虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第7回 仮想現実とフィクション 『ソードアート・オンライン』『電脳コイル』『ロボティクス・ノーツ』(2)

About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
Published On: 2016/8/24By

 
 

分岐点でもあり交点でもある中間的デバイス=ポケコン

『ソードアート・オンライン』の世界にあるHMDは、完全に別世界である虚構世界への没入を可能にし、『電脳コイル』の電脳メガネは、現実と虚構とが同一平面として混じり合う世界を出現させますが、どちらも、デバイスを用いことで、身体がある一つの世界へと入って行くことになります。もちろん、その世界は決して単層的な世界ではありません。『ソードアート・オンライン』の「ALO」というゲームには、古層としての「SAO」というゲームが埋め込まれていました。『電脳コイル』では、現実と仮想、新しい仮想と古い仮想、古い開かれた仮想と古い閉じられた仮想というように、世界はいくつもの層の重なりでした。HMDや電脳メガネは、それらのすべての層を貫いて、「一つの多層的世界」を出現させるためのデバイスと言えます。

しかしポケコンは違います。ポケコンという「一つのデバイス」が、世界を複数の層や、複数の目的・機能へと分岐させてゆくのです。世界のさまざまな層や目的が、ポケコンの上で重なりながら、それぞれ別の方向へと分かれてゆきます。海翔もあき穂もポケコンを使いますが、ポケコンでゲームをする海翔と、ポケコンでアニメを観るあき穂とでは、ポケコンを用いる目的、ポケコンから得られる利得、ポケコンの生活への影響、ポケコンに対して行われる働きかけなどが、それぞれ異なるのです。

逆に言えば、異なる層や異なる目的は、ポケコンという交点によって接続されることが可能です。ポケコンは、分岐する複数の層を「一つの多層世界」へと一挙に統合することはありませんが、ある層と別の層、ある目的と別の目的を、その都度、その時限りのやり方で結びつけることは可能なのです。ゲームにばかり熱中して、他のことに興味を示さない海翔に、別のことに眼を向けさせるためには、ポケコンを用いて彼とゲームで対戦して勝てばいいのです。それは困難なことですが、不可能ではありません。あるいは、海翔がするゲームにも、あき穂が観るアニメにも、ガンヴァレルという同じロボット(キャラクター)が用いられていて、ゲームとアニメがガンヴァレルというロボットという交点で交わっていることが、二人の関係を支えているとも言えます。

世界を統合することなく、さまざまな層や目的へと分岐させる分岐点であり、また、それら分岐した層や目的を接続させ得る交点でもあるポケコンというデバイスのあり様は、『ロボティクス・ノーツ』という物語の根本と深く関わります。
 

牧歌的日常と人類の危機の交錯

『ロボティクス・ノーツ』の物語は、アニメの巨大ロボットを原寸大で再現することを目的とするロボ部の部長である女子高生あき穂が、常識外れの予算を学校に要求して却下されるところから始まります。ロボ部の部員はあき穂と海翔の二人だけですが、海翔はあき穂との腐れ縁により付き合っているだけで、ロボット制作には熱心ではありません。学校側は、ロボ部がもしROBO-ONE(ロボワン)の全国大会で優勝することができれば要求された予算を出すが、できない場合は廃部とするという無茶な条件を出します。ROBO-ONEとは、小型の二足歩行ロボットによる格闘競技会のことで、実際に行われている大会です。実はロボ部は、あき穂の姉みさ希が部長だった時代にROBO-ONEで優勝したことがあるのです。しかし、その頃とは異なり、優勝どころか参加のための二足歩行ロボットの調達すら難しいのが現状です。

このように、いかにもありがちな展開ではじまる『ロボティクス・ノーツ』ですが、物語の要約を示すことは困難です。物語は、とにかく巨大ロボットを完成させるんだという、あき穂の無謀で能天気な目的(欲望)を軸にして進みますが、多様な登場人物たちのもつそれぞれの事情やキャラの描き分け、巨大ロボットに限らないロボットやその技術に関する様々なエピソード、太陽嵐や赤いオーロラ、異常気象などの地球規模での環境の不穏な変化、過去にあった謎の集団失神事件、「居ル夫。」内に現れる幽霊と都市伝説、君島レポートと呼ばれる陰謀論的怪文書の収集、人気アニメ『ガンヴァレル』の最終回未放送事件と監督の失踪の謎、種子島が舞台なので、そこにJAXA(宇宙航空研究開発機構)も絡んで……、等々、『ロボティクス・ノーツ』の少なくとも前半部分では、様々な要素が散発的に現われては消え、重なっては解けで、いつまでたってもそれらの要素が一つの図柄へと収束してゆく気配がみえません。

