めいのレッスン 連載・読み物

めいのレッスン ~知らないところ

7月 01日, 2016 小沼純一

 
 
かまどうま、ってどういうの?
サイェが言うのである。
そんなの、なんで知ってる? どこで聞いた?
まあ、出どころは決まっている。わたしの母か、妹か、だ。
おかあさん。
ほら、やっぱり、妹の紗枝だ。で、なんだというわけ?
きらい、ほんとにきらい、おもいだしたくもない。だから、説明もしてくれなくて。
おじさんもいやだな。ああいうムシのなかではさわれないののひとつかも。
このまえ、カマキリが網戸にいて、とっさに大きな声をだしちゃったんだ。そしたらかあさん、とんできて、カマキリみたら、なんだ、って。ひょっとくびをつかんで、網戸あけて、ぽとって。カマキリはいいよ、みたくないのが、おもいだしたくもないのがいる、って。ぼそり、かまどうま、言って肩ぶるぶるするとむこう行っちゃった。
あは。そうだろなあ、やっぱり。
かまどうま、色が良くないんだ。うすい茶色、いや、肌色にちかい茶色、かな。ほら、カマキリでもバッタでも緑じゃない? そんなのがいやだったし、妙に足が長くて、すごく高く跳ぶ。だからびっくりするし、暗いところにいるから、そんなとこからぴょーんとくるからよけいに、ね。べんじょこうろぎなんてありがたくない名前もあるから、色とあいまって不潔なかんじもあってさ。
前はよくいたんだ、トイレ、戸をあけるといたり、お風呂場にいたり。いまのみたいにトイレも風呂場も、外とつながるところがあったから。いまはどっちも個室だし。トイレなんか、下に小さな引き戸というか窓というか、あったし。あ、だから、ヤモリもよくいたな。
なかないの、かまどうま?
なかない。あれでないたら……考えたことなかったけど、どうだろ、もっといやか、すこしはいいか……
 
紗枝とわたしがかまどうまが特にいやだと感じてしまった出来事がある。
いくつのときだったろう。
 
まだ改築する前だったから紗枝とわたしはお互い小学生の後半になるかならないかのころ。玄関の引き戸を開けると地味な色の三四色のタイルが一畳分くらいあり、左に作りつけの靴箱、右に足の長い小さな台があって、白いレースの刺繍をしたのの上に黒電話がのっている。
四十センチあるかないかの高い上がり框があって、右手に廊下が、そして左手と正面に、おなじにぎりのついた、おなじかたちのこげ茶色の戸がふたつ。古い真鍮のにぎり玉の下にはてるてる坊主を図案化したような、スケルトンキーがはいるような鍵穴があいていた。
左を開けると小さな応接間、前は物置になっていた。知らない人にはこの区別はつかない。間違った扉のにぎりに手をださないように、大人たちが気を配っていたかどうかは知らないが。
物置の扉の右には、房が両側についた丸額が下がっていて、正月と初夏に色紙を入れ替えた。その戸を開けると古新聞が重ねられ、掃除機やはたきやトイレットペーパーや道具箱や電球が、特に整理されているでもなく、それらしく置かれている。右上には、すこしだけ、下から上にむかって斜めに板のわたっているのがわずかにみえるが、これは、物置のほとんど上をわたっている二階へつづく階段だ。
 
物置の下には地下室があると教えられたのは母からだった。だったとおもう。はじめは冗談だと信じなかった。子どものために書きあらためられたゴシックまがいの物語を好んでいたわたしへのサーヴィスだろうと。だが、何度か聞いているうちに、どうやら本当らしいとおもいはじめる。そして、まだそれがあるのならみせてほしいと何度かせがんだ。やっと実現したのは随分と経ってからのこと。地下室にはいったことはちゃんと記憶しているし、物置の床にある上げ蓋を開けるために、かなりのものを動かさなくてはならなかったことははっきりおぼえているのだが、そこに誰がいたのか、母いがいに父がいたのか、祖父母がいたのか、はっきりしない。紗枝とわたしは好奇心満々だったというのに。
 
