ジャーナリズムの道徳的ジレンマ 連載・読み物

ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 12〉取材先からゲラのチェックを求められたら

1月 31日, 2017 畑仲哲雄

 
報道する以上、記事の精度は上げたい、しかし“検閲”につながる危険性もある――。「事前チェック」は媒体によって慣行も異なる上に、最近は一方で「確認」の手間を取材先に投げる傾向も指摘され、入り組んでいます。[編集部]
 
 
 取材をめぐるジレンマに直面したとき、なにを考え、なにを優先するのか? あなたならどうするだろう。

1:: 思考実験

「検閲だなんて言われる筋合いはない」
 電話口の向こうで、記事を事前にチェックさせるよう迫っているのは、1週間ほど前に取材に応じてくれた当人だ。
 取材のときはいい感じだった。話も面白く、「お役に立てば」と詳しいデータも提供してくれた。わたしのような雑誌記者を軽んじることはなく、フェアな態度に好感を抱いた。だが、いま、電話の口調は驚くほど厳しい。
 取材を申し込んだとき、特集の仮タイトルは伝えたが、それはあくまでも案にすぎない。ボツになることもあれば、方針が変わることもある。そのことを、彼にも説明した。だからこそ、彼も気になって電話をしてきたのだろう。
「わたしにも取材に協力したという責任があるし、事前に全部読んでおくべきでしょう。場合によっては修正を求めるかもしれない。その権利があるし、義務もある」
 メディアの取材に応じた人なら、どんな記事になるか気になるのは当然だ。記者は正確に理解したか。誤解を招くような発言をしなかったか。引用が不正確で、部分的に誇張されたり、主旨がねじ曲げられたりしていないか。数字や固有名詞に誤りがないだろうか……。そんな彼の気持ちはわかる。
 だが、会社の内規には、刊行前の原稿や校正刷りを外部に流出させてはならないと明記されている。そう説明したが、彼は納得してくれない。
「内規は社内の決めごとで、一般社会では通用しませんよ」
 電話をいったん保留にして、デスクに相談したが、「曲がりなりにもジャーナリズムの看板を掲げる雑誌が、すすんで検閲につながることはできない」とにべもない。
 そんなデスクの言葉を、やんわりと電話で伝えたところ、彼は「ぼくは一般市民で、検閲という言葉は権力者に向かって使う言葉だ」と語気を強めた。
 原稿は手元にある。取材相手にチェックしてもらうのが正しい気もする。だが、デスクが言うとおり相手に見せることはジャーナリズムのルールに反する。見せるべきか。見せてはならないのか。

    [A]見せるべきだ。新聞社や放送局でも談話や単独インタビューの内容を確認してもらうことはある。内規を絶対化するのは愚かなことだ。取材協力者は外部の人でも検閲者でもない。
     
    [B]見せてはならない。報道前に外部には見せないのはこの雑誌だけではない。新聞社や放送局が長年にわたり培ってきたルールだ。蟻の穴から堤も崩れる。原則というより、鉄則だ。

 

2:: 異論対論

抜き差しならないジレンマの構造をあぶり出し、問題をより深く考えるために、対立する考え方を正面からぶつけあってみる。
 
[見せる立場] ひとくちに取材協力者といっても、関与の度合いに濃淡がある。今回は資料やデータも提供してくれた。信頼関係も構築されていた。彼は、広い意味で特集記事をつくる仲間といっていい。彼にも読者に責任を負っているという意識がある。事前に記事を見せてもかまわないどころか、今回は、記事内容をしっかりチェックしてもらうべきだ。
 
[見せない立場] 読者に届く前の原稿を、外部に流出させたメディアは信頼を失う。寄稿や談話、鼎談のような著作物の場合は事前に確認してもらうことに問題はない。だが、通常の取材活動で、協力してくれた人に求められるまま原稿を見せるのは自殺行為。権力者ではないからこそ「見せてほしい」「修正してほしい」と要求してくる。きわめて危険だ。
 
[見せる立場からの反論] ジャーナリズムには権力を監視する使命がある。政権の座にある与党政治家や行政権力による検閲に対しては、体を張って闘うべきだ。しかし一介の民間人から「確認させて」と求められたとき、「検閲につながる」と拒めば、二度と取材協力してもらえなくなるだろう。そうやってメディアが信頼を失うことで喜ぶのは権力だ。
 
[見せない立場からの反論] メディアに登場する人には、どうしても地位や権威がつくものだ。ヒトラーも元は一介の市民だったがプロパガンダを駆使して独裁政権を作り上げた。日本にもメディアで顔と名前を売って、知名度を武器に政治家に転身した元タレントは何人もいる。ジャーナリズムを掲げるメディアに介入しようとする人や団体には特に注意が必要だ。
 
[見せる立場からの再反論] 法曹資格や医師免許をもつ記者を募集する新聞社もあるが[1]、一般論として記者は専門家ではない。正確な記事をつくるには、何重にも確認する必要がある。そんなチェック作業に、被取材者が参加してくれることは歓迎すべきことだ。記事にするか、ボツにするかの最終決定権をメディア側が手放さなければ、編集過程はオープンなほうがよい。
 
[見せない立場からの再反論] 事前に見せることは、修正要求を受け入れるのと同じ。それでは編集の独立が保てなくなる。振り返れば、報道に圧力をかけたのは政府だけではない。広告主や株主企業、広告代理店、政治家、財界人、暴力団、各種団体……。今回の取材協力者が、そんな組織に動かされていない保証はどこにもない。
 
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