連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』15

1月 06日, 2016 藤田尚志
§49. 図式論の問い(カント、ハイデガー、ドゥルーズ)

カント的な図式は直観と概念を結び付ける。直観の対象に対して、概念のもとに「包摂される」ことを可能にする。表象として(しかし像とは区別されるものとして)、図式は感性的なものである。だが、特殊性・個別性を欠いたものとして、図式は叡知的なものである。言ってみれば、図式は両者の間なのである。

するとここに第三のもの、すなわち――一方ではカテゴリーと、また他方では現象とそれぞれ同種的であって、しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならぬということが明らかになる。このような媒介的な役目をする表象は、(経験的なものを一切含まない)純粋な表象であって、しかも一方では知性的であり、また他方では感性的なものでなければならない。このような表象がすなわち超越論的図式(transzendentales Schema)なのである。(B178)

カントが「図式」と呼んでいるのは、悟性の概念がその用法においてそこに制限されるような、感性の形式的で純粋な条件であり、「図式論」と呼んでいるのは、悟性がそれらの図式とともに実践する方法である。媒介的なものである図式は、結局のところはサルトルが『想像力の問題』において「準観察」と呼ぶものからそれほど遠いものではない。

かくて、イマージュにおいて、対象は多数の綜合作用のうちに把握されるべきものとしてあらわれる。〔……〕この観点からすれば、イマージュは、概念よりも知覚により近いことになるであろう。しかし、また他方、イマージュは何一つ教えず、新しい印象を与えることもせず、対象の一面を明るみに出すこともない。〔……〕知覚は私を欺くかもしれないが、イマージュが私を欺くことはない。イマージュの対象に対する私たちの態度は「準観察」(quasi-observation)と呼ばれうるであろう。私たちは事実、観察的態度をとるのであるが、しかもそれは何一つ教えることをしない観察である。(Sartre, L’Imaginaire, p. 28. サルトル『想像力の問題』16頁)

この図式と図式論について、三つのことを指摘しておこう。

1)図式とイマージュ――想像力=構想力による綜合がいかなる個別の直観をも対象とせず、ただ感性の規定における統一性のみを対象とする以上、「図式はイマージュと区別されるのでなければならない」(B179)。

2)図式と想像力=構想力――ところで、イマージュが「生産的構想力=想像力の経験的力能の産物」(B181)であるのに対して、「図式は常に、それ自身、構想力のみによる産物」(B179)であり、あるいはさらに正確に言えば、「ア・プリオリな純粋構想力」(B181)の産物である。

3)図式と時間――したがって、図式が「構想力の超越論的な産物」であるということが意味しているのは、それが「内部感覚一般がその形式(時間)の諸条件に基づいて規定されるという事態に関わっている」(同上)ということである。これはあらゆる表象について、それらが統覚の統一性に合致する形である概念のうちにア・プリオリに結び合わされるかぎりにおいてのことである。

図式と図式論に関する以上三つの指摘は、どれもただ一つの中心へと照準を合わせている。それは二重の主張であって、いかに逆説的に見えるとしても、悟性による立法と知覚の優位である。一方で、カントはこう宣言する。「構想力の綜合に関する統覚の統一は悟性であり、したがってまた構想力の超越論的綜合に関するこの同じ統一はすなわち純粋悟性である」(A119)。悟性の立法が超越論的なるものの帝国に支配を広げていることにはたしかに注意を払わねばならないが、あらゆる綜合関係が人間認識のあらゆる領域にまで広げられるのはその後のことなのである。

したがって人間の経験的認識能力は、必然的に悟性を含んでいる、そしてこの悟性は、直観と構想力による直観の綜合とを介するにせよ、感官の一切の対象に関係する、それだからおよそ現象は、可能的経験のための所与として悟性に従うのである。(同上)

このように悟性の立法は確かに強力に機能している。しかし他方で、逆に、「産出的構想力」と「ア・プリオリな純粋構想力」の差異が、二つの異なる種ないし型というよりは、一つの構想力の二つの様態と見ることができるのであれば、両者は截然と区別されないことになり、次のような規定はどちらの構想力にも等しくあてはまることになるだろう。

構想力は知覚そのものの必然的な構成要素である、ということに考えついた心理学者は、これまで一人もいなかった。その理由は、この能力が再生だけに制限されたためでもあり、また感官は我々に印象を与えるだけではなくて、これらの印象を結合もし、こうして対象の形象を作り出すものと見なされたためでもある。(A120)

悟性の超時間的性格と知覚の恒常性は、時間についてただ直観のア・プリオリな形式としてしか考慮に入れさせることはない。時間の凝縮力は、超越論的な意識の綜合する力能に置き換えられてしまう。悟性と知覚のこの二重の優越と、その結果としての時間の変質=変貌=損壊から次の三つの決定的な帰結が生じてくる。
 
1)構想力の力force(ハイデガー)――感性的な諸概念の図式と悟性の純粋概念の図式の区別は維持されえない。超越論的図式論とはつまるところ、あらゆる可能な経験において作動するものである。したがって私たちは、悟性の優位を転覆し、超越論的構想力によってそれに取って代えようと試みる『カントと形而上学の問題』(1929年)のハイデガーに対して、基本的には同意している。ただ、おそらくハイデガーは、図式論にあまりにこだわりすぎ、その力能を過大に評価しすぎているのではないだろうか。「純粋悟性概念の図式性の問題は、存在論的認識の最も内的な本質への問いである」(§23)。

