大学に入る資格を持たなかった集団として、ユダヤ人と女性の医学について触れておこう。ユダヤ人の共同体が存在するところには、必ずユダヤ人の医師がおり、医学教育の知的・思想的な枠組みが作られていた。イスラム圏に居住しているユダヤ人たちはギリシア語やアラビア語の医学教育のシステムから発展した医学を学ぶことができた。ユダヤ人の学者であるマイモニデス(Maimonides, 1138-1204)は、当時イスラム圏にあったスペインのコルドバで生まれ、ユダヤ教の神学者、法学者、哲学者として著名となると同時に、アラビア語で医学の高等教育を受けて、十字軍の争いの折にはサラディン王の宮廷の医師となり、アラビア語で10点の書物を書き残している。これらの書物はヘブライ語に訳されてユダヤ人たちの医学教育に貢献した。このような発展した医学へのアクセスを持っていたユダヤ人は、ラテン・キリスト教世界でも医師として高く評価されており、ユダヤ人の医療者とキリスト教徒の医療者の割合は、その地域の一般住民における比率をはるかに超えて、ユダヤ人の医療者が多いという状況を各地で作り出していた。ラングドックでは、名前が記録されている治療者の1/3がユダヤ人であったと推計されている。キリスト教とイスラム教が、それぞれの宗教とアリストテレスの哲学を接合したように、ユダヤ教もギリシア哲学と接合された。イスラム教の文化に影響されて、ユダヤ人たちはアリストテレスの著作をヘブライ語に訳し、13世紀にはあらかたのアリストテレスの著作はヘブライ語に訳されていた。イスラム支配下のイベリア半島では、アラビア語で書かれたイスラム医学がヘブライ語に訳されて、数多くのヘブライ語の医学写本が残されている。1215年のラテラノ公会議により、教会が認めない医療者が診療することを禁止したのは名目上のことであり、ユダヤ人の医療の水準は高く、キリスト教徒からも大きな需要があり、ユダヤ人の医師は変わらない人気を保ち、教皇や司祭もユダヤ人医師の診療を受けていた。キリスト教社会の中で敵視されていたユダヤ人が、医療においてはある意味で信頼されていた。しかし、ラテン・キリスト教世界の医学の知的な水準が上がるとともに、ユダヤ人たちはそれを評価するようになり、イスラムの文化圏からだけでなく、ラテン・キリスト教世界の医学から学ぶことがあると考えるようにあった。ユダヤ人たちは、アラビア語ではなく、ラテン語でイブン=シーナを読むようになり、あるいはラテン語の著作をヘブライ語に訳すようになった。このように、ラテン・キリスト教世界の医学とユダヤ人の医学の水準が、中期中世から後期中世にかけて逆転した一つの理由は、ユダヤ人たちが大学で学ぶことができなかったためだという解釈がある。
大学に入る資格を持たなかったもうひとつの治療者の集団として、女性を上げることができる。医療にかかわる女性としては、出産にかかわる産婆(助産師)をまず挙げることができるが、中世の産婆に関する史料は少ない。出産以外にもさまざまな治療に女性は携わり、名前が記録されている医療者全体の1-2%程度が女性である。この数字が示すように、女性が産婆以外の形で職業としての医療にかかわること自体は珍しかった。しかし、家庭や修道院においては、そこに住むメンバーの疾病を治療する者としての女性の役割が大きかった。家庭では、女性が調理の味付けと傷病の治療のために香草や薬草を栽培して、収穫したものを小麦粉・ハチミツ・ロウなどで加工して用いていた。これらは地域や家庭の女性の間での口誦で受け継がれる伝統であり、15世紀には薬の効用などを韻文化して記憶しやすくした唄も記録された。肉を調理して保存肉にしたり、石鹸を作るのと同じような意味で女性たちは薬を作っていた(図4)。
女性が医療の機能を持っているのは女性のための修道院においても同じ状況であった。修道士と同じように修道女は基本的な医療の知識を持ち実施していた。この状況をふまえて、エロイーズとの恋物語で有名なアベラール(Pierre Abélard, 1079-1142)は、修道女は瀉血に通じていなければならないと語り、中世の英雄ロビン・フッドを歌ったバラッドは、悪い修道女が瀉血と偽ってロビンの血を抜き取って殺してしまう物語を語っている。修道院における女性の医療で最も著名なものは、ベネディクト会の修道女のビンゲンのヒルデガルト(Hildegard von Bingen, 1098-1179)の活動である。ヒルデガルトはビンゲンの修道院で聖書の注釈や聖歌の作曲を行い、国王や皇帝がビンゲンを訪れ、晩年には活発に旅行をした。19世紀にはおそらく彼女が記した医学書『原因と治療』(Causae et curae)の写本が発見されて大きな話題を呼んだ。20世紀前半にはナチス・ドイツがこれをドイツ民族の医学の先進性の証左として利用し、戦後にはフェミニズムが最初の女性医師として高く評価する一方、逆に、そのテキストを低く評価する態度も残った。優れた医学史研究者のアッカークネヒトは、ヒルデガルドの治療法に現れる聖人の名前を少し変えて精霊の名前にすると、そのままチェロキー族の癒しの呪文になると述べている。しかし、最新のヒルデガルトの研究では、『原因と治療』は、イスラム圏などから発達した医学が伝えられる以前に存在していた、同時代のドイツの人々の間で行われて口頭で伝えられていた一般の療法や民衆の療法を集めたものであろうと考えられている。ヒルデガルトの医学書は、一言でいうと素朴さを持っている。たとえば、歯痛で苦しむものは「ニガヨモギとバーベナを同量ずつとり、上質で透明なワインで調理して、砂糖を少し混ぜて飲むと良い」というものであり、計量も専門職のそれではなく、「一つまみ」「クルミの殻一杯」「卵の殻の半分」のような指示であった。ある医学史家は、この素朴さは、現在のエコロジーの発想ともつながっていると主張している。植物が花を咲かせて実るのと同じような農業の原理にしたがって、人間も「種」から子供を作っては生きていると理解され、人間の周囲にある地水火風の四元素は、抽象的な原理ではなく、土地、雨、太陽、風という農業の原理に従って理解されていた。理論的な自然哲学ではなく、農業と環境の実生活に近い実体的なモデルで、人体、疾病、医療が理解されていたと主張している。この説の当否はまだ定まっていないが、女性が伝えた医療の性格を理解する興味深い視点である。