連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』14

1月 06日, 2016 藤田尚志
§46. rythmesure(リズム計測) II. 持続のリズム(続)

私たちは、ベルクソンのメジャーな概念(discursus)を支えるマイナーな論理(excursus)を掘り起こすべく、彼の用いるさまざまな比喩や文彩に注目していた。『物質と記憶』を統御する「記憶」概念と「知覚」概念については、それらがどのように「置かれるか」、その場所の論理に注目して読み解こうとしていた。そこで問題となっていたのは、単なる幾何学的・抽象的な空間概念と相関的な位置(place)でもなく、環境世界と相互作用的な実存主義的(メルロ=ポンティ的)状況(situation)でもない、言い換えれば、非人称的な超越論的領野というだけでなく、そこに必ず主体の萌芽が住まっている「知覚の場(site de la perception)」であった。

さて、この知覚の置かれ方と、記憶の置かれ方の違いをめぐって問題となるのが、想像力の果たす役割である。そして、ここでもまた、カントとの対決が決定的に重要な役割を果たすと述べておいた。今回はそこからふたたび出発することにしよう。『物質と記憶』第四章の一節である。

このように解されれば、空間はまさに固定性と無限可分性の象徴である。具体的な延長、すなわち感性的諸性質の多様性が空間の中にあるのではない。(mettre)のである。空間とは、現実的運動がその上に措定される(se poser)ところの土台ではない。反対に、現実的運動の方が自らの下に空間を置く(déposer)のである。しかし、われわれの想像力は、とりわけ表現の便利さや物質的生活の諸欲求に心を奪われているので、諸項の本来の順序を逆点させるほうを好む。その外見上の固定性が何よりもわれわれの低位の諸欲求の不変性を映し出している、すっかり構築された不動のイマージュの世界の中に、われわれの想像力は自らの支点を探し求めることに慣れているので、この想像力は、動性よりも前に静止を信じ、静止を目印にし、静止のうちに安住し、要するに、空間が運動に先立つのだから、運動の中にもはや距離の変化だけを見ることを余儀なくされる。そのとき、等質的で無際限に分割可能な空間の中に、われわれの想像力は一つの軌道を描き、数々の位置を固定するだろう。その後で、この軌道に運動を押し付けることで、われわれの想像力は、運動がこの線と同様に分割可能で、この線と同様に性質を欠いていることを望むだろう。(MM IV, 351/244-245)

 先に私たちは、もう一つの図式論と言っておいた。それが意味するのは、共通点と差異があるということである。まず共通点について言えば、ベルクソンはカント同様、想像力=構想力の活動に、諸感官のそれとは区別される、ある種の正当性を認めている。

しかし、運動を知覚する諸感官の所与と、運動を再び組み立てる精神の策略とを取り違えてはならないだろう。諸感官は、そのままにされれば、二つの現実的停止のあいだの現実的運動を、確固とした不可分な全体としてわれわれに示す。分割は想像力の活動であり、夜間に雷雨の風景を照らす瞬間的な雷光のように、われわれの日常経験の流動的なイマージュを固定することをまさに機能としている。(MM IV, 325/211)

想像力=構想力のこの側面については、なお多くのことが言われねばならないだろう。もし「このいわゆる等質的な時間は、〔……〕言語の偶像であり、その起源が容易に見出される虚構フィクションなのである」としても、この偶像ないしこの虚構はたしかにカントならば超越論的と呼ぶであろう想像力=構想力の産物である。

次に、カント的図式論とベルクソンのそれとの間の相違点については、まず以上に見てきた区別、すなわち空間と延長との間の区別に関係するように思われる。

したがって、延長から抜け出ることなしにある程度は空間から解放されうるだろうし、そこには直接的なものへの回帰があるだろう。というのも、われわれは空間を図式のごときものとして思い描くだけなのに対して、延長についてはそれを本当に知覚しているのだから。(MM IV, 323/208)

だが、この一節を単なる(空間に論理的かつ存在論的に先行する)延長への回帰を示すものとして読んではならない。というのも、ベルクソンは、具体的な延長を超えて、さらにその先へ進もうとしているように思われるからだ。

おそらく、感覚はすべて空間における運動という一つの共通の起源へと遡る。しかし、まさに感覚は空間の外で進展しているのだから、感覚は感覚である限り、感覚の諸原因を結びつけていた親縁関係を放棄している。感覚は空間との関係を断つことで、諸感覚間の関係をも断っているのであり、そのように互いを分有してもいなければ、延長を分有してもいないのだ。(MM IV, 347/239)

