連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』31

9月 06日, 2016 藤田尚志

第四部第三章

 
 
承前

この第四部はベルクソン晩年の著作『道徳と宗教の二源泉』を研究対象とし、〈声〉、〈火〉、〈道〉という隠喩に注目しつつ、「動的行動の論理」の諸側面を三つに分けて分析しようと試みている。第1章では、ベルクソンの多用する〈声〉の形象を通じて、憧憬によって生み出され、自ら憧憬を生み出す人格性を「響き」、「反響」の効果と捉えることで〈呼びかけ〉概念を規定し、動的行動の発生(不可能な起源)の局面を分析した。第2章では、ベルクソンの頻用する〈火〉の形象を通じて、創造によって伝達され、自ら創造を伝達する共同体を社会的紐帯なき「伝播」、「交流」と捉え、それによって〈情動〉概念を規定し、動的行動の伝播(不可能な伝達)の局面を分析した。本章では、『二源泉』に頻出する〈道〉の形象を通じて、動的行動の方向(不可能な目的)の局面を分析する。

より詳しく言えば、この第3章は三つの部分に分かれる。まず、『二源泉』の身体概念を再検討する。精神と物質、創造と技術、欲望と生産をつなぐ場所たる身体には、これまでの三つの著作の読解に際しても常に注目してきたが、ここでもまた私たちの『二源泉』読解の出発点となる。ここで技術が欲望の無限の延長として浮上してくる。そこで、第二に、技術の問題を扱う。身体と技術が直接接続されるのは「(非)有機的生気論」の特徴である。「機械主義と神秘主義」は、この特異な生気論にふさわしいタイトルである。人類の向かう先はどのようなものか。いかなる方向=意味が人類に与えられるべきか。最後に、「道」の形象と共に、動的行動の論理を追うことにしたい。

 

第3章 道の途中:二重狂乱と政治

 

多様な人種を区分する主なものは、黒人諸部族、〔カフカス北部の〕チェルケス人、マレー人、アメリカ原住民などの間に求めるべきではなく、むしろ金持ちと貧乏人との間に求めるべきである。この二つの人種に見られる身体組織の差異は、いわゆる人種の類型間にある差異よりもはるかに大きい。金持ちの人間は、ここから英国へと、行きたくなればいつでも行ける。それに対し、もう一方の人間の脚は、目に見えぬ運命に縛られて、彼らを一定の狭い範囲を越えて運んでいくことができない。(…)自分の身体に、いずれかの太平洋航路客船会社の一船室を付け加えられる人は、それができない人よりも、はるかに高度な身体組織に恵まれているのである。(…)見事にあつらえられた一揃いの手足を持つのは、大金持ちの人間でしかない。われわれは、このうえない科学的厳密さをもって断言することができるのだが、知られうる限り最も驚くべき〈身体=組織〉(organisme)となっているのは、かのロスチャイルド家の人々に他ならない。

――バトラー

 
 

§91. 「結びの考察」の意味=方向

『二源泉』の読解を締めくくる本章を始めるにあたって、まず、著作の構成から気づかれることを記しておこう。これまでにも散発的に言及したことはあったが(例えば、§80)、ここでまとめておく。

 

第1章 道徳的責務

第2章 静的宗教

第3章 動的宗教

第4章 結びの考察――機械主義と神秘主義

 

1)まず目を引くのは、あらゆる意味での簡潔さである。ベルクソンの全著作中、序文や序論が付されていないのは、この『二源泉』しかない。また、各章のタイトルもぶっきらぼうとも言えるほどシンプルだ。最終章を除いて、副題が一切ない。この簡潔さは、例えば四大著作の目次を見比べてみると、いっそう際立つ。文体的戦略か、老齢からくる精神的・肉体的消耗か、あるいはその両方か、いずれにしても切迫感が感じられる。そう、この著作の隠れたモチーフは、切迫感だ。それをどこかで感じ続けることなく、この著作を“学術的”に論じることは、ベルクソン哲学における文体の重要性を顧慮していないという意味でも、単純に『二源泉』の核心を逸するという意味でも、決定的に倒錯している。

