現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
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古谷利裕 著
『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』
四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]
『AURA』から『中二病でも恋がしたい!』へ
「中二病」と言われる登場人物たちは三つの特徴をもっていました。一つは、オカルトやファンタジーなどで造形されるような「向こう側」の世界への強い親和性をもち、その世界と現実世界とを見立てによって重ね合わせています。もう一つは、現実と重ね合された架空の見立て世界の設定のなかで、自分自身に特別な存在であるような位置(役割)を与えています。そして最後に、その架空の世界で特別な役割を与えられた自分の方を、リアルな自分の存在と感じています。彼らは、この現実世界のなかにいると知りつつ、見立てられた虚構世界の自分を演じ、演じている自分の方に棲んでいると言えます。彼らは、ちゃんと中学を卒業し、高校に入学できる程度には「こちら側」の論理を受け入れ、適応しています。しかし、それでも彼らの日常の言動は現実離れしていて独自であり過ぎるため、通常の人間関係からは浮いてしまいます。
『AURA』と『中二病でも恋がしたい!』のどちらにも、今、中二病である人物と、元、中二病であった人物が登場します。元中二病の人物は、中二病というあり方、そして自分がかつてそうであったことを、たまらなく「恥ずかしい」と感じています。だから、中学時代の自分を知る者のいない高校へ進学して、「普通の人」としてやり直そうとするのです。たんに中二病を止めるだけでは駄目で、恥である過去を抹消する必要があると考えています。しかし、彼のそのような試みは、現中二病である人物の登場によって破綻させられてしまいます。二つの物語は、ここまではまったく同じ設定だと言えるでしょう。
しかし、ここから先が大きく異なります。『AURA』では、学校の教室はリア充が支配する階層化された権力関係が成立していて、リア充たちは中二病の者たちを下層に位置付け、たんにバカにするだけではなく、矯正しようとします。極端な場合それはいじめという形をとります。リア充たちを最高位に置くスクールカースト的階層という公式ルールは、そのようなルールの内部には居場所をもたない(別の関係性を求める)中二病の者たちの独自ルールの存在を認めないのです。自分一人の独自ルールにもとづく虚構世界に生きている中二病の者の前にも、教室空間を支配する権力関係が無視できない「現実」として迫ってくるのです。
『中二病でも恋がしたい!』の教室では、そのようなシビアな権力関係は成立していません。階層はなんとなく存在し、中二病の者が浮いていることは変わりませんが、教室内権力はそれほど強く作用しません。むしろ、教室内の階層関係そのものが、中二病の妄想世界と同じような虚構でしかないことが示されるのです。この作品では、学校という空間は、唯一の現実と言えるほどの強い公式ルールのない、複数の虚構、複数のルールが遊戯的な抗争を行うための場となっています。では、この作品には「現実」はないのでしょうか。この作品において現実は『AURA』とはまったく異なる形で現れます。これらの点について、以下で具体的にみていきましょう。
キャラクターたちについて
まず、『中二病でも恋がしたい!』のキャラクターの配置をみてみましょう。主人公の勇太は元中二病で、過去を封印して高校デビューを目論んでいます。ヒロインの六花(りっか)は現役の中二病で、常に眼帯をつけ、眼帯の奥にある「邪王真眼」に特別の力があるという設定で生活しています。クラスメイトの森夏(しんか)は、クラス一の美人で成績も良く、委員長でチア部という、絵に描いたようなリア充です。入学初日に勇太に声をかけて友人となった誠は、クラス女子の人気投票を組織したり、モテるために軽音部に入るなど、絵に描いたような普通の高校生男子です。先輩のくみんは、中二病とは別の意味で独自ルールを生きる天然の人です。加えて、六花を中二病の師と仰ぐ中学生の早苗がいます。