すると、どうなるだろうか。もし「精神の最も控えめな役割が、諸事物の持続の継起的諸瞬間を繋ぐことである」(IV, 355/249)とするなら、それはまずもって私たちの多様な諸感官を結び合うのでなければならない。そして、それを内側から、内在的に行うのでなければならない――これこそ、私たちが第一部において「内在的感性論」ないしrythmesureと呼んでいたものであるが――、「内在的に」とはここでは、「運動そのものにおいて、そして運動そのものとして」を意味する。ベルクソンのマイナーな論理の探究は、まったく特異な場所論として自らを示すことになるという意味で、ここでさらに根底的ラディカルなものとなる。「具体的な延長を通して歩むことで」、ベルクソンは、「現実的運動は一つの事物の移送というよりもむしろ一つの状態の移送である」(IV, 337/226)ということを示そうとする。「だが、なぜ他所を探すのか?」とベルクソンは問いかける。まさに、もし『物質と記憶』第四章のうちにsitusの論理の延長があるとするなら、それは、想像力=構想力の機能をいわば痙攣させる持続以外のどこに、出来事の場所としての運動以外のどこに、見いだされるだろうか。アリストテレス『自然学』とベルクソンの『場所論』に関する私たちの分析は、ここに至ってようやく完全な意味を持つにいたる。

しかし、なぜ運動以外の場所に探そうとするのだろうか? あなたが運動を運動が踏破している線にもたせかけているかぎり、あなたが運動をいかなる起源に結びつけるかに応じて、同じ点があなたにとって交互に休止したものとも運動中のものとも見える。あなたが運動からその本質たる動性を抽出するとすれば、事情はもはや同じではない。(MM IV, 331/219)

変化は至る所にあるが、それは深みでのことである。われわれは変化をいくつかの場所に局所化するが表面でそうしているにすぎない。かくしてわれわれは、その性質に関しては安定している(stables)が、と同時にその位置に関しては動的なる(mobiles)諸物体によって、われわれの見るところ、そのうちに宇宙の変化を凝縮させている一つの場所の変化を構成するのである。(IV, 344/235)

私たちが序論において「マイナーな論理」と呼んでおいたものの特徴の一つでもあるので、さらに正確に述べておこう。この場所論は、場所のうちで運動を考察するのでも、運動のうちで場所を考察するのでもなく、場所としての運動を考察することで、存在論的な特性が認識論のレベルで決定的な帰結をもたらす。

この方法は直接的な認識に特権的な価値を勝手に与えていると非難されるだろうか。しかし、われわれはある認識を疑ういかなる理由を持っているだろうか。ある認識を疑うという考えそれ自体、反省が告知する数々の困難や矛盾、哲学者が提出する諸問題なしに、果たしてわれわれに思い浮かぶだろうか。これらの困難や矛盾や問題は何よりも、直接的な認識を覆い隠す象徴的形象化(figuration symbolique)から生じるもので、この形象化が今度はわれわれにとって実在そのものと化しており、激しい例外的な努力(un effort intense, exceptionnel)だけがその厚みを貫き通すことができるということ、この点が確証されうるなら、直接的な認識は自分自身のうちにその正当化と証拠を見出すだろう。(MM IV, 323-324/208-209)

ベルクソンとカントは、ゼノンの仲間であれ敵であれ、二人の偉大な「線」の思想家であった。「そのとき、運動はわれわれの想像力にとってはもはや偶発事、一連の位置、諸関係の変化でしかない」(IV, 339/228)。『純粋理性批判』において問題となっていたのは、悟性に統御された想像力=構想力である。フランスのカント学者として著名なアレクシス・フィロネンコによれば、カントが『判断力批判』において「絶えず、デッサン、描かれたものを前提とする諸芸術の上に例を展開させている。興味深いことに、カントは芸術の個別ジャンルとしての音楽に関しては何も言っていない」。カントはデッサンの哲学者なのであって、ベルクソンの次のような記述に賛意を表するであろう。「かくして、ある走者の多数の連続した位置は、象徴的なただ一つの姿勢へと凝縮させられ、われわれの目はその象徴的な姿勢を知覚し、芸術はそれを再現し、この姿勢は万人にとって走る人間のイメージとなる」(IV, 343/234)。

ところで、ベルクソンはと言えば、ドゥルーズが言うであろうように、映画(cinéma)の哲学者である。彼の内在的な運動学(cinématique)において問題となるのは、ただ単に諸事物の多様な持続のリズムを結び付けるのみならず、諸感覚間を繋ぐのみならず、知性と自由な一致を見出す力能として、「記憶、すなわち未来のための過去と現在の綜合(synthèse)」(IV, 354/248)を構成する。このずらされた想像力については、次章で検討することにしよう。

次章では、『物質と記憶』第二章と第三章、そしてその延長線上で、『精神のエネルギー』を読解していくなかで、いかに記憶の諸力能、現在の還元不可能な二元性(知覚イメージと想起イメージ)、そしてその不可分離性を強調するベルクソンが、メルロ=ポンティとその「知覚の優位」の最悪の敵、あるいは、「フランス現象学の神学的転回」(ドミニク・ジャニコー)以後に支配的になった「現れないものの現象学」(ハイデガー)の前未来的な敵対者であったことになるのかを見ていくことにしよう。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。