二階に上がるとき使う階段は濃い色のニスが塗られていて太い木目が濃くでているのだったが、地下室への階段はただそのままの白木で、かなりの年月そのままのはずだったけれども、ほとんど汚れがないのが不思議だった。ちょっとひんやりしてかびくさい空気のなか、裸電球をつけると、灰色の壁に囲まれたほとんど直方体の部屋があった。何かおかれているわけではない。ただかまどうまが電球の明かりに驚いて何匹も何匹もとても高く跳ねているばかり。それが異様だった。降りたときには涼しかったのに、じめじめ感がある。すこし音もこもる。不快ではないのに居心地がいいとはおもえなかった。何もないからすぐ飽きがくる。わたしたちはすぐ階段を上がった。ほら、大したことなかったでしょ、と言われたか言われなかったか。
 
地下室の壁は塗りこめられていたが、戦時中は庭に掘られていた防空壕につながっていた。空襲警報がなると祖父母は子どもだった叔母と母に防空ずきんをかぶせて地下室へと急がせた。戦争末期になるともううんざりした子どもたち、叔母と母、は夜中の警報など無視して寝床から離れなかったこともある。当時、いまのように、またわたしたちが子どもだったときのようにも、まわりはそんなに建物がなかったし、あっても平屋か二階建だったから、ずっとむこうの空、地平線のあたりが赤くなってくるのがわかった、くぐもった音がとどいいた――という。
 
祖父はひとりで庭に大きな穴を掘った。
おじいちゃんはよくはたらいたのよ。家族のことにだけは熱心でね、味方見苦しいっておばあちゃんはときどき悪態をついたものだけど。
穴は戦争のあとゴミ捨て場に、ゴミを燃やす場所になり、そのうち、土をかぶせて、花壇になった。脇には柿の木を植えた。わたしたちが学校からもらってきたハツカダイコンの種子やクロッカスの球根を植えようと花壇を掘りかえすとハマグリやサザエの貝殻がでて、教わったばかりの大森貝塚から連想して、大昔のものがでてきたと興奮したことがあったのだが、あれは肥料になるかとわたしたちが食べたのを埋めたんだと聞いてがっかりし、なんとはなしにうちのものたちもどこか気恥ずかしいようにみえたこともあった。
 
東京と呼ばれてはいてもすぐそこはべつの県という位置だったから幸いにも戦災にはあわず、警報を無視することもできたし、のんきなもの言いをするのが家の者たちのつねだった。まだ十代の半ばだった父は、もちろん母や母の親たちやその土地の名などまったく無縁に、べつのところで親元から離れて暮らしていた、ようだった。ようだったというのは、その時代を自分から語ろうとせず、こどもたちも聞く機会を逸したまま時がすぎてしまったからだ。
 
おばあちゃんのうち、直す前はかまどうまをよく見かけたんだよ。このごろはすっかりご無沙汰だけど。
あうと、え、って反応してしまう。しまうのだけど、いないことをおもいださないでいるのに気づいて、あらためていないなとおもうと、つい、あたまをつよくふる。いないんだ、と。
サイェ、防空壕ってわかる? 空襲警報はどうかな。こっちだって経験したわけじゃない。ないけど、聞いてる。聞いてるから、一応はなしはできる。そんなのでも聞いてくれるかな。おばあちゃんがずっと住んでいた、紗枝とわたしが育った、かまどうまを見かけなくなったあの家の、家の過ごしてきた時間のこと。

 
挿絵用12
 
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「東日本大震災」復興支援チャリティ書籍。ろうそくの炎で朗読して楽しめる詩と短編のアンソロジー。東北にささげる言葉の花束。
[執筆者]小沼純一、谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html
小沼純一

About The Author

こぬま・じゅんいち。 音楽・文芸批評家。早稲田大学文学学術院教授。おもな著書に『オーケストラ再入門』『映画に耳を』『武満徹 音・ことば・イメージ』『ミニマル・ミュージック その展開と思考』『発端は、中森明菜――ひとつを選びつづける生き方』など。『ユリイカ』臨時増刊「エリック・サティの世界」では責任監修を務めている。2010年にスタートした音楽番組『スコラ 坂本龍一音楽の学校』(NHK Eテレ)にゲスト講師として出演中。