中二病、リア充、普通、天然と、この作品で関係性は階層というより類型として水平的に配置されています。勇太は、リア充の森夏に対してあこがれのような感情を抱いている一方、中二病の六花に対する扱いは雑で、ここに多少の階層性はみられるのですが、それも後に崩壊します。この作品の前半では、この軽い階層性=類型性の崩壊と、それによる「恥ずかしさ」の解体が実行されれていると言えます。この点でも『AURA』に近いのですが、その内実は異なります。
まず、六花には早苗という同好の士がいる点で『AURA』と異なります。複数の独自ルールが接点をもつ可能性があらかじめ示されているのです。『AURA』のリアリティは、別の関係性への志向が誰とも共有されないという地方の閉塞感からくるところが大きいのですが、この作品のリアリティはそこにはないと言えます。ただこれは逆に危険だとも言えて、「そうだね」と肯き合う鏡が一つ存在することで、妄想が補強し合い、その殻が一層硬く閉じられたものになる可能性もあるからです。「二人だけの現実」としての妄想は加速度的に膨らむ危険もあるでしょう。
しかし六花は、高校で中二病的なサークルをたちあげようとします。これは、積極的に自分を開き、居場所をつくり出そうとする行為とも言えますが、自分の独自ルールの独自性に自覚的でないとも言えます。『AURA』の良子は、自分の妄想世界には自分一人しか棲んでいない(棲めない)ことに自覚的ですが、六花はそれに無自覚で、他人にも当然独自ルールが通用すると思っているのでしょう。しかし案の定、サークルに人は寄り付きません。六花の世界にはやはり六花と早苗の二人しか棲んでいないのです。
しかし、ここにもう一人独自ルールの世界の住人、天然系のくみんがいます。くみんは、昼寝部というサークルをたちあげようとしているのですが、その発想があまりに独自なので部員は自分しかいません。天然の人もまた、自分だけの世界に一人で棲んでいると言えます。そして中二病と天然という二つの独自ルールは、部員の最低数を確保するという利害の一致により、混じり合わないまま(互いを理解しないまま)くっついて一つのサークルとなるのです。
元中二病(勇太)と、現役中二病(六花)
主人公の勇太とヒロインの六花との関係はどうなっているでしょうか。『AURA』の一郎と同様に、元中二病である勇太は、公式ルールと独自ルールのどちらも理解できます。そしてこれも『AURA』と同じなのですが、おそらくそれに気づいている担任教師が、独自ルールしか知らない六花の世話係のような役割を勇太に要求します。勇太にとっては、過去の自分が露呈する綻びを生じかねない六花は遠ざけておきたい存在ですが、これにより彼は、独自ルールと公式ルールとを媒介する通訳のような役割に据えられます。六花が「凸守(早苗)とはエレクトリカルオーシャンで共鳴した」と言えば、「ネットで知り合ったのか」と翻訳し、「プリーステスはキメラの魔力により過剰な免疫反応を起こす」と言えば、「お前の姉さん、猫アレルギーなのか」と翻訳します。勇太の翻訳は、六花の独自ルールと公式ルールの断絶を薄める作用があると言えます。『中二病でも恋がしたい!』の教室には強い階層も権力もなく、勇太には(中二病のせいで一人ぼっちだったとはいえ)いじめられた過去もないので、勇太の中二病への忌避は「恥ずかしさ」が主な原因です。『AURA』の一郎のような強い嫌悪はなく、六花と勇太のスタンスの食い違いはコミカルなものとなります。
さらに二人にはもっと強い繋がりがあります。同じ団地の上の階と下の階に住んでいるのです。当然、登下校の時間を共にすることが多くなります。そして二人には、公的な空間とは別の通路が開けているのです。上の階に住む六花は、ベランダからロープを伝って勇太の住む部屋のベランダや地上へ降りるのです。実は二人は、学校で出会うよりも前に、六花が同居する姉に内緒で外出するためにロープで下降中に勇太の部屋のベランダで出会っていたのでした(ヒロインが上から降ってくるのはアニメの常道です)。このロープにより、六花はかなり自由に(勇太の許可を得る必要もなく)勇太の部屋に出入りできます。この非公式の、いわば魔法の通路は、六花から勇太への一方通行であり、勇太が六花を訪ねる時には、階段を上って玄関から入るという、公式ルートを使うしかありません。その意味では、六花に特殊能力があると言えるかもしれません。
以上の理由から、二人は登下校時も学校にいる時も、行動を共にすることが多くなり、勇太は六花によるサークルのたちあげにも手を貸すことになります。