展開してゆくというより、様々な要素やエピソードの間を漂ってゆくような物語の進行が『ロボティクス・ノーツ』の特徴であり、大きな魅力なのですが、このような物語のあり様はまさに、世界のさまざまな層や目的を、その上で重ねながら、それぞれ別の方向へと分岐させてゆく、多重フレーム的なポケコンというデバイスのあり様と対応していると言えるでしょう。電脳メガネという、複数の層を貫いて束ねるデバイスによって、深さのイリュージョンやイメージ的短絡を生み出し、物語に強い吸引力を発生させる『電脳コイル』はとは違って、ポケコンというデバイスは深さや求心性をつくらず、物語はいわば多平面的に展開します。不穏な仄めかしや数々の謎が示されはしますが、前半の物語は基本的に緩く牧歌的と言えます。

しかし後半、徐々にオカルト的、陰謀論的な人類への危機である計画(人類を10億人程度にまで減らす)が浮上し、物語はどんどん深刻さを増してきます(前半にもオカルト的陰謀論の要素はありますが、それは多くの要素のうちの一つに過ぎませんでした)。地方のロボット好きの高校生の日常を描くのんびりした物語が、世界を滅亡させようとする陰謀との対決という、深刻で大きな物語と交錯してしまうのです。その接続は唐突と言えば唐突です。この転換をどう考えればよいのでしょうか。

陰謀論とは、決して表には出ない非常に強い権力をもつ裏の組織があり、世の中に起こる多くの悪いことはその組織が秘密裏に行う陰謀によって引き起こされているとする考え方です。逆に言えば、その悪い黒幕さえやっつければ、世の中の多くの悪いことは解決することになります。要するに陰謀論は分かりやすい「やっつけるべき悪」をつくりだします。そして、あき穂が熱狂するアニメ『ガンヴァレル』は、勧善懲悪モノのロボットアニメなのです。つまり、後半で進行する世界の陰謀論化は、正義のロボット対悪のロボットの対決という、勧善懲悪のロボットアニメ(虚構)が現実化した状態を、『ロボティクス・ノーツ』という物語のクライマックスとしたいがために採用されたものだと考えることができます。

だから、物語の終盤には、それまで虚構の層にあったものが現実化するという出来事が起こります。まず、「居ル夫。」内の架空のキャラクターだったはずの愛理のオリジナルが、現実に存在したということが分かります(愛理の現実化)。次に、あき穂は、誰がみても無謀だと思われた、ガンヴァレルそっくりの巨大ロボットをつくるという目的を実現させます(ガンヴァレルの現実化)。そして海翔は、現実世界に出現したガンヴァレルそっくりのロボットの操縦者となり、敵のロボットと(ゲームではなく)実際に戦うことになります。さらに、そこで彼が戦う敵のロボットの操縦者は、オンライン格闘ゲーム「キルバラッド」で過去に何度も対戦している世界ランク4位のTAGIRNGER(あき穂の姉のみさ希)なのです(キルバラッドの現実化)。そして、これらのすべてが、正義のロボットが悪のロボットを倒すというアニメ『ガンヴァレル』の現実化なのだと言えます。前半に、虚構の層で準備されていたものが、後半、現実の層で実践される、と。

ただ、虚構の現実化は現実の虚構化でもあります。つまりこの対決にはリアリティがありません。人類の大半が死滅するかもしれない瀬戸際の戦いにもかかわらず、その場にいる人は大して追い詰められたふうでもなく、自分たちの関係や感情のことばかり気にしています(あき穂とみさ希の関係や、あき穂と海翔の関係など)。つまりこの戦いは、少しばかり規模の大きいロボットアニメごっこに過ぎないとも言えるのです。

クライマックスにおける虚構の現実化という単純な反転構造は、実はポケコンという多重フレーム型のデバイスのあり様とは食い違ってしまっています。だから、この物語の真のクライマックスは実は別の場面、虚構と現実との別の関係にあると考えられます。

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About the Author: 古谷利裕

ふるや・としひろ  画家、評論家。1967年、神奈川県生まれ。1993年、東京造形大学卒業。著書に『世界へと滲み出す脳』(青土社)、『人はある日とつぜん小説家になる』(青土社)、共著に『映画空間400選』(INAX出版)、『吉本隆明論集』(アーツアンドクラフツ)がある。
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