困難を抱える点が示される。第2章で、有感性の定義が提示され、有感性が知能・自己意識・言語能力などと異なることが議論される。
 第Ⅰ部は、有感性についてなぜ深い不同意が残るのかを扱い、これを克服すべき混乱ではなく「適理的不同意の領域」として整理する。第3章の心身問題では、物理主義や二元論などをめぐり、意識がどの物理的・機能的基盤に依存するかが論点となる。第4章の倫理と宗教では、功利主義やケイパビリティ・アプローチが有感性の倫理的重要性を認める一方、「有感性中心主義」には生物中心主義などからの批判があることが示される。バーチは、それにもかかわらず、「有感的な存在者に不要な苦しみを与えるべきではない」という重なりあった合意は形成可能だとする。第5章の意識科学・情動科学に由来する不同意については、科学が未成熟だから無視するのではなく、不確実性を認めたうえで、予防的判断にそれらの科学的知見を利用すべきだと主張する。
 第Ⅱ部では、不確実性のもとで社会がどう判断すべきかについて議論される。バーチは「予防的であること」と「過度に保守的であること」を区別し、予防策はリスクに相応でなければならないとする。第6章では枠組みが定式化され、「有感性候補」「優先的研究対象」を中心に、①不要な苦痛を避ける義務、②有感性候補への予防的措置、③情報に基づく包摂的・民主的手続き、という三原理が、上からの「予防原則」ではなく不要な苦しみのリスクから出発するものとして提示される。第7章では、専門家の価値判断が民主的吟味を経ずに政策を決める「専門家の価値観の専制」が問題視される。証拠の評価に専門家は不可欠だが、どの予防策を受け入れるかは価値判断を含むため、市民会議のような熟議民主主義的手続きが要請される。第8章ではその相応性判断が具体化され、ある対応が原則として許容可能か(permissibility-in-principle)、適当か(adequecy)、必要か(necessity)、類似事例と一貫しているか(consistency)を順に問うPARCテストが提案される。専門家は証拠・選択肢の提示を、市民は価値判断を担い、哲学者は「賢者」ではなく相応的でありうる提案を示す「提案者」と位置づけられる。
 第Ⅲ部は、ヒトの脳にかかわる境界事例を扱う。脳損傷・発生過程・人工的脳組織モデルにおいて、有感性をどう予防的に扱うかが問われる。第9章の遷延性意識障害者については、診断区分に高い誤診率と不確実性が伴うため、バーチは痛みの兆候があれば診断にかかわらず「有感性があると仮定する」原理を採り、線引きより個々の患者の最善利益に基づく判断を求める。第10章では、有感性と中絶の許容性を切り分けつつ、胎児手術のような直接侵襲の場面では痛みを考慮すべきだとして、ヒト胎児を第二トリメスターの開始時点から有感性候補とすることを提案する。胚研究の一四日ルールは生命の尊厳や宗教的価値観もかかわるため、民主的熟議が必要だとされる。第11章の神経オルガノイドについては、現状のものは機能的脳幹を欠く点で有感性をもつとは考えにくいとしつつ、覚醒を調整する機能的脳幹(またはその等価物)が形成されれば有感性候補として扱うべきだという「脳幹ルール」を提案する。
 第Ⅳ部はヒト以外の動物を扱う。バーチはすべての成体脊椎動物を有感性候補とみなすべきだとし、難問は魚類や無脊椎動物、とくに頭足類・十脚甲殻類・昆虫の扱いにあるとされる。第12章では、有感性を知能や脳サイズと同一視してはならないと強調される。タコは大きな脳ゆえ認められやすいが、それは十分な基準ではなく、痛覚・学習・動機づけなど多様な証拠が必要であり、彼が主導した二〇二一年のレビューがその基盤となる。第13章では昆虫が扱われる。その痛みは致命的損傷後も摂食や交尾を続けることを理由に否定されてきたが、バーチはこれが嫌悪経験の不在を示すわけではないとし、熱刺激への嫌悪反応や連合学習など示唆的な証拠を挙げる(とくにミツバチ)。これを踏まえた提案18では、頭足類やエビ亜目、成体の昆虫を有感性候補とし、根鰓亜目・昆虫の幼虫・クモ・腹足類・線虫を優先的研究対象とする。第14章では実践的帰結が検討され、とくにタコ養殖は高福祉と人道的殺処分の両立が困難なため禁止が相応的対応となりうるとし、生きたまま茹でるなど死の苦しみを不必要に延長する殺処分法も禁止すべきだとされる。
 第Ⅴ部は人工有感性の可能性を扱う。バーチは現在のAIが有感性をもつと断定はしないが、その可能性を安易に退けるのも危険だと考える。とくにAIでは、有感性を示す表面的振る舞いが学習データや設計によって模倣されうる。第15章では、高度な知能をもつAIが有感性をもたないことも、その逆もありうると指摘され、大規模言語モデル(LLM)も訓練中に内部アルゴリズムを獲得しうる以上、無関係とは言えないとされる。第16章ではLLMに固有の「基準攻略問題」が検討される。AIは人間が有感性の指標とみなす振る舞いを学習・再現でき、これは意図的欺瞞でなくユーザー満足度などを最大化する訓練の結果としても生じうる。ゆえに自己報告や表面的感情表現を証拠とはできず、計算論的機能主義的理論からより深い計算的指標を探るべきだとされる。ただし現在の解釈可能性研究ではその内部構造を十分評価できないため、LLMは「優先的研究対象」とされる。第17章でバーチは、予見可能な将来の発展を見越して規制を先回りさせる「先行原則」を提案する。既存の提案は不十分・不適切であると批判し、代わりにAI企業の行動規範・ライセンス制度・透明性確保を公開の場で議論することを求める。
 「おわりに」では本書全体が総括される。本書は政策と意思決定の書であると同時に、有感的な生命を利用対象ではなく共存の対象として考えうるかを問うている。人工有感性候補が将来出現すれば、それは動物倫理や生命倫理を超えて人間社会全体の制度設計を揺さぶる。だからこそ技術が先行してから慌てるのではなく、いまから公開の場で議論を始める必要がある、とバーチは結ぶ。
(以下、本文つづく)
 
 
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