超越論的感性論は『純粋理性批判』冒頭に置かれているそのままの形では、根本において不可解である。それは準備的性格を持つにすぎず、超越論的図式論を予想してはじめて本当に読解されることができる。〔……〕純粋直観の根源的な結合調整性格(syn)の特殊性は、この直観が悟性の綜合に属するということを含意しているわけではない。反対に、この結合調整性格の説明は、純粋直観の根源が超越論的構想力であるということに導く。(§28、邦訳160頁)。

私たちは、ハイデガーとともに、図式の想像的=構想的性格を主張するが――彼は言う、「図式はたしかに像から区別されるべきであるが、しかしそれにもかかわらず像というようなものに関係づけられている。このことが意味するのは、図式には必然的にある像としての性格が属するということである。この像性格は固有の本質を有する。それはただ単なる形観(第一の意味での像)でも再生産=写像(第二の意味での像)」でもない。我々はそれを図式‐像と呼ぶことにしよう」(§20)――、それは彼とはまったく逆の目的のためである。ハイデガーが図式論の影響を見出すところに、私たちは図式論の限界を見出すのである。図式論は、時間の本性を歪曲=毀損することで、知覚の優位を維持するが、この点でハイデガーはカントと意見を共にしている。

すべての概念的表象作用は、その本質から見て図式論である。しかるに、すべての有限な認識は思惟的直観として必然的に概念的である。それゆえに、ある眼前にあるもの、例えばこの家の直接的な知覚のうちにはすでに、、、、、、、、、、、、、、、家というようなもの一般への図式化的な予見が必然的に含まれており、、、、、、、、、、、、、、、、、、、この予見的な表象(Vor-stellung)からのみ遭遇するものは家として自らを示し、「眼前にある家」という形態を呈示しうるわけになる。(§21. 強調は引用者)

2)想像力=構想力を猛り狂わせるforcener(ドゥルーズ)――ドゥルーズが次のように書くとき、彼が上述のハイデガー的解釈のことを念頭に置いていたことは明らかであるように私たちには思われる。

空間-時間的諸関係が概念的諸関係に(本性上、互いに異なっているにも関わらず)適合しうるということ、そこにこそ、深い神秘と秘められた巧みさがあるのだ、とカントは言う。しかしそのように述べたテキストを盾にとって、図式機能=図式論は構想力の最も深い作用であるとか、このうえなく自発的な巧みさであると考えるわけにはいかない。図式機能は構想力に独自の作用には違いない。構想力のみが図式化を行なう。だが、構想力が図式化を行なうのは、悟性が取り仕切るとき、あるいは立法的権限をもつときだけである。構想力は思弁的関心の中でしか図式化を行なわない。悟性が思弁的関心を引き受けるとき、つまり悟性が規定的となるとき、そのときに、そしてそのときにのみ、構想力は図式化するべく規定される。(La Philosophie critique de Kant, PUF, 1963, p. 29. 邦訳43‐44頁)

おそらくドラマの続きは予想通りである。すべては、『判断力批判』がやってくると変わってしまう。「構想力は、ここでは、「概念なしで図式化している」(§35)と言ってしまってもいいかもしれない」(ibid., p. 71. 邦訳101頁)。図式論が常に、もはや自由ではない構想力の行為であるとすれば、第三批判において問題となるのは、悟性を重荷から解き、構想力を解放し、さらには「猛り狂わせる」(forcener)ことである。構想力はもはや、図式論の力によって、悟性の立法を転覆することを企むのではなく、彼らとともにフリーセッションに入る。

実のところ、構想力はここで図式化とは別のことを行なっているのである。構想力は、対象の形式を反省することで自らの最も深い自由を表し、「形象の観察において、いわば、戯れている」のであり、「可能的直観の恣意的な諸形態の原因としての」産出的で自発的な構想力になるのである。これがつまり、自由なものとしての構想力と、無規定なものとしての悟性との一致である。これが、諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致である。この一致について、それは本来的な意味で美的な共通感覚(趣味)を明示するものであると言わねばならない。(同上)

私たちの知る限り、ハイデガーは構想力の問いに関して、第三批判のなしうる貢献を本質的に考慮に入れていない。未規定的な悟性と自由な一致をもつ自発的で産出的な構想力のこの再発見は、私たちに真の時間性を明らかにしてくれる。それは記憶の問いである。
 
3)記憶の不在――実際、カントが第一批判において次のように書いていた時、記憶はどうなっているのかと私たちは自問することができる。

心意識が一つの知覚から他の知覚へ移っていく場合に、もし第一の知覚をこれに続く第二の知覚のほうへ呼び寄せ、こうして知覚の全系列を現示する主観的根拠――換言すれば、構想力の再生能力がなかったならば、多様なもののこの覚知ですら、それだけではまだ像、すなわち印象の結合を産出するものでないことは明白である。なお構想力のかかる再生能力が、まったく経験的なものであることは今さら言うまでもない。(A121)

まとめよう。カントは構想力を次のような仕方で定義している。「構想力(Einbildungskraft)とは、対象が現に存在していなくてもこの対象を直観において表象する能力である」(B151)。ベルクソンはこう言っていなかっただろうか。「想起とは不在の対象の表象である」(MM「要約と結論」366/265)。あるいは、「記憶、すなわち過ぎ去った諸々の像の生き残り(survivance)」(MM, I, 213/68)と。たしかに、構想力=想像力は、図式と図式論=図式機能のうちで、悟性と知覚の二重の優越のもとで機能している。だが、構想力はもう一つの顔を持っており、その相貌を垣間見る時、私たちは記憶の忘却から目を覚まされるのである。
 
 


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[第15回初出:2014年7月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。