――クリスマス・ツリーがくるんだよ。
11月もそろそろ終わりのある日、サイェは、ふと、とくに目をあげるでもなく、言ったのだった。そうか、そういうこともあるか。とくに気することもなく、聞きながしていた。わたしは、子どものときにモミの木を買ってもらったことをおもいだしていた。まだ小学校にあがる前だったか。クリスマスが終わり、年があけたら、父が庭に植えてくれた。日陰だったからあまり大きくならなかったけれど、20年ちかくは元気に育った。数多くの庭木のなかで、わたしのもの、といえる唯一の木だった。たまたま植え替えをしたあとで、枯れてしまったのだったけれど。
マンション住まいのサイェは、あまり木に親しんでいない。紗枝はいつも気にしているようだったから、娘のために、ことしは買ってやるのだろう。そうおもっていた。
サイェはね、ツリーを、と言ったら、複雑な顔をしたの。
まだはなしの途中だったのだけど、花屋さんのまえにつみあがっているもみの木は、いやなんだ、って。もみの木だけじゃなく、お正月の松も、だって。せっかく大きくなりかけているのを切って、と、毎年毎年、おもっていたらしい。
でも、そうじゃないんだよ、って、さいごまで聞いて、って。
もみの木はね、レンタルするの。12月になったら届けてもらって、部屋においておく。そしてクリスマスが終わったら、お店に返す。すると、また山に植えるんだ。切っちゃうんじゃない。そんなやり方があるんだよ。ちょっとだけ、来てもらう。お客さんになってもらう。
――山にかえっていった木が、一年経つうちに大きくなる。そのおなじのを、また新しいクリスマスのときに借りられたらいいのに。そのつぎも、またつぎも、またまた、その木がやってくる。毎年、おなじのが、部屋にきたりすれば。
――そのうち部屋にはいらなくなっちゃうかも。
――そっか。
――3年くらいでまわしていけばいいかもしれないよ。
――かな。
きいたところによると、もみの木は1メートルに足りないくらい、という。幹のさきには星をつけ、あとは赤と金のボール、どちらも表面が光沢のあるつるつるとしたもの、つや消しになっているものと半々、それぞれ1ダースをほそい針金でさげる。飾りものはそれだけ。
クリスマス・イヴ、わたしは母がひとり住んでいる実家に行く。
買いものをして、午後に着く。ワインを飲みながら、夕食をとる。毎週寄っているけれど、このときはちょっとだけ贅沢をする。贅沢といっても、ふだん節制しているものも遠慮しないという程度ではあるのだが。そして、一晩だけ泊る。数日後には、年末の片づけや掃除、大晦日から正月へと泊りにくるけれど。
クリスマスではあっても、キリストの誕生を祝うことはない。そのことをおもいだしはする。でも、祈ることもない。ずいぶん前に過ごしていたヨーロッパで、家族が集まってすごす年末の日々、街は静かになって、店もあまりあいていない、友だちと集まって騒いだり、デートの口実にしたり、ではない、そんな過ごし方を意識して。
食事を終え、片づけもして、わたしは手持ち無沙汰に、食事のときに飲みきれなかったワインをテーブルにおいて、本など読んでいる。自室にさがってテレヴィをみていた母も、もう休んでしまったのだろう、音もない。妹がいて、父がいたこの家は、いま、静かだ。自分の部屋はのこっているし、ときにつかっていても、ちょっとだけよそよそしい。
深夜になるかならないかというころ、携帯電話がなった。サイェからだ。
――おじさん、じょわいゆのえる……
教えてやったフランス語のクリスマスの挨拶を舌たらずに発音する。特に用事はないらしい。
――ん、おめでと。
ふたりはしばらく黙る。加湿器の音だけが、ときどき、する。
――おばあちゃん、寝ちゃったよ。話さなくて、よかった?