2)第2章と第3章が対をなすという構成は『物質と記憶』に似ている。『物質と記憶』では、「イマージュの再認について――記憶と脳」と「イマージュの残存について――記憶と精神」と題され、二つの記憶の極(習得された記憶と自発的な記憶、感覚運動記憶と純粋記憶)が対置されているのに対し、『二源泉』は二つの宗教の極を対置しているからである。ただし、『物質と記憶』では、第一章の知覚論は、純粋知覚を論じるだけで、記憶との絡み合いについての考察を欠いた不完全な(特殊)一元論であったのに対し、『二源泉』第一章はすでに開かれた道徳と閉じた道徳の二極を提示し、いきなり完全な(一般)二元論的一元論を展開している。

3)最終章は、道徳・宗教の語が付されていない。これまで何度か述べたが、第四章は、ベルクソンのどの著作においても、最も大胆な実験が試みられる場所である。『物質と記憶』第四章の冒頭付近で、ベルクソンはこう述べる。

私たちは、ここで終わりにしておくこともできるかもしれない。身体が精神の生において果たす役割を規定するためにこそ、私たちは本書を企てたからだ。しかし一方で私たちは、途上で形而上学的な問題を提起しているわけで、それを放置しておく決心はつかないし、他方では私たちの探究は、主として心理学的なものであったとはいえ、それが幾度か垣間見させたものは、問題を解決する方策ではないにしても、少なくともまず着手すべき問題の一側面だったのである。/右に言う問題とは、心と身体の合一という問題に他ならない。この問題は、私たちの場合には、先鋭な形で提起される。(MM)

最初に企てた目的を達してなお、いやむしろ、達したからこそ生じてくる問いがある。『二源泉』はどうだろうか。

この著作の目的は、道徳と宗教の起源を探究することだった。われわれはそこばくの結論に達した。ここで満足してもよいのかもしれない。だが、われわれの結論の根底には、閉じた社会と開かれた社会との根本的区別があった。またわれわれの見るところ、閉じた社会のもっている諸々の傾向は、開かれつつある社会のうちにも根絶されえぬものとして存続していたのである。さらにまた、閉じた社会のこうした規律本能は、原始状態では闘争本能へ収斂するものだった。そこでこの本源の本能は、いったいどの程度にまで抑えられえ、ないしはかわされうるものなのかをわれわれは問わねばならぬ。そして、われわれに向かって当然提出されてこよう一つの問いに――いくらか考察を付け加えて(par quelques considérations additionnelles)――答えねばならぬ。(DS 307)

『二源泉』の第四にして最終の章は「結びの考察――機械主義と神秘主義」(Remarques finales : mécanique et mystique)と題されている。この「結びの考察」に関する考察から説き起こしていくことにしよう。「結びの、最終的な」(finales)という決定的な要素と「考察、注記」(remarques)という暫定的な要素との衝突(oxymoron)があるという意味で、驚くべき仕方で、しかし同時にきわめて適切な仕方でタイトルを与えられた、この奇妙なhors-texte(通常は本に差し込む別刷りの中絵、中扉などの別丁を指すが、文字通りには「本文の外」を意味する)がどのような戦略を備えているかをごく大まかに素描しておこう。

『二源泉』第一章は、開かれたものと閉じたものの区別と連関の図式を練り上げ、第二章と第三章はそれを展開して歴史的な平面へと投影し、第四章はその実践的な帰結を引き出そうと試みている、とひとまずは言えるだろう。だが、結局のところ、「結びの考察」はこの著作の終着点ではなく、むしろその出発点、その執筆動機なのである。かつてないほど実践的でプラグマティックな次元で思索を展開することを求めて、ベルクソンは『二源泉』を書いたのである。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。