――あしたまたかけるし。
だまっている静かな時間が、ふたつの場所のあいだに、ながれてゆく。くるまだったら数十分の距離、道があり家々があり店がある。電波は空をつっきって、大気圏外の衛星を介して、互いのところに届いているのかもしれない。
――ツリーにね、ときどき、ちょっと、ひっかかるの。
え、また、なにか、この神経質な子が気にすることがあるのだろうか。ちょっと胸がざわつく。
すぐのときには、なれないから、歩いていても、つい、枝にひっかかっちゃって。ボールがおちて、ころがったりしてた。でも、ツリーがそこにあるのをからだがおぼえて、いまはしぜんに、避けている。すっと、ね。そんなでも、ほら、夜、こんな夜、あかりを消して、一回ベッドにはいるでしょう。そして眠れなかったり、眠れてもすぐ目が覚めてしまったりとかして、じゃあ、水を一杯、とかおもって部屋からでようとすると、からだが起きてないのかな、ツリーにかるくふれるんだ。
すると、ちりちり、って。
は、っと、わたし、気がつく。
もみの木があったんだ、って。
で、暗いなかで、すこし目は慣れてきたりするのだけれど、そこに腰をおろして、ちょっと、指を枝にふれてみる。
ひとつ、枝をゆらすと、さがってるボールが、ほそい、葉にこすれる。
葉、なんだよね、あれ? とげみたいになってるの。
こすれると、それだけじゃなくて、枝についてる葉がべつのをゆらして、ほかのボールも、音をたてる。ちょっとずつかもしれないけど、ところどころで、しゅしゅ、って、かさかさ、って、さりさり、って、ひびくところが変わってく。すぐ、また、やんじゃうし。ときどき、ちく、っとしたりしながら。
しばらく、ふれたり、ゆらしたり、して。
つるつるしてるのと、ちょっとくすんでるのと、音、ちがうんだよ。あんな、ちょっとした針みたいなのがふれても、ね。
そんなことしてたら……いつのまにか時間がたってて、すこし寒くなって……いま……。
――かぜ、ひくなよ。
――だいじょうぶ。いちおう、ホット・カーペットだし。
――ん。
それから、また、何も言わない時間がすぎる。すぎてゆく。そして、ふと、サイェはいう。
――また、ねます。
わかった、おやすみ。
クリスマス・ツリーなんて、そばを通りかかったりはしているけれど、じっくり見たこと、さわったことは、ずいぶん、ないかもしれない。ホテルのロビーで待ちあわせをしていたついこのまえも、ツリーの写真を撮っている子を目の前でみていながら、特に何も感じては、考えてはいなかった。
朝になったら、母に尋ねてみようか。ぼくのもみの木は、いつまであったんだっけ、と。ぼくはどんなふうにもみの木をみていた?と。そして、紗枝はどうだったの?とも。
[編集部より]
東日本大震災をきっかけに編まれた詩と短編のアンソロジー『ろうそくの炎がささやく言葉』。言葉はそれ自体としては無力ですが、慰めにも、勇気の根源にもなります。物語と詩は、その意味で人間が生きることにとって、もっとも実用的なものだと思います。不安な夜に小さな炎をかこみ、互いに身を寄せあって声低く語られる物語に心をゆだねるとき、やがて必ずやってくるはずの朝への新たな頼と希望もすでに始まっているはず、こうした想いに共感した作家、詩人、翻訳者の方々が短編を寄せてくださいました。その一人である小沼純一さんが書いてくださったのが、「めいのレッスン」です。サイェちゃんの豊かな音の世界を感じられる小さなお話、本の刊行を記念した朗読会に小沼さんが参加されるたびに続編が生まれていきました。ここではその続編にくわえ、書き下ろしもご紹介していきます。
【バックナンバー】
〉めいのレッスン ~秋の庭
〉めいのレッスン ~手紙
〉めいのレッスン ~かぜひいて
〉めいのレッスン ~クローゼットの隅から
〉めいのレッスン ~ゆきかきに
これまでの連載一覧はこちら 》》》
「東日本大震災」復興支援チャリティ書籍。ろうそくの炎で朗読して楽しめる詩と短編のアンソロジー。東北にささげる言葉の花束。
[執筆